世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし   作:ひょっとこ斎

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第52手 プロ1年目 その12

 毎日ヒカルと打っているうちに、森下先生との大一番の日がやってきた。

 普段通りに起きて、準備をする。今日はヒカルも対局があるので、一緒に棋院へ向かう。塔矢くんや明日美さんも対局があるので、心強い。

 棋院には早めに着いたので、森下先生が来る前に席へ向かい、碁笥の中身を確認する。既に席に座って集中している人もいるので、ヒカルと一緒に廊下に出た。

 

「最近は木曜の対局も増えてきたね」

「そうだな。やっぱり、相手が強い方が面白いな。……前みたいなのは勘弁だけどな」

 

 御器曽七段との対局は面白くなかったみたいだね。

 

「勝っていけば大変な対局が増えるよ。言うまでもないけどね」

 

 高段者相手だと一手の小さなミスが致命的になるのはもちろん、ちょっとした緩手でもしっかり追及してくる。それこそ、森下先生からもいっぱい聞かされている。

 それに佐為との対局でも、プロになってからは厳しく最善の一手を叩き込まれている。

 

「あかりは、今日が今までで1番大変な対局かもな」

「うん。ずっと教えてもらってたから、森下先生の手の内は分かってるつもり。あとは、呑まれなければ勝負になるはず」

 

 小さい頃から見ているから、森下先生が碁聖の挑戦者になった時も知っている。あの時のトーナメントを勝ち進んでいる間、ご自宅でもかなりピリピリしていたし、空気が違った。

 森下先生は普段の二次予選ではそこまで勝ちに固執しないはずだけど、今日はどうだろう。

 

 対局の時間が近付いてきて、森下先生が姿を現した。いつもと少し違い、顔つきは厳しい。

 

「おはようございます」

「ああ」

 

 頷いて、小さく返してくる。勝負はもう始まってるんだ。

 私も気合いを入れ直して、対局室に入った。

 席に座り、あらかじめ確認していた黒石が入った碁笥を持った。

 森下先生がにぎって、私が黒石を1つ盤上に置く。白石を数えると10個、私が後手。

 

「よろしくお願いします」

 

 お互いにぺこりと頭を下げて、言葉をかわす。普段より少しだけ長く、でも邪魔にならないよう持ち上げる。

 森下先生は厳しい顔をしたまま、早々に一手目を4の五、高目に打つ。堅実な碁を打つ森下先生にしては珍しい。隅を攻めやすくなるけど、安易に攻めると中央を押さえられて碁が潰されるかもしれない。

 厚く打って小さく生きてもしょうがなさそう。昔は模様の碁が苦手だったけど、最近は佐為やヒカルとずっと勉強しているから、慣れている。森下先生も思うところがあるかもしれないけど、私だって成長してるってところを見せたい。

 打ち進むうちに、森下先生が地を大きく広げて、私が石を切断できるかどうか、という流れになった。一手で1箇所を咎めているだけじゃ追いつかない。

 いくつか薄いところは見つかるけど、手を入れるだけ損になりそうな、明らかに罠っぽいところもある。佐為ほどじゃないにせよ、盤面で大事なところを見極めないといけない。

 

「……お昼ですね」

「おう。ちゃんと食べろよ」

 

 昼の合図が鳴り、周りも思い思いに席を立ち始める。森下先生は休憩室でお弁当を食べるらしく、私はヒカルたちと一緒に外へ出た。

 明日美さんや塔矢くんも一緒に、近くのハンバーガーショップで四人掛けの席に座った。

 ずっと対局のことを考えても頭が休まらないので、昼は雑談で過ごす。

 

「そういえば、アキラくんはペア碁の大会は出るんだっけ?」

「ああ、うん。一応依頼は来ていて、受けるつもりだけど」

「ペア碁? 何だそれ」

 

 明日美さんと塔矢くんの会話に、ヒカルが斜め上を見ながら疑問を口にする。佐為に聞いたのかもしれないけれど、知らないんじゃないかなぁ。

 佐為にも分かるように、ちょっとくどい言い方になっちゃうけどヒカルへと説明する。

 

「昔は連碁っていう言い方もしていたみたいだけどね。男女がペアになって、交互に打つの。黒の女性、白の女性、黒の男性、白の男性って順番でね」

「私にも話が来るくらいだから、あかりちゃんにも来てるでしょ?」

「うん。何ごとも経験だし、参加するつもりだよ」

「俺は来てねえな。お前らだけずるいぞ」

 

 塔矢くんはリーグ戦入りするくらいだし、出てもおかしくない。明日美さんと私は女性の枠だから、ヒカルに比べて上位16人に入りやすい。

 ヒカルも出られたら楽しかっただろうけど、ヒカルと同じペアになる確率は、あまり高くない。

 

「僕だって去年は出ていないさ。それに今回も早碁で2日だけの大会だから出られるけど、長くかかるようなら断っていたかもしれない」

「男性陣は結構豪華な顔ぶれになるよね。私、足を引っ張っちゃいそう」

 

 ぐてっと机に突っ伏す明日美さん。どうやってフォローしたものかな。

 

「賞金は出るとはいえそれほど格式の高い大会じゃないし、楽しんだ方がいいよ。1年目で2人も参加するなんて快挙だし」

「そうそう、塔矢くんの言うとおり。相性の良い人とペアになったら、案外勝ち上がりやすいみたいだし」

 

 塔矢くんの意見に合わせて、明日美さんを励ます。元気になるような助言もできるけど、今は無理だし。

 お互いプロなんだしそれなりに形になるとはいえ、交互に打つという都合上、片方が攻めたいのに片方が弱気だと話にならない。

 ペア相手の考えがある程度読めたら、随分と楽になるだろう。

 そんな話をしていると午後からの時間が近づいてきたので席を立つ。ヒカルと塔矢くんが先に歩き出したのを見てから、明日美さんへとひと言。

 

「ペア碁、明日美さんは塔矢くんと一緒に打てるチャンスだね」

「うん。でもさっきも言ったけど、私じゃ弱いから」

「男女ペアなんだから条件はみんな一緒だし、明日美さんが1番塔矢くんの打ち方に慣れているんだから、塔矢くんにとっても最も相性が良いのが明日美さんだと思うよ」

 

 そうやってこそこそと話していると、2人が立ち止まって待ってくれていたので急いで追いかける。

 棋院に戻ってからは、雑談もそこそこに午後からの対局に備えて集中力を高める。

 

 

 対局が進み、森下先生は中央から左辺、上辺に広く構えた。中央を荒らして分断させれば、きっと勝てる。

 いつもより数段ピリピリとした空気が流れる中、お互いに打ち損じもなく手が進む。佐為ほどじゃないけど、ヒカルや塔矢くんと同等の手応え。

 時々席を立ち、大きく深呼吸を挟む。飲まれたら負けるし、集中しすぎて盤面全体を見られなくなってもいけない。

 コミを含めて、私が僅かに負けている。このままだと厳しいけど、ずっと森下先生の下で学んできて、好きな打ち方や嫌いな打ち方、苦手な打ち方もたくさん知っている。私は、あえて森下先生が好む展開になるよう打ち込んだ。

 

「む?」

 

 怪訝そうな顔で、森下先生が私をうかがう。ふふ、研究会で打っている時なら何を考えているんだって怒鳴りそうだよね。

 ずっと重い展開だったけど、森下先生の気迫が少し緩んだ。顔付きも打ち方も変わらないけど、私には分かった。慣れた打ち筋になると、手も自然と早くなる。

 早碁になってペースを崩せるとは思ってないけど、読みが甘くなるのは間違いない。

 途中で森下先生が打ち間違えたわけじゃないけど、中央を荒らした結果、森下先生の地が足りなくなって、盤面でほぼ五分の状態になった。

 ヨセで詰められたとしても、コミの分が裏返るほどじゃない。

 

「これは……。ん、負けました」

「あ、ありがとうございました」

 

 よかった、なんとか勝てた。今までの中でも、1番厳しい対局だった気がする。

 

「他はまだやってるな。進藤を待つんだろ? よそで検討するか」

「はい」

 

 森下先生と一緒に部屋を出て、別室へ向かう。雑談のように褒めてくれるけど、今さらながら先生が本気だったのかどうか、不安になってくる。でも、そんなの聞いたら失礼だし、うう、どうしよう。

 

「うん、どうした?」

「いえ。なんでも」

「そうか。しかしあれだな。天野さんがいたら、俺にもインタビューが来たんだろうがなぁ」

「え、天野さん?」

「あの人、えらくお前をかってただろう。師匠に勝ったとなれば、どうだったかってコメント取りに来てもおかしくねえよ」

 

 あはは、確かに天野さんなら聞きに行きそう。物怖じしないし、森下先生相手にそんな話を聞けるだけの実績もあるし。

 

「本気で打ったかどうか、とか聞かれそうですよね」

 

 あ。

 失敗した、と思った時には、もう言葉を拾われていた。

 

「そんなこと聞かねえよ。本気で打たない理由なんか、欠片もないからな。聞くとしたら、女性初のリーグ戦入りや女性初のタイトルホルダーはいつになると思うか? って感じだろう」

「え、いえいえ。さすがにそれは……」

「俺は次の名人戦の最終予選で勝って、リーグ戦入りするつもりだ。最近離れてるが、遊んでたわけじゃない。お前や進藤に刺激を受けて、かなり気合いも入ってるからな。刺激というか、追いつかれかねないって思ってたし、実際に負けたんだが。何にしろ、お前はそんな俺に勝ったんだから、もっと自信を持っていいぞ」

 

 思っていたよりも、ずっと評価してくれていて、驚いて言葉が出ない。今までも褒めてくれていたけど、弟子としての褒め言葉だった。

 対等のプロ棋士だと認めてもらえたようで、凄く嬉しい。

 

「……はい」

 

 なんとか返事をして、森下先生の後ろを付いていった。

 

 

 

 ヒカルの部屋に入って、座布団の上に腰を降ろしつつベッドにもたれかかり、頭と手を投げ出す。ヒカルがだらしねえなって顔で見てくるけど、今日は疲れたんだよ。

 

「今日はジュースか何かにするか?」

「あ、うん。ありがと」

 

 ちょっと待ってろ、と言葉を残して、ヒカルが部屋を出る。いつも手を抜いているわけじゃないけど、今日はずっと頭を使い続けていた。糖分が足りていない。鞄にチョコ入れてたかな。

 

「開けるぞ」

 

 ヒカルがお盆を片手に戻ってきた。

 

「ほら、食えよ。晩ご飯前だけど、今日はいいだろ」

「え、ケーキ? どうしたのこれ」

「森下先生と対局したんだから、疲れてるだろ。母さんに言って、買っておいてもらったんだ」

 

 ヒカルがそんな細やかな気遣いをしてくれると思ってなかったので、一瞬思考が止まった。すぐに我に返り、お礼を言って食べ始める。

 えへへ、不思議だけど普段食べるのより美味しいね。

 

「んで、どうだった?」

「実力自体は、正直言って塔矢くんの方が上だと思う。もちろんヒカルも負けてない。でも重圧というか、刺すような気配はさすがだったよ。あれは2人にない凄みだと思うよ」

「ふうん。佐為が塔矢のオヤジと打った時みたいなもんか」

「ああ、そうだね。私には佐為が見えないけど、それでもあの時は空気が変わる感じがしたもんね」

「佐為は、画面越しでも塔矢のオヤジの気迫は感じ取れたってよ」

 

 なるほどね。佐為だからこそ感じ取れたのか、塔矢先生だからこそなのかは分からないけど、私も佐為や塔矢先生ともそんな真剣勝負が打ちたいな。

 

「私とヒカルは、最短でリーグ戦入りできたとして、来年の10月からの本因坊戦だね。まあ、三次予選とか簡単に突破できるものじゃないけどね」

 

 今日は慣れている森下先生だからこそ気負わずに臨めたし、普段通りに打てた。でも、初めて打つ相手だと呑まれてしまう可能性が高い。北斗杯予選もあるし、簡単に負けるつもりなんてないけど、全部勝ち進めるわけがない。

 全部に力を入れていると体力も持たないだろうし、いくつか手を抜く棋戦も考えておかないと、全てが中途半端になってしまう。

 

「私、混合戦は名人戦と本因坊戦、棋聖戦に絞ろうかな」

「絞るってどういうことだ?」

「他の棋戦は直前に対局相手の研究とかをしないで、当日頑張るだけにするの。私、あまり器用じゃないし、対局が増えてくると手が回らなくなっちゃう」

「ふうん。まあ、事前の準備なんてなくても勝てばいいんだからな」

 

 これまではそうだったけど、相手が強くなってくると、得意な戦術とかは調べておかないと不利になる。

 ヒカルだって塔矢くん相手の時は普段よりもしっかりと打ち筋や戦法も研究したし、リーグ戦常連と当たるようなことがあれば、勉強するはずだし。

 

「私やヒカルはまだほとんど棋譜が残らないから、相手は研究のしようもないはずだよ。そういう意味では、相手の研究をせずに対局に挑むのは、その時の実力を見極めるのにちょうど良いかもね」

「俺はその方がいいな」

 

 ヒカルならそういうと思った。実力をつけるためにも、今日もしっかり打とう。今日はヒカルと佐為の日だけど、佐為の対局ほど勉強になる碁はそう多くない。特に最近は私たちも結構打てるようになってきたから、佐為も本気で打ってくれている。お願いしたら緩めて打ってくれてヨセの勉強もさせてくれるし、本当にありがたい。

 

「佐為は佐為で、嬉しそうに打ってるけどな。まあいいや。今日は、俺が黒でいいかな」

「ん」

 

 白石の碁笥を受け取って、ヒカルと佐為の対局が始まった。

 

 

「ペア碁より先に、北斗杯の東京予選だね」

「うん。あかりちゃんや越智と当たらないことを祈っておくよ」

「……和谷くんならいいんだ?」

「和谷も強いけど、私は越智の方が苦手なんだよね。院生時代からほとんど勝ててないし」

「苦手意識は良くないよー」

 

 とはいえ、本当に最近は越智くんが強い。一柳先生の教えを意識してか、最近は地に辛い打ち方だけじゃなく、大きく模様を広げる碁も打つし、ここぞという妙手を打つ時もある。

 名前を忘れたけど、ヒカルや塔矢くんと一緒に北斗杯に出ていた人と並んで、相当手強い相手になりそう。

 

「他の棋院にも強い人がいると思うし、頑張って東京予選突破しよう」

「あかりちゃんが気にするような人がいるかなぁ。まあ、東京予選は頑張るけどさ。下手したら、あかりちゃんと和谷と越智が通って、私だけ落ちるなんてことになりかねないし」

「大丈夫。実戦経験は、あの2人より明日美さんの方が多いし、棋力も劣ってないし。今も毎日のように塔矢くんと打ってるんでしょ?」

「そこまでじゃないよ。週に4日くらいかな?」

「それ、対局や研究会がない日は毎日だよね」

 

 十分に恵まれた環境だと思う。私の方が恵まれているのは否定しないけど。

 

「時々、若手研究会の後にも、ちょっとね」

「私もほとんど毎日ヒカルと打ってるけど、やっぱり気合い入るよね」

 

 若手研究会の後だと、結構遅い時間になってるけど、細かく聞くのは野暮だね。2人とも真面目だし。

 私もヒカルの部屋で碁打つ以外は何もないし、そんなものだろう。恋人になったとはいえ、今は囲碁で強くならないと。

 長話をしているとお母さんに怒られるし、今日は疲れたし、早々に切り上げると、部屋に戻った。

 

「今月は……厳しそうな対局はもうないかな。ってことは1番近いイベントは、クリスマスかぁ」

 

 今年のクリスマスはどうしようかな。出来れば、ヒカルとどこか遊びに行きたい。佐為は劇場で映画を見たことはないだろうし、テーマパークに行ったこともないだろう。

 どこがいいか、明日にでもヒカルに相談してみよう。


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