第八話 蝶と蜘蛛の茶会
夕暮れ時、陽の光が庭の木々を長く引き伸ばし、屋敷の石壁を赤く染め始めていた。ルーカスは、ミリアムの指示で基礎訓練を終えると、軽く汗をかいた身体を、屋敷の奥にある浴場へと向かわせた。訓練場でのピリピリとした空気から解放され、ようやく一息つける時間だ。
午後の訓練を終え、ルーカスは屋敷の浴場で軽く汗を流した。ミリアムの監視は解けたが、彼の頭の中では、Alphaとの対話で得た「点の魔力」の応用と、今後の兵器開発の青写真が渦巻いていた。しかし、それと同時に、物理的な力だけではない、この世界での戦い方についても、彼の思考は巡り始めていた。
身を清め、着替えを済ませると、彼は自然とクリスティアナのいるであろう場所へと足を向けた。
母はいつも、この時間になると書斎か、あるいは庭の温室で花の手入れをしていることが多かった。廊下を進むルーカスの耳に、控えめな話し声が届いた。リビングからだろうか。普段、母の周りはもっと穏やかな空気に包まれているはずだが、どこか不自然な張り詰めた気配がする。
ルーカスは音を立てぬよう、そっと扉の隙間から中を覗いた。
広々としたリビングの、陽光が差し込む一角に設えられたティーテーブルを挟んで、二人の女性が向かい合って座っていた。
一人は、彼の母、クリスティアナ・ラ・トレンス。柔らかな日差しを受け、王家傍系に時折現れるという、アルビノ特有の白い髪が淡い光を放っていた。彼女はいつも通りの天真爛漫な笑みを浮かべ、カップを手に優雅な仕草で何かを語っている。その背後には、侍女のシェーラが、いつもの冷静な面持ちで控えていた。一見すれば、穏やかな午後のティータイム。
だが、その対面に座る女性を見た瞬間、ルーカスの眉間に微かな皺が刻まれた。
継母、ダイアナ・ド・オールストン・ラ・トレンス。
彼女は豪華なドレスに身を包み、背筋をぴんと伸ばしていたが、その表情はクリスティアナとは対照的に、どこか硬く、口元には薄い笑みが浮かんでいるものの、瞳の奥には明らかな苛立ちと軽蔑の色が宿っていた。彼女の後ろにも、いかにも貴族の侍女然とした女性たちが控えている。
会話の内容までは聞こえないが、クリスティアナが話すたびに、ダイアナの唇が僅かに引きつるのが見えた。クリスティアナは相変わらずにこやかに応じているが、ルーカスには分かった。母は、決してダイアナの言葉を真正面から受け止めているわけではない。あの天真爛漫な笑顔の裏で、継母の放つ嫌味の全てを的確に、そして完璧に受け流しているのだ。
(ああ、始まったか。退屈な社交辞令と見せかけた、嫌がらせの時間、ってやつか)
ルーカスの脳裏に、Alphaの無機質な声が響いた。
『ターゲット:ダイアナ・オールストン伯爵夫人。生体反応データ、および周囲の空気場の変動から、強いストレス反応と攻撃的な意図を検知。ターゲット:クリスティアナ・アルベルト・エレナ・ド・エルトリア・ラ・トレンス夫人。同様のデータから、意図的な感情抑制、および巧みな言語パターンによる防御行動を確認。』
(相変わらずだな、うちのAIは。回りくどい言い方しやがって。つまり、継母のクソババアが、俺の母さんに嫌がらせしてんのを、母さんが上手いことかわしてるってことだろ)
ルーカスの青い瞳は、一瞬だけ冷たい光を宿した。母の笑顔が、どれほど努力して保たれているものか、幼いながらも彼には理解できた。そして、その根源にある、本邸の陰湿な悪意に、再び虫唾が走った。
(さてと……どうやって、この『お茶会』に、一石投じてやるかな)
ルーカスは静かにその場を離れ、リビングの入り口に向かって歩き出した。彼の顔には、いつもの無邪気な笑顔が浮かび上がっていた。
「おかあさま! しぇーら!」
ルーカスはぴょんぴょんと跳ねるようにリビングに入っていく。クリスティアナは驚いたように目を見開き、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「ルーカス! まあ、いらっしゃい。ちょうどお茶の時間よ」
クリスティアナはルーカスを抱き寄せ、その頬を優しく撫でた。シェーラもまた、ルーカスに一礼する。その視線が、一瞬だけダイアナに向けられたが、すぐに元の冷静な表情に戻った。ダイアナは、急なルーカスの登場に顔をわずかに引きつらせたが、すぐに笑顔を取り繕った。
「あら、ルーカス坊や。午後の訓練は終わりかしら? 貴方のお母様と、わたくしは、これからトレンス侯爵家の今後のことについて、大切な話をしているところなのよ」
ダイアナの声は、砂糖菓子のように甘く、しかしその裏には、クリスティアナとルーカスを格下に見る冷たい響きが隠されていた。彼女は、クリスティアナ・ラ・トレンスという正式名称を使わず、「貴方のお母様」と呼ぶことで、クリスティアナが侯爵家の本来の血筋ではない、ただの「側室」であることを暗に示そうとしているようだった。
ルーカスは、クリスティアナの膝にちょこんと座りながら、ダイアナに純粋な瞳を向けた。
「ふうん? だいあなさま、おふたりで、おはなししてるの? でも、ぼく、ママがなんだかとってもさみしそうにみえたよ?」
ルーカスの言葉に、ダイアナの顔色が、一瞬にして凍りついた。クリスティアナは小さく目を見開いたが、すぐにルーカスの頭をそっと撫で、いつも通りの笑顔を保った。
「ルーカス、何をおっしゃっているの?」
クリスティアナはそう言いながらも、その瞳はルーカスに向けられており、心なしか嬉しそうに見えた。
ダイアナは、口元が引きつるのを必死に抑えながら、作り笑いを貼り付けた。
「まあ、ルーカス坊やったら。おかしなことを言うのね。わたくしとクリスティアナ夫人は、とても楽しくお話していたのよ?」
彼女は、わざと「クリスティアナ夫人」と呼び、ルーカスが母親を「ママ」と呼んだことに牽制の意を込めた。しかし、ルーカスはそんなことには全く構わない。
「だって、おかあさま、ぜんぜんわらってなかったもん。ふだんは、もっとにこにこしてるのに。だいあなさまがおはなしすると、いつもおかあさま、ちょっとげんきがなくなっちゃうの」
3歳の子供が、純粋な疑問を口にするかのように、ルーカスは首を傾げた。その瞳は、ダイアナの顔色を冷静に観察していた。ダイアナの頬が、怒りで微かに痙攣する。
(
(ちっ、この小憎らしいガキ……まさか、わざと……?)
ダイアナの心臓が不快に脈打った。この幼い子供の言葉が、自分に向けられた明確な悪意だとは信じたくない。だが、その瞳の奥に宿る、年齢不相応な冷徹な光を、彼女は確かに感じ取っていた。
「あら、それはわたくしの勘違いかしら? トレンス侯爵家の奥方は、そんな風にはお見えにならないわ」
ダイアナは、皮肉を込めてクリスティアナを見やった。クリスティアナはただにこやかに、ルーカスの手を握りしめている。
ルーカスは、そんなダイアナの言葉には耳を傾けず、クリスティアナの顔をじっと見上げた。
「ねぇ、おかあさま。だいあなさまって、いつもそんなにおかおがこわばってるの? ぼく、こわいよ」
ルーカスの言葉に、クリスティアナは思わず吹き出してしまった。その声は、リビングに響く柔らかな鈴の音のようだった。シェーラもまた、口元に手を当て、僅かに肩を震わせた。
ダイアナの顔は、怒りで真っ赤になり、ついに貼り付けていた笑顔が崩れ落ちた。
「ルーカス坊や! 貴方は一体、何を…っ!」
怒鳴ろうとしたダイアナの言葉を遮るように、ルーカスの口から、まるで純粋な子供のような、しかし核心を突く一言が放たれた。
「だって、だいあなさま、おかあさまがおうさまのけっとうだからって、いじわるしてるんでしょ? ママはぜんぜんわるくないもん!」
ルーカスの言葉に、リビングは静まり返った。クリスティアナは驚いてルーカスを見つめ、ダイアナは完全に言葉を失った。ダイアナの侍女たちは、皆一様に顔を青ざめ、口元を両手で覆っていた。この場で王家の血筋を口にすることが、どれほど無礼で、そして事態を悪化させるか理解しているのだ。
だが、ルーカスはそんな周囲の反応など気にも留めない。彼はダイアナの顔を真っ直ぐに見上げ、純粋な疑問を投げかけた。
「ねぇ、だいあなさまは、どうしてそんなにきにいらないの? おかあさま、とってもやさしくて、きれいなのに」
その言葉は、まるで何の色もない水のように透き通っていた。しかし、その透明な刃は、ダイアナの最も触れられたくない部分を深く抉った。キースからの冷遇、そして王家傍系というクリスティアナの出自に対する根深い劣等感と嫉妬。ルーカスの無邪気な言葉は、それら全てを白日の下に晒したのだ。
ダイアナの顔は、先ほどまでの怒りから一転、屈辱と絶望で歪んでいた。彼女は口を開閉させるが、何一つ言葉を紡ぐことができない。その瞳は憎悪に燃え、まるでルーカスを食い殺さんばかりに睨みつけていた。
クリスティアナは、ルーカスの無垢な言葉に、胸の奥が締め付けられるのを感じた。争い事を好まない彼女にとって、このような露骨な対立は苦手だ。しかし、同時に、自分を心から案じ、護ろうとする息子の姿に、込み上げるような温かい感情も抱いていた。彼女はルーカスの小さな手を、ぎゅっと握りしめた。
シェーラは、普段の冷静さを保ちながらも、ルーカスの一連の言葉に内心で驚嘆していた。3歳の子供が、これほど的確に相手の核心を突き、主の尊厳を守るとは。彼女の主への忠誠心は揺るぎないものだが、ルーカスが秘める底知れない才覚に、新たな畏敬の念が加わった。
リビングに重苦しい沈黙が落ちる。ダイアナの侍女たちは息を潜め、この異常な状況が早く終わることを願っていた。
やがて、ダイアナが震える声で絞り出した。
「もう……もう結構ですわ! 坊やが無礼にも程があるわ! クリスティアナ夫人、貴方の子の教育は一体どうなっていますの!?」
彼女は、最早取り繕うことも忘れ、憤りを露わにした。
クリスティアナは、ルーカスの手を握ったまま、にこやかに微笑んだ。
「まあ、ダイアナ様。子供の素直な言葉ですもの。私が口を挟むべきことではございませんわ」
彼女の言葉は穏やかだが、その瞳の奥には、確固たる意志の光が宿っていた。ルーカスが、まさに彼女の言いたかったことを、最も効果的な形で表現してくれたのだ。クリスティアナは、この状況を最大限に活用し、ダイアナをこれ以上追い詰めることなく、しかし完全に主導権を握った。
ダイアナは、クリスティアナの涼しい顔を見て、さらに屈辱に塗れた。完全に敗北を喫したことを悟ったのだ。
「もう結構です! わたくしはこれで失礼させていただきますわ!」
ダイアナは叫ぶように言い放つと、席を乱暴に立ち上がった。侍女たちが慌てて彼女の後に続き、リビングを嵐のように去っていった。
・・・・・
・・・
ダイアナの姿が見えなくなると、リビングに張り詰めていた空気が一気に緩んだ。クリスティアナは大きく息をつき、ルーカスの頭を優しく撫でた。
「ルーカス、貴方ったら。なんてことを言うの」
クリスティアナの声には困惑の色が混じっていたが、その口元は抑えきれない笑みを浮かべていた。彼女はルーカスを抱き上げ、頬擦りをした。
「ありがとう、ルーカス。貴方のおかげで、助かったわ」
ルーカスはクリスティアナの腕の中で、満足げに小さく頷いた。
(heh. これで少しは、あのババアも大人しくなるだろう。母さんの邪魔はさせねぇよ)
彼の青い瞳は、純粋な子供の輝きを宿しながらも、その奥には、冷徹な戦略家の光が確かに瞬いていた。シェーラは、二人の様子を静かに見守っていたが、その表情には、普段の無表情とは異なる、微かな安堵の色が浮かんでいた。
クリスティアナはルーカスを膝に乗せたまま、ティーカップに新しく紅茶を注ぎ、菓子皿を差し出した。
「さあ、ルーカス。貴方も一緒にいただきましょう。疲れたでしょう、訓練の後で」
彼女はそう言うと、ルーカスの短い髪を何度も撫で、その柔らかな頬に再び唇を寄せた。
(
ルーカスの内心では、先ほどの演技への不満が再燃していたが、今は別の意味で辟易していた。母からの愛情が、彼にとっては少々過剰だったのだ。前世の記憶を持つ彼にとって、3歳の体で受ける猫可愛がりは、正直なところむず痒い。特に、クリスティアナの豊かな胸に顔が埋もれる度、複雑な気分になった。
「母さん、もういいよ。くすぐったいよ」
ルーカスは、できるだけ不自然にならないよう、身を捩ってみせた。しかし、クリスティアナは彼の言葉など聞こえないかのように、さらにぎゅっと抱きしめる。
「あらあら、可愛いルーカス。まだ甘えたい盛りなのね」
クリスティアナは嬉しそうに目を細め、ルーカスの鼻先にキスを落とした。
(
ルーカスは内心でため息をついた。この至福の瞬間を楽しんでいるのは、どうやら母だけのようだった。シェーラが、そんなルーカスの内心を見透かすかのように、小さく口元に笑みを浮かべたのが見えた。