第七十八話:マルベリーの終焉と新たな生
私は、マルベリー・アーティファクトの総括、ゴドリック・バルタザール。数百年の歴史を持つこの工房の伝統を守る、最後の砦だ。
扉が開いた瞬間、店内に流れ込んだのは、王都の貴族街にはない異様な空気だった。まず目についたのは、中心にいる若者の服装だ。王都の貴族が纏う豪華なベルベットとはかけ離れた、薄手のジャケットに、無駄のない裁断が施され、機能的なポケットがいくつも備えられたパンツ。頭にはつばの深い帽子を被り、目を黒いガラスで隠している。腰には、この世界では見たことのない奇妙な形状の金属の塊と、無骨な漆黒のナイフが吊るされていた。
しかし、その簡素な格好にもかかわらず、隣に控える、見たことの無い格好の鎧を身につけた護衛騎士や、冷静沈着な女性が醸し出す隙のない秩序が、彼らをただ者ではないと教えていた。私は、彼らの身元が判別できなかった。
その中で、若草色の髪の少年、クライスが、展示されたミスリル製の剣に、他の客とは異なる鋭い眼差しを向けている。
(あの少年……ただの坊ちゃんではない)
クライスは熱心に剣を分析し、「非効率すぎて見ていられない」と呟いた。その言葉は、私が抱く工房の技術への静かな懸念そのものだった。
私は、この少年となら技術論ができると感じ、静かに彼の傍へと歩み寄った。
「お客様。その剣の術式について、何かご意見でも?」
私は柔和に尋ねた。
クライスは目を輝かせ、堰を切ったように話し始めた。
「この多重結界、魔力流路は美しい! しかし、この規模の魔晶石を必要とする時点で、時代遅れです! トレンス領では──」
私は、クライスが口にした「トレンス領」という言葉に、警戒心を強めた。同時に、その純粋な技術への熱意には、職人として抗いがたい共感を覚えた。私は彼と魔道具の「魂」と「効率」について、熱心に語り合った。
その時、隣の少年が、不満げに鼻を鳴らした。
「Tsk。退屈だ」
彼はそう言って、私たちから離れ、店の奥にある武具のコーナーへと歩いていった。彼の目的は、技術論ではなく、何か別のものにあるようだった。
若草色の髪の少年、クライスは、展示されたミスリル製の剣に、他の貴族とは異なる鋭い眼差しを向けている。彼は剣の「非効率性」を呟き、私の持つ静かな懸念を代弁した。
私たちは、この世界の「魂」と「効率」について、熱心に語り合った。
・・・・・
・・・
マルベリー・アーティファクトの武具部門は、静かな喧騒に包まれていた。
店の隅では、クライスと総括のゴドリックが、完全に周囲を忘れ、魔導術式の理論を戦わせていた。
「――だから! 我々の『複合材の精製』は、
「馬鹿な……! オリハルコンを融解させるには、神話級の超魔術が必要だとされてきた。それを、君は『プロセス』の一環だと……! しかし、君が言う『量子魔力制御』とは、我々の『経験則』に基づく術式とは、根本的に何が違うのだ?」
二人の会話は専門的すぎて周囲の貴族には理解不能だったが、その熱量は凄まじく、職人ゴドリックの額には脂汗が滲んでいた。彼らが話す内容の一部は、この王都の職人にとって『聖典の冒涜』に等しかった。
そんな喧騒を背に、ルーカスは、護衛騎士のギルバードと共に、展示ケースに並んだ武器を冷たい視線で見下ろしていた。
「相変わらず、無駄な熱量だ」
ルーカスは鼻を鳴らした。
「クライスは、自分の知識を不必要に開陳しすぎだ」
「彼の、技術への純粋な探求心は素晴らしいものがありますが……」
ギルバードは、控えめに述べた。
「若様も、彼を止めないということは、これも牽制の一環なのでしょうか?」
「牽制? いや、違うな。俺の目的は、この老舗の『依存の美学』を否定することだ。そのために、クライスは最高の『論理爆弾』を投下している。俺は、それを静かに見守り、最後に止めを刺す」
ルーカスは、過度に装飾されたミスリル製のレイピアを一瞥した。
「このレイピアの美学は、『貴族が、魔力とエンチャントという外部の力に依存し、優雅に敵を屠る』という虚飾だ。その脆さを、ギルバード、お前はもう知っている」
ギルバードは、自身の分厚い装甲強化服の拳を見て深く頷いた。
「はい。戦場における『生存の保証』は、美しさとは無縁です」
ルーカスは、視線を店内に並ぶ豪華な武器の群れから外し、展示ケースの隅に置かれた無骨なナイフに集中させた。それは、全長10インチ程度、黒い鋼の刃とシンプルな握りを持ち、飾り気は一切ない。
「だが、ナイフはいいな」
ルーカスは静かに呟いた。
「いつの時代も、不変の道具だ」
彼は、まるで前世のコンバットナイフやサバイバルナイフを評価するように、そのナイフの機能性を吟味した。
「ナイフの価値は、魔力に頼らない『機能の極致』にある。この刃の角度、重量、重心。これは、過酷な環境で『切る』『削る』『抉る』『投げる』という、生存のための純粋な機能に特化している。このナイフには、魔力増幅の結界も、魔晶石の接続口もない。その『不変の信頼性』こそが、真の美学だ」
「魔力炉が爆発しようと、魔力が枯渇しようと、このナイフは、俺たちの命綱だ」
ルーカスは、この世界の貴族や職人が理解し得ない、『魔力ゼロ環境下でのサバイバル』という極限の視点から、ナイフを評価した。彼の口調は、まるで不滅の道具を讃えているかのようだった。
その時、武具部門の頭領、ルパート・ゲイルの苛立ちは、ついに頂点に達した。
「坊ちゃん!」
ルパートは、低い、怒りのこもった声で叫んだ。
彼は、クライスが撒き散らす「伝統否定論」と、ギルバードの「武具は趣味」という発言、そして極めつけに、ルーカスが「不変の道具」と評した、地味で利益にならない実用品のナイフを熱心に見つめているという、一連の光景に耐えられなかった。
ルパートは、ルーカスを貴族の道楽者と決めつけ、彼らの「魂」を込めた作品に対する侮辱だと感じた。
「坊ちゃん。そのナイフは、当店の職人が鍛えた硬度の高い鋼ですが、貴方様の体躯や、その細すぎる指では、本格的な武具は扱えません」
ルパートは、彼の異様な装いと非戦闘員に見える体格を、貴族の嗜好として扱うように、丁寧に、しかし侮蔑を込めて言った。
「いっそ、装飾用として、このミスリル製の短剣をおすすめしますぞ。これなら、細工が精巧で、御身の美しい衣装にもよく似合うでしょう」
ルパートが指し示したのは、装飾が施された短剣だ。それは、「実用」ではなく「貴族の道楽」こそ彼に相応しいという、静かな挑発だった。
「結構だ。材質が気になっただけだ。この『伝説』に使われる素材の実用性にな」
ルーカスは冷たくあしらった。そして、展示ケースのミスリル剣を一瞥し、ルパートに向かって皮肉を込めて問いかけた。
「ルパート殿。貴方がたマルベリーが標榜する『実用品』とは、常に魔力の供給、すなわち『外部の力』に依存することを前提としているのか?」
「依存ですと?!」
ルパートの声には、明確な苛立ちが混じった。
「そいつは、この王都で最も魔力伝導性が高い、ミスリル製の一級品です! 我々の魂が込められた、これ以上の実用品はない。貴方様の持つ、その装飾過多の奇妙な道具とは格が違います!」
ルパートは、ルーカスが身につけている銃の概念を知らない。彼にとって、それはただの「異様な金属の塊」であり、「王都の美学」を汚す装飾過多な道具にしか見えなかったのだ。
「装飾過多…ね。これを見てもそう言えるか?」
ルーカスは、ルパートの無知と伝統への固執を静かに見定め、腰の漆黒のナイフを抜き放った。それは、この店に並ぶどの武器とも違う、無骨な機能美の結晶だった。
「私のこの『ただの鋼』は、魔力がなくても最高の機能を維持し続ける。シンプルかつ強靭で、過酷な環境下における生存に必要な機能に特化している。このシースは多用途に使える仕様だ。刃と組み合わせれば金切り鋏になり、裏面には砥石、ポーチにはスキニーナイフや釣り道具を収める。数週間のサバイバルに耐えることを目的としているのだ」
ルーカスの説明は、ルパートが持つ「武器=一撃の美学」という概念を、「道具=継続的な生存の保証」という、全く新しい概念で上書きしようとしていた。
「しかし、このミスリル剣は、常に魔晶石に依存し、魔力が切れたらただのミスリル銀に戻る。諸君らの『魂』とは、常に『依存』を意味する」
「そのお飾りのナイフが、我々の魂を込めた作品に勝てるとでも言いたいのか!」
ルパートの顔が怒りで真っ赤になった。
「なら、見てみるか?」
ルーカスが挑発的に答えた。
「上等だ! 受けて立とう!」
ルパートは剣の柄に手をかけた。
「もう!やめなよ、ルーカス! またそうやって、すぐに挑発するんだから!」
熱を帯びた衝突に、クライスが慌てて割って入った。「ルーカス」という呼び名と、親しげに宥めるその態度に、私は一瞬息を飲んだ。
「ルパート! 待て!」
私は叫び、慌てて二人の間に割って入った。ルパートの荒い息遣いが、私の顔にかかる。
「ゴドリック! 邪魔するんじゃねぇ!」
ルパートは私を振り払おうとした。彼は、私を工房を率いる親方としてではなく、単なる邪魔者として扱っている。
「これは魂の問題だ! マルベリーの誇りをコケにされて、黙っていられるか! 何とかしろ、ゴディ!」
「馬鹿者! 貴方こそ、マルベリーの評判をここで台無しにする気か!」
私は、ルパートの肩を両手で掴み、その巨体を力ずくで引き戻した。ゴディという親しい呼び名が、ルパートの感情的な高まりを物語っていた。
「貴方の誇りは理解している! だが、感情で動くな、ルパート! この若者は、貴方が知る剣士の常識の外にいる! 貴方の魂を無駄にするな!」
「理屈じゃねえんだよ! 職人の世界は!」
ルパートは抵抗した。
私は、目線の先に魔剣測定器を見た。これしかない。
「ルパート! 貴方の魂が否定される前に、まずは理由を知るべきだ! 貴方が怒鳴り合っても何も生まれない! その前に、この男の力が何なのか、理で測るべきではないか! それこそが、職人として最も重要な探究心だろう!」
私は、ルパートの感情ではなく、彼の中に残る職人としての探究心を必死に揺さぶった。
その言葉に、ルパートの怒りの炎が一瞬揺らいだ。彼は、自分の荒い息を整えながら、渋々と私に抵抗するのをやめた。
「……くそっ……理だと? わかった、ゴドリック。測ってやる。だが、それで理屈が通らなければ、次は実戦だ」
ルパートはフンと鼻を鳴らした。
「真の『力』とは、魂を込めた一振りの剣に宿るものです。貴方様のような非戦闘員が、ただ技術を振りかざすだけで、この剣の価値が分かるとは思えませんな」
それは、ルーカスに対する明確な挑発だった。ギルバードが即座に警戒を強め、ルーカスの前に一歩踏み出そうとする。
「ギルバード。退け」
ルーカスは静かに制した。
ルーカスは口角を歪ませ、皮肉な笑みを浮かべた。
「なるほど。あんたらは、『剣を扱える者』にしか、その価値を語る資格がないと。結構だ」
ルパートは、ルーカスの度胸を測るように、店員に指示を出した。
「おい、『魔剣測定器』を出せ。このおぼっちゃまが、我々の剣を扱うに足る『資格』をお持ちか、測らせてもらう」
店員が慌てて運び出してきたのは、台座に乗せられた精巧な魔道具だった。それは、握り手部分に特殊な術式が施されており、握力、手の形、最適な魔力の流し方などを測定し、持ち主の「剣との親和性」を数値化するものだった。
私は安堵し、その手に剣の柄を握らせた。彼は、不満げに鼻を鳴らしながらも、柄を握り込んだ。
彼の握り方は、剣士としてはあまりにも異質だった。親指と中指を強く押し付け、薬指と小指は補助的に添える。
それは、この世界に存在しない「銃器のグリップ」を握ることに最適化された癖だった。
測定器は、瞬時に魔力を吸収し、彼の魔力と肉体のデータを計測した。そして、台座に表示された数値を見た私とルパートは、一斉に困惑の表情を浮かべた。
「な、なんだこの数値は!?」
ルパートが困惑に声を荒げる。
驚異的な「最大握力」、異常なまでの精密な魔力制御と、剣士の型から逸脱した「最適な形状への不適合」という、矛盾した異常値。それは、この世界に存在するいかなる武術とも違う、「概念外の力」だった。
「握力は、歴戦の騎士団長並みだぞ!? しかも、魔力の流れは一級の魔術師のそれに近い。だが、この握り方、そして魔力流路の『形』が……」
店員は測定器の数値とルーカスの手元を何度も見比べ、混乱した。「剣士のそれではない。この握り方で、なぜこれほどの『力』と『制御』を両立できる!?」
ルパートも同様に困惑していた。彼の力自体は凄まじいものがあるが、その『型』が、彼らの知る剣術の概念から逸脱していたのだ。彼らにとって、それは「剣を扱う者の形」ではなかった。
彼は、ルパートの困惑を静かに見下ろし、冷笑した。
「そちらの『剣の概念』は、そちらの古い技術と同様に、あまりにも狭いようだな」
その時、トレンス領の言葉、クライス少年の「ルーカス」という呼び名、そしてこの「概念外の力」を持つ若者という、全ての情報が私の中で繋がり、私は戦慄した。
「貴方がたの剣は、『斬る』ことに特化している。私の武器は、貴方がたが存在すら知らない別の概念に特化している。その『型』の違いに、この古い測定器が困惑した。それだけの話だ」
彼が鼻で笑う。私は戦慄した。この男は、我々の武具に対する常識を、「存在しない概念」で否定してみせたのだ。
(馬鹿な……この若者が……あの市場を混乱させているトレンス侯爵名代……いや、本人のルーカス・フォン・トレンスだと!?)
「侯爵様」
私は、慌てて深く頭を下げた。
「このルパートの無礼、そして、私の不覚を深くお詫び申し上げます。提携について、正式にお話させていただきたい」
ルーカスは、私の恐怖と生存への意志を読み取ったのだろう。冷たい笑みを浮かべた。
「Heh。賢明な判断だな」
私は、ただ打ちのめされていた。この男が提示した提携という名の支配が、マルベリーの終焉となるか、それとも新たな生となるのか、その答えはまだ見えない。だが、私にはもう、伝統という名の過去にしがみつく余裕がないことだけは、理解していた。
・・・・・
・・・
私は、震える膝を叱咤しながら、侯爵一行を店の奥にある私的な応接室へと案内した。
応接室には、ルーカス、エレノア、クライス、そして私、ゴドリックの四人が入った。ルーカス侯爵は、その異様な姿のまま、深く椅子にもたれかかった。そのつばの深い帽子と黒いサングラスの奥に、私は未来を見通すような冷徹な眼差しを感じた。
「さあ、ゴドリック殿。貴殿が『提携』と呼ぶ、『生存のための屈服』について聞かせてもらおうか」
侯爵は、まるでゲームの駒を選ぶような、愉しげな余裕をもって私に問いかけた。彼の周囲からは、異常なまでに統率された成熟した技術を背景にした、絶対的な優位性が滲み出ていた。
私は、長年の経験から培った経営者としての冷静さを保ち、尋ねた。
「侯爵様。我々マルベリー工房は、貴方様がもたらした『合理的な機能』の前で、『伝統の美学』がもはや市場を維持できないことを認めます。我々の『伝統の魂』が、貴方様の『機能主義』の下で、どれほど残されるのか、お聞かせ願いたい」
侯爵は、その言葉に鼻で笑った。
「魂? それは、貴方がたが過去の非効率な成功にしがみつくための自己欺瞞の名だ。貴方がたに残されるのは、『看板』と、『真の機能』だ」
彼はエレノアに目配せし、エレノアは、空中に光の文字と図面を投影した。
(魔力で文字を形作る魔法は存在する。だが、ここまで複雑な図面と、一瞬で現れる明瞭な光の立体像だと? 我々の技術体系には、この効率性はない)
「マルベリー工房は、我がトレンス侯爵領の『魔導産業グループ』の一員、すなわち子会社となります。供給価格は市場価値の十分の一、買収費用は純資産の三倍を提示します」
エレノアは、淡々と条件を告げた。
私は、その数字の異常さに、内心で戦慄した。この数年、トレンス領の均一で安価な製品が王都の市場にもたらした混乱と破壊は凄まじかった。その破壊者が、今、破格の利益を与えて、我々を傘下に収めようとしている。
「な……侯爵様、この条件はマルベリーにとってあまりに破格です。貴方様の利点が少ないように感じられます」
私は、契約の条項をホログラム越しに確認した。名声やブランドは、マルベリーに帰属し続ける。これは、私欲を排した行動としか思えない。
(この男は、我々の工房を救うために、巨額の私財を投じようとしているのか? もしそうなら、この異常なまでの技術への畏怖は、一体何に繋がるのだ?)
私は、意を決して、長年の職人としての葛藤を口にした。
「侯爵様。我々職人たちは、これまで自分の手に馴染む道具を、長年の技術と経験、そして誇りを持って扱ってきました。道具と職人の間に魂の対話がある、と信じていました」
私は、深く息を吸い込んだ。
「しかし、ここ数年、貴方様のトレンス領から流れてくる統一規格の様々な道具、特に高精度の計測器や均一な磨き砂によって、我々の経験と技術の差は、徐々に、恐ろしい速度で縮まってきました。最高の素材を扱う我々ですら、気づけば貴方様の安価な普及品に依存し始めていた……」
私の声には、敗北感と技術革新への渇望が入り混じっていた。
「我々は、ただ伝統にしがみついていたのではありません。この崩壊を前に、新たな道を探していました。 ですが、貴方様の成熟した技術を前に、その答えが見つからなかった。だからこそ、貴方様のこの異常なまでの統率力と技術に、畏怖を抱いているのです」
彼は、私の疑問に対し、愉しげな笑みを浮かべた。
「貴方がたは、私が何のために行動しているか、理解できんようだな」
応接室には、重厚な沈黙が流れていた。
ルーカスは、ホログラム上の『秘密保持契約と広報戦略』の条項をハイライトさせた後、ゆっくりと椅子にもたれかかった。
「なぜ、私が純資産の三倍という金を、この工房の看板に投じるのか、と」
ルーカスは、懐から銀貨を一つ取り出し、それをゴドリックの目の前に投げつけた。テーブルの上で、銀貨が甲高い音を立てて数回回転する。
「ゴドリック殿。この銀貨そのものに、何ほどの価値があると思う?」
ゴドリックは、銀貨を一瞥し、戸惑ったように答えた。
「本質……ですか?それは、物を売り買いする際の尺度であり、富の蓄積であり……あまりにも当たり前すぎて、私にはそれ以上の理解が及びません」
ルーカスは鼻で笑った。
「その通り。当たり前すぎて、誰もその根源を見ようとしない。だが、この通貨そのものに、本質的な価値はない」
ルーカスの言葉に、ゴドリックは息を飲んだ。エレノアとクライスは、静かにその会話を見守っている。
「素材の金にしても銀にしても、それそのもの自体の価値は知れている。魔導技術において、ミスリルやアダマンタイト、あるいはトレンス領で精製される合金に比べれば、その機能的価値は遥かに劣る」
ルーカスは、銀貨を指先で弾き、続けた。
「他にも有益な金属は存在しているのだからな。だが、誰もがそれを有難がって崇めている。それは何故か?」
ゴドリックは、ルーカスの冷徹な眼差しを受け止め、熟慮の末、絞り出すように答えた。
「っ! 信用……」
「そうだ。誰もがそれを価値のあるものと共通した認識を持っているからこそ成り立つ物だ。富や力の交換という、社会全体での
ルーカスは銀貨を掴み、軽く握りしめた。
「例えば、これを未開の原始人どもが理解できると思うか? 精々連中には、綺麗に光っていて装飾に使えるくらいの、物質的な価値しかわかるまい」
ルーカスは、再びゴドリックを見た。
「マルベリー工房の『魂』も同じことだ。それは、貴族たちがマルベリーという名に抱く、長年の歴史と高品質への『無条件の信用』という名の合意だ。そして、その信用は、私がいくら金を出しても、一瞬で買えるものではない」
「私が買っているのは、貴方がたの老朽化した設備でも、非効率な技術でもない。王都の技術改革を成功させるために必要な、貴殿らの『信用』という名の通貨なのだ。これを王都独自の進化と喧伝させること。これが、私の最大の利益であり、この王国の基盤を底上げする、義務を果たすための最も効率的な道具となる」
ルーカスは、冷徹な理屈と、その根底にある巨大な野望をゴドリックに突きつけた。ゴドリックは、自らの『魂』が、若き侯爵の壮大な計画の中で『無形の通貨』として計算され尽くされているという事実に、深い戦慄を覚えた。
「貴殿らは、トレンス家とは無関係の、マルベリー独自の進化であると喧伝しろ。この契約は、トレンス家のライバル貴族達の目を逸らす、目眩ましとなる。これが、私の第一の利点だ」
そして、彼は、黒いサングラスの奥の瞳を、私に向けた。その視線は、「私欲」とは無縁の、冷たい責任感に満ちていた。
「だが、真の目的は、それだけではない。ゴドリック殿。このホーネリア王国の産業基盤、技術基盤、そして文化基盤は、あまりにも脆い。貴族の道楽と職人の非効率な精神論に依存し、いつ崩壊してもおかしくない」
ルーカスは、静かに続けた。その言葉には、国家への熱狂的な忠誠心ではなく、己の義務を全うしようとする確かな意志が感じられた。
「私が、トレンス領で真に機能する技術を確立したのは、私が護りたいものを護るためだ。その責務を果たすには、私の領地だけでは、この脆弱な基盤を支えきれん。この王国の基盤の全てを、義務として底上げする必要がある」
(愛国心ではない。義務感だ。この男は、私的な感情で動いているのではなく、より大きな目的のために、国家の技術を底上げするという、巨大な義務を自らに課している。だから、私欲を排し、破格の条件を提示できるのだ!)
私は、この若き侯爵が持つ恐るべき技術力への畏怖と、その非人道的なまでの合理的な行動原理に、深い戦慄を覚えた。
「マルベリー工房は、この王都における技術の模範となる。我々の技術を導入することで、貴方がたが『王都独自の進化』を遂げたという幻想を植え付け、王都全体の底上げを促す。これが、私の第二の利点であり、真の目的だ」
侯爵は、身を乗り出した。
「どうする?」
トレンス侯爵は、愉しげに問いかけた。
「伝統のために破滅を選ぶか、それとも生存のために私の道具となり、この王国の基盤の変革という、義務を負うか。貴殿らの『魂』が、合理的な判断を下すことを期待する」
私は、敗北と生存という二つの重み、そして「王国の基盤を護る義務」という、彼の冷徹な野心に飲み込まれながらも、その場で即答を避けるほかなかった。
侯爵の『道具』となる道。その答えがマルベリーの終焉か、新たな生となるのか、私の『魂』はまだ結論を出せていなかった。
マルベリー・アーティファクトの頭領、ゴドリック・バルタザールは、ルーカス侯爵が扉を閉める音を聞いた後も、その場から動けずにいた。漆黒のサバイバルナイフが突きつけられた時の、あの「機能」という名の冷たい哲学が、網膜に焼き付いて離れない。
「『魂』とは、『依存』を意味する、か…」
ゴドリックは、展示ケースのミスリル剣を見た。
(だが、彼の言葉は、冷酷だが、真実を突いていた)
ルーカスの「魂」の否定は、ただの口撃ではなかった。それは、すでに数年前から、工房の日常に忍び込んでいた静かな侵略の結論だった。
「親方……」
初老の店員が恐る恐る声をかけた。
「侯爵様の言われた、あの『契約』とは……」
ゴドリックは、その質問に答える前に、自身の工房の道具棚を思い浮かべた。最近、工房の若手の職人たちがこぞって使い始めている、トレンス領製の『魔力駆動式精密ノギス』や、『均一な強度を持つ魔導ハンマー』。
トレンス領の製品は、彼らが長年使ってきた「職人の癖に馴染んだ道具」とはかけ離れていた。しかし、それらは驚くほど安価で、そして何よりも正確だった。彼らが数時間かけて調整し、魔力を込めていた従来の工具と違い、トレンス領の工具は「誰が使っても同じ結果」をもたらした。
ゴドリック自身、最近仕入れたトレンス領製の高精度な磨き砂を、密かに使っていた。従来の磨き砂よりも遙かに安く、均質で、製品の仕上がりが格段に安定したからだ。
(我々は、侯爵領の「使い捨ての普及品」によって、すでに思想を汚されていたのだ)
ゴドリックの『職人の魂』は、自分の道具でしか最高の仕事はできないという排他的な誇りに支えられていた。しかし、その誇りは、誰でも扱えるトレンス領の工具が、彼らの長年の経験と技量の差を、静かに埋めていくのを見るうちに、薄皮を剥ぐように崩壊しつつあった。
「伝統だと? 伝統など、腹を満たせぬ」
ゴドリックは深々と息を吐いた。長年握り続けた職人の手が、震えていた。
「……すぐに、トレンス侯爵の別邸へ連絡を取れ」
ゴドリックは掠れた声で命じた。
「親方、よろしいのですか!? 我々の伝統が……」
店員は悲痛な声を上げた。
「我々は、侯爵様の『道具』となる。そして、その道具として、我々が『王都で唯一生き残る職人』となるのだ。彼は、我々の『魂』を消し去ろうとしているのではない。『魂』を『合理的な機能』の下に組み込み、永遠の生存を与えようとしているのだ」
その決断は、職人の誇りを打ち捨てるものだった。しかし、ゴドリックの目には、「侯爵の盾」となることで、ライバル貴族たちを出し抜き、王都の技術界の裏の支配者となるという、新たな野望の光が宿り始めていた。
(トレンス侯爵。貴方の『合理性』は、確かにこの世界を塗り替えるだろう。だが、我々マルベリーの『伝統』もまた、貴方の手に落ちたことで、新たな生を得た。この契約が、貴方にとって完全に一方的な勝利となるかどうか、私にも見届けさせてもらおう)
ゴドリックは、侯爵の『道具』として、王都の貴族を欺き、市場を支配するという、新たな戦いへの参入を決意した。