第七十九話:深淵を覗き込む者たち
マルベリー工房での一件の翌日、王都に来てまだ五日と少ししか経っていないルーカスは、自室で領地にいる母クリスティアナとの通信をしていた。
クリスティアナは王都からの通信越しでも、その声は変わらず優しく、画面越しでも伝わる血色の良さは、ルーカスが施した治療の成果が持続していることを示していた。しかし、その瞳には、遠く離れた息子への心細さが微かに浮かんでいた。
「ルーカス、学園の生活は慣れた? 無理をして規則正しい生活を崩したりしていない? 王都の生活は刺激が多いでしょうから、健康には十分気を付けて……」
この通信は、ルーカスが王都に来て以来、欠かしたことのない日課となっていた。
「心配ないよ、母さん。俺は今、王都の古い流通システムを解析している最中だ。ここはトレンス領と違って、街を歩いているだけで退屈しないだけの『珍しいモノ』が転がっているさ。それを観察しているだけで充分だ」
ルーカスは、そう言って口元を皮肉げに歪めたが、心配させないよう、努めて軽快な調子で答えた。
「ふふ、ルーカスはおどけるのが上手ね。そうそう、昨日もね、ダイアナ様とお茶をしたのよ。新作の茶葉とお菓子を用意してくれたわ。ダイアナ様が進めてくださった小説の話で、時間を忘れてしまうくらいだったわ」
クリスティアナが屈託なく話すその言葉に、ルーカスの瞳の奥に鋭い光が一瞬閃き、顔の奥で感情が硬直した。彼の意識には、母の隣で親愛の情を装い、あたかも自分と母の間に生まれた温かい時間を横取りしているかのようなダイアナの勝ち誇った微笑が焼き付いた。
ルーカスは、その内面で渦巻く苦々しい不快感を隠し、穏やかな声色で続けた。
「俺はダイアナ夫人の芝居がかった
「まあ、ルーカスったら。相変わらず、何でも効率で測るのね。それからね、キース様も、最近は時折、私の体調を気にかけたり、貴方が出す書簡の内容を静かに尋ねてきたりするのよ。不器用だけど、貴方を案じているのね」
母の言葉に、ルーカスは視線をわずかに逸らした。キースのかつての無力な姿を知るルーカスにとって、彼の変化は「優秀な政治家」としての評価に値する。しかし、父としての不器用な関心は、彼の関心の外だった。
「俺に送る書簡の内容、ね。父上が領地の政治に活力を取り戻し、王都からの探りや批判の対応に集中されているのは良い傾向だ。その調子で、侯爵としての責務に邁進してもらう。それが、今は母さんの体調を案じることよりも重要だ」
ルーカスは、父への関心を一蹴するような、淡々とした口調を保った。
「…そう。それから、シェーラも元気よ。貴方が王都に行ってから、以前にも増して、私の、世話に熱心だわ。まるで自分がこの屋敷の主のように、テキパキとやってくれている」
クリスティアナは嬉しそうに言った。シェーラの献身的な行動は、ルーカスにとって、母の安全が確保されていることの裏付けであり、最も信頼できる資源だった。
「それは結構。シェーラには礼を言っておく。彼女の気遣いは理解している。彼女がそこにいる限り、俺は安心して王都で準備ができる」
ルーカスは、シェーラの献身に対する感謝と、自身の戦略的な欺瞞に対する自嘲を混ぜて答えた。
「準備、ね……。ルーカス、貴方のやることはいつも壮大だけれど、どうか、自分のことだけは大切にしてちょうだいね」
クリスティアナは、ここで言葉を切ると、少しだけ真剣な瞳で息子を見つめた。
「貴方は優秀だから、きっと学園でもすぐに注目されるでしょう。可愛い令嬢たちにモテるのも、素敵なご友人ができるのも、きっと簡単だわ。本来なら、貴方はもう婚約者を迎える年齢なのに」
その言葉に、クリカスティアナの瞳に、深い後悔の色が滲んだ。
「貴方は、私が病弱だったせいで、キース様との事もあって、子供らしい『青春』も、友人との『大切な時間』も、何もかもを切り捨てて、たった一人で領地を背負ってくれた。それは母として、本当に心苦しいことなのよ」
その言葉には、愛する息子が、自分を救うため、領地を護るために、不器用な形で自己を犠牲にしていることへの、母としての切実な願いが込められていた。
ルーカスは、その母の涙ぐんだ眼差しから、わずかに顔を背けた。
「チヤホヤされに行くわけじゃないさ、母さん。無駄な火遊びに時間を割くほど、王都での俺のスケジュールは暇じゃない。ミドルティーンの恋愛ゲームなんて、俺には非効率極まりないタスクだ」
彼の言葉には、色恋沙汰に対する深い辟易と、純粋な若さに対する諦念が混じっていた。
「貴方はいつもそう……。でもね、ルーカス。私が願うのは、貴方が『真っ当な』愛を知ることよ。子供ながらに、ただ剣として領地の重責を背負い続けてきた貴方に、心から笑える幸せを見つけて欲しい。母のわがままかもしれないけれど、貴方が幸せになることが、私にとって何よりの幸せなの」
その言葉には、愛する息子に子供らしい人生を歩ませてやれなかった、母としての切実な願いと深い後悔が込められていた。
「ああ、すぐに帰るさ。俺が護るべきものは、いつだってここにある。心配しないで」
通信を終え、ルーカスは静かに端末を閉じた。彼は、母の願いを無下にすることはできなかったが、彼の行動原理はすでに、その願いとは裏腹の血塗られた道を選んでいた。愛する母の笑顔を護るため、そしてこの世界の不条理を正すため、ルーカスは、自己の感情や青春といった『非効率な変数』を、既に捨て去っていた。冷静に理性を司る彼の胸の奥で、母への無償の愛が生んだ義務感と、その愛を踏みにじろうとする者への憎悪が、炎のように燃え盛っていた。
そんなある日の午後、ルーカスは一通の手紙を受け取った。封蝋に刻まれた王家の紋章は、差出人が第二王子レオナルド・ブラン・ホーネリアであることを示していた。
手紙の内容を確認したエレノアは、即座に警戒の表情を浮かべた。
「レオナルド殿下からのお誘い、でございますか。ルーカス様、彼は侯爵領の改革、そして……クリスティアナ様のご快癒に強い関心をお持ちのようです。警戒すべきです」
ルーカスは、手紙を軽く指で弾きながら、口元に皮肉な笑みを浮かべた。彼の脳裏には、かつて侯爵領での晩餐会でAlphaが解析した、レオナルドの傲慢な思考が蘇る。
(ついに来たか。俺の最も重要な『資源』を、その愚かな『最適化』の駒として利用しようと目論む酔っ払い野郎が)
「心配するな、エレノア。俺はただ、奴の望む『資源』として、一人で行くだけだ。警戒の必要はない。この状況における最適解は、俺が奴を完全に信頼していると錯覚させることだ」
ルーカスの言葉に、エレノアは反論しようと口を開いたが、彼の瞳に宿る冷徹な光に、言葉を失った。
・・・・・
・・・
指定された場所は、王城に隣接する離宮だった。案内役の男に連れられ、ルーカスは静かにその扉を開けた。
そこには、豪華な装飾も煌びやかな調度品もなかった。ただ、窓から差し込む光を浴びながら、一人の男が静かに紅茶を飲んでいた。第二王子レオナルド。その顔に感情の機微は一切見られず、まるで精巧な人形のようだった。
「ようこそ、トレンス侯爵」
レオナルドは立ち上がることなく、ルーカスに静かに挨拶した。
「レオナルド殿下。お招きいただき、光栄に存じます。…母クリスティアナの件、お気遣いいただき、ありがとうございました」
ルーカスは貴族の作法に則り、深々と頭を下げた。彼の言葉は感謝を装っていたが、その内心は憎悪に満ちていた。
この男……。母さんを『利用する』と宣いながら、よくも涼しい顔でいられるな。まるで、ゴミの山を漁って、そこに宝石が混じっていたとでも言うような顔だ。その宝石が、貴様の人生よりも遥かに価値があるものだとは、つゆ知らず
レオナルドは、ルーカスの礼儀正しい態度にわずかに満足げな笑みを浮かべ、席を勧めた。
「お座りください、トレンス侯爵。貴方の侯爵領でのご活躍は、王都の貴族たちの間でも、もっぱらの噂です。特に、商工会の妨害を回避した件は、驚くべき効率性でした」
「身に余るお言葉です、殿下。あれは、単に最適化されたシステムを導入したに過ぎません。既存の輸送網に依存するのではなく、河川という新たな資源を活用することで、輸送コストを大幅に削減できたのです」
ルーカスはレオナルドが喜びそうな「最適化」という言葉をあえて使い、彼の思考に合わせるように淡々と答えた。
ルーカスは極細の
『解析開始。対象の魔力的な感情波動をスキャン』
『警告。対象は極めて高度な魔力制御下にあります。これは意図せずとも感情の機微を抑えてしまうものであり、能力の帰属によるものと推測されます。解析深度が極端に低下』
『警告。現在の貴方の魔力操作と当アーカイブの情報をもってしても、このレベルの制御下にある個人の深層心理を正確に解析することは困難です。
ルーカスの脳内に、Alphaの無機質な声が響く。レオナルドは、自身の魔力で感情を完全に制御している。それは、ルーカスがこの世界で初めて出会った、自分と同等の魔力操作の使い手であることを意味していた。
(Tsk……やはり、この男、ただの変人じゃない。身体の魔力統制が感情の隠蔽できるほどとはな。だが、俺がその程度の情報統制しかできないとでも思ったか? 俺は貴様の行動パターンも、思考の傾向も、既にデータとして持っている。その程度で俺の思考を止めることはできん)
レオナルドは満足げに頷いた。
「素晴らしい。その合理的な思考こそ、この王国に今、最も必要なものです。私は、この王国を、最も効率的で強力な国家へと作り変えたいと考えています。そのために、貴方の力が必要なのです」
彼はルーカスに共同戦線を張ろうと持ちかけた。それは、彼が導き出した「最適解」だった。
ルーカスは、その言葉を冷静に受け止めた。
この男の言う『最適解』は、常に彼自身を中心とした『局所的最適解』に過ぎない。王国全体の複雑な変数、特に貧困層や未開拓な領地の『非効率』な部分を切り捨て、自らの支配の枠内で閉じた美を追求している。俺の目指す『
「殿下…」
ルーカスは、驚きを装いながらレオナルドを見つめた。
「…母上から、殿下のお話を伺ったことがございます。いつかお目にかかりたいと願っておりました。まさか、このような形で叶うとは…」
ルーカスは、レオナルドの「合理性」に、敢えて「感情」という不合理な要素を持ち込み、彼の真の目的を探るための揺さぶりをかけた。
レオナルドは、ルーカスの言葉にわずかに眉をひそめた。感情は彼の「最適化」の思考を乱す、不確かな情報だった。
「…そうですか。ですが、トレンス侯爵。貴方と私の間には、家族の縁よりも、もっと強固な絆が築けるはずです。私は、貴方の才能を、貴方の野心を、誰よりも高く評価しています。さあ、私と共に、この王国を、真に『最適化』された国家へと変革させましょう」
彼はルーカスにそう言って、手を差し出した。その手は、冷たく、感情のない、しかし完璧な論理に支えられた、傲慢な自信に満ちていた。
ルーカスは、その手を見つめた。内心では、憎悪が渦巻いていた。この男は、母クリスティアナの存在を、自身の「最適化」という信念の前で、単なる瑣末な情報としてしか見ていない。
吐き気がする。この男、自分の傲慢な思想を、さも正義であるかのように語りやがる。貴様のような、自分しか信じないような、薄っぺらな『王道』は、俺が叩き潰してやる。せいぜい、俺という『最高の協力者』を得て、天にも昇る気分でいろ。その絶望が深ければ深いほど、俺の歓びは大きい
「そして、この部屋には、貴方との『最適化』された未来を共有するにふさわしい、もう一人の同志がいます」
レオナルドは、そう言って部屋の奥にある扉に視線を向けた。ルーカスの視線がその先に注がれると、静かに扉が開かれ、一人の女性が姿を現した。血で染め上げたかのような紅色の髪と淡い紫の瞳を持つ、気品あふれる女性。彼女の佇まいからは、レオナルドに匹敵する、いや、それ以上の冷徹な知性と揺るぎない自信が感じられた。
『警告。対象、個体アイリス・ユークリッド・アナリュティカ・ド・アークランドの魔力波動をスキャン。魔力の流れに不規則な乱れはなし。能力の発動は確認されません。しかし、個体レオナルドと同等か、それ以上の極めて高度な魔力制御下にあると推測されます。注意してください』
ルーカスの脳内に、Alphaの警告が響き渡る。アイリスの瞳は、ルーカスの全身を品定めするかのように、深く、しかし無感情に見つめていた。まるで、未知の生物を観察するかのように。
「アークランド公爵令嬢、アイリス・ユークリッド・アナリュティカ・ド・アークランドです。彼女は、私の『頭脳』であり、この王国の行く末を共に案じている、唯一無二の存在です」
レオナルドの言葉に、ルーカスは内心でわずかに身構えた。イザークの報告で、彼女がレオナルド派閥に属していることは知っていた。しかし、まさかここまで中枢に近い、彼の「頭脳」とまで呼ばれる存在だとは。
「初めまして、トレンス侯爵。貴方の領地は、わたくしにとって『見通せない壁』でした。しかし、その壁の向こう側にある『知性』に、直接お目にかかれて光栄ですわ」
アイリスの言葉は丁寧だったが、その顔には試すような、冷たい笑顔を浮かべていた。
「そしてトレンス侯爵。アイリスは、貴方の才能を最も高く評価しています。彼女は、貴方こそが私の『王道』を共に歩むにふさわしいと、私に熱心に説きました。私もまた、彼女の分析に全面的に同意しました」
レオナルドの口から出た言葉に、ルーカスは内心で再び驚愕した。アイリスがレオナルドの指示で動いているのではなく、彼女自身がこの縁談を主導している、と。
この女……。レオナルドの頭脳だと? いや、それ以上か。俺を分析し、その結果、自らの「知的ゲーム」の駒にしようと企んでいる。…上等だ。
アイリスは、ルーカスの内心を読み取ろうとするかのように、静かに微笑んだ。その瞳の奥には、退屈な日常を打ち破る、新たな知的ゲームへの興奮が微かに宿っていた。
「わたくしの見立てでは、貴方とわたくしは、互いの才能を最も『効率的』に高め合える関係にあります。殿下のご提案に先んじて申し上げますが、わたくしは、貴方との婚約を望みます」
アイリスは、レオナルドの隣で、ルーカスに直接、その言葉を告げた。彼女の行動は、レオナルドの許可を前提としながらも、彼女自身の揺るぎない意志を明確に示していた。
レオナルドは、ルーカスの動揺を「驚き」と解釈し、満足げに笑みを深めた。
「アイリスがそこまで言うのだ。トレンス侯爵。この後の詳細は、二人でじっくりと話し合っていただきたい。……そして、貴方の学園入学も、我々の計画には不可欠な要素だ。学園での貴方の活躍を、心から期待している」
レオナルドは、そう言ってルーカスとアイリスを二人きりにしようと促した。それは、二人の「頭脳」が結びつくことで、自身の計画が完璧に「最適化」されると確信しているかのような、絶対的な自信に満ちた眼差しだった。
ルーカスは、レオナルドの差し出す手を見つめた。内心では、レオナルドに対する憎悪が、沸騰点に達していた。そして、目の前に現れた、彼を自らのゲームに引き込もうとする、もう一人の「異能者」。
(
しかし、ルーカスは完璧な笑顔を浮かべた。彼の顔には、レオナルドの期待に応えるかのような、強い意志が宿っていた。
「光栄です、殿下。…喜んで、貴方様のお力添えをさせていただきます」
ルーカスは、レオナルドの手を握った。その手は冷たかった。しかし、ルーカスの瞳の奥には、燃え盛るような炎が宿っていた。彼は、レオナルドを利用し、傀儡を王座に据え、この国の全てを、自らの掌中に収めようと企んでいた。
深淵を覗き込む者たちが、今、互いに微笑み合っていた。どちらが先に、その深淵に落ちるのか。それは、まだ誰も知らなかった。