剣と魔術とライフルと   作:あききし

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幕間 新たな忠誠の形

 

 

幕間 新たな忠誠の形

 

 

ルーカスが部屋に戻った後、エレノアは静かに自室へ戻ろうとしていたヒルダに声をかけた。

 

「メイド長殿、少々よろしいでしょうか」

 

ヒルダは、驚いたように振り返る。エレノアの顔には、先ほどのルーカスとのやり取りの緊張など微塵も感じられず、いつもの穏やかな表情に戻っていた。

 

「わたくしどもが、別邸に持ち込んだ魔導具や、ドローン、そして警備体制の変更について、メイド長殿がご不安に思われていることは、承知しております」

 

エレノアはそう言うと、静かにヒルダの隣に並び、廊下の窓から中庭を見下ろした。ヒルダは不満げな表情を隠そうとせず、ただ黙ってエレノアの言葉を聞いていた。

 

「ですが、ルーカス様は決して、侯爵家の品位や伝統を軽んじているわけではございません。彼の目的は、ただ一つ。この乱世を生き抜き、トレンス侯爵家、そして領民の未来を守ること。そのために、最も合理的で、最も効率的な手段を常に選択しておられるのです」

 

「『乱世』……?」

 

ヒルダはエレノアの言葉に鋭く反応し、不信感を露わにした。

 

「エレノア様。王都は確かに活気に満ちておりますが、乱世というほど世は乱れておりません。ましてや、この別邸に、それほどの厳重な防衛強化を施す意味が、私には理解できません。それに、ご当主キース様がご自身で王都へおいでになり、王室への謁見や公務を担っておられるのです」

 

ヒルダは、溜まっていた不満をようやく口にした。彼女にとって、侯爵家を代表する公務は当主の役割であり、キース侯爵が健在で公的な役割を果たしている以上、ルーカスの領地での成功は誇張されたデマとしか思えなかった。

 

「キース様が健在で、公的な役割を果たされているというのに、領地で起こっているという『数年で街が未来都市へ変貌した』などという噂は、王都では真偽不明のデマだとまことしやかに囁かれております。兄君方を差し置いて、まだ成人にも満たないルーカス様が、その改革の全権を握っているなどと、私は到底信じることはできません。何故、キース様の権威が、まるで煙のように扱われる必要があるのですか?」

 

彼女にとって、ルーカスが実権を握ったとされる数年前、彼はまだ幼子でしかなかったという事実と、王都の貴族社会で流れる断片的な情報の信憑性の低さ、そして当主たるキース侯爵の存在という三つの常識が、ルーカスへの不信感の土台となっていた。

 

 

エレノアは、ヒルダの言葉を静かに受け止めると、懐から手のひらサイズの薄い板状の魔導具、『タブレット端末』を取り出した。彼女が指先で操作すると、光る板には、侯爵領の映像が映し出される。

 

「その板は……? 見たこともない代物ですね」

 

ヒルダは、驚きと警戒が入り混じった表情でタブレットを凝視した。その板は、この世界には存在しない、ルーカスが開発した物だと直感的に察した。

映し出された映像は、以前は馬車が往来するだけだった侯爵領の街道だった。しかし、そこにはアスファルトで舗装された広い車道が何本も走り、歩道やガードレールが整備されている。ルーカスが開発した、バスやトラムが定刻通りに運行され、高層のビル群が立ち並んでいた。

 

「これは、侯爵領に新設された『海の星空館』や『音の広場』の映像です。人々はルーカス様が提供した新たな文化を享受し、活気に満ち溢れています。ルーカス様が実権を握られてから、第一夫人のダイアナ様と激しく対立した時期もございましたが、現在では和解し、領民の安寧のために尽力しておられます。ルーカス様の改革は、この十年という歳月を経て、このような成果を我々にもたらしたのです」

 

「……十、年……? まさか、そのようなこと…有り得ません…それではまだ赤子のようなお年ではないですか…!」

 

ヒルダは、驚きと困惑を隠せない様子で呟いた。彼女の言葉からは、もはや反発の色は感じられない。

エレノアは、淡々とした口調で言葉を続けた。

 

「えぇ、ルーカスの才覚は多方面に及びます。当時の魔法指南役から聞き及んだ内容は今でも信じられません」

 

「…このような事をダイアナ夫人が、お許しになるとは思えません…!」

 

「その通りです。ダイアナ様は、ルーカス様と幾度となく対立されました。侯爵家の伝統と、ルーカス様の改革。そのどちらも譲らない、長い戦いでした。しかし、最終的には、ルーカス様の圧倒的な合理性が、ダイアナ様のプライドに打ち勝ったのです」

 

エレノアの言葉に、ヒルダは目を見開いた。彼女の知るダイアナは、侯爵家で最も力を持った、揺るぎない存在だったからだ。

「そして、その結果、クリスティアナ様は、ダイアナ様の心からの謝罪を受け入れられました。最近、お二人がお茶を楽しまれているのをご存知ですか? ダイアナ様は、もうクリスティアナ様に敵意を向けてはおられません」

 

ヒルダは、言葉を失った。クリスティアナに対する嫉妬と、侯爵家を守るというプライドで生きてきたダイアナが、ルーカスに敗北し、さらにクリスティアナと和解したという事実は、彼女の常識を根底から覆すものだった。

 

「わたくしたちが侯爵領から持ってきた『自動洗濯機』や『クックメーカー』は、メイド長殿の職務を奪うものではございません。むしろ、それらの魔導具は、雑務に追われていた使用人たちが、より重要な職務に専念できるよう、時間を生み出すためのものです。それは、侯爵家全体の生産性を高め、より強靭な組織へと進化させるための、ルーカス様の戦略なのです」

 

エレノアはそう語ると、タブレットを静かに元の場所に戻し、ヒルダの表情をまっすぐに見て、深々と頭を下げた。

 

「メイド長殿。貴殿が長年守り抜いてこられた伝統と、侯爵家への忠誠心に、わたくしは心から敬意を表します。ですが、どうか、ルーカス様の言葉の裏に隠された真意をご理解いただきたいのです。彼の無愛想な言葉の裏には、貴殿ら使用人を含めた、侯爵家に関わる全ての人々の未来を守ろうとする、強い決意が込められているのです」

 

エレノアの言葉は、氷のように冷徹なルーカスの言葉とは対照的に、まるで静かに心に染み渡る温かい水のように、ヒルダの心を溶かしていく。ヒルダは、口を閉ざしたまま、ただエレノアの言葉と、目の前に広がる映像の光景を反芻していた。長年培ってきた彼女の常識は、今、音を立てて崩れ、新たな価値観が芽生えようとしていた。

 

 

 

 

エレノアとの対話を終えたヒルダは、足取り重く自室へと戻った。廊下を歩く間も、彼女の心は激しく揺れ動いていた。エレノアが示した侯爵領の映像が、瞼の裏に焼き付いて離れない。

アスファルトで舗装された広い道路、定刻通りに運行されるバスやトラム、そして夜でも明るいビル群と街灯。何よりも、生き生きとした笑顔で街を歩く領民たちの姿。それは、彼女の知る、活気は少ないものの穏やかだった侯爵領の姿とは全く異なる、未来都市のような光景だった。

そして、その全てを、たった一人の少年が長い年月をかけて築き上げたという事実。

 

「……あり得ない……」

 

ヒルダは自室の扉を閉め、思わず呟いた。あのルーカス坊ちゃまが、侯爵領にいる間も、隅々までを掌握し、改革を成し遂げていたというのか。そして、長年侯爵家を仕切ってきたダイアナ様を、合法的な手段で完全に打ち破り、屈服させたという。

 

(ダイアナ様と、クリスティアナ様が……)

 

エレノアが最後に語った、二人の和解の事実が、ヒルダの心を最も深く抉った。かつてダイアナ様は、クリスティアナ様に対し、嫉妬と憎悪にも似た感情を抱いていた。ヒルダはその背景をよく知っていた。キース侯爵がクリスティアナ様の天真爛漫な明るさに、自身の過去の葛藤やトラウマを照らされるような気がして遠ざけていた。ダイアナ様はその侯爵の関心が自身に向かないのを、全てクリスティアナ様のせいだと感じていたのだ。それらが複雑に絡み合い、ダイアナ様はクリスティアナ様への隔意を深めていった。その感情が、ルーカス坊ちゃまによって、力ずくではなく、「合理性」という名の武器によって、塗り替えられたというのか。

ヒルダは自室の椅子に腰を下ろし、冷たくなった両手で顔を覆った。彼女は、ルーカスという存在を、ただの生意気な子供と見なしていた。彼の冷徹な言葉は、無礼で、侯爵家の伝統を軽んじているとしか思えなかった。

 

しかし、エレノアが見せた映像と、彼女の言葉は、その認識がどれほど浅はかであったかを突きつけてきた。ルーカスはまだ幼かった3歳頃に侯爵領の改革に着手し、7歳で実権を握ると、ダイアナ様との対立を乗り越えて改革を進めてきた。そして、その数年間でその成果が王都にも知れ渡り、王位を狙う第二王子からの思惑もあって、現在、王都に招かれたのだ。

ルーカスがこの別邸に持ち込んだ魔導具や、厳重な警備は、彼の言う「乱世」に備えるための、『必要な措置』だったのだ。

 

(私は、侯爵家を、そして奥様を護るために、何をしてきただろうか……)

 

ヒルダは自問した。侯爵家の伝統を守り、日常の平穏を維持することに尽力してきた自負はある。しかし、それはルーカスが言うところの「効率化」とは真逆の、古き良き慣習に囚われた、停滞したやり方だったのかもしれない。

 

「私は……ルーカス様を、理解していなかった……」

 

彼女は、静かに、しかし確かな声でそう呟いた。この日から、ヒルダのルーカスに対する認識は、完全に改められた。彼が語る言葉の奥にある「決意」と、その「合理性」を理解しようと努めるようになった。

それは、長年侯爵家に仕えてきたメイド長としての、新たな『忠誠』の始まりだった。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

翌朝。ヒルダは、いつもより早く目を覚ました。ベッドから起き上がり、顔を洗うために洗面台へ向かう。そこには、侯爵邸の備品ではない、見慣れない魔導具が置かれていた。ルーカスが別邸に持ち込んだという、『ウォーターディスペンサー』だ。

銀色の円筒形の魔導具。エレノアは、これを「温水と冷水を瞬時に作り出す魔導具」だと説明していた。ヒルダは、恐る恐るその魔導具に手を伸ばし、使い方を思い出しながらレバーを引いてみる。すると、ゴトッという小さな音と共に、冷たい水が流れ出てきた。

 

(本当に、温かいお湯も出るのかしら……?)

 

内心でそう思いながら、今度はもう一つのレバーを引いてみると、温かい蒸気が立ち上り、適温のお湯が流れ出てきた。ヒルダは、その便利さに驚き、同時に、この魔導具一つにも、ルーカスが侯爵領で成し遂げた改革の片鱗が宿っていることを実感した。

朝食の席でも、彼女はルーカスが持ち込んだ『クックメーカー』や『自動洗濯機』のことを考えていた。それらは、ヒルダが長年培ってきた家事の技術を根底から覆す、驚くべき魔導具だった。

 

「メイド長、どうかされましたか? 少し顔色が優れないようですが……」

 

隣に座っていた若いメイドが、ヒルダの様子を心配して声をかけてきた。

 

「いえ、何でもありません。……ああ、そうだ。皆様に、お伝えすることがあります」

 

ヒルダは、食後のコーヒーを一口飲むと、毅然とした態度で立ち上がった。その表情には、昨夜までの困惑の色は消え、メイド長としての強い責任感が戻っていた。

 

「本日より、ルーカス若様が侯爵領から持ち込まれた、新たな魔導具の運用を開始します。使用人全員で協力し、その使い方を習得してください。エレノア様から指導を受け、効率的な家事の方法を確立するのです」

 

その言葉に、他の使用人たちはざわめいた。特に古参のメイドたちは、これまでヒルダがルーカスのやり方に反発していたことを知っている。

 

「メイド長、しかし、そのような真似は、侯爵家にとって不謹慎では……」

 

ある古参のメイドが、恐る恐る反論した。ヒルダは、その言葉を静かに遮る。

 

「不謹慎だと? ……私たちが、侯爵家の品位を守るために最も重要なことは何だと考えている? それは、侯爵家を、そしてそこで暮らす人々を、より良い未来へ導くことだ。ルーカス坊ちゃまが持ち込んだ魔導具は、そのための手段に過ぎない。これを使いこなすことは、侯爵家に仕える者としての、新たな義務となる」

 

ヒルダの声は、静かだが、強い説得力に満ちていた。彼女の表情からは、もはやルーカスのやり方への反発や、旧来の伝統への固執は感じられなかった。

 

その日の午後、ヒルダは自らエレノアのもとへ向かい、一から魔導具の使い方を教わることを申し出た。エレノアは、ヒルダの変化に驚きながらも、快く承諾した。

 

「まずはこの『タブレット端末』から始めましょうか、メイド長。これ一つで、侯爵邸内のあらゆる情報にアクセスし、管理することができます。ルーカス様が侯爵領で構築されたシステムを、この別邸でも応用していくのです」

 

ヒルダは、エレノアの言葉に静かに頷いた。彼女の瞳には、戸惑いながらも、新たな忠誠と、侯爵家を守るという強い決意の光が宿っていた。

 

 

ある日の夕食後、ルーカスは自室でタブレット端末に向かっていた。侯爵邸の財政状況を分析し、別邸の家事システムの最適化プランを練っている。彼の隣には、新入りのメイドが控えめに立っていた。彼女の名前はセリーナ。若く、物静かで、仕事ぶりは丁寧だが、どこか緊張した様子を隠せない。

 

「Alpha」

 

ルーカスは、内心でAlphaに問いかけた。

『承知。何用です、ルーカス?』

 

「家事の効率化について、このプランで問題はないか?」

 

『問題ありません。既存の労働力を削減しつつ、全体の生産性を向上させます。また、使用人全員が新たな技術に適応できるよう、教育システムを自動化プランを作成しました』

 

『良い判断だ、Alpha。…全く、感情というものは、情報戦においては、最大の脆弱性だな』

 

ルーカスは、ふっと笑みを浮かべた。彼の言葉の真意を理解できる者は、ここにはいない。

しばらくして、セリーナが冷たい水の入ったグラスを運んできた。彼女は、ルーカスの前の机にグラスを置こうとしたその時、不意に足を滑らせてしまった。

ガチャン!

グラスは床に落ち、冷たい水がルーカスの書類と、着ていたシャツにかかってしまう。セリーナの顔は、一瞬で青ざめた。

 

「ひっ……!申し訳ございません、ルーカス様!すぐに拭き取ります…!」

 

彼女は震えながら、床に膝をつき、ルーカスのシャツにかかった水を拭おうとする。その瞳には、恐怖と絶望の色が浮かんでいた。この世界の貴族社会では、このような粗相は、厳罰に処されるのが常識だ。

しかし、ルーカスは、静かに椅子から立ち上がると、濡れたシャツを掴み、ふわりと持ち上げた。

 

「随分と、前衛的なリメイクだな、セリーナ」

彼の声には、怒りの色など微塵もなかった。濡れたシャツを見つめ、どこか楽しそうに笑みを浮かべている。

 

「今回は許してやろう。だが、次はもう少し、俺の美的センスに沿うデザインにしてくれ」

 

その言葉に、セリーナは呆然とルーカスを見つめた。彼女が予想していた、怒鳴り声や厳しい罰は、どこにもなかった。その代わりにあったのは、冷徹な仮面の下に隠された、意外なほどの寛大さだった。

 

「さて、と。俺は着替えてくる。その間に、ここの掃除と、書類の乾燥を頼む。新しい機材を使えば、すぐに終わるはずだ」

ルーカスはそう言い残すと、自室を出ていった。セリーナは、その背中を見送りながら、まだ震えが止まらない。しかし、その瞳からは、恐怖の色は消え、代わりに困惑と、そして、かすかな安堵の光が宿っていた。

彼女の心の中で、ルーカスという存在は、冷徹で非情な少年から、まだ理解の及ばない、底知れない謎めいた人物へと変わっていった。

 

 

 

ルーカスが別邸に持ち込んだ魔導具の数々が、使用人たちの間に静かな波紋を広げていた。

 

最初は、ヒルダの厳しい指示にも、古参のメイドたちからは不満の声が上がった。「慣れないものを扱って、失敗でもしたらどうするんだ」「長年培ってきた作法が、まるで無意味にされるようだ」と。だが、ヒルダはルーカスの言葉と、侯爵領の未来を映し出した映像を胸に、彼らの反発を毅然と退けた。

 

「時代は変わります。侯爵家のため、私たちは新しい時代に適応しなければなりません。無駄をなくし、より効率的に動くことが、侯爵家への新たな忠誠となるのです」

 

ヒルダの熱意に押され、使用人たちは渋々ながらも、魔導具の扱いに挑戦し始めた。

 

 

最初にその便利さに気づいたのは、洗濯を担当していた若いメイドたちだった。かつては重い洗濯物を手で洗い、広い庭に干す重労働だったが、今では『自動洗濯機』がその全てをこなしてくれる。洗剤と水を入れるだけで、あとは魔力が自動で最適な洗浄と脱水を行い、干す際にはすでにほとんど乾いている状態だ。

 

「これなら、半日かかっていた洗濯が、あっという間に終わってしまうわ!」

 

「本当に!この空いた時間で、何をしたらいいのかしら……」

戸惑いながらも、空いた時間を持て余す使用人たちの様子を、ヒルダは複雑な面持ちで見守っていた。彼女自身、この変化にまだ完全に慣れたわけではなかった。

そんなある日の午後。ルーカスが廊下を歩いていると、中庭から楽しそうな歌声が聞こえてきた。普段は静かな中庭に響く、美しいハーモニー。ルーカスは、その歌声に足を止め、こっそりと様子を伺った。

 

中庭では、若いメイドたちが『自動洗濯機』を回している間に、楽しそうに手芸に興じていた。彼女たちの手は、侯爵家で使用するリネン類に刺繍を施したり、互いの髪飾りの飾りを編んだりしている。そして、その口からは、古い歌が自然とこぼれていた。

その光景に、ルーカスはわずかに目を細めた。そこにいたのは、彼が侯爵領で見た、活気に満ちた領民たちの姿と重なるものがあった。

 

「Hmph.無駄な労力は減らせたようだな。だが、遊びに興じる暇があるのなら、他の雑務を……」

 

ルーカスが呟きかけたその時、背後からエレノアが静かに声をかけた。

 

「ルーカス様。彼女たちにとって、このような時間は『無駄』ではございません。侯爵家で働く者たちの生活を豊かにし、精神的な余裕を生み出す。それもまた、侯爵家全体の生産性を高めるために、不可欠な要素です」

 

エレノアは、その穏やかな口調で、ルーカスの合理性とは異なる、人間の感情的な側面を説いた。ルーカスは何も言わず、ただ中庭の光景を見つめていた。その時、ふとルーカスに気づいたメイドたちが、慌てて歌うのをやめ、手芸道具を隠そうと散り散りになる。

 

「sigh……別に構わない」

 

ルーカスは、逃げ出すメイドたちに声をかけた。

 

「休憩時間くらい好きに過ごせ。いちいち咎めるつもりはない。むしろ、その技術で、侯爵家の備品をより美しく、価値のあるものに変えることができれば、それは立派な侯爵家への貢献だ。精々、励め」

 

彼の言葉は、いつものように冷徹で簡潔だったが、メイドたちには、それが咎めではなく、明確な『許可』であると伝わった。彼女たちは、安堵と喜びの表情で、再び手芸に戻る。

それから数日後。夕食後の談話室では、使用人たちが集まり、改革の恩恵について語り合っていた。

 

「『クックメーカー』は本当にすごいわ。あれのおかげで、調理時間が大幅に短縮されて、熱い火の前で何時間も立たなくて済むようになったもの!」

 

「『自動食器洗浄機』も同じです。あの大量の食器を洗う労力が、嘘のようになくなった。おかげで、今日は久しぶりに実家へ手紙を書けました」

 

「『自動掃除機』も素晴らしい。あれが侯爵邸中を綺麗にしてくれるから、私たちの体もずいぶん楽になったわ」

 

彼女たちの言葉は、戸惑いから始まった改革が、いかに自分たちの生活を豊かにしているかを物語っていた。そこにはもはや不満はなく、ただただ歓喜と、そしてルーカスへの感謝の念が満ちていた。

そして、その談話室の隅で、ヒルダは静かに微笑んでいた。ルーカスの『合理的』な改革が、使用人たちの心を豊かにし、侯爵家に新たな活気をもたらしている。この光景を目にし、彼女は改めて、ルーカスがこの別邸に持ち込んだ『変化』が、侯爵家にとって必要不可欠なものであることを確信した。

 

そして、その夜。ヒルダは、エレノアから使い方を教わったばかりの『タブレット端末』を使い、ルーカスへと短い報告書を作成していた。

 

『侯爵邸の家事システム改革、初動は順調に進捗しております。使用人たちの士気も高く、生産性向上に寄与すると確信いたします。つきましては、追加の魔導具の導入を検討いただきたく存じます。詳細なリストは追って提出させていただきます。メイド長、ヒルダ・ド・バルシアより』

 

彼女は、自分の名に「ド」の接頭辞を付けていたことに気づき、わずかに顔を赤らめたが、すぐにその表情を元に戻した。ルーカスの合理性を理解し、その改革に貢献することは、侯爵家に仕える者としての、新たな誇りとなったのだ。

 

 

(この家を護る……その責任は、私にもある)

 

ヒルダは、エレノアから預かっていたクインの餌の準備へと向かった。

クインは、普段はルーカスや海兵隊員以外の者には、僅かな警戒心を向ける忠実な獣だった。しかし、ヒルダが専用の自動給餌器に高効率の栄養食をセットしていると、クインは静かに彼女の足元に座り込み、その大きな瞳でヒルダを見上げた。

 

「ルーカス様がお帰りの際には、もっと太っていなくてはなりませんよ」

 

ヒルダは、そう言いながら、思わずクインの頭を優しく撫でた。クインは、それを受け入れ、満足そうに鼻を鳴らした。それは、言葉なき「群れ」への受容の儀式だった。ヒルダは、この可愛らしくも力強い護衛獣が、トレンス侯爵家の未来を象徴しているように感じ、胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。

 

 

別邸にルーカスが来てから、侯爵家の日常は劇的に変わった。魔導具による効率化は、使用人たちの生活にゆとりをもたらし、その変化は護衛にあたる海兵隊員たちにも波及していた。

訓練と休憩を繰り返す海兵隊員たちは、もはや別邸の「来客」ではなく、侯爵家を守る一員となりつつあった。彼らが給水や身支度で別邸に入ると、かつてのメイド長であるヒルダの指示で緊張していた使用人たちの顔も、今はすっかり和らいでいる。

ある日の午後。庭で軽食を摂っていた海兵隊員たちの近くで、若いメイドが同僚と話していた。

 

「あの海兵隊の方々、本当に凄い仕事ぶりだわ。いつも隙がなくて、でもどこか誇らしげで。まるで、私たちとは違う、もっと大切なものを守るためにいるみたい」

 

その言葉に、古参のメイドが頷いた。

 

「ええ。私もそう思います。でも、メイド長殿は仰っていたわ。ルーカス様の『合理性』は、私たち使用人にも、そしてあの海兵隊の方々にも、同じように向けられているのだと」

 

その時、給水のためにやってきた古参の海兵隊員が、その話に気づき、わずかに口元を緩めた。彼は、侯爵家で働くメイドたちが、自分たちと同じように侯爵家の未来を考えていることに、驚きと尊敬の念を抱いた。

 

そして、その日の夕食後。別邸の談話室に、使用人と隊員たちが自然と集まっていた。『自動掃除機』をどうすればより効率的に使えるか、という実務的な話から、侯爵領の昔話、そして海兵隊員たちが遠征先で出会った奇妙な出来事まで、様々な話題で盛り上がっている。

 

そこには、もはや身分や立場による垣根はなかった。それぞれの世界が交差し、互いを尊重し、支え合う新しい共同体が、この王都の別邸に生まれ始めていた。その中心には、常に冷静で、合理的で、そして何よりも侯爵家の未来を深く憂う一人の少年、ルーカスの存在があった。

 

 

 

 

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