第八十二話:秩序の城
王立総合学園の講堂は、古代神殿を思わせる荘厳な石造りで、その天井は遥か高く、日の光が巨大なステンドグラスを通して降り注いでいた。初秋の昼下がり、この地方特有の穏やかな気候の恩恵か、講堂内は真夏の熱狂から解放された澄んだ空気に満ちていた。その光は、王家の紋章や美徳を象徴する色鮮やかな模様を床一面に落とし、まるで計算し尽くされた舞台装置のようだった。数百人もの新入生が、それぞれの家名を背負い、緊張と期待、そしてわずかな恐怖に満ちた表情で席についている。
ルーカスは、その講堂の最前列近くに、まるで孤立した島のように陣取っていた。ここでも、彼の周囲には意図的な空間ができていた。周囲の貴族たちは互いに視線を交わし、扇や手で口元を隠しながら、小さな囁き声を交わしている。ルーカスの耳には、前世で培った鋭敏な聴覚が、彼らの言葉を正確に拾い上げていた。
「あれが、トレンス侯爵……随分と若いが、噂は本当なのか? 領地で何か異様なことをしているとか」
「ああ。たった数ヶ月で侯爵領を再建し、王都の商会すら手玉に取ったという。それに、あのアルバード様やエドモンド様の弟君だ……一体どんな奴なんだ」
ルーカスは、自らを品定めするような視線と囁きを、冷静なデータとして分析していた。彼らにとって、ルーカスは個人ではなく、彼の背後にある「トレンス侯爵家」という異質な存在の力を探るための純粋な好奇の対象でしかなかった。
(よく見ておけ。お前たちのような温室育ちには、俺が何者かなど理解できまい。俺の駒は、すでに舞台に配置済みだ。ここから先は、俺がルールだ)
彼にとって、それは興味深く、同時に退屈な観察対象だった。
やがて、講堂の壇上に、アメリア・フォン・グロースハイム伯爵夫人が姿を現した。彼女は、王族の血を引く者らしく、背筋が完璧に伸び、その立ち姿だけで講堂の空気を一変させた。新入生たちのざわめきは、瞬時に静寂へと変わる。彼女の登場は、一種の「儀式」であり、この学園の権威を物理的に示す行為だった。
王立総合学園の講堂に響くアメリア・フォン・グロースハイム伯爵夫人の声は、まるで精密に計算された音響魔術のようだった。厳かで、しかし感情の起伏をほとんど感じさせないその声は、新入生一人ひとりの心に、この学園の絶対的な権威を植え付けていく。
「ようこそ、ホーネリア王立総合学園へ」
「この学園は、ただの知識の器ではありません。建国より王家が代々育んできた、このホーネリア王国という広大な城を支える、礎を築くための場です。貴方たちには、その礎の一片となる義務があります」
ルーカスの脳内で、アメリアの言葉は即座に「翻訳」される。『王国=城』、『礎=生徒』。つまり、「この国というシステムを維持するために、生徒を規格化された部品として養成する場所」だ。
「貴族である貴方たちは、常に民の模範でなければなりません。その立ち居振る舞いは、常に優雅で、気品に満ちていなければならない」
(Hmph.『優雅』とは『既存の慣習から逸脱するな』という命令か。そして『民の模範』とは『家畜の管理方法を学べ』ということだろう。表面的な美辞麗句の裏に、徹底した支配構造が隠されている。笑えるな)
ルーカスは、彼女の言葉を冷静に分析し続けた。「優雅たれ」は「既存の慣習から逸脱するな」に、「民の模範」は「支配階級として、民を管理するための振る舞いを身につけよ」という命令に即座に変換された。
アメリアの視線は、講堂全体を包み込むように、そして有無を言わさぬ圧力を持って広がる。
「そして、この学園は、才能ある全ての若者に平等な機会を与えます。たとえ生まれがどうであれ、努力と才能によって、王国の礎となる道は開かれるでしょう」
この言葉は、形式的で、どこか当たり障りのない響きを持つものだった。ルーカスには、その言葉の裏に隠された真意が透けて見えた。それは「貴族が定めた枠組みの中で、有用な平民の才能を選別し、貴族社会への奉仕者として取り込む」という、搾取と支配の論理だった。
(Alpha、講堂内の魔力制御システム、特に音響魔術の周波数と出力パターンを解析しろ。この演説が、生徒たちの感情領域に与える魔力的な影響を測定せよ)
『肯定。対象:音響魔術システム。解析開始。データは「講堂管理記録」として保存します。感情領域への影響は、「忠誠心」の増幅と、「現状への疑問」の抑制を確認』
「この学園で学ぶ全てのことは、貴方たちの忠誠を試すものです。教師を敬い、学友と切磋琢磨し、そして何より、このホーネリア王国と、偉大なる王への揺るぎなき忠誠を心に刻みつけなさい。貴方たちは、この国が最も必要とする存在なのですから」
講話の締めくくりは、王国への忠誠と王への感謝だった。ルーカスは、その言葉を聞きながら、冷めた笑みを浮かべた。しかし、彼女の言葉一つひとつに隠された「歪み」と「矛盾」は、ルーカスの頭の中で明確なデータとして解析されていた。どこか見覚えがある。そうだ、『自由』という名の管理社会を説く、ディストピア文学の登場人物のようだ。
彼にとって、アメリア学長の言葉は、檻の中の動物たちに与えられる『自由』を説く、完璧な飼育係の声だった。ルーカスは、その言葉に潜む真実を見抜くと、心中で静かに呟いた。
「まるで『動物農場』だな」
彼は心の中で冷たい笑みを浮かべる。
「まあ、あちらは豚が人間になったが、こちらは人間が人間を家畜として扱う。皮肉なものだ。この学園の創始者はディストピアオタクだったのかもな」
彼はわずかに目を細め、自身のこれ迄を振り返り、僅かな自嘲の笑みをうかべた。
「...いや、俺のやっていることも似たようなものか。決済、納税、身分証明...そして極秘の監視機能。民の安全を守るための『必要悪』であり、同時に自由を制限する『鎖』にもなりうる。しかし、俺の『すばらしき新世界』は、『最大多数の最大幸福』を達成するための管理だ。彼らが与えるのは、支配者によって定義された『幸福』。俺が与えるのは、選択し、自ら道を切り拓くための『機会』。何より決定的な違いは、彼らが支配の過程で意図的に摘み取った最も重要な要素にある。それは、民が自ら『選択』し、自らの未来を『定義』するための『自由意志』だ」
ルーカスの瞳に、この世界の住人には決して理解できない、冷たい闘志が宿った。彼の目的は、この学園を舞台に、この世界の理を解き明かし、母を守ること。そして、その先にある、真に民が安全と自由を享受できる、『理想の新世界』を築き上げることだった。
同時刻。同じ講堂の、後方の席で。
軽薄な笑みを浮かべたヴェクター・ウィルソンも、壇上のアメリア学長を見上げていた。彼の周りには、武官の血筋が多いアルタイル寮への配属を期待する生徒たちが、すでに互いに興奮を煽りあい、熱狂的な空気を醸し出している。ヴァイスは、ルーカス様の改革で協力関係にある王都の商会、ウィルソン家の次男という偽装身分で、トレンス領での出自を完全に隠蔽していた。
アメリア学長が「このホーネリア王国という広大な城を支える、礎を築くための場です」と述べた瞬間、ヴァイスの瞳が一瞬鋭くなった。彼の頭の中では、学長の厳格な言葉が、特殊部隊としてのプロトコルに置き換えられていく。
(「礎」か。部品、モジュール、つまり消耗品と定義している。ルーカス様の読み通り、この学園は「人材工場」として機能している、と)
彼は、周囲の貴族の子弟たちの反応を、
前列には、目立ちたがりの大貴族の息子が、アメリア学長の言葉に深く頷き、隣の友人に優越感を示すように肘で小突いている。その傲慢さは、いずれ大きな弱点となるだろう。一方、少し離れた場所に座る小貴族の息子は、退屈と不満を隠しきれず、絶えず貧乏ゆすりをしていた。最初の駒として、あるいは情報源として、彼らをどう扱うべきか、ヴァイスの頭の中でシミュレーションが始まった。
「貴族である貴方たちは、常に民の模範でなければなりません。その立ち居振る舞いは、常に優雅で、気品に満ちていなければならない」
学長の言葉が響くたび、ヴァイスは内心で冷たい嘲笑を浮かべる。
(「優雅」とは、指定された行動パターンの遵守。「規律」と同義だ。そして「模範」とは、支配者としてのプロパガンダ。規律から外れたものは即座に排除される。この学園は、貴族の階級を強化するための高精度な「選別機」として設計されている)
彼は、学長の顔色や声のトーンの変化から、彼女がどのフレーズで最も優越感を抱いているかを分析した。それは、彼女の言葉の裏に隠された王家の権威が、最も純粋な形で現れる瞬間だった。
(彼女の視線が一番熱いのは、「王への忠誠」ではなく、「貴族の義務」を語る時だ。つまり、学園が最も重視するのは「階級制度の維持」。これこそが、このシステムの中核にある
彼の脳内で、この講堂全体が、情報収集のための三次元マップとして確立されていく。彼は、任務成功のため、あくまで軽薄なウィルソン家の次男として、興奮したふりで周囲に視線を投げ返した。
アメリア学長の講話が終わり、講堂の荘厳な空気がざわめきに変わる。生徒たちは一斉に、壇上の横に設置された巨大な魔道具、すなわち光の文字を映し出す投影板へと視線を向けた。教員が杖を振るたびに、光の文字が次々と現れ、各生徒の名前と、所属する寮、そしてクラス分けの結果が表示されていく。
ヴァイスの偽装身分の名が表示された。
「ヴェクター・ウィルソン:アルタイル寮」
ヴァイスは、自身の偽装が成功したことを確認すると、口元に微かな笑みを浮かべた。
(よし。偽装身分での組み分けは完璧に成功した。武官の血筋が集まるこのアルタイル寮は、将来の王国の中枢を担う者たち、そして彼らの弱点や思想を把握するには、これ以上ない環境だ。この寮こそが、俺が情報と駒を集めるための最適な場所だ)
彼の頭の中では、すでにこのアルタイル寮という巨大なシステムを内部から掻き回すための計画が動き出していた。彼は、周囲の興奮した生徒たちに紛れ、冷徹に次の行動をシミュレートした。
ルーカスは、その光景を冷静に観察していた。彼の耳は、周囲の貴族の子弟たちの安堵と期待に満ちた囁きを拾っていた。
「よかった、俺はレグルス寮だ。父上も喜んでくれるだろう。これで将来も安泰だ」
「アルタイルか……まぁ、良しとしよう。父上も武官だからな。ここから上り詰める」
やがて、ルーカスの名が投影板に表示された。
「ルーカス・フォン・トレンス:ラスターバン寮」
彼の名が表示された瞬間、講堂のざわめきは一瞬止まり、そして再び、驚きと困惑を伴う大きな波となって押し寄せた。貴族の子弟たちは、困惑を隠せない。ラスターバンは、伝統的に魔術師や学術的な才能を持つ者が集まる場所であり、武官としての血筋が色濃いトレンス家とは全く異なる、異端児の集団と見なされていた。
ルーカスは、自身の名を確認すると、心の中でAlphaに最終確認を問いかけた。
(Alpha、この組み分けのアルゴリズムを解析しろ。俺をここに配置した真の意図は何だ)
『肯定。対象:王立学園の組み分けアルゴリズム。解析開始。結論:貴方のデータは、既存のいかなるテンプレート――血筋、才能、功績、政治的影響力にも当てはまらない、予測不能な変動要素として処理されました。よって、
彼の直感が正しかったことを知ると、ルーカスは、この学園が持つ矛盾と歪みを確信した。この場所こそが、彼にとって最も有用な情報と人材を得るための「隠された宝庫」であることを理解していた。彼は、まだ見ぬラスターバン寮の仲間たち、そしてこの学園が持つ秘密に思いを馳せ、ゆっくりと歩みを進めた。彼の瞳には、この世界の誰も理解できない、静かな闘志が宿っていた。
オリエンテーションが終わり、ルーカス達は、ラスターバン寮へと向かった。寮の建物は、他の二つの寮と比べて古く、蔦に覆われ、どこか閉鎖的な雰囲気を醸し出していた。秋風が窓辺の厚い蔦をかすかに揺らし、それは主流から外れた場所の、古びた隠れ家のようだった。
寮のロビーに集められた新入生は、ルーカスを除けば、魔法の研究に没頭する風変わりな貴族の子弟、手先の器用な平民、そしてどこか掴みどころのない雰囲気を持つ者たちばかりだった。彼らは皆、自分たちが「主流」から外れた場所にいることを自覚しているようだった。
やがて、白衣を纏った痩身の男が、疲れたような顔で現れた。彼の白衣は皺が多く、髪も無造作で、アメリア学長とは対照的に、権威への関心の薄さが滲み出ていた。彼の胸には、蛇の意匠が施されたバッジが光っていた。
「ようこそ、ラスターバン寮へ。私は寮長のセシル・ド・シュミットです」
彼の言葉には、アメリア学長のような威厳は微塵もなかった。むしろ、事務的で、早くこの面倒を終わらせたいという響きが強かった。セシルは、慣れた手つきで魔道具の投影板を操作し、寮の規則を映し出した。その際、彼は意図的に魔術を雑に扱い、一瞬、投影板の文字が歪む。彼自身が、この形式的なシステムを軽視しているサインだった。
「寮内や、後の授業で選択するクラスターについて、ここでは説明を省きます。詳細は各自、自室で確認してください。ただし、例外が一つあります」
セシルは言葉を区切り、一瞬の間を置いて、ルーカスに視線を向けた。その瞳の奥には、ルーカスが自覚している『異端』という事実を、的確に言い当てた者特有の、わずかな優越感と、嘲笑が、そしてすべてを諦めたような諦念の影が揺れていた。
「ルーカス・フォン・トレンス侯爵には、特別に一人部屋が与えられています。これは、彼が侯爵領の政務を担うという特例、そして……彼の、いささか『特異な才能』を考慮した結果です。他の生徒への配慮でもあります。...貴方のような奔放な才能には、規律の鎖など、最初から無意味なのでしょう」
セシルの最後の言葉は、誰に聞かせるでもない、彼自身の自嘲のようにも聞こえた。寮の他の生徒たちは、その言葉に興味深げにルーカスを観察する。
ルーカスは、セシルの皮肉に対し、冷たい目で彼を見返し、短い、しかし核心をつく返答をした。
「理解に感謝します。無意味な鎖は、いずれ解かれるべきものです」
ルーカスもまた、セシルが自身と同じく、この学園の檻の中で「自由」を求め、そして諦めた人間だと理解した。この特例は、一種の「檻」でありながら、ルーカスにとっては「猶予」であり、他から干渉されずに動ける『自由』でもあった。
(この檻の番人であるセシルは、どの程度までこのシステムの歪みを理解している?そして、どこまで協力者になり得る?……この男を味方につけるのは、さほど難しくはない)
ルーカスは、彼の異端性が学園に認められたことを確認すると、静かにその場を後にしようと立ち上がった。彼の顔には、この世界の『歪み』を解き明かし、母と領地を護るための、揺るぎない決意が宿っていた。
同じ頃、ヴァイスはアルタイル寮へと向かっていた。
アルタイル寮の建物は、騎士団の兵舎を思わせる機能的で重厚な造りだった。無駄な装飾はなく、全てが戦闘的な規律を体現していた。寮のロビーに集められた新入生たちは、熱気に満ちており、すでに互いを品定めするような視線を交わしている。彼らの多くは、武官の息子として、この寮に配属されたことを誇りに思っていた。
(ここが、忠誠心という名の鎖で繋がれた、王国の中枢を担う『家畜』たちの牧場か。ルーカス様が言っていた通り、この熱狂の裏には、支配と搾取の論理が深く根付いている)
ヴァイスは、軽薄な商家の次男の仮面の下で、冷徹な武装偵察隊員としての視線を走らせた。老騎士の寮長が重厚な鎧を鳴らして壇上に立つ。その瞬間、彼の脳裏で、寮長の立ち姿、その重心、そして周囲の柱や階段の位置が、三次元の戦闘プロファイルとして構築される。
彼の任務は、この熱狂の渦の中心に入り込み、選択クラスターの情報、そして重要人物のプロファイルを、誰よりも早く手に入れることだ。
(まずは、情報網の最初の駒を見つけ出す。この熱狂に溺れず、しかし規律に忠実な者、あるいはその規律に不満を持つ者。さあ、学園という舞台裏で、どれだけ面白い真実が転がっているか見せてもらおうか)
彼の顔には、軽薄な商家の次男の仮面の下に、冷徹な特殊部隊員の、静かな闘志が宿っていた。ルーカスという、この世界で唯一彼の真の価値を理解してくれる主のために、この学園という巨大なシステムを内部から掻き回してやろうと決意していた。
ヴァイスは、アルタイル寮のロビーを見渡し、すぐに最初のターゲットを見定めた。
彼は、熱狂的な集団からわずかに距離を置き、壁にもたれて腕を組み、周囲を観察している、すらりとした体躯の少年だった。彼の制服は完璧に着こなされているが、その視線には、周囲の単純な興奮に対する冷めた軽蔑の色が潜んでいる。
(あの孤立ぶり、そしてあの観察眼。規律には忠実だが、熱狂には与しない。情報収集の初期の駒として理想的だ。武官の家柄の出だが、単なる脳筋ではないと見た)
ヴァイスは、瞬時に頭の中で「ヴェクター・ウィルソン」という商家の次男の性格をオーバーレイする。陽気で、計算高いが、表面上は軟派で誰とでもすぐに打ち解ける、情報通の貴族の友人。
ヴァイスは軽やかな足取りで、その少年に近づいた。口元には、いかにも他愛のない、しかし貴族社会の社交の場では歓迎される、親しみやすい笑みを浮かべて。
「ご機嫌よう、
少年は、不意にかけられた声に、わずかに不快そうな表情を浮かべ、ヴァイスを見上げた。
「……何用だ、貴様は」
「ヴェクター・ウィルソンと申します。見ての通り、武官の血筋とは無縁の、王都の商会ウィルソン家の次男でございます。正直、このアルタイル寮に放り込まれたのは、父の妙な野心のせいでして」
ヴァイスは恭しく会釈し、肩をすくめてみせた。
「旦那様は、この熱狂にお乗りではないようだ。皆、この館に席を得ただけで、天啓でも受けたかのように騒いでいるというのに。まるで、この格式が退屈だとでも言いたげな眼差しだ」
ヴァイスは相手の観察眼に訴えかけるように問いかけた。少年は、ヴァイスの言葉に一瞬驚き、そして警戒を少し緩めた。
「……君は、なかなか面白い見方をする。僕は、クレメンス・ド・ノイマンだ。ノイマン子爵家の長男だ」
「クレメンス様ですね。覚えておきます。それで、クレメンス様。貴方はなぜ、皆の熱狂を冷めた目で見るので?」
クレメンスは、再び周囲に視線を走らせ、かすかに鼻を鳴らした。
「見るがいい。彼らは、この古き良き『格式』という名の鎧を纏っただけで、満足している。我らが学園が真に求める『才知』や『実戦の機微』について考える者など一人もいない。ただ、父祖の功績に胡坐をかき、『騎士の誇り』という甘い夢に浸っているだけだ。彼らは、せいぜい槍を振るう歩兵の棟梁にはなれても、国を動かす将の才を磨く気概がない」
ヴァイスは内心で舌を打った。
(予想以上だ。彼はシステムの歪みと、それに付随する機会の喪失を理解している)
「なるほど。それは実に興味深い。では、クレメンス様は、この学園で最も重要視すべき『機微』は何だとお考えですか?」
ヴァイスは、声を潜めて、まるで秘密を共有するかのように尋ねた。
クレメンスは、ヴァイスの「機微」という言葉に反応し、少し前のめりになった。
「この学園は、貴族の『血の質』を磨き、王国の支えを育成する場だ。しかし、その過程は選別と階級の強化に他ならない。『誰が』『
「もちろんですとも。商売も、領地を治めることも、知恵と実利がなければ成り立ちません」
ヴァイスは、満面の笑みで頷いた。
「クレメンス様、貴方の視点は最高だ。俺は武官としての経験はないが、情報収集と、必要な場所にモノを動かすことには長けている。これから、色々と『機微』を共有し、この退屈な館を、もう少し面白い場所に変えませんか?」
クレメンスは、ヴァイスの軽薄な笑みと、その裏にある鋭い目つきを交互に見た後、フッと笑った。
「悪くない提案だ、ヴェクター。君のような異分子は、このアルタイル寮にはいない。市井の情報を得られるのならば、この騎士団の子弟たちが持つ、古めかしい情報を交換しよう」
ヴァイスは、心の中で、最初の駒の獲得を確信した。
「話は決まりだ、クレメンス様。では後ほど部屋に案内してもらいましょう。そして、夜にはこの寮の『真の機微』について、じっくりお話をしましょう」
ヴァイスがクレメンスとの会話を終え、再びロビー全体を見渡したとき、彼の視線は次に、別の孤立した人物に向けられた。
それは、中央の集団から離れた、窓際に立つ少女だった。彼女は、エリザベート・ド・バルフォア。王室騎士団の上層部、バルフォア侯爵家の娘だ。
(事前情報通り、エリザベート・ド・バルフォア。騎士団への強い憧れを持ちながら、女性という理由で伝統的な教育の枠に押し込められようとしている。性格は直情的で裏表がない。つまり、規律への不満を抱えた、最も利用しやすい跳ねっ返りだ)
彼女は、周囲のざわめきに全く関心を示さず、腕を組み、苛立ちを隠せない様子で窓の外を睨んでいた。彼女の顔立ちには、騎士団の血筋らしい凛々しさがあり、その立ち姿は優雅さよりも頑丈さを思わせた。
ヴァイスは、口元に親愛の情を示す笑みを浮かべ、軽やかな足取りで彼女に近づいた。その身のこなしは、女性への敬意を払うよう、やや大仰で気障ったらしく振る舞う。
「やぁ、
エリザベートは、突然の呼びかけに、不機嫌そうな顔でヴァイスを振り返った。
「ん?……突然何用だ? 軽々しい奴だな」
「おや、これは失敬。ウィルソン家のヴェクターと申します。バルフォア家のエリザベート嬢ですね? 随分とご不満そうでしたので。この寮に来られて、皆は歓喜に湧いているというのに。まるで、この場所が牢屋だとでも言いたげな顔だ」
エリザベートは、ヴァイスの言葉に一瞬、険しい表情を緩めた。彼女の直情的な性格から、本質を見抜かれることに、むしろ親近感に近いものを感じたのだ。
「余計なお世話だ。まあ、君の言う通り。ここが『精鋭が集う館』だというなら、もっと剣の音が聞こえてくるべきだろう。こんなお上品な騒ぎは、性に合わない」
「だろうな」ヴァイスは頷いた。
(やはり、彼女が求めているのは実戦だ。ルーカス様の計画にある実戦訓練の機会をちらつかせれば、協力者として使えるかもな)
ヴァイスは、少し声を潜め、親しみを込めて言った。
「エリザベート嬢。一つご忠告を、軽々しく他人の心を探るのは、関心しない。だが、君の背筋は、そこらの軟弱な男よりよっぽど騎士のそれだ。騎士団長の娘なのに、この寮にいる誰もが浮かれている中、君だけが苛立っている。それは、君が『女性だから』という檻に入れられているからじゃないでしょうか?」
エリザベートは、ヴァイスの指摘に、思わず目を見開いた。彼女の不満の核心を、初対面の男に、それも商家の次男坊に言い当てられたことに、驚きを隠せない。
「……君は、面白いことを言う。私は、父上の名に恥じぬよう、騎士になりたい。だが、周りは伝統だのしきたりだの、うるさいばかりだ」
「伝統は、時として進歩の足枷になる。このアルタイル寮には、優秀な武官の子弟が集まっているが、そのほとんどが古い価値観に囚われている」
ヴァイスは、彼女の目を真っ直ぐに見返した。
「君の騎士への熱意と、この寮の古い規律への反発は、価値がある。俺は、王都の商会という情報と実利の繋がりを持つ。君の目と不満は、この学園の裏にある真の権力構造と新しい時代の戦術を知るための、最良の武器になる」
エリザベートは、腕組みを解き、挑戦的な笑みを浮かべた。
「ふざけた男だな。だが、悪くない。お前の情報とやらが、私の『騎士への道』を邪魔しない限り、協力してやる。君の野心と私の目的。どちらが先に達成されるか、勝負だ」
「承知した、エリザベート嬢。最高のパートナーシップだ。さあ、まずはこの退屈なロビーから抜け出して、二人きりでじっくりと『戦略』を練ろうじゃないか」
ヴァイスは、内心で冷たい勝利の笑みを浮かべた。これで、アルタイル寮の二つの鍵を手に入れた。クレメンスは知恵の鎖を、エリザベートは不満の鎖を握っている。彼の頭の中では、学園という巨大なシステムを内部から掻き乱すための計画が、加速していた。