剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第八十五話  それぞれの秩序

 

第八十五話:黄金の庭園にて

 

 

 

入学歓迎パーティーの会場である「黄金の庭園」は、その名の通り、夜の帳が降りた庭園全体が、魔道具のランプの光で黄金色に染め上げられていた。

生徒たちが寮ごとに整然と並び、入場を待っている。レグルス寮の生徒たちが先頭に立ち、中へと入っていく。その時、会場の入り口に、王都の貴族たちが固唾を飲んで見守る中、王立総合学園の学園長であるアメリア・フォン・グロースハイム伯爵夫人が姿を現した。

彼女は、壇上に上がると、一瞬でホールの喧騒を鎮めるほどの威厳を放った。彼女の視線は、生徒たち、そして会場に集まった全ての貴族を静かに見渡した。

 

「皆さん、ようこそ、王立総合学園へ。そして、この入学歓迎パーティーへ」

 

アメリアの声は、マイクもないにもかかわらず、会場の隅々にまでクリアに響き渡った。

 

「この学園は、王国で最も優秀な才能が集う場所です。しかし、才能だけでは不十分です。私たちは、皆さんが、この学園で『真の貴族』となるための知識と教養、そして何よりも、『格式』を身につけることを期待しています」

 

彼女は、そう言うと、わずかに口角を上げた。

 

「このパーティーは、皆さんが、学園で身につけるべき『社交のルール』を学ぶための、最初の機会です。この場の格式を重んじ、互いの身分を理解し、そして、決して忘れてはならない『貴族の義務』を、この夜に刻んでいただきたいと願っております。それでは、短い時間ではございますが、この夜を存分にお楽しみください」

 

アメリアは、そう締めくくると、静かに壇上を降りた。彼女の言葉は、まるで全ての参加者に対し、この場の「ルール」を再確認させるためのものだった。そして、そのルールから逸脱する者は、容赦なく排除されるという、冷たい警告のようでもあった。

 

彼の姿は、周囲の貴族の少年たちとは一線を画していた。彼らが華美な刺繍が施された燕尾服やフロックコートを身につける中、ルーカスが纏っているのは、至ってシンプルな濃紺のスーツだった。それはこの世界では馴染みのない、しかし仕立ての良さが一目でわかる、機能性と実用性のみを追求したデザインだ。ネクタイも同系統のネイビーブルーで統一され、胸元には控えめながらも光を反射する海兵隊のエンブレムが刻まれたタイピンが輝いていた。

ルーカスは、手袋をはめた手で、スーツの裾を整えた。彼の足元は、貴族の華奢な革靴ではなく、彼の歩幅に合わせた、軽量で頑丈な軍用ブーツを模した革靴。裾は、前世で慣れ親しんだように、ブーツの履き口を隠すように被せられている。それは、いついかなる時も戦闘態勢にあるという、彼の無意識の意識を象徴していた。

彼の琥珀色の髪は完璧なオールバックに整えられていたが、右の目の横には一本の髪が意図的に垂らされていた。まるで、完璧な仮面の下に隠された、彼の人間的な一面をわずかに覗かせているかのようだった。

そして、彼の袖口には、特別なカフスボタンが輝いている。それは、この世界のいかなる宝石とも異なる、漆黒の輝きを放つ、見慣れない素材でできていた。その表面には、一見するとただの幾何学的な文様にしか見えないが、微かに魔力的な光を放つ魔術回路が刻まれていた。これは、彼がAlphaの支援を受けて開発した、護身用の魔導具の一つだった。

 

 

ルーカスは、騒がしい会場の入り口で、静かに視線を巡らせた。会場内は、既に社交の場として機能し始めている。笑い声と挨拶が飛び交い、甘い香りが漂っていた。彼の耳は、貴族たちの噂話、そして権力と地位に関する囁きを正確に拾い上げていた。

 

(まずは状況確認だ。誰がどの派閥に属しているか、人間関係の地図を作成する。そして、俺の計画に必要な人材を探す)

 

彼は心の中で呟いた。教師が言った通り、このパーティーはすでに戦場だ。彼は、その戦場で、最も効率的な勝利を目指す指揮官のように、静かに、そして鋭い視線を放っていた。彼の目的は、パーティーを心から楽しむことではなく、この世界を掌握するための最初の「作戦」を遂行することだった。

 

 

 

その夜、ヴィンセント・ヴァレンティンは、ルーカス・フォン・トレンスの動向に神経を尖らせていた。彼が王都に到着して以来、ヴィンセントは配下の諜報員を動員し、彼の監視を続けていた。しかし、結果は惨憺たるものだった。

監視員は、誰も彼に近づくことすら叶わず、まるで透明な壁に阻まれているかのようだった。

 

「どういうことだ? また追跡を振り切られた? 監視を気づかれただと?」

 

報告を受けるたびに、ヴィンセントは苛立ちを隠せなかった。彼の部下は精鋭中の精鋭だ。それが、トレンス侯爵家の若造一人に、手も足も出ないというのだ。

 

「いいか、フォン・トレンスは危険な男だ。王国の秩序を乱す『異端』かもしれない。このまま放置すれば、王国は…」

 

彼の心は焦燥で満たされていた。ルーカスは、自らの計画を着々と実行している。それを阻止しなければならない。

 

「…いや、待て。直接、この目で見なければならない」

 

 

彼は、パーティー会場の入り口で、ルーカスの姿を探した。周囲の華美な貴族とは異なる、質実剛健なスーツを纏った男。彼の姿は、まるで夜空に浮かぶ星のように、いや、まるでこの世界には存在しない物体のように、異質な輝きを放っていた。

 

「あの男が…」

 

ヴィンセントは、意を決してルーカスへと近づいていく。そして、彼とルーカスの目が合ったその瞬間、ヴィンセントの心臓は、まるで氷を掴まれたかのように冷たくなった。

その瞳は、見慣れない素材のカフスボタンと同じ、深淵の闇を湛えていた。そして、その瞳の奥には、すべてを見通すかのような、冷徹な光が宿っていた。

 

(こいつは、俺の監視を、全て知っていた…!)

 

ヴィンセントは、額に冷や汗が伝うのを感じながら、口角を上げた。

 

「もしや、トレンス侯爵家の御子息でいらっしゃいますか?お噂はかねがね。私はヴァレンティン伯爵家の子息、ヴィンセントと申します。入学おめでとうございます」

 

彼の声は、表面上は穏やかだった。だが、その胸中では、嵐が吹き荒れていた。

 

「最近、トレンス侯爵領は、素晴らしい輝きを放っていると評判ですが、何か新しい魔術の研究でも?」

 

彼は、ルーカスに探りを入れる。それが、彼に与えられた任務であり、そして、彼自身の存在証明でもあった。

ルーカスは、差し出されたヴィンセントの手を、迷いなく握った。彼の掌は、見た目に反して、鍛え上げられた剣士のような硬さがあった。ルーカスは、一瞬だけ視線をヴィンセントの瞳に向け、そして、わずかに口角を上げた。

 

「ご丁寧にどうも。ええ、おかげさまで。ただ最近、その『光』に惹かれてか、どうにも蛾が多くて閉口しています。夜になると、どこからともなく飛び回るものだから、集中もできません。…昨夜は13匹も見つかりましてね」

 

ルーカスの声は、他の貴族たちと話す時よりも、わずかに冷たく、そして明確だった。その言葉には、誰にも聞こえない、二人にしか通じない周波数が乗っているかのようだった。

 

(…13匹…私を含めた全員か…)

 

「それはお困りでしょう。しかし、ルーカス様のような聡明な方が、たかが蛾ごときに煩わされるとは。一掃されてはいかがです?」

 

ヴィンセントは、ルーカスの言葉の裏にある意味を瞬時に理解した。彼は、ルーカスがすでに自分の監視を察知し、それを「蛾」という言葉で嘲笑っていることを悟った。だが、ここで引くわけにはいかない。彼は、さらに踏み込んで探りを入れた。

 

「そのつもりですよ。今度は、巣ごと根絶やしにしてしまおうかと考えています。迷惑なものは、根っこから断たなければなりませんからね」

 

ルーカスの返答は、ヴィンセントの予想を上回るものだった。彼は、自身の諜報ネットワークを「巣」と呼んだ。そして、それを「根絶やしにする」とまで言い放った。ヴィンセントの額に、再び冷や汗が伝う。この男は、単なる貴族の子息ではない。この国の法に反してはいないが、貴族社会の暗黙の習慣を嘲笑っている。

 

「しかし、ルーカス様。失礼ながら、知識の誤りがございます。ご存知ありませんか? 蛾には巣はありません。彼らは、ただ葉の裏に、ひっそりと卵を産むだけです。根絶やしにするには、そういった場所から探す必要がありますが、それにはかなりの労力と、特別な情報が必要になるでしょうね」

 

ヴィンセントは、自分の情報を提示することで、ルーカスがどこまで知っているのかを測ろうとした。同時に、これは、王室の諜報機関が、葉の裏に潜む存在として、ルーカスを監視していることを暗示する言葉でもあった。

ルーカスは、その言葉を聞くと、青色の瞳の奥に、深淵の光を宿した。

 

「なるほど。ご教授感謝します。ええ、その情報は、すでに手元にあります。ですが、もし手間がかかるようであれば、一つ簡単な方法があります」

 

「簡単な方法、でございますか?」

 

ヴィンセントは、警戒しながら尋ねる。ルーカスの表情から、彼が何を言おうとしているのか、全く読み取れなかったからだ。

「ええ。周囲一帯、丸ごと焼き払ってしまえばいい。そうすれば、葉の裏に隠れた卵も、その葉を育てた土壌も、全てが等しく消え去る。確実でしょう?」

 

ルーカスは、一言一句、はっきりと、そして静かに言い放った。その言葉には、比喩を遥かに超えた、現実の戦力の示唆が含まれていた。会場の喧騒が、まるで遠い世界のことのように感じられた。ヴィンセントの表情が、初めて明確に硬直した。

 

「それは…ずいぶんと過激な発想で…」

 

この男は、これまで確認された限り、この国の法を犯していない。だが、我々が築き上げてきた秩序、そして暗部に潜む者たちのルールすら、一笑に付している。ヴィンセントの心に、深い不安と、同時に、奇妙な興味が植え付けられた。

 

「でしょう?ですが、無駄な労力を省くには一番ですからね。お互い、これ以上無駄な手間をかけずに済むといいのですが」

 

ルーカスは、再び穏やかな笑みを浮かべ、ヴィンセントに背を向けた。その姿は、まるで舞台の幕が下りた後のように、何もなかったかのような完璧な平穏を纏っていた。

 

(あの男は…本当に、やるつもりだ…!)

 

ヴィンセントは、その場に立ち尽くしていた。彼の脳裏には、ルーカスの言葉が何度も反響していた。「周囲一帯、丸ごと焼き払ってしまえばいい」。その言葉は、王室の安定を第一に考えるヴィンセントの心に、深い不安と、同時に、奇妙な興味を植え付けた。

 

ヴィンセントが硬直している中、ルーカスはふと足を止め、彼に振り返った。その表情は、先ほどまでの穏やかな笑みから一変し、すべてを見透かすような冷徹さを帯びていた。

 

「そういえば、一つ気になったのですが」

 

ルーカスは、ヴィンセントにしか聞こえないほどの声で続けた。

 

「あなた方、王室の影を担う方々は、王都の健康状態にまで気を配られているのでしょうか? 特に、最近広がり始めた『甘い香り』の出所とか。もしそうであれば、それは素晴らしいことです」

 

ルーカスが言う「甘い香り」が魔薬の隠語であることは、ヴィンセントもすぐに理解した。彼は、その「香り」の出所を掴もうと躍起になっていたからだ。しかし、情報が途切れ途切れで、核心に迫れないでいた。

 

「…それは…」

 

ヴィンセントは、言葉に詰まった。ルーカスは、そんな彼を鋭い視線で見つめた。その瞬間、ルーカスは、ヴィンセントの瞳の奥に、前世で幾度となく遭遇した、裏社会の境界線に立ち、静かに、しかし容赦なく踏み込んでくる者たちの、あの張り詰めた空気感を見た。それは、規律と任務に全身全霊を捧げた、熟練の麻薬捜査官や、非公式な作戦を遂行する特殊部隊員が纏うものだった。彼らの冷たい瞳は、表向きは穏やかでも、内側に燃える炎を隠している。ルーカスは、ヴィンセントの中に、まさにそれと同じ種類の"匂い"を嗅ぎ取ったのだ。

 

(こいつは情報将校やDEAにも近い空気があるな…存外、この国もまだ捨てたもんじゃないのかもな)

 

「もし、その甘い香りを振りまいている蜘蛛の対処に困っているのでしたら、私がその供給元を『飼いならして』差し上げましょうか? あなた方が私という些細な光に構っている間に、その甘い香りを振りまく蜘蛛が、王都中に巣を張り巡らせる前にね」

 

ルーカスの言葉は、ヴィンセントの頬を平手で叩くよりも、はるかに衝撃的だった。ルーカスは、自分たちが掴めていない情報を、すでに把握している。しかも、その供給元である裏社会の首魁を「蜘蛛」と呼び、まるで自らの掌の上で踊らせるかのように「飼いならす」とまで言い放った。ヴィンセントの心に、深い戦慄が走る。この男は、単なる貴族の子息ではない。王室の諜報機関が持つ情報網すら上回る、未知の力を手にしている。

ヴィンセントは、再び言葉を失った。彼の胸中には、任務の失敗を通り越し、自らの存在意義が揺らぐほどの衝撃が押し寄せていた。ルーカスは、彼の反応を見て、満足そうに微笑んだ。

 

「まあ、余計なお世話でしたね。では、私はこれで」

 

ルーカスは、今度こそ完全に背を向け、人波の中へと消えていった。ヴィンセントは、その場に一人取り残された。彼の脳裏には、ルーカスの冷徹な瞳と、魔薬の供給源を「飼いならす」という傲慢な言葉が、何度も反響していた。それは、ルーカスという存在が、王国の秩序を揺るがす「異端」であると同時に、自らの手では決して届かない高みにいる「怪物」であるという、深い畏怖の念を植え付けた。

 

 

 

 

ルーカスは、人混みを縫って進み、ホールの隅でグラスを手に取った。彼は、周囲の喧騒から一歩引いた場所で、学園の教師や、彼に興味を抱くいくつかの貴族と当たり障りのない挨拶を交わしていた。

その時、一人の少年が、ルーカスの会話に割り込むように、傲慢な態度で近づいてきた。彼は、ベルンハルト侯爵家の家紋を誇らしげに身につけ、その顔には、傲慢さとわずかな焦りの色を浮かべていた。彼の名はフォルカルト・ド・ベルンハルト。学園で最も優秀な生徒の一人として知られる、現生徒会長だった。

フォルカルトは、ルーカスと話していた貴族たちを、露骨に退屈そうな表情で見やり、彼らの会話を無視して、ルーカスへと顔を向けた。

 

「あなたが、トレンス侯爵家の御子息、ルーカス・フォン・トレンス殿ですね」

 

フォルカルトの声には、表面的な礼儀はあったものの、その奥には明確な敵意が隠されていた。ルーカスは、その敵意を正確に察知し、表情一つ変えずに彼を見つめた。

 

「…失礼ながら、どちら様で?」

 

ルーカスは、敢えてそう尋ねた。彼の言葉は、貴族の社交辞令としてはあり得ないほど無礼で、フォルカルトのプライドを正面から否定するものだった。フォルカルトの顔が、一瞬で怒りに染まった。

 

「ベルンハルト侯爵家が嫡男、フォルカルト・ド・ベルンハルトだ! あなたの家門が、我が家の事業を潰したにもかかわらず、その名を知らぬとは…!」

 

フォルカルトは、怒りに任せて身分を明かした。ルーカスは、そんな彼を、まるで愚かな子供を見るかのように冷たい視線で見つめた。

 

「はて?そのような記憶はございませんでしたが…つまり、私の事業が、少しばかり利益を出しすぎてしまったようですね」

 

「…どうやら、貴殿はこの貴族間のルールを知らないようだな」

 

フォルカルトは、怒りに震えながら、それを抑え睨みつけるように言った。ルーカスの家門は、彼の家門が長年かけて築き上げた、軍事関連の魔導具や資材の流通を、ルーカスの革新的な経済政策によって、たった数ヶ月で瓦解させた。その結果、ベルンハルト家の家計は傾き、フォルカルトは家族から「なぜ、トレンスごときに負けるのだ」と、罵られ続けていた。その屈辱が、彼の内心でマグマのように煮えたぎっていた。

 

「私は首席、生徒会長。学園の秩序は、全て先人が作り上げたルールによって保たれている。あなたのような辺境の野蛮人には、私の優秀さは理解できないでしょう」

フォルカルトは、自らの優位性を誇示するように言葉を続けた。彼の言葉は、ルーカスを貶めるための、幼稚な嫌味に満ちていた。

 

「この学園のルールは、すべて私が把握している。あなたのような、既存のルールを破壊するような異端者は、私の目の届く範囲で、徹底的に管理され、排除されるべきだ。理解できますかな?」

ルーカスの表情は変わらなかった。彼は、ただ静かにフォルカルトの言葉を聞き終えると、小さく息を吐いた。

 

「ベルンハルト殿」

 

ルーカスの声は、ひどく冷たかった。それは、まるで感情を持たない機械のようだった。

 

「あなたは、『ルール』という単語を、ひどく軽々しく口にしている」

 

「何だと?」

フォルカルトは、ルーカスの言葉に顔をしかめた。

「ルールは、その作り手が存在する限り、いつでも書き換えることができる。いや、厳密には、より効率的なルールが、古いルールを淘汰するのです」

ルーカスは、まるで教師が愚かな生徒を諭すかのように、淡々と言い放った。

 

「私がトレンス侯爵領で行っているのは、ルールの『書き換え』です。あなたの家門が、その新しいルールに適応できなかったのは、残念ながら、あなたの家門が『効率的』ではなかったというだけの話です」

 

ルーカスの言葉は、フォルカルトのプライドを根底から揺るがした。彼は、ルーカスの言葉の裏にある、冷酷な真実を理解した。自分たちの家門が傾いたのは、単なる運命や不運ではなく、ルーカスが持ち込んだ新しい価値観に、彼らが対応できなかったからだ。

 

「貴様…!」

 

フォルカルトは、怒りに震える。彼は、ルーカスを罵倒しようとした。しかし、ルーカスの次の言葉が、彼の声を完全に止めた。

 

「あなたのような、他人の成功に嫉妬し、自らの不幸を他人のせいにするような人間は、いずれ淘汰される。ルールがどうであろうと、あなたは、この世界で何も成すことができないでしょう」

 

ルーカスの言葉は、彼が最も恐れていた真実を突きつけた。フォルカルトは、怒りよりも、深い絶望と屈辱を感じた。ルーカスの言葉は、彼の存在そのものを、価値のないものだと断定していた。

 

フォルカルトは、自らの華美な燕尾服を、泥だらけの道化の衣装のように感じた。ルーカスの纏う、機能性のみを追求したスーツは、まるで彼にとっての戦闘服であり、自分は、その戦場で既に敗北を喫したのだと悟った。

 

「私に構っている暇はありませんよ、ベルンハルト殿。あなたは、まず、ご自身の価値を証明するために、私を上回る『何か』を成し遂げてから、私の前に立つべきです。でなければ、あなたは、永遠に私の『影』でしかない」

 

フォルカルトは、その場に立ち尽くしていた。彼の心は、ルーカスの冷徹な言葉によって、粉々に打ち砕かれていた。ルーカスは、彼に「影」という烙印を押したのだ。それは、彼の人生で最も深い屈辱となった。

 

その時、一人の少女が、フォルカルトの隣から、ゆっくりとルーカスへと歩み寄った。彼女は、オリビア・ド・エーデルライト伯爵令嬢。完璧な淑女の顔は、この場の混乱の中でも、一切崩れていなかった。

ルーカスは、彼女が近づいてくるのを、まるで予測していたかのように、静かに見つめていた。

オリビアは、ルーカスの目の前で、完璧な淑女の作法で深々と頭を下げた。

 

「ルーカス・フォン・トレンス様。この度は、私の婚約者が…、大変なご無礼を。心よりお詫び申し上げます」

 

彼女の声には、どこまでも澄んでおり、その言葉には、一切の感情の揺れが感じられなかった。しかし、その声の奥には、かすかな震えが隠されていた。

ルーカスは、その謝罪を冷たい瞳で見つめた。そして、まるで、その場に転がった石ころを避けるかのように、あっさりと返答した。

 

「ああ、頭を下げる必要はありません。貴女の謝罪は、完璧だ。だが、貴族社会の体面を保つために、貴女がそんな泥に塗れた相手の尻拭いをすることは、ひどく無駄なエネルギーに見える」

 

ルーカスの声は、皮肉に満ちていた。彼の言葉は、表面上はオリビアを擁護しているように聞こえるが、その真意は、彼女の婚約者であるフォルカルトを「傷を負う価値すらない存在」として貶めるものだった。そして、オリビアを「宝石」と呼ぶことで、彼女が彼にとって、ただの美しい道具に過ぎないことを暗示していた。

オリビアは、その言葉の裏にある意味を察し、わずかに顔色を変えた。

 

「あなたの完璧な作法は、本当に素晴らしい。それは、努力の証であり、貴族の矜持そのものだ。だが、その宝石の輝きを、泥で汚すような愚か者に、磨かれる価値はありませんよ」

 

「…私は…」

 

オリビアが、自らの心を晒すかのように、僅かに言葉に詰まった、その瞬間だった。

その時、一つの影が、オリビアとの会話に割って入るようにルーカスに近づいてきた。彼の顔には、怒りと、そして強い使命感が燃え上がっていた。その瞳は、まるで一点の曇りもない、絶対的な正義を宿しているかのようだった。

 

「ルーカス・フォン・トレンス、あなたですね」

 

ゼオンの声は、周囲の喧騒を掻き消すかのように、ただ真っ直ぐに、ルーカスへと向けられた。ルーカスは、その唐突な呼びかけに、僅かに眉をひそめた。見慣れない制服、そして、その顔には見覚えがあった。

 

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