第九話 街への誘い、試される忠誠
数日後。
あのダイアナとの「お茶会」の一件から、侯爵家の本邸は奇妙な静けさに包まれていた。ダイアナのルーカスとクリスティアナに対する嫌がらせは、表面的にはぴたりと止んだ。しかし、ルーカスは知っていた。それは嵐の前の静けさに過ぎず、より巧妙で、より陰湿な手が来る予兆だと。
だからこそ、彼は動く必要があった。とはいえ、連日繰り返される基礎訓練には、さすがのルーカスも少しばかり辟易し始めていた。今世での体はまだ幼く、訓練内容も彼の前世の経験からすれば物足りない。だが、ここで怠ければ、この非力な体で母を護るという目的を果たせない。そのジレンマが、彼を苛立たせていた。
ルーカスは書斎で、クリスティアナが読み聞かせてくれる物語に耳を傾けていた。柔らかな声と、温かい母の体温は心地よかったが、彼の思考は既に別の場所へと向かっていた。
(このまま屋敷に閉じこもっていても、新しい刺激はない。それに、この世界の現実を肌で感じる必要がある)
Alphaがルーカスの思考を拾う。
『現行のデータ収集範囲では、詳細な社会構造および文化情報は不足しています。フィールドワークを推奨します』
(ああ、分かってる。問題はどうやって、あの大層な護衛たちを、俺の意図する場所へ誘導するかだ)
彼はクリスティアナの顔を見上げた。白い髪が陽光に透け、赤い瞳は優しく細められている。
「母さん、今日、少しだけ街に出てみてもいいかな? 書庫の本だけじゃなくて、もっと色々なものを見てみたいんだ」
ルーカスは、目を輝かせながら訴えた。クリスティアナは少し驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「あら、ルーカスが自分からそんなことを言うなんて珍しいわね。いいわよ。でも、シェーラとミリアム、それにギルバードも一緒に行くのよ。危ないことは絶対にしちゃだめよ」
「うん、約束する!」
ルーカスは満面の笑みで頷いた。こうして、ルーカスの初の本格的な街への外出が決まった。
・・・・・
・・・
準備を整え、門をくぐると、そこにはシェーラ、ミリアム、そしてギルバードが待っていた。特にミリアムは、ルーカスの安全への配慮からか、いつも以上に厳しく周囲を警戒しているようだった。
「ルーカス様、街ではくれぐれも勝手な行動はお控えください。護衛の指示に従っていただきます」
ミリアムが釘を刺すように言った。ルーカスは内心で舌打ちしつつも、神妙な顔で頷いた。
(分かってるさ。今はまだ、ミリアムを刺激する時期じゃない。それに、身分差の問題もある。この世界のルールも確認しておかないとな)
街は、屋敷の中とは全く異なる顔を見せていた。トレンス侯爵家の領都として栄えるこの中心街は、王都ほどの規模ではないにせよ、活気に満ち溢れている。
石畳が敷かれた大通りには、木造や石造りの建物が軒を連ね、それぞれの店先からは、焼きたてのパンの香ばしい匂い、鍛冶屋から響く金槌の音、そして薬草の独特な香りが入り混じって漂ってくる。行き交う人々は多種多様だ。ヒュームが大多数を占めるものの、特徴的な耳を持つビーストの狩人たちが獲物を抱えて歩き、小柄で手先の器用そうなホビットが小さな細工物を売る店を広げ、屈強な体躯のドヴェルクが鉱物や金属製品を積んだ荷馬車を引いていた。
空を仰げば、魔力で輝く巨大な飛行船がゆっくりと進んでいくのが見える。街の各所には、魔力を動力源とする魔導灯が設置され、ガラス越しに柔らかい光を放っていた。行き交う馬車からは、微かに魔力の光が漏れ、魔導具がこの世界の生活に深く浸透していることを示していた。
ルーカスは周囲を冷静に観察していた。彼の目は、建物に使われている建材、人々の服装、そして彼らが手にする魔導具の一つ一つを、前世の知識と照らし合わせて分析していた。
(
『未確認の技術体系を多数確認。情報収集を開始します。魔力制御による生活インフラへの応用。動植物の生態系への魔力影響。従来の地球における技術水準との比較分析を開始』
(ああ、存分にやってくれ。コメディアンの仕事はお役御免だ。次は俺の番だ)
街は、ルーカスが想像していた以上に活気に満ちていた。石畳の道には、様々な露店が軒を連ね、商人たちの威勢のいい声が飛び交う。色とりどりの果物や、見慣れない魔道具、そして香ばしい焼き菓子の匂いが混じり合い、ルーカスの鼻腔をくすぐった。
(面白いな……魔道具の構造は、やっぱり Alpha の言ってた量子的な概念に通じるものがあるのか?あの空飛ぶ船…ジェットエンジンを詰んでる訳じゃない事は確かだが…風かなんかで浮いてるのか?それとも、別の原理か……)
ルーカスは、好奇心旺盛に周囲を見渡しながら、Alphaから得た知識で街の風景を分析していた。彼の瞳は、ただの子供の好奇心とは異なる、探求者のそれだった。
シェーラは、ルーカスの隣で静かに歩きながら、その青い瞳がただの好奇心で輝いているのではないことを感じ取っていた。街に満ちる様々な魔力の流れ、人々の活気、そして魔道具から放たれる微細な波動を読み取りながら、彼女はルーカスへ静かに問いかけた。
「ルーカス様は、この街のどのような点に特にご興味をお持ちでいらっしゃるのでしょうか? 魔導灯の光は王都ほどではないにせよ、なかなか見事な魔力の運用でございます」
ルーカスはシェーラの問いに、ちらりと視線を向けた。彼女が、自分の好奇心が単なる子供のそれではないことを見抜いていることを感じ取り、口元に微かな笑みを浮かべる。
「そうだね。この街の『活気』かな。そして、それを支える『力』の源が、興味深いかな」
彼の言葉は、子供らしからぬ深みを含んでいた。シェーラは静かにその言葉を受け止める。ギルバードとミリアムは、ルーカスとシェーラの会話の意図を完全に掴めずにいたが、ルーカスが珍しく興味を示していることに、安堵と同時に微かな困惑を感じていた。
ルーカスはそのまま数歩進んだ。彼の目は、街の喧騒の中、常に何かを探し求めている。
そんな折にふと、彼の耳に、普段の喧騒とは異なる、子供たちのひそひそ声と、不快な笑い声が届いた。ルーカスは眉をひそめ、そちらに視線を向けた。
街の中を流れる小さな川のほとり、人目につかない木々の影で、数人の子供たちが集まっていた。その中心には、見覚えのある顔があった。兄、アルバードとエドモンド。彼らは侯爵家の紋章が刺繍された上質な服を身につけ、護衛騎士と従者を従えている。彼らに取り囲まれているのは、年の頃ならアルバードと同じくらいだろうか、しかし質素な服を着た一人の少年だった。少年は小柄で、顔は土で汚れ、うつむいたまま震えている。
「おい、クライス。その魔道具、渡せって言ってんだろ? お前みたいな下民が持ってても、どうせ使いこなせないんだから」
アルバードが、足元に落ちた小さな木彫りの鳥の魔道具を蹴りながら言った。エドモンドも意地悪そうに笑いながら、少年の髪を掴んで引っ張った。
「そうだよ、クライス。僕たちに献上しなよ。どうせ、ろくなものじゃないんだから」
ルーカスの視線は、彼らを取り巻く護衛騎士へと向けられた。彼らはこの状況を見て見ぬふりをしている。嫌々ながらも、しかし、主人の意に沿うように、邪魔が入らないよう周囲を警戒しているようにも見えた。
(なるほどな。本邸の連中らしい。外でもやってるって訳か。飛んだクソガキ共だな…
ルーカスの心に、冷たい怒りが静かに燃え上がった。自分とクリスティアナに対する嫌がらせもそうだが、無関係な者を虐げる行為は、彼の
その時、顔を顰めながら、ギルバードがルーカスの耳元で小さく囁いた。
「坊ちゃん。お気持ちは分かりますが、あれは関わらない方が良い。面倒な事になりそうです」
ギルバードがそう言い終えるか否か、ミリアムが続くように口を開いた。
「ルーカス様。あちらにいらっしゃるのは、侯爵家のご子息方です。揉め事に首を突っ込むのは賢明ではありません」
ミリアムの言葉は冷静だが、その表情には微かな迷いが浮かんでいた。彼女もまた、この状況が不快であることは理解しているようだった。
ルーカスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。彼の脳裏に、先ほどのお茶会でのダイアナの歪んだ顔がフラッシュバックする。あの女が仕向けた、あるいは黙認しているであろう、こうした陰湿な嫌がらせの縮図が、今、目の前で繰り広げられている。
そして、ギルバード達の逡巡は、ルーカスにとって絶好の機会だった。彼は自身の護衛たちのプロトコルの優先順位を確認したかったのだ。自分と母の安全が最優先なのは当然だが、それ以外の場合、騎士たちはどこまで裁量を持つのか。そして、この「身分差」が、彼らの行動にどれほど影響を与えるのか。
ルーカスは、ギルバードの顔を見上げた。彼の瞳は、3歳児とは思えぬほど冷静で、深く、まるで彼らの忠誠と倫理を試しているかのように見えた。ミリアムは、ルーカスの視線を受けて、わずかに眉を寄せたが、やはり彼からの指示を待っていた。彼女はギルバードよりも規律を重んじ、自身の判断で余計な動きをすることは、まずない。
「ねぇ。あのお兄様方は何をしてるの?」
ルーカスの問いかけに、護衛たちは一様に言葉を詰まらせた。ギルバードは困惑したように視線を泳がせ、ミリアムは厳しい表情のまま口を開きかけるが、すぐに閉じてしまう。彼らはルーカスが何を意図しているのか測りかねているようだった。
「悪い事をしてるのかな?それとも遊んでいるのかなぁ?」
ルーカスの問いに、ミリアムは回答できなかった。貴族社会のしきたりでは、身内間の揉め事に他者が介入するのはタブーとされている。「民間人の保護」は騎士としての基本的な義務でもある。だが、相手は侯爵家の直系の嫡男と次男だ。続く葛藤にミリアムは拳を震わせていた。
そんな彼女の沈黙を、ルーカスは見逃さなかった。
『データ更新。
その時ギルバードはルーカスの前に、少し硬い表情のまま、進み出た。
「…坊ちゃん…いえ、ルーカス様。あちらの護衛騎士は、私の知り合いなので、確認して参ります。ミリアム、ルーカス様を連れて、お茶でもしてきてくれるか?」
(寄子が寄親に逆らう形になるな…まぁ、最悪俺の首で済むだろう……)
ルーカスは彼らの反応を冷静に、分析しながら、内心で舌打ちした。
(Humph.予想通り、躊躇したな。騎士達の行動原理は、これまでのデータと概ね一致する。貴族間の衝突を避けるという暗黙のプロトコルが、弱者の保護という明示的な騎士の義務に優先される傾向にある、と。この優先順位付けは、今後の俺の作戦立案において重要なデータとなる。さて、ならば、その腐った常識を、俺が変えてやる。貴族の都合より、民間人の命が重い。その『基本原則』を、このベビーシッターたちには、骨の髄まで染み込ませてやる必要がある。脳味噌に直接、俺の『愛を』を刻んでやるか)
だがそんな内心とは裏腹に、ギルバードに対して、ルーカスはにこやかに続けた。
「お兄様方とっても楽しそうだね!きっと、皆で遊んでるだよっ。ちょっと行ってくるね!」
突然のルーカスの豹変に、ミリアムとギルバードは驚きに固まってしまった。先程までの、試すかの様な視線は消え失せ、無邪気な子供のそれが宿っている。普段のルーカスからは想像だにしなかった、あまりに突拍子のない発言に、彼らは一瞬、どう反応すべきか言葉を失った。止める間もなくルーカスは駆け出し、あっという間に距離を詰めていく。
(さてと。俺の楽園を護るため、そして俺の計画のためには、少しばかりの『教育』が必要だな)
ルーカスは、川辺で震える見知らぬ少年と、彼を嘲笑う異母兄弟を交互に見やった。
(よぉし。今度はこいつらを突き落としてやる。その様子を、『誰か』に見させてやろうじゃないか。そして、ベビーシッターたちには、俺の『プロトコル』を叩き込んでやる)
ルーカスは、その小さな体で、音もなく異母兄弟へと近づいていく。彼の顔には、この状況を心底楽しんでいるかのような、無邪気な悪意が宿っていた。
ルーカスは、アルバードとエドモンドの背後へと回り込み、無邪気な笑顔を浮かべながら、彼らの背中をポンと押した。
「わっ!」
「きゃあっ!」
突然のことで、体勢を崩したアルバードとエドモンドは、そのまま川へと「不慮の事故」のように転落した。水しぶきが上がり、彼らの着ていた高価な服はあっという間にびしょ濡れになった。
二人はしばらくの間、冷たい水に呆然としていたが、すぐに怒りと不快感で顔を歪めた。
「あはは! ばいきんさんになった!」
ルーカスは心底楽しそうに手を叩き、指をさして笑った。しかし、その青い瞳の奥には、冷え切った計算が宿っていた。
「ねぇ、こんなところで遊んでたら風邪ひいちゃうよ? お家で大人しくしてなきゃダメだよ?」
ルーカスの言葉は、まるで純粋な子供が友人を心配するかのようだった。だが、その声には、冷たい警告が込められていた。護衛騎士たちは、泥だらけになった主たちを慌てて引き上げながら、ルーカスを警戒していた。水の中で泥だらけになったアルバードとエドモンドは、怒りと屈辱で顔を真っ赤にしてルーカスを睨みつけていた。
「このっ、無礼者! 何をするんだ貴様!」
「兄上! 寒い! 冷たいよ!」
アルバードは怒鳴ったが、ルーカスは知らん顔でニコニコと笑っている。まるで、ただの子供の悪戯であるかのように。
(この程度で、このモンキー共が改心するなどあり得ない。だが、少なくとも、ベビーシッターたちには俺の意図が伝わったはずだ。まずは一歩前進だな)
護衛騎士たちは、目の前で起こった「事故」にどう対処すべきか混乱し、呆然と立ち尽くしていた。ミリアムとギルバードもまた、ルーカスの予測不能な行動に、ただ沈黙するしかなかった。
ルーカスは、水に濡れ、がたがたと震える異母兄弟を睥睨しながら、2人の耳元ににソッと顔を寄せ、ほんの少し威圧を込めて囁いた。
「ふん。これで少しは分かったか?いや、お前らには、まだ早すぎるか。だが、せいぜい震えていろよ、クソガキ共」
冷笑と侮蔑を込めた表情を、笑顔で上書きしながらタっと、後ろにステップしてギルバードとミリアムの元に戻っていった。
アルバードとエドモンドは、冷たい水と泥にまみれ、屈辱で顔を歪めていた。特にアルバードは、怒りで全身を震わせ、ルーカスを血走った目で睨みつける。エドモンドは寒さと恐怖で、ただ震えるばかりだ。
「この、この! 無礼者め! 覚えていろよ、ルーカス!」
アルバードが汚れた手でルーカスを指差し、叫んだ。その声は、震えと怒りで上ずっていた。彼らの護衛騎士たちは、即座に主人の体を拭い、上着をかけるなどして対応に追われているが、ルーカスへの対処については混乱しているようだった。自分たちの主人が明確に「不慮の事故」を装って突き落とされたことを理解しながらも、侯爵家直系の子息に手出しすることはできない。かといって、この事態を黙認することもできない。彼らの間には、明らかに動揺と不快感が広がっていた。
「坊ちゃま、こちらへ! すぐに屋敷へ戻りましょう!」
護衛の一人が焦れたように声を上げ、アルバードとエドモンドを半ば強引に連れ去ろうとする。二人は不満げに顔を歪めながらも、抵抗はしなかった。彼らにとっては、この場から一刻も早く立ち去り、この屈辱的な状況を終わらせることが最優先だったのだ。
彼らがルーカスを睨みつけながら去っていく姿を、ルーカスは満足げな笑みを浮かべて見送った。その瞳には、彼らの怒りや屈辱が、まさに彼の狙い通りであることを示す光が宿っていた。
その光景を静かに見届けていたシェーラは、ルーカスの隣でそっと息を吐いた。
「ルーカス様……少々、刺激が強すぎたのではないでしょうか。ですが……お見事でした。彼らがしばらく、手出しを躊躇するほどの『楔』は打ち込まれたかと」
シェーラの言葉に、ミリアムとギルバードは息を呑んだ。シェーラがルーカスの行為を「悪戯」ではなく、「楔」と表現したことに、彼らの抱いていた漠然とした疑問が、明確な形を持って現れたかのようだった。
クライスと呼ばれた少年は、一連の騒動を呆然と見つめていた。
ルーカスはシェーラの言葉に満足げに頷くと、クライスのいる方へと視線を向けた。