剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第八十六話

 

第八十六話:論理の剣、秩序の天秤

 

 

その瞬間、一つの影が、オリビアとフォルカルトの間に割って入るようにルーカスに近づいてきた。彼の顔には、怒りと、そして強い使命感が燃え上がっていた。その瞳は、まるで一点の曇りもない、絶対的な正義を宿しているかのようだった。

 

「ルーカス・フォン・トレンス、あなたですね」

 

ゼオンの声は、周囲の喧騒を掻き消すかのように、ただ真っ直ぐに、ルーカスへと向けられた。ルーカスは、その唐突な呼びかけに、僅かに眉をひそめた。見慣れない制服、そして、その顔には見覚えがあった。

 

(…アレックスの報告にあった、フィアット子爵家の嫡男ゼオンか。まさか、この場で接触してくるとは)

 

「ええ、噂はかねがね。私の部下を殴りつけた、不躾なフィアット子息ですね」

 

ルーカスは、オリビアとの会話を中断させ、ゼオンの「正義」を真っ向から否定する言葉で応じた。ゼオンは、自分の行動がすでに知られていることに驚き、言葉を失う。

 

「それは…人道的に…!」

 

「人道的?…私には、貴方のように、相手の身分を顧みず、暴力を振るう行為が、いかなる人道に則ったものなのか、理解に苦しみますな」

 

ルーカスの言葉は、ゼオンの感情的な非難を、徹底的に論破した。彼は、ゼオンの「正義」という感情的な盾を、「貴族の作法」という最も強力な剣で打ち砕いたのだ。

 

「もし貴方が、その『正義』を主張したいのであれば、私との決闘を申し込むべきだった。貴族社会には、そのための『ルール』が存在します。しかし、貴方は、それを無視し、私の部下に不当な暴力を振るった。それは、この学園の、そして貴族社会全体の『秩序』を乱す行為です。私は、貴方のような人間を、この学園の『雑音』と認識します」

 

ルーカスの言葉は、ゼオンのプライドを粉々に打ち砕いた。彼は、自分が信じてきた「正義」が、ルーカスの言葉によって、無力で、偽善的なものへと変えられていくのを実感した。

 

「…話をすり替えないでいただきたい!私はあなたにリナさ…あの少女を…なぜ、あの少女をあのような危険な場所へ…!」

 

ゼオンは、怒りに震える声でそう言った。彼の言葉は、貴族社会の暗黙のルールを無視し、個人的な感情をむき出しにしていた。周囲の貴族たちは、その唐突な非難に、驚きと困惑を隠せない。

 

「…危険な場所? 申し訳ないが、私には言っている意味が分からないな」

 

ルーカスは、敢えてそう答えた。彼の言葉は、ゼオンの感情的な非難を、冷静に、そして事務的に撥ねつけるものだった。

 

「とぼけるのはやめてください!あなたは、彼女を貧しい路地裏から引きずり出し、まるで奴隷のように…!私は、あなたのような人間を許すわけにはいかない!」

 

ゼオンの言葉は、額面通りに「ルーカスがリナを奴隷にした」と決めつけていた。彼は、契約の重みや、リナの自立への意志を全く理解していない。彼の中では、「貧しい少女を助けようとした自分」と、「彼女を連れ去ったルーカス」という単純な善悪二元論が成立していた。

ルーカスの表情は変わらない。だが、彼の脳内では、ゼオンの言葉が即座に分析されていく。

 

(この男は…言葉の裏を読まない。自分の感情と、表面的な事実だけで物事を判断する。…無駄だな。話が通じない。この男は、俺が何を言っても、自分の価値観でしか物事を判断しない。まるで、異なるOSで動いている人間のようだ)

 

ルーカスは、かつて前世で、頑なにマニュアル通りの行動しかしない兵士や、非協力的な民間人と遭遇した時の感覚を思い出した。彼らは、決して悪意があるわけではない。しかし、彼らの思い込みや、話が通じない「異質さ」が、作戦の障害となることが多々あった。

 

「一つ、お教えしましょうか、フィアット殿」

 

ルーカスは、静かに言った。彼の声は、講堂の荘厳な空間に吸い込まれていくようだった。

 

「貴族である我々は、互いの行動に、余計な詮索をするべきではない。それが、この世界のルールです。そして、彼女は、自身の意思で、私と契約を交わした。それは、彼女の『選択』であり、私が与えた『機会』だ」

 

ルーカスは、敢えて契約という「ルール」を強調した。彼なら、この言葉でゼオンの行動を牽制できると踏んだのだ。しかし、ゼオンの反応は、ルーカスの予想を裏切った。

 

「機会だと? 彼女は、あなたの身勝手な傲慢によって、自由を奪われたのです!あなたのような人間は、いつか必ず、この学園のルールによって裁かれる!」

 

ゼオンの言葉は、ルーカスの理屈を全く理解せず、感情的な非難へと収束していった。彼にとって、「契約」も「ルール」も、彼自身の正義の前では、何の意味も持たなかった。

ルーカスは、その言葉に、小さく息を吐いた。

 

「つまり、私がその子供の意思を問わずを誘拐したと?それは、事実誤認だ。その子供は、飢えと寒さに震え、命の危機に瀕していた。私は、彼女に『生きる術』と『秩序』を与えただけだ。君は、命を救う行為を『誘拐』と呼ぶのか?」

 

ルーカスは、静かに、しかし明確にそう言い放った。彼の言葉は、まるで論理の迷宮のようだった。ゼオンは、その言葉に言葉を失った。ルーカスの言葉は、表面上は完璧な正論だった。

 

「…しかし…彼女は…!」

 

ゼオンは、言葉を継ごうとするが、彼の言葉は宙に浮いた。彼には、ルーカスの理屈に反論する言葉が見つからなかった。ルーカスは、そんなゼオンを、まるで愚かな子供を見るかのように見つめた。

 

「それとも、君の『正義』とやらは、飢え死にゆく子供を放置することなのか? 君の『正義』が、彼女の命よりも、君の体面を保つことだというなら、私は喜んで、その『正義』とやらを破壊しよう」

 

ルーカスの言葉は、ゼオンの心に突き刺さった。彼が信じていた「正義」が、ルーカスの言葉によって、無力で、偽善的なものへと変えられていく。ルーカスは、ゼオンの感情的な正義を、徹底的に破壊し、その存在そのものを否定したのだ。

 

「…っ、違う!そんなつもりじゃ…!」

 

ゼオンは、頭を振った。彼は、自分が何を言っているのか分からなくなっていた。ルーカスの言葉は、まるで彼の心を支配する魔術のように、彼を追い詰めていく。

 

「違う、だと? では、君は、彼女に何を与えられた? 暖かな家か? 満腹になる食事か?それとも、明日への希望か?何も与えられなかった人間が、何を与えられた人間を非難する資格はない。それが、この世界の『ルール』だ」

 

ルーカスの言葉は、ゼオンのプライドを粉々に打ち砕いた。彼は、自分自身の無力さを、これでもかというほど思い知らされた。ルーカスは、ただ論破しただけではない。ゼオンが信じていたすべてを、徹底的に破壊したのだ。

 

「では、私はこれで。あなたの善意とやらを、どうぞご自由になさってください。しかし、それが、あなたの正義の邪魔になることがないよう、お祈りしていますよ」

 

ルーカスは、そう言い放つと、ゼオンに背を向け、人混みの中へと消えていった。彼の背中は、ゼオンの怒りや、彼の抱える葛藤には、一切関心が無いことを示していた。

ゼオンは、その場に立ち尽くしていた。彼の心は、ルーカスの言葉によって、ひどく混乱していた。ルーカスの言う「ルール」や「契約」の意味が、全く理解できなかったからだ。彼の心には、ルーカスの冷徹な言葉と、そして、彼が持つ「異質さ」への深い恐怖が、刻み込まれた。

 

ルーカスは、ゼオンの「正義」を真っ向から否定する言葉で応じた。ゼオンは、自分の行動がすでに知られていることに驚き、言葉を失う。

その様子を、そばで見ていたフォルカルトは、胸中で怒りに震えていた。

彼は、ルーカスへの怒りを、ゼオンという「弱者」を罵倒することで晴らそうとした。

 

「…フィアット殿。あなたのような、下位貴族の分際で、この私の、そしてトレンス侯爵のような高位貴族の会話に割って入るとは。不躾にも程がある」

 

フォルカルトは、自らの屈辱を、ゼオンへの怒りにすり替えた。彼は、ルーカスに論破された自分自身の無力さを、ゼオンの無礼さという形で晴らそうとしたのだ。

 

「…黙れ!私は、あの男に…!」

 

「黙るのは貴方だ!私とあの男の会話に、貴方のような雑音は必要ない!この場を汚す前に、さっさと立ち去るがいい!」

 

フォルカルトは、そう言い放ち、ゼオンを追い払った。彼は、ルーカスに負けたプライドを、ゼオンという「弱者」を罵倒することで、かろうじて保とうとしていた。しかし、その行為は、彼の心がルーカスによって完全に打ち砕かれたことを、周囲に露呈させるものだった。

 

 

・・・・・

・・・

 

 

ルーカスは、グラスを片手に、ホールの隅で周囲を観察していた。彼の周囲には、常に数人の貴族令嬢たちが遠巻きに佇んでいる。彼女たちの視線には、好奇心と、そして明確な期待が宿っていた。トレンス家が持つ莫大な富と、ルーカスという謎に満ちた存在が、彼女たちの心を強く惹きつけていた。

その中で、一人の令嬢が勇気を出してルーカスの元へと歩み寄ってきた。彼女は、王都でも有数の商会を後ろ盾に持つ伯爵家の令嬢だった。

 

「ルーカス・フォン・トレンス様。このような場所で、お一人でいらっしゃるのはもったいないわ。よろしければ、一曲、いかがですの?」

 

彼女は、完璧な笑顔でそう言った。その瞳の奥には、ルーカスとのダンスを通じて、商会の新たなコネクションを築きたいという、打算的な計算が見え隠れしている。

ルーカスは、彼女の誘いを断らず、静かに手を差し出した。

 

「構いませんよ。ただし、私のダンスは少々風変わりですが」

意外な返事に、令嬢の顔がぱっと明るくなった。彼女は、ルーカスの手を取り、ダンスフロアへと向かった。

二人は、完璧なステップで踊り始めた。ルーカスの動きは、まるで精密機械のように寸分の狂いもない。しかし、その瞳には、楽しさや高揚感といった感情は一切見られなかった。彼は、踊りながら、令嬢の視線の動き、手のひらから伝わるわずかな汗、そして、彼女の心拍数の変化を、冷静に分析していた。

 

「まぁ、ルーカス様はダンスもお上手でいらっしゃるのね。噂とは違うわ」

 

令嬢は、そう言って、ルーカスの気を引こうとした。

 

「噂、ですか。噂は、常に事実に比べて、情報量が極端に少ない。情報が少ない状態で判断を下すのは、愚かな投資家のやることです」

 

ルーカスの言葉は、ダンスの優雅な雰囲気を一瞬で破壊した。令嬢は、彼の言葉の真意を理解できず、困惑した表情を浮かべる。

 

「おっしゃる意味が、よく…」

 

「例えば、貴女の家の商会は、最近、トレンス侯爵領との交易を増やすことに躍起になっている。貴女が私と踊りたいのは、貴女自身の気持ちではなく、家門の意向でしょう。私は、それを知っている。貴女も、それを知っている。それが、このダンスの『事実』です」

 

ルーカスは、そう言って、彼女の頬に流れる汗を、まるでサンプルを採取するかのように観察した。彼の言葉は、彼女の心の奥底にある秘密を、白日の下に晒した。

 

「それに…」

 

ルーカスは、ダンスの終わりに、彼女の耳元で囁いた。

 

「このダンスで得られた『データ』は、今後の交渉で、十分に活用させていただきます」

 

ルーカスの言葉に、令嬢は震え上がった。彼女は、まるでルーカスの手のひらの上で踊らされていたかのような、深い屈辱を感じていた。彼は、ダンスという『遊び』の裏で、彼女の家門の情報を抜き取っていたのだ。

ダンスが終わり、ルーカスは、優雅なレディに別れを告げるように、頭を下げた。彼の顔には、微かな満足感が浮かんでいた。それは、社交ダンスを楽しんだ満足感ではなく、良質なデータを手に入れた科学者のような満足感だった。

 

 

 

ルーカスは、再び人混みに紛れ、ホールの隅へと向かった。そこには、社交界の喧騒から一歩引いた、少しだけ静かな空間があった。彼は、グラスを手に取り、周囲の貴族たちを観察していた。彼らの会話、視線、身振り手振りから、ルーカスは既に、この社交界の力関係を把握しつつあった。

王都の貴族たちは、トレンス侯爵家の存在を、もはや無視できないものとして見ていた。侯爵領で生み出される安価で高品質な製品は、市場を席巻し、従来の商会を次々と潰していた。さらには、元ゴロツキや貧しい村の出身者たちが、ルーカスの実力主義によって要職に就いているという噂は、伝統を重んじる貴族社会に、善悪入り混じる感情を撒き散らしていた。彼らはルーカスを「恐ろしい革命家」と見なす一方で、その莫大な富と「有能」という力に、虎視眈々と近づく機会を窺っていた。

その視線を、ルーカスはまるでデータのように処理していた。

 

「──お待たせいたしましたわ、トレンス侯爵」

 

声のする方に顔を向けると、第二王子レオナルド・ブラン・ホーネリアと、その隣に立つアイリス・ユークリッド・アナリュティカ・ド・アークランド公爵令嬢が、まるで絵画のように完璧な佇まいで立っていた。

 

「レオナルド殿下、アークランド公爵令嬢」

 

ルーカスは、レオナルドの指示通り、形式的な挨拶を交わした。

 

「さあ、ルーカス。貴方とアイリスの婚約は、すでに王家も了承済みだ。この場は、二人の絆を、貴族たちに披露するのに最適な舞台だろう」

 

レオナルドは、ルーカスとアイリスが結びついたことで、自らの「最適解」が完成したと確信し、満ち足りた笑みを浮かべていた。

 

「光栄でございます、殿下」

 

ルーカスは、その言葉に完璧な笑顔で応じた。そして、レオナルドの視線から、「予定通りに進めろ」という無言の合図を読み取った。

ルーカスは、アイリスに手を差し出した。

 

「アークランド公爵令嬢。このような場所で、私の隣に立っていただけるとは。この場にいる全ての男性が、私を羨んでいることでしょう」

 

ルーカスの言葉は、貴族の社交辞令としては完璧だった。しかし、彼の瞳は、アイリスの思考を読み取ろうとするかのように、鋭く輝いている。

アイリスは、ルーカスの言葉の裏にある「知的なゲーム」の開始を察し、優雅に微笑んだ。

 

「お言葉、痛み入りますわ。わたくしこそ、貴方という『興味深い未知』の隣に立てることを、何よりも光栄に思います」

 

彼女は、ルーカスの手を取り、ダンスフロアへと向かった。二人がダンスを始めると、周囲の貴族たちは、一斉に彼らに視線を向けた。

 

 

(まさか、あのトレンス侯爵とアークランド公爵令嬢が…!)

 

(レオナルド殿下と、アイリス様。そして、ルーカス・フォン・トレンス。この組み合わせは、王国の未来を大きく変えるわ…)

 

 

彼らの視線は、羨望、嫉妬、そして畏怖に満ちていた。ルーカスは、その全ての視線を、まるで「データ」のように冷静に分析していた。

 

「…ところで、トレンス侯爵。貴方は、このダンスを、どのように定義なさいますか?」

 

アイリスは、完璧なステップを刻みながら、静かに問いかけた。

「定義、ですか。そうですね…貴女にとっては、私という『駒』の性能を試すための『実地訓練』、といったところでしょうか」

 

ルーカスは、皮肉を込めて答えた。

アイリスは、その言葉に、わずかに目を見開いた。彼女は、ルーカスが自分の意図を正確に読み取っていたことに、驚きと同時に、愉悦を感じていた。

 

「まあ、ご謙遜を。貴方のような『傑作』は、訓練など必要ありませんわ。ただ…」

 

アイリスは、ルーカスの耳元で、甘く、そして冷たい声で囁いた。

 

「…貴方の奥深くに隠された『真の知性』は、わたくしの探求心を満たすには、まだ足りないようですわ。この場に、私たちが楽しむに値する『娯楽』が、もう一つ、あればいいのに…」

 

彼女の言葉は、まるでルーカスが持つ「未知の力」を、この場で引き出そうとする挑発だった。ルーカスは、その言葉に、わずかに眉をひそめた。

 

「…ご冗談を。この場は、貴女の『知性』を満たすには、あまりにも『雑音』が多すぎる。それこそ、非効率的でしょう」

 

ルーカスは、周囲の貴族たちの視線と、彼らの放つ魔力の波動を指して、そう皮肉を込めた。彼の言葉の裏には、「この程度の雑音で、俺の力を引き出そうなど、馬鹿げている」という、傲慢な自信が隠されていた。

アイリスは、その言葉に、満足げに微笑んだ。

 

「ええ、その通りですわ。…ですが、わたくしは、この『雑音』すらも、貴方という『未知』を解き明かすための、重要な『ヒント』だと考えておりますのよ」

 

彼女の瞳は、ルーカスという存在を、まるで未解決の「方程式」のように、熱心に見つめていた。

 

ルーカスは、アイリスとの手を手袋を嵌めたまま、その手を無意識に握り締めた。

 

『解析完了。対象個体:アイリス・ド・アークランド。データ取得精度:42%。主要な思考波形は、「興奮」と「所有欲」に収束。戦略的な深度情報、過去の記憶領域へのアクセスは、極めて高度な魔力制御ノイズにより遮断。データの質は、予測通り低水準です』

 

(42%か。試作品の限界に加え、あの女の感情が高揚しすぎていた。あの高揚感は、まるで自ら発するホワイトノイズだ。こちらの技術をもってしても、表面の歓喜という信号しか拾えないとは――)

 

ルーカスは、自身の情報戦が、技術ではなく、相手の精神状態という不確定要素によって阻まれたことに、強い苛立ちを覚えた。

 

その時、ダンスの終わりを告げる音楽が鳴り響いた。ルーカスは、完璧なエスコートで、アイリスをレオナルドの元へと送り届けた。

 

「素晴らしいダンスでした、アイリス」

 

レオナルドは、満足げにアイリスを労った。

 

「ええ、殿下。トレンス侯爵は、期待以上の存在でしたわ」

 

アイリスは、そう言って、ルーカスに視線を向け、静かに微笑んだ。その瞳の奥には、「ゲームは、まだ始まったばかり」という、無言のメッセージが込められていた。

レオナルドは、ルーカスの肩に手を置き、満足げに頷いた。

 

「素晴らしい。今夜、私はこの王国で、最も『効率的』なパートナーを得た。二人の活躍を、楽しみにしている」

 

レオナルドは、そう言って、ルーカスとアイリスを、貴族たちの羨望の視線に晒したまま、その場を後にした。

ルーカスは、その場に一人立ち尽くしていた。彼の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。彼は、レオナルドという傲慢な男を、完全に騙すことに成功した。しかし、彼の脳内では、アイリスの言葉が反芻されていた。彼女の言う「ヒント」が何を指すのか、そして、彼女が持つ「未知の力」が何なのか、ルーカスはまだ知らなかった。

 

(…『ヒント』か。この女、本当に俺の力を知るための『鍵』を持っているのか…?…上等だ。ならば、貴女の『鍵』を、俺が先に奪い取ってやる)

 

彼の瞳の奥には、新たな「ゲーム」への静かな闘志が宿っていた。

 

 

アイリスとのダンスを終え、ルーカスがホールの隅へと戻ろうとしたその時、一つの影が、彼を呼び止めた。

 

 

「ルーカス!」

 

元気な声が、周囲のざわめきを切り裂くように響いた。ルーカスは、わずかに肩をすくめ、振り返る。そこには、白いドレスに身を包んだアンジェリカが、まるで舞い降りた天使のように立っていた。その隣には、顔色を青くした侍女のミリアリアが、深々と頭を下げていた。

 

アイリスは、その光景を、レオナルドの隣で静かに見つめていた。彼女の瞳は、ルーカスとアンジェリカの間に流れる、予測不能な『不合理』な空気を鋭く観察していた。

 

「ハートフィリア嬢、先程ぶりです」

 

ルーカスは、形式的な貴族の挨拶を口にした。しかし、アンジェリカは、その堅苦しい言葉を鼻で笑った。

 

「あら、ルーカス。せっかく会えたのに、またそんな堅苦しい話し方をするの? さっきはもっと楽しかったのに」

 

アイリスの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。ルーカスが自分とのダンスで見せた、感情を廃した冷徹な仮面が、アンジェリカの前では、まるで簡単に剥がされているかのようだった。

 

「…先刻のは、あくまでも『暇つぶし』です。ここでは、そうはいかない」

 

ルーカスは、周囲の視線に気づかれないように、わずかにアンジェリカに警告を発した。

 

(フフ…。面白い。この男、状況に応じて完璧な仮面を使い分けている。わたくしの前では『合理的』な顔を。そして、この少女の前では…)

 

「ふうん。でも、私、貴方のそういうところ、嫌いじゃないわ。まるで、猫が爪を隠しているみたいで」

 

アンジェリカは、そう言うと、ルーカスに一歩近づき、彼の耳元で囁いた。アイリスは、二人の距離が縮まるのを、冷徹な観察者の視点で見つめていた。彼女の瞳は、二人の間に流れる魔力の波動を分析し、ルーカスが微かに動揺していることを読み取っていた。

 

「ねぇ、ルーカス。さっき、貴方、ひどい顔で睨んでいたでしょう?まるで、怒っているみたいに。『お前の常識は、飢え死にゆく子供を放置することだというなら、私は喜んで、その常識を破壊しよう』って」

 

アンジェリカは指で目尻を釣り上げ、ルーカスがゼオンに言い放った言葉を、そっくりそのまま口にした。ルーカスの顔に、わずかな動揺の色が浮かんだ。

レオナルドは、そのやり取りを見て、満足げに頷いた。

 

「ルーカスは、我々の計画通りに動いている。アンジェリカ嬢を利用して、第一王子派閥に接近していると見せかけているのだろう」

 

レオナルドは、ルーカスの行動を、自身の「最適解」に完璧に組み込まれた駒の動きだと信じていた。

しかし、アイリスは、レオナルドとは異なるものを見ていた。

 

(…いいえ、殿下。あれは、演技ですわ。しかし…完璧な演技ではありませんわ。あの男は、驚いている。そして、動揺している。この少女は、彼の心の奥底に隠された、最も深い『感情』に触れたのですわ)

 

アイリスの瞳は、ルーカスとアンジェリカの間を、往復していた。彼女にとって、アンジェリカという「不合理」な存在は、ルーカスという「未知の存在」を解き明かすための、最高の『ヒント』に他ならなかった。

 

「…聞いていたので?」

 

ルーカスは、驚きを隠せないまま、そう尋ねた。アンジェリカは、にっこりと微笑む。

 

「秘密よ。でも、私は知っているわ。貴方の、本当の顔を」

 

彼女の言葉は、まるで彼の心を丸裸にするかのようだった。ルーカスは、これまで自分の感情を他人に悟られることを徹底的に避けてきた。しかし、アンジェリカという存在は、彼の完璧な防御網を、いとも簡単にすり抜けてくる。

 

「…君は、不思議な人間だ」

 

ルーカスは、そう呟いた。彼の声は、これ以上ないほどに戸惑いと、そして、かすかな温かさに満ちていた。

アイリスの口元が、愉悦に満ちた笑みに歪んだ。

 

(『不思議な人間』…ですって。フフ…。なるほど。この男は、自分自身が持つ『不合理』な要素を、まだ完全に制御できていない。そして、その『不合理』を、この少女は本能的に見抜いた。…この『雑音』は、わたくしの予測を、より高次元へと導くための、最高のデータになるでしょう)

 

彼女は、ルーカスの瞳に宿る、わずかな動揺と、そしてアンジェリカの無邪気な好奇心という、二つの相反する要素を、まるでパズルのピースのように組み合わせようとしていた。

レオナルドは、依然として、自身の勝利を確信している。しかし、彼の「最適化」された計画は、ルーカスという「不合理」な存在と、アイリスという「狂気」の探求心によって、すでに音を立てて崩壊を始めていた。彼の信じる「法」と「ルール」が、ルーカスという前世の軍人によって、冷徹に、そして効率的に利用され、彼の全ての権威を奪い去ることを、彼はまだ知らなかった。

 

 

アイリスとレオナルドが去り、ルーカスはホールの隅に一人、立ち尽くしていた。彼の脳内では、アンジェリカの言葉が反芻されていた。

 

(…『本当の顔』か。この女、一体どこまで俺のことを知っている?)

 

警戒心が再び頭をもたげた。しかし、その警戒心は、彼の心の奥底に眠っていた、ある種の懐かしさと温かさによって、かき消されそうになっていた。アンジェリカの無垢な瞳は、何処までも澄んでいた。

 

「ねぇ、ルーカス!私と踊ってくれるんでしょう?」

 

アンジェリカは、そう言ってルーカスの手を掴んだ。その手は、迷いも躊躇いもない、真っ直ぐな意志に満ちていた。ルーカスは、その純粋な力に、わずかにたじろいだ。

 

「ハートフィリア嬢…」

 

ルーカスは、貴族の作法に従って言葉を返そうとした。しかし、アンジェリカはそれを遮り、彼の目を見つめた。

 

「嫌だわ! 私、貴方と踊りたいの! 貴方が一番楽しそうな顔をするのは、ああいう…」

 

彼女は、先程の「タップ」ダンスを思い出しているようだった。

ルーカスは、ため息をついた。周囲の貴族たちは、第一王子派閥の公爵令嬢と第二王子派閥に接近するルーカスという、二つの相反する存在の動向を、固唾を飲んで見守っている。ここでアンジェリカと踊ることは、レオナルドの指示する「対立の演出」を、さらに強固なものにするだろう。

 

(…いいだろう。この場の『観客』たちに、最高の『見せ物』を提供してやる)

 

ルーカスは、そう心の中で呟いた。彼の口元に、冷徹な笑みが浮かんだ。彼は、アンジェリカの純粋な願いを、自身の目的を達成するための道具として利用しようとしていた。

しかし、その瞬間、彼の感情は、予想もしない方向へと動いた。

 

「…構いませんよ。ただし、私のダンスは、少しばかり、この場の格式とは違うものですが」

 

ルーカスは、そう言って、アンジェリカに手を差し出した。彼の声は、これまでの冷徹な声色とは少し異なり、どこか柔らかさを帯びていた。

 

アンジェリカは、ルーカスの言葉に、目を輝かせた。彼女は迷うことなくルーカスの手を取ると、彼のステップに合わせて、体を揺らし始めた。

 

それは、完璧な社交ダンスではなかった。オーケストラが奏でる優雅なワルツの旋律に、ルーカスの足音が、軽快な「タップ」のリズムを刻み始めた。それは、この世界には存在しない、全く異質な音楽だった。周囲の貴族たちは、一瞬、戸惑いの表情を浮かべる。優雅なワルツの旋律に混ざり合う、乾いた木片を打ちつけるような不協和音。それは、彼らの耳にはただの「雑音」にしか聞こえなかった。

しかし、その瞬間、ルーカスのリードに合わせていたアンジェリカの小さな足が、まるで最初からそのリズムを知っていたかのように、小さな「音」を奏で始めた。

 

コンッ、コンッ、コココ、コンッ!

 

彼女の靴が、ルーカスのタップに呼応するように、ぎこちないながらも必死にリズムを刻む。それは、覚えたてのステップを、まるで自分のもののように楽しむ子どものようだった。ルーカスは、その純粋な反応に、わずかに驚きを覚えた。彼女は、ただ真似しているのではない。彼の理詰めのリズムに、自身の本能的な感性を乗せようとしているのだ。

 

アンジェリカの小さな足が、床を叩くたびに、ルーカスは微かな魔力の輝きを感じ取った。それは、彼女の無意識の魔力が、自身の才能を具現化させようと、足元のヒールに流れ込んでいる証拠だった。最初は「コンッ、コンッ」と不安定だった音が、魔力の流入と共に、次第に「カツンッ、カツンッ」と硬質で明瞭な音へと変化していく。まるで、彼女の足元に、瞬時に魔力で強化された金属のプレートが装着されたかのように。

ルーカスは、アンジェリカのその変化に応えるように、さらにフットワークを軽くした。彼のステップは、もはやワルツの枠を完全に逸脱し、まるで音符の上を滑るように、流れるように軽やかになっていく。

 

タララッ、タタタ、トンッ、タララッ、タタタ、トンッ!

 

その速さに、アンジェリカは一瞬、ついていけなくなった。だが、彼女は諦めなかった。ルーカスの足の動きを食い入るように見つめ、そのリズムを、自身の全身で感じ取ろうとする。そして、数ステップ遅れて、彼女もまた、自身のフットワークを軽くし、必死に食らいついていく。二人の間には、言葉を超えた、音楽の「対話」が生まれていた。

 

 

二人のダンスは、もはやお互いを高め合う「遊び」へと変わっていた。ルーカスがステップを加速させると、アンジェリカは腰のキレを鋭くし、驚くべき速さでターンを決める。ルーカスは、それに呼応するように、腕を巧みに使い、彼女をより高速な回転へと導く。その手の動き、腰のキレ、そしてステップの速度は、観客の視界が追いつかないほどに速くなっていった。

この異様な熱気は、演奏者たちにも伝わっていた。指揮者のタクトが示す優雅なワルツのテンポは、もはや意味をなさない。演奏者たちは、二人の足元から響く、ワルツの枠を超えたリズムに、戸惑いながらも耳を澄ませていた。しかし、その戸惑いは、やがて楽しげな好奇心へと変わっていく。

トランペット奏者が、ワルツのメロディを外し、軽快なファンファーレを即興で加えた。それに続いて、ヴァイオリンの弦は、まるでタップの音に合わせるように鋭く速い旋律を奏で、チェロの重厚な音は、二人の高速なフットワークを支えるように、リズミカルな低音を刻み始めた。彼らの演奏は、二人のダンスという「不合理な」音楽に引きずり込まれ、新たなハーモニーを創造し始めたのだ。演奏者たちの顔には、久しく忘れていた、音楽を純粋に楽しむ子どものような笑顔が浮かんでいた。

観客たちもまた、その変化に引き込まれていた。最初は冷ややかに、嘲笑の目で見ていた貴族たちの間に、ざわめきが広がる。しかし、それはもはや嘲りではなく、驚嘆と興奮だった。

 

「あれは……!」「まるで、生きているようだ!」

 

彼らの視線は、もはや二人のダンスから一瞬たりとも離すことができない。ルーカスの冷徹な計算と、アンジェリカの純粋な才能が織りなす、完璧な調和。その光景は、彼らがこれまで見てきた、どの社交ダンスよりも、純粋で、そして魅力的だった。ホール全体が、静まり返り、ただ二人のダンスが生み出す音と、熱気に満ちた演奏だけが響き渡っていた。彼らは、貴族としての仮面を剥がされ、ただの「観客」として、その光景に心から魅了されていた。

 

ルーカスの表情から、冷徹な仮面が消えた。彼がアイリスやレオナルドに見せた、計算された笑みではなく、まるで純粋に音楽を楽しむ子供のような、穏やかな笑みが浮かんでいた。それは、彼が心から、このダンスを楽しんでいる証だった。

アンジェリカは、ルーカスのその表情を見て、無邪気に微笑んだ。

 

「やっぱり、その顔の方が素敵だわ、ルーカス!」

 

彼女の言葉に、ルーカスは一瞬、我に返った。彼は、自分が無意識のうちに、アンジェリカの純真さに心を許していたことに気づいた。そして、その感情の揺らぎが、彼の完璧な「合理性」に、わずかな亀裂を入れたことを悟った。

ルーカスは、ダンスを終え、アンジェリカに頭を下げた。

 

「…楽しんでいただけたなら、光栄です」

 

彼の声は、再び冷静なものに戻っていた。しかし、その瞳の奥には、彼自身も制御しきれない、微かな戸惑いの光が宿っていた。

アンジェリカは、満足げに微笑んだ。彼女は、ルーカスの「本当の顔」を、一瞬でも垣間見ることができたのだ。彼女にとって、このダンスは、最高の「収穫」だった。

ルーカスは、アンジェリカに背を向け、再びホールの隅へと歩き始めた。彼の脳内では、アンジェリカという「不合理」な存在のデータが、彼の持つ全ての計画を、根底から揺さぶっていた。彼は、この少女が、レオナルドやアイリスよりも、はるかに危険な存在であると、この時、悟ったのだった。

 

 

 

 

 

優雅な音楽と熱狂的な拍手が鳴り響く中、ルーカスとアンジェリカのダンスは終わりを告げた。彼らがダンスフロアを後にすると、ホールの中心に、一人の女性が姿を現した。

アメリア・フォン・グロースハイム伯爵夫人。王立総合学園の学園長である彼女は、ルーカスたちの不躾なダンスを、冷ややかな視線で見ていた。周囲の貴族たちは、学園長がルーカスを厳しく叱責するものだと、固唾を飲んで見守っていた。

しかし、アメリアの口から出た言葉は、彼らの予想を裏切るものだった。

 

「皆さん、静粛に」

 

彼女の声は、厳格でありながらも、どこか穏やかな響きを持っていた。

 

「今宵、私たちは、新入生たちの才能と、若き情熱に満ちた素晴らしい時間を目撃しました。そして、とりわけ…ルーカス・フォン・トレンス侯爵と、アンジェリカ・ド・ハートフィリア公爵令嬢のダンスは、この学園が何百年も育んできた『伝統』に、新たな『彩り』を加えてくれました」

 

アメリアの言葉に、貴族たちの間でざわめきが広がった。

 

「彼らのダンスは、既存の慣習にとらわれず、自由な発想で、自らの才能を表現する…若者らしい、素晴らしい挑戦でございます。王立総合学園は、貴族の義務を果たすにふさわしい人材を育成する場です。貴族たるもの、どのような場においても、その身分に相応しい振る舞いが求められますが、生徒の皆さんが、今後どのような成長を遂げるのか、この厳格な学園が、どのような『影響』を受けるのか、心より楽しみにしております」

 

彼女の言葉は、まるでルーカスたちの行動を公認し、学園全体に「変化」を促す号令のようだった。しかし、その言葉の裏には、「貴族としてあるまじき不謹慎な行動」を、建前として「若者らしい挑戦」と評する、伯爵夫人ならではの痛烈な皮肉が込められていた。

 

ルーカスは、アメリアの意図を正確に読み取り、内心でわずかに笑みを浮かべた。彼は、この学園長が、彼の計画を成功させる上で、非常に重要な「協力者」になりうると確信した。

こうして、熱狂と興奮、そして新たな思惑が渦巻く中、入学歓迎パーティは幕を閉じた。アメリアは、貴族たちの視線から逃れるように、静かにホールの奥へと消えていった。彼女の瞳には、警戒の色と、そしてわずかな期待が入り混じっていた。彼女は、この若き侯爵という「嵐」が、この老いた学園を、どのように変えていくのかを、見極めようとしていた。

 

 

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