剣と魔術とライフルと   作:あききし

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幕間 愚直な正義と現実の庇護者

 

幕間:秩序の城、そして純粋な正義

 

 

王立総合学園:秩序の城

 

王立総合学園の門をくぐる朝、ゼオン・ド・フィアットの心臓は、これまで感じたことのないほど高鳴っていた。彼の足は、まるで吸い寄せられるかのように、目の前にそびえ立つ壮麗な校舎へと向かう。巨大な石造りの壁、天を突く尖塔、そして厳かに掲げられた王家の紋章。その全てが、ゼオンの目には、王国が何百年もかけて築き上げてきた「秩序」と「法」の結晶として映っていた。

 

「ここが、真の貴族が生まれる場所……」

 

ゼオンは、感嘆のため息を漏らした。彼の脳内には、学園の案内書に書かれた「貴族の義務」「弱者を護る正義」といった言葉が、まるで聖典の一節のように響き渡っていた。ここで学ぶことは、全てが「正しい」ことであり、この場所こそが、彼が信じる「正義」を磨き上げるための「聖域」なのだと確信していた。彼にとって、学園とは、彼が信じる「正義」と「貴族の義務」を、この上なく純粋な形で学べる「聖域」だった。ここで磨く剣こそが、弱者を護る唯一の力になると信じていた。

 

「ゼオン、また突っ立って。周りの迷惑になるでしょう」

 

硬質で、しかしどこか見慣れた声が、ゼオンの集中を破った。振り返ると、そこには幼馴染のクラリーベル・ド・アウレリア伯爵令嬢が立っていた。完璧に整えられた白い制服は、彼女の几帳面な性格を物語っている。彼女は、ゼオンの襟元に手を伸ばすと、わずかに歪んだネクタイを直し始めた。

 

「クララ…しかし、この学園の威容を前にすれば、誰しもが心を奪われるはずだ」

 

ゼオンは、その絶対的な光景に集中しており、クラリーベルが指摘する「周囲の目」という曖昧な概念は、彼の頭にはなかった。

 

「ええ、そうね。でも、感銘を受けるのは構わないけれど、貴方、またすぐに熱中して周りが見えなくなるのだから。入学式前から、目立ってどうするの」

 

クラリーベルの指先が、ゼオンの制服のしわを優しく撫でる。彼女の言葉は、ゼオンの「衝動」や「熱中」が、しばしば周囲の「秩序」を乱すことを、これまでの経験から知っているからこその、忠告だった。

 

「私はただ、正しくあるべき場所に、正しく立つ。それだけだ」

 

ゼオンは、微塵も悪びれることなく答えた。彼にとって、「正しい」とは、彼が信じる規範に沿うことであり、そこには「周りの目」という不確定な要素は含まれていなかった。

 

「その『正しく』が、貴方の場合、少しばかり視野が狭すぎるのよ。いい? この学園では、貴族としての『体面』も重要なルールよ。貴方一人の行動が、フィアット家、ひいてはアウレリア家の評価にまで影響するのだから」

 

クラリーベルは、ゼオンの目を見つめ、諭すように言った。彼女の言葉には、貴族としての「義務」と「責任」が込められていた。ゼオンは、その言葉に小さく頷いた。クラリーベルの指摘は、いつも現実的で、彼の思考に足りない側面を補ってくれていた。

「分かった、クララ。この学園のルールは、すべて私が完璧に把握する」

 

ゼオンの瞳に、新たな決意が宿った。彼にとって、クラリーベルの言葉は、学園という「城」を攻略するための新たな「課題」として認識された。彼は、この学園の全てのルールを完璧に吸収し、それを「正義の剣」として使いこなすことを誓った。彼の脳内は、社交や噂といった「雑音」よりも、誰にも折れない「正義の信念」と、それを実行するための「貴族の務め」を完璧に把握しようとする、強い情熱で満ちていた。

彼は、学園の門をくぐった。その足取りは、確固たる信念と、貴族としての義務感を胸に、力強く、迷いなく進んでいた。

 

 

 

 

入学式の講堂は、荘厳な石造りの空間であり、ゼオンにとって「聖域」だった。彼は、最前列のルーカス・フォン・トレンスの異質なスーツ姿にすら気づかず、ただ壇上のアメリア・フォン・グロースハイム伯爵夫人に視線を集中させていた。

 

「この学園は、皆さんが、『真の貴族』となるための知識と教養、そして何よりも、『格式』を身につけることを期待しています」

 

アメリア学長の威厳に満ちた声は、ゼオンの心臓を強く打った。

 

(格式! そうだ、これこそが、貴族の礎。この絶対的な規範こそが、この世界を正しく保つのだ)

 

彼は、学長の言葉を一言一句、貴族としての使命を定めた「聖典」として受け取った。彼の脳内では、学長の言葉が、彼が信じるべき正義の構造として刻み込まれていく。彼は、この学園の教えを完璧に吸収し、正義の剣を磨くことから逸脱する者は「悪」として排除されるべきだと、確信した。

講話の間、彼の意識は、「真の貴族の義務」と「弱者を護る規範」という明確なテーマ以外を一切受け付けなかった。彼の心は、この神聖な儀式と、自身に課せられた壮大な使命を前に、ただただ純粋な情熱に燃え上がっていた。

 

 

「私たちに割り当てられたアルタイル寮も、学園の秩序の一部よ。武家を多く輩出する寮で、貴族の家格と実績に基づいた正当な配置だわ」

 

ゼオンは、その言葉に力強く頷いた。

「ああ。成績と家格に基づいた、正当な割り当てだ。私のような下位貴族が、レグルスなど上位の寮に入ることは、ルールに反する傲慢だ。私はアルタイルで、武家としての義務と正義の剣を磨く。それが、私に課せられた正しい道だ」

 

彼にとって、寮の割り当ては「不満」の対象ではなく、自身が果たすべき「義務」の明確な指標だった。明確なルールがあることに、彼は安堵を覚えた。

 

「そうよ。その義務を、勝手な感情で踏みにじることがないようにね。貴方一人の行動が、フィアット家、ひいては私たちの体面に泥を塗る。ルールは、貴方の正義を護るための盾にもなるのよ」

 

クラリーベルの言葉に、ゼオンは決意を新たにした。

「分かった、クララ。私はこの学園のルールを完璧に学び、正義の剣として使いこなす。感情に流される愚かな行動はしない」

 

彼は、クラリーベルの現実的な助言を胸に刻み、力強い足取りで校舎へと向かった。その心は、安直な正義感と、それを貫くための愚直な素直さに満ちていた。彼は、この学園での青春と冒険、そして友情を心待ちにしていた。

 

 

 

 

 

 

 

夜の帳が降りた「黄金の庭園」は、魔道具の光で煌々と照らされ、まさに「社交のルール」を学ぶ舞台そのものだった。ゼオンは、硬く緊張しながらも周囲に目を配っていた。彼の頭の中には、アメリア学長が示した「貴族の義務」と「社交の規範」が、整然とした手順書のように並べられている。

 

「まずは、私たちのアルタイル寮の上級生にご挨拶を。そして、家格が近い伯爵家や子爵家の方々を優先するわ。いいわね、ゼオン。私情を挟まず、ルールに従って」

 

クラリーベルは、その完璧な笑顔の下で、ゼオンに無言の圧力をかけていた。彼女にとって、この場は家門の「体面」を維持するための実戦の場であり、ゼオンの感情的な暴走は絶対に許されないことだった。

 

「分かっている、クララ。家格と派閥。そして、相手の身分に相応しい言葉遣い。全て把握済みだ」

 

ゼオンは、そう答えると、すぐにアルタイル寮の数名の先輩貴族の輪へと向かった。彼らは武家が多く、ゼオンの愚直な真面目さを好意的に受け入れた。彼らの会話は、最新の魔術武具の話や、領地の警備体制といった、実務的で明確な内容に終始した。ゼオンは、曖昧な社交辞令よりも、こうした具体的な情報交換に集中できることに、安堵と喜びを感じていた。

 

(この学園の規範は、全てが合理的だ。無駄な駆け引きよりも、義務を果たすことこそが、貴族の美徳。やはり、私はこの学園で正しい正義を学ぶことができる)

 

彼の思考は、「誰に挨拶すべきか」「どの話が義務に役立つか」という、現在の課題に完全に集中し、学園の規範という「白」の世界に浸っていた。

 

 

その時、ホールの入り口付近で起こった強いざわめきが、彼の意識を強制的に引き裂いた。彼の聴覚が、周囲の貴族たちの噂話という「雑音」を、初めて意味のある情報として処理し始めた。

 

「見て、あの服…まるで軍服のようだわ」

「あれが、トレンス侯爵の…あのルーカス・フォン・トレンスよ」

「辺境の野蛮人が、王都のルールを破ろうとしている」

 

ルーカス・フォン・トレンス。その名前と、「規範を破る異端者」という形容詞が、彼の脳内で激しい化学反応を起こした。

彼の視線が、濃紺のスーツという異質な姿を捉えた瞬間、彼の脳内で分離されていた情報が、強烈な光を放って一つに結びついた。

 

 

「異端者」=「リナを、あの路地裏の絶望に引きずり込んだ、冷酷な支配者」

 

「規範の破壊者」=「貴族の義務と人道を嘲笑う、絶対的な悪」

 

 

この瞬間、ゼオンにとって、ルーカスは聖域の秩序=弱者を護る規範を乱す、打倒すべき絶対的な悪として再定義された。それまで「学園の使命」に集中していた意識は、一瞬で「リナを救う」という、彼の最も根源的な正義の衝動に切り替わった。

 

彼は、貴族の作法も、クラリーベルの忠告も、すべてを忘れた。彼の心に残ったのは、「あの男の不当な支配を、この場で正義の剣で断ち切らなければならない」という、ただ一つの、曲げられない強い使命だけだった。

 

衝動に突き動かされ、ゼオンの足は、ルーカスとオリビア・ド・エーデルライト伯爵令嬢の間の輪に、力強く割って入って行った。彼の目には、周囲の驚きの視線も、オリビア令嬢の困惑した表情も映っていなかった。映るのはただ一つ、「悪」の象徴であるルーカス・フォン・トレンスの姿だけだった。

 

「ルーカス・フォン・トレンス、あなたですね」

 

ゼオンの声は、周囲の喧騒を掻き消すかのように、ただ真っ直ぐに、そして硬質にルーカスへと向けられた。彼の心臓は、激しく脈打っていた。自分が今、絶対的な正義のために行動しているという、強い高揚感に包まれていた。

 

ルーカスは、その唐突な呼びかけに、冷たい光を瞳に宿して彼を見つめた。その視線は、ゼオンが持つ「正義の剣」を、まるで無価値なものとして見ているかのようだった。

 

「ええ、噂はかねがね。私の部下を殴りつけた、不躾なフィアット子息ですね」

 

その言葉は、ゼオンの純粋な正義感に、冷水を浴びせるようだった。

 

(な、何だと? 不躾? 私は人道のために、暴力を振るうゴロツキを懲らしめたのだ!なぜ、この男は私の正しい行為を非難するのだ!)

 

彼の脳内は、ルーカスが示した「自分の行動(部下を殴った)」と、彼の「目的(人道)」が分離され、解決不能な矛盾として渦巻いた。

 

「それは…人道的に…!」

「人道的?…私には、貴方のように、相手の身分を顧みず、暴力を振るう行為が、いかなる人道に則ったものなのか、理解に苦しみますな」

 

ルーカスの言葉は、ゼオンの純粋な正義の主張を、貴族社会の冷たい体面という盾で打ち砕いた。

 

(違う!私は、正しいことをしたのだ!この男の言う『ルール』は、不当な行いを隠すための詭弁だ!)

 

ゼオンの心の中で、「ルーカスは、正義を否定する悪」という結論が瞬時に固まった。彼は、純粋な正義の感情を否定されたことに、激しい怒りを感じた。

 

「…話をすり替えないでいただきたい!私はあなたにリナさ…あの少女を…なぜ、あの少女をあのような危険な場所へ…!」

 

 

あの、まるで光のない瞳。裏路地の寒さに震えていた彼女の姿が、ゼオンの脳裏に焼き付いていた。あの少女が、自分の意思で、この男と対等な契約を結ぶはずがない。この男は、言葉巧みに、弱い心を言い包めたに違いない!

 

 

「…危険な場所? 申し訳ないが、私には言っている意味が分からないな」

 

ルーカスの事務的な返答は、ゼオンの感情の爆発を、完全に無視するものだった。

 

(この…!私の正しい指摘を、なぜ理解できないのだ!?)

 

正義が否定され、彼の燃えるような熱意が冷徹に無視される屈辱と憤りが、彼の思考をさらに一点へと絞り込ませた。ゼオンには、ルーカスの発言に隠された裏の意図や複雑な論理を冷静に分析する余裕がなかった。あるのは、「自分の信じるリナの絶望」こそが動かしようのない絶対的な真実であり、目の前の悪を打ち倒す使命感だけだった。

 

「とぼけるのはやめてください!あなたは、彼女を貧しい路地裏から引きずり出し、まるで奴隷のように…!私は、あなたのような人間を許すわけにはいかない!」

 

「一つ、お教えしましょうか、フィアット殿。貴族である我々は、互いの行動に、余計な詮索をするべきではない。それが、この世界のルールです。そして、彼女は、自身の意思で、私と契約を交わした。それは、彼女の『選択』であり、私が与えた『機会』だ」

 

ルーカスが発する言葉は、すべてが冷たく合理的で、リナの抱える「痛み」や「悲しみ」を完全に無視しているように感じられた。ゼオンには、ルーカスの冷徹なロジックと、リナの純粋な感情の、どちらが正しいのか、一瞬で判断を下すことができなかった。しかし、彼の心には、あの路地裏でのリナの姿、そして彼女の絶望だけが、動かしようのない絶対的な真実として刻まれていた。

 

「機会だと? 彼女は、あなたの身勝手な傲慢によって、自由を奪われたのです!あなたのような人間は、いつか必ず、この学園のルールによって裁かれる!」

 

(この学園のルールこそが、私に力を与える!学長のお言葉が、この不当な支配を打ち破るはずだ!)

 

ゼオンは、自分の感情的な信念を、学園の権威という、彼にとって絶対的な「白」と結びつけて、最後の抵抗を試みた。

 

「それとも、君の『正義』とやらは、飢え死にゆく子供を放置することなのか? 君の『正義』が、彼女の命よりも、君の体面を保つことだというなら、私は喜んで、その『正義』とやらを破壊しよう」

 

ルーカスの言葉は、「飢え死にゆく子供の命」という、新たな絶対的な「白」を提示し、ゼオンの「正義」の定義を真っ向から否定した。

 

――飢え死にゆく子供を放置することなのか?――

 

その言葉は、ゼオンの心に激しい動揺を呼んだ。しかし、彼の正義は、リナの命と引き換えに自由を奪うことではない!

 

「違う!私は、そんなつもりじゃ…!私の正義は、彼女の未来を、あなたの支配から救うことだ!」

 

ルーカスの論理は、彼の思考を論理的に追い詰めているにもかかわらず、ゼオン自身は、それが「悪の詭弁」であるという感情的な結論から抜け出すことができなかった。

 

「違う、だと? では、君は、彼女に何を与えられた? 暖かな家か? 満腹になる食事か?…何も与えられなかった人間が、何を与えられた人間を非難する資格はない。それが、この世界の『ルール』だ」

 

ルーカスの最後の言葉は、ゼオンの「正義の自己満足」を、現実の無力さという形で突きつけた。ゼオンは、自らの無力さと、ルーカスという「悪」の強大さに、深い絶望を感じた。

「…っ!そんなつもりじゃ…!」

 

彼の言葉は、もはや悲鳴だった。自分の信じる「正義」が、この場で徹底的に破壊され、「無価値」という烙印を押されたことを、彼は痛感した。

 

ルーカスが背を向け、人混みの中へ消えていく。その背中は、ゼオンの怒りや葛藤には、一切関心が無いことを示していた。ゼオンは、その場に立ち尽くしていた。彼の心には、ルーカスの冷徹な言葉と、そして、彼が持つ「異質さ」への深い恐怖が、曲げられない一つの結論として刻み込まれた。

 

(あの男は…悪だ。そして、私は、この学園のルールを使い、必ずあの悪を裁かなければならない)

 

 

その場に立ち尽くす私の心は、ルーカス・フォン・トレンスの感情を排した言葉によって、ひどく混乱していた。「契約」「機会」「ルール」という、弱者の心を無視した冷酷な論理が、リナの命という私の純粋な正義を、まるで泥のように塗りつぶしていく感覚に襲われた。

 

(違う!私は、正しいのだ!あの男の言葉は、自身を正当化する為の詭弁だ…だが、なぜ、この正しさが通じない…!)

 

トレンス子息という存在は、私の絶対的な「善悪」の価値観を揺るがす、理解不能な「異物」だった。恐怖と、「正義を貫けなかった」悔しさという、新たな強い感情に支配されていた。

 

その時、一人の男の煩わしい声が、私の思考の集中を、さらに強烈な不快感で引き裂いた。

 

「…フィアット殿。あなたのような、下位貴族の分際で、この私の、そしてトレンス侯爵のような高位貴族の会話に割って入るとは。不躾にも程がある」

 

ベルンハルト侯爵家の嫡男、フォルカルト。この男は、私を侮蔑に満ちた目で見下してきた。まるでトレンス子息を庇うかのように、私を糾弾している。

 

──下位貴族の分際で──彼は、身分という不当な権力を用いて、私を侮辱した。

──トレンス侯爵のような高位貴族の会話に割って入る──彼は、リナを支配するあの悪を擁護し、私の正義の行動を否定した。

 

 

(この男は、身分を笠に着て、私を侮辱した!そして、リナを不当に支配するあの悪を擁護した!この男もまた、悪だ!)

 

 

私の純粋な正義の行動が、身分という不当なルールで否定されたことに、激しい憤りを感じた。

トレンスの無感情な論理と、フォルカルトという「身分」のルールを振りかざし、私を邪魔者として排除しようとしている。

この秩序の城に相応しくない明確な悪だ。

私は断じて引くわけにはいかない!

 

 

「…黙れ!私は、あの男に…!」

 

「黙るのは貴方だ!私とあの男の会話に、貴方のような雑音は必要ない!この場を汚す前に、さっさと立ち去るがいい!」

 

「雑音」。ルーカスが私に使った同じ言葉を、今、この男が私に投げつけてきた。怒りと、底知れない屈辱で心が満たされる。

 

(あの男も、この男も、貴族のルールを自分たちの不当な行いの道具として利用する!彼らは、リナの自由も、私の正義も、すべてを踏みにじる存在だ!)

 

彼は、私の正義を嘲り、弱者を踏みにじろうとしている。彼の目には、力を持つものとして相応しくない、単純で明確な「敵」が、そこに立っているだけだった。

 

ゼオンは、フォルカルトを睨みつけ、その場を離れた。彼の心には、ルーカスとフォルカルトという、二つの「悪」に対する、絶対的な憎悪と、それを打ち破るべき「正義の使命」だけが、強固な決意として残った。

 

 

ゼオンは、ルーカス・フォン・トレンスの冷たい論理、そしてフォルカルト・ド・ベルンハルト侯爵の露骨な侮辱によって、心身ともに打ちのめされていた。彼の頭は、憎悪、屈辱、そして理解不能なパニックで満たされていた。

 

「ゼオン!」

 

硬質な、しかし芯のある声が、彼の後ろから響いた。

振り返ると、クラリーベル・ド・アウレリア伯爵令嬢が、完璧に整えられた白いドレス姿で立っていた。彼女の顔には、この場の貴族たちと同じ困惑の色と、そして深い憤りが浮かんでいた。しかし、その憤りは、ルーカスやフォルカルトではなく、ゼオン自身に向けられているのが明白だった。

クラリーベルは、周囲の視線からゼオンを隠すように、すぐに彼の横に並び立つと、囁くような声で、しかし一切の容赦なく叱責した。

 

「あなた、何を考えているの!よりにもよって、伯爵令嬢との会話に割って入り、侯爵家の嫡男二人に、公然と喧嘩を売るなんて!」

 

ゼオンは、クラリーベルの冷ややかな怒りに、思わず言葉を詰まらせた。彼の純粋な正義感を、クラリーベルは幼少の頃から理解してくれていた。だが、彼女が「貴族の体面と格式」を何よりも重んじることも、ゼオンはよく知っていた。そして、彼はいつも、現実的な彼女の判断に助けられており、頭が上がらなかった。

 

「クララ…だが、私は、あの男の不当な行いを…」

 

「不当な行い? それが、公の社交の場で、あなたが貴族の義務を放棄していい理由になるの?」クラリーベルの瞳は、理性的な光を帯びていた。「アメリア学長が何を言ったか、もう忘れたの? この場は、『社交のルール』を学ぶ場所よ! 感情に任せてルールを破ったのは、トレンス侯爵ではないわ、あなたよ、ゼオン!」

 

クラリーベルの言葉は、ルーカスが「貴族の作法」という剣でゼオンを論破したのと同じように、彼が絶対的だと信じる「ルール」によって、彼の行動を「悪」だと断定した。

 

(ルールを破ったのは、私…?)

 

ゼオンの心は、さらに激しく混乱した。彼の頭の中では、「リナを救う正義()」と「公の場でルールを破った悪()」が、制御不能な矛盾としてぶつかり合っていた。

 

「そして、あのフォルカルト侯爵を見て! あなたの行動は、あの侯爵に、『下位貴族は無秩序で不躾だ』と、あなたを罵倒する完璧な口実を与えたのよ!」クラリーベルは、息を吐き出すように言った。「あなたの感情的な正義は、結局、私たち下位貴族の体面に泥を塗っただけ。これ以上、私や、フィアット家の名を傷つけないで」

 

「家名の傷」。その現実的な重みが、ゼオンの純粋な情熱を、冷たい鉄枷のように縛り付けた。彼は、彼女の言葉が現実の真実を突いていることを理解せざるを得なかった。

 

「…わか、った。悪かった、クラリーベル」

 

ゼオンは、不承不承ながらも、頭を下げた。彼の心の中では、ルーカスへの憎悪と、リナへの強い使命感が燻り続けていた。

 

(あの男の不当な支配は許せない。しかし、クラリーベルの言う通り、公然と感情的になっては、奴らに正義を貫く機会さえ奪われる。まずは、この学園の『ルール』を正義を貫くための盾と剣として完璧に学ぶのだ)

 

彼は、純粋な正義の衝動を、クラリーベルの助言によって「計画的な行動」へと強制的に転換させ、その冷たい決意を胸に刻んだ。

 

クラリーベルは、ゼオンの顔を見て、彼の背中を軽く叩いた。

 

「わかればいいのよ。あなたは、真面目すぎるの。さあ、行きましょう。まずは、私たちに相応しい貴族たちと挨拶を交わすわ。いいわね、二度と感情に流されないこと」

 

ゼオンは、こくりと頷いた。彼の背後で、ルーカスとフォルカルトという二つの「悪」に対する敵意は、一時的に抑圧され、より深く、冷たい憎悪へと形を変えていった。

 

 

・・・・・

・・・

 

優雅さと叱責と現実の重み

 

 

ゼオンは、ルーカスの言葉とフォルカルトの侮辱によって、まるで魂を抜き取られたように立ち尽くしていた。クラリーベルは、すぐに彼の隣に立ち、周囲の視線から彼を覆い隠した。

 

「ゼオン、あなた、何を考えているの!よりにもよって、侯爵家の嫡男二人に、公然と喧嘩を売るなんて!」

 

クラリーベルの怒りは、彼の無謀な行動がフィアット家の体面をどれほど深く傷つけたかという、現実的な責任感から来ていた。彼がリナという少女のために動いたことは理解できるが、この場で「貴族の義務」を放棄し、感情を爆発させたことは、ルール違反だった。

 

「ルールを破ったのは、あなたよ、ゼオン! 感情に任せたあなたの正義は、私たち下位貴族の体面に泥を塗っただけ。これ以上、私や、フィアット家の名を傷つけないで」

 

クラリーベルの言葉に、ゼオンは不承不承ながらも頭を下げた。彼は、彼女の指摘する「家名の傷」という現実的な重みだけは、無視できないことを知っている。

 

(この人は、本当に…。彼が信じる「正義」はあまりにも純粋で、この社交界の優雅な嘘や駆け引きを少しも理解できない。だからこそ、私が必要なのよ)

クラリーベルは、彼が感情を「計画」へと転換させるのを待った。そして、ゼオンは決意を込めた目で顔を上げた。

「…わか、った。悪かった、クラリーベル。…私はこの学園の『ルール』を学び、正当な手段で、あの男の悪事を暴く」

 

(やはり、感情的な衝動を、「ルールを学ぶ」という明確な課題に置き換えたわね。その単一な集中力は彼の強みだけれど、同時に脆い…)

クラリーベルはそう内心でため息をついた。

 

 

その時、ルイス・ド・ハイドレイ子爵家嫡男が声をかけてきた。ルイスの目は、獲物を見つけた狩人のように、ゼオンを面白半分に値踏みしている。

 

「おお、これはこれは。アルタイル寮のフィアット子息ではないか。さっきの熱烈なパフォーマンス、見事だったぞ」

ルイスは、グラスを傾けながら、優雅な笑みを浮かべる。

 

「まさか、トレンス侯爵閣下に対し、あそこまで情熱的な議論を挑むとはな。貴族の義務を額面通りに受け止め、即座に行動に移すその潔さには、我々も見習うべきものがある。侯爵様も、久々に面白いおもちゃを与えられたと、ご満悦だったのではないか?」

 

クラリーベルは、ルイスの言葉に込められた明確な侮辱を瞬時に読み取った。「熱烈なパフォーマンス」「面白いおもちゃ」—それは、下位貴族の知性のなさと愚かさを、遠回しに揶揄する、この国の優雅な文化そのものだった。

 

(この人、なんて嫌味な言い方を。ゼオンの純粋さを弄んでいる。ゼオンは、これを褒め言葉として受け取ってしまうわ…!)

クラリーベルの懸念通り、ゼオンは真面目な顔でルイスに向き直った。彼の表情は、ルイスの言葉の裏を、微塵も察していないことを示している。

 

「光栄に存じます、ハイドレイ殿」

 

ゼオンは、胸を張り、真っ直ぐな瞳でルイスを見据えた。

 

「私の行動は、貴族の義務に基づいたものです。義務を額面通りに受け止め、即座に行動に移すことこそ、武家たる者の規範。トレンス侯爵のような悪を前に、傍観することが、真の貴族の務めであるはずがありません」

 

クラリーベルは、思わず息を飲んだ。

(意図せず、彼らの偽善を指摘した…!)

 

ゼオンはルイスの皮肉を理解していないにもかかわらず、彼の絶対的な正義を貫く返答は、結果的にルイスの「傍観者」としての立場を、「義務を果たさない怠慢」として矮小化させた。ゼオンの純粋さが、優雅な皮肉という鎧を意図せず打ち砕いたのだ。

ルイスは、その全く噛み合わない返答に、一瞬、表情を固まらせた。

 

「…フン。そうか。相変わらず素直なことで」

 

ルイスは、口角を上げ、わずかに冷たい笑みを浮かべた。

 

「まぁ、せいぜい、その正義とやらで、ご立派な武家のフィアット家を、破滅させないようにな」

 

ルイスは、そう言い捨てると、別の貴族の輪へと去っていった。彼の背中には、苛立ちと、予想外の反撃を受けたような苦々しさが浮かんでいたのを、クラリーベルは見逃さなかった。

 

 

ルイスが去った後、クラリーベルは深くため息をついた。

「ゼオン、なぜ、ああいう皮肉を褒め言葉として受け取るの!

『額面通りに受け止める』というのは、貴方が知性に欠け、この国の優雅な文化を理解していないと暗に馬鹿にしているのよ!」

 

「馬鹿にしている? 彼は私の正義の心を認めてくれた。そして、素直とは、信念を曲げない強さだ。私は、この信念が正しかったと確信した。後は、ルールと作法を完璧に学べばいい」

 

(だめだ、全く通じていない。彼は、言葉の裏、社交の含み、曖昧な優雅さといったグレーゾーンを、「真実ではないもの」として認識すらしない…)

 

クラリーベルは、ゼオンの理解不能な固執に、絶望に近い感情を覚えた。しかし、同時に、彼の誰にも曲げられない純粋な信念こそが、彼を主人公たらしめる強さなのだと知っている。

 

「…わかったわ。言葉の裏や皮肉、この学園の複雑な人間関係とルールについては、全て私が把握する。あなたは、あなたの正義を曲げなくていい。ただし、私の指示に従いなさい」

クラリーベルは、彼の熱血漢としての魅力と、社会的な無知という弱点を庇護することを決意した。

 

(トレンス侯爵も、ハイドレイ子息も、彼を利用し、嘲笑の的にしようとしている。私が、このあまりに真っ直ぐすぎる正義の剣を、現実の泥から護らなければならない)

 

ゼオンは、クラリーベルの厳しくも優しい命令に、力強く頷いた。彼の背後で、ルーカスとフォルカルトという二つの「悪」に対する敵意は、一時的に抑圧され、クラリーベルの指導という「新たなルール」に従い、正義を貫くという冷たい決意へと形を変えていった。

 

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