幕間:影の烙印と無垢な情熱
ルーカス・フォン・トレンス。あの男は、信じられないほどの傲慢さと、感情を持たない機械のような冷たさで、フォルカルト・ド・ベルンハルトという存在を、わずか数分の会話で粉々に打ち砕いた。
──どちら様で?──
その一言は、俺の存在そのものを、ベルンハルト侯爵家の嫡男としての俺の誇りを、根底から否定する、最高の侮辱だった。侯爵家同士の社交の場で、その名を知らぬと嘯く無礼さ。
そして、
俺が「ルール」を口にすれば、彼は「より効率的なルールが古いルールを淘汰する」と、まるで教師が生徒に諭すかのように、俺の価値観を否定した。彼は俺の全てを、価値のない「無駄な情報」だと断定したのだ。その論理は、俺が長年信じてきた、貴族社会の不変の『格式』という概念そのものを、否定するものであり、自分の家門の事業を潰したことに対する、明確な嘲りだった。
俺は怒りに震えた。この屈辱を晴らすには、彼を力で、あるいは学園のルールで追い落とすしかない。そう決意した時、奴はまるで用済みになったかのように、俺に背を向けた。
そして、俺の隣に立つオリビア・ド・エーデルライト伯爵令嬢の謝罪に向けられた、ルーカスの言葉が、フォルカルトの心臓を再び抉った。
──貴女の謝罪は、完璧だ。だが、貴族社会の体面を保つために、貴女がそんな泥に塗れた相手の尻拭いをすることは、ひどく無駄なエネルギーに見える──
(俺は…この男の基準では、論じる価値すら、ないのか…?)
泥に塗れた相手。奴は俺を、価値のない泥だと侮辱した。
オリビアは、この場における完璧な『宝石』であり、彼女が誰を婚約者に選ぶか、という事実こそが、貴族社会のパワーバランスを象徴する。その彼女が、今、自分を「泥」と見なす男によって、『泥に塗れた相手の尻拭いをする愚かな宝石』として皮肉られている。
フォルカルトは、この屈辱に耐えかね、何も言い返すことができなかった。そして、オリビアの瞳。その澄んだ瞳が、自分をどう見ているのか、彼は直視することができなかった。彼女の顔には表情がない。だが、その完璧な無表情こそが、ルーカスの言葉の正しさを、無言で証明しているように感じられた。
その時、一人の少年が、俺たちの会話に割って入ってきた。フィアット子爵家の嫡男、ゼオン・フォン・フィアット。彼は、俺やオリビアの存在を無視し、ルーカスに直接、怒りをぶつけた。
(この下位貴族が、場の空気を読まずに何をしている…!)
俺は呆れ、そして怒った。この場所は、このパーティーは、貴族の社交の場だ。アメリア学園長が「ルール」を重んじろと言ったばかりだというのに。ゼオンの行為は、あまりにも無礼で、格式を汚すものだった。
しかし、トレンスの言葉は、俺の予想を裏切った。
「ええ、噂はかねがね。私の部下を殴りつけた、不躾なフィアット子息ですね」
ゼオンを前にしたトレンスの表情は、俺と話していた時とはまるで違った。俺には「どちら様で?」と無関心を装ったくせに、ゼオンにはその素性を知っていると応じたのだ。その対応の差が、俺の胸に新たな屈辱として突き刺さった。
(私には無関心を装い、この下位貴族のことは知っているだと…!私を愚弄するにも程がある!)
俺は、トレンスに完膚なきまでに叩きのめされた。奴は俺を、単なる事業の敗北者として扱い、存在そのものを否定した。しかし、ゼオンは、俺と同じように奴に論破された。ゼオンの顔は、俺と同じように、屈辱と混乱に歪んでいた。
この男にとって、ベルンハルト家は「淘汰された古いルール」であり、興味の対象外だ。しかし、ゼオンという『青臭いの正義』を振りかざす下位貴族は、彼の興味を引く『ゲームの駒』だとでもいうのか。その対応の差は、ルーカスが自分を、「敵にすら値しない存在」と認識しているという、冷酷な真実を突きつけた。
さらに、ルーカスは、ゼオンの「人道」を徹底的に論破した。「飢え死にゆく子供を救った自分の行動」を「ルール違反」と断じ、ゼオンの感情的な正義を「雑音」だと切り捨てた。それは、俺がルーカスに論破された「ルール」の真実、『効率こそが至高』という、ルーカスが支配する世界の真理そのものだった。
この下位貴族のせいで、俺は再び屈辱を味わった。トレンスは、俺が叩き潰すべき存在だと判断した俺を、まるで取るに足らない存在のように扱った。その一方で、この場のルールを乱したゼオンには、まるでゲームを楽しむかのように、貴族のルールを適用してコケ下ろしたのだ。
俺の怒りは、トレンスという怪物への恐怖と、そして、無力な自分への絶望へと変わっていった。その恐怖と絶望を、俺はどこにもぶつけることができない。
だから、俺は、自分自身よりもさらに無力なゼオンを罵倒することでしか、この屈辱を晴らすことができなかった。
「…フィアット殿。あなたのような、下位貴族の分際で、この私の、そしてトレンス侯爵のような高位貴族の会話に割って入るとは。不躾にも程がある」
あえて、ルーカスの名を、自分と対等の、あるいは自分より上だと示唆する形で口にした。自分が、あの怪物と対峙したことを、周囲に、そして自分自身に、必死で言い聞かせるために。
「黙るのは貴方だ!私とあの男の会話に、貴方のような雑音は必要ない!この場を汚す前に、さっさと立ち去るがいい!」
俺は、ルーカス・トレンスに言われた「雑音」という言葉を、そのままゼオンに投げつけ、ゼオンを追い払った。しかし、その行為は、俺の心が奴によって完全に打ち砕かれたことを、周囲に露呈させるものだった。俺が追い払ったのはゼオンではない。俺が追い払おうとしたのは、ルーカスによって貼られた「影」という烙印と、自身の無力さだった
(俺は…あいつの『影』でしかない…)
その冷酷な事実は、彼が立つ黄金の庭園の光を、一瞬にして凍らせた。ルーカスが投げかけた言葉は、フォルカルトの心を永遠に支配する、呪いの言葉となった。
その時、傍らに立っていたオリビアが、わずかに身を乗り出す気配を感じた。彼女は、完璧な淑女として、この場の不始末と、婚約者の失態を繕おうとするだろう。
(来るな…!来るな、オリビア!)
彼女の完璧な優雅さ、理知的な瞳が、今のフォルカルトには耐えられなかった。彼女に「泥に塗れた相手」として憐れまれることは、ルーカスに論破されたこと以上の屈辱だった。彼女は、常に貴族の『格式』を体現している。その彼女に、今、惨めに敗北した自分を直視されることは、彼のプライドが許さなかった。
「フォルカルト様…」
オリビアの澄んだ声が、彼を呼んだ。その声は、優しさではなく、義務と格式に満ちた、完璧な憐憫に聞こえた。
フォルカルトは、顔を上げずに、低く、喉を絞り出すような声で彼女の言葉を遮った。
「…私に構うな、オリビア…。その声で、私を哀れむな…! 貴女のその完璧な無表情が、私をどれだけ惨めにするか、貴女には分からないだろう!」
彼は、一歩、彼女から遠ざかった。
「貴女の優雅な淑女としての『義務』は、私には必要ない。その無駄なエネルギーを、私のような『泥』に使う必要はないだろう!貴女の完璧さを見れば見るほど、私が醜く、価値のない存在だと証明されるだけだ!」
彼は、ルーカスの言葉を借りて、オリビアのフォローを突き放した。それは、オリビアに対する怒りではない。ルーカスの冷酷な論理を認めてしまった、自分自身の無力さと、自己嫌悪の現れだった。
彼は、荒い呼吸を整え、一瞥もせずに、オリビアに背を向けた。
「…私は、もう気分が優れない。貴女は、ここで貴族の『宝石』として、その冷たい輝きを保つといい。私には、貴女の理屈ではなく、情熱が必要なのだ!」
彼の言葉には、皮肉と、そして、彼女の完璧さが自分をさらに惨めにするという、歪んだ羨望が込められていた。
フォルカルトは、その場から逃げ出した。彼の心に植え付けられたのは、ルーカスへの憎しみだけではない。それは、オリビアという完璧な光にすら見捨てられた、深い孤立と絶望だった。彼は、ルーカスの「影」から脱出するために、この学園でのすべてを、彼の打倒に捧げることを、固く誓った。
(俺は影ではない…!俺は…愛と情熱を証明してみせる…!)
その夜の「黄金の庭園」は、彼にとって、屈辱と、そして歪んだ誓いの場所となった。
フォルカルトは、オリビアの完璧な憐憫を振り払うようにして、ホールの隅の扉を押し開け、バルコニーへと足を踏み出した。夜の冷たい空気が、彼の熱を持った頬を撫でる。彼は、周囲の貴族の視線から逃れ、ルーカスの言葉と、オリビアの瞳に刻まれた屈辱を、一人で反芻したかった。
(あの男が…!あの男の言葉が、俺を『影』にした…!オリビアまでもが、俺を哀れんだ…!)
彼は、バルコニーの手すりを強く握りしめた。握りしめた手に、ルーカスの言った「泥」という言葉が、皮膚を通して染み込んでくるようだ。今、彼が求めているのは、理屈でも、ルールでもない。彼の魂を肯定してくれる、純粋な「感情」だった。
その時、バルコニーの扉が、僅かに開く音がした。
・・・・・
・・・
夜の帳が降りた「黄金の庭園」は、魔道具の光で煌々と照らされ、まさに「社交のルール」を学ぶ舞台そのものだった。しかし、男爵家の令嬢であるシスリーには、その場の貴族たちが繰り広げる会話や笑顔は、どこか遠い舞台劇のように見えた。
(あぁ、ここはなんて冷たい場所なの。誰もが仮面をつけ、誰もが計算し、誰もが真実の感情を隠している……)
彼女の手に握られた、恋愛小説の挿絵が描かれた栞が、この現実との乖離を物語っていた。彼女が求めているのは、形式的なルールや権力ではない。情熱、愛、そして運命の出会いだ。
その時、ホールの中心で、誰もが目を見張るような劇的な光景が繰り広げられた。ベルンハルト侯爵家の嫡男、フォルカルト・ド・ベルンハルトが、冷徹なルーカス・フォン・トレンスによって、公然と打ち砕かれる様。
シスリーの瞳には、その光景が、周囲の貴族たちが見た「失態」としてではなく、「偽りの世界に挑戦し、敗北した、孤高の英雄」として映った。他の者は誰も、彼の内なる傷に気づかない。しかし、彼女だけは、その屈辱に耐える横顔に、物語の「悲劇の王子」の影を見たのだ。
(あの方こそ、この冷たい世界で、真実の情熱を失いかけている……私が見つけ、救い出すべき物語の主人公だわ)
彼女の胸は、運命的な高揚感で満たされた。彼女は、彼の挫折の瞬間を、自分の物語の始まりだと確信し、彼の後を追って、ホールの隅の扉へと向かった。
「あの…ベルンハルト様、でいらっしゃいますか?」
背後からかけられた声に、フォルカルトは苛立ちを隠せない。こんな場所まで追いかけてくる愚か者がいるとは。彼は顔を上げずに、低く、威圧的な声で言った。
「下がるがいい。今は、誰にも会いたくない」
しかし、その少女は怯まなかった。それどころか、その声は、彼の威圧にも関わらず、強い憧憬と期待に満ちていた。
「申し訳ありません…っ。ですが、どうしても…」
フォルカルトは、ようやく苛立ちを爆発させ、勢いよく振り返った。
「しつこいぞ! 貴様、どこの…」
彼の視界に飛び込んできたのは、バルコニーの隅に、まるでスポットライトが当たったかのように立つ、一人の少女だった。
彼女は、他の令嬢たちとは少し異なる、地味なドレスを纏い、男爵家の紋章が見える。彼女の動きはぎこちなく、社交の場に不慣れな様子が窺えたが、その瞳は、一点の曇りもなく、真っ直ぐにフォルカルトを見つめていた。その表情には、彼の荒々しい苛立ちへの恐れよりも、それを上回るほどの無邪気な羨望と期待が宿っていた。
(貧乏男爵の娘か…場違いな)
その少女——シスリーは、緊張と興奮で全身を震わせながらも、勇気を振り絞っていた。彼女の瞳には、バルコニーの夜景と、そこに立つフォルカルトの姿が、今しがた読み終えたばかりの小説のクライマックスのように映っていた。彼は、華やかな場所から一歩身を引き、孤独と戦う、物語の王子のようだった。
「わ、わたくし、シスリーと申します。ベルンハルト様…」
シスリーの脳内で、物語の描写と目の前の現実が、一瞬でオーバーラップした。彼女の握る本のページが、強風に煽られたかのようにパラパラとめくれ、彼女の運命を決定づけた。
(あの方こそ…!私を見つけ出し、この世界の冷たいルールから救い出してくれる、運命の王子様だわ!)
「あなた様は、この会場で、ただ一人…! 貴族の仮面を剥がされ、悲劇の運命と戦っていらっしゃる方だと、わたくしには、分かります…!」
シスリーの無垢で、しかし熱烈な言葉が、彼の心を捉えた。この少女は、ルーカスの「効率」という冷たい論理ではなく、彼の「魂」が傷ついた事実を、まるごと肯定してくれる。
フォルカルトの胸の中で、ルーカスへの怒りが、シスリーへの感謝と「救済者」としての自己認識へと、一気に転嫁された。この少女の眼差しこそ、自分の真の価値を映し出す「新しい鏡」なのだと、彼は錯覚した。
「悲劇の運命」。「戦い」。それは、ルーカスに「無駄」「影」だと断じられたフォルカルトにとって、最も渇望していた言葉だった。
フォルカルトは、シスリーの言葉に、全身が凍りついたように動けなくなった。彼は、この少女を、彼のプライドを汚す「雑音」として、容赦なく追い払おうとした。しかし、彼女の瞳には、自分への屈辱も、憐憫も、一切存在しない。ただ、彼を物語の「光」として崇める、熱狂的な感情だけがあった。
シスリーは、フォルカルトの沈黙を肯定と受け取り、さらに一歩、彼に近づいた。
「わたくしは、あなた様の…魂の輝きを、信じています…! どうか、わたくしを、あなたの物語にお入れくださいませんか…?」
彼女の無垢で、しかし熱烈な言葉が、彼の心を捉えた。この少女は、ルーカスの「効率」という冷たい論理ではなく、自分の「感情」と「魂」を、まるごと肯定してくれる。
フォルカルトの胸の中で、ルーカスへの怒りが、シスリーへの感謝と「救済者」としての自己認識へと、一気に転嫁された。この少女こそ、彼の本当の価値を理解してくれる、運命の相手なのだと、彼は錯覚した。
彼は、まだ怒りに支配された表情をわずかに緩め、彼女を見下ろした。
「…シスリー嬢、か」
彼は、もうシスリーを追い払うことはできなかった。彼女の感情が、彼の心を繋ぎ止めた。そして、彼の口元に、傲慢な笑みが戻ってきた。それは、ルーカスに見せた「影」の顔ではない。ベルンハルト家の嫡男として、他者を見下す、いつもの顔だった。
「フン。そうか。どうやら、君は、この会場で唯一、真実の光を見抜くことができる、珍しい目を持っているようだな」
彼は、一歩シスリーに近づき、彼女の顎に指を添え、顔を上げた。
「よかろう。このベルンハルトが、今宵、この場所で、君の物語の始まりを、認めてやる。ただし、私の傍らにいるということは、私の『光』に付き従う、ということだ。それでも構わないのなら、ついてくるがいい」
彼は、シスリーの小さな手を、力強く握りしめた。彼の瞳には、シスリーの熱狂を利用して、ルーカスという怪物を打倒するという、歪んだ復讐心が燃え上がっていた。
(そうだ。私はベルンハルト侯爵家のフォルカルト・ド・ベルンハルトだ。学園の首席であり、次期侯爵家の家長。本来はこのような光を浴びるべき存在なはずだ!この娘の純粋な『感情』こそが、あの冷たい機械の論理を打ち破る武器になる。オリビアのような『形式』ではなく、この娘の『情熱』を掲げてこそ、俺はルーカス・フォン・トレンスの『影』から抜け出せる!)
その夜の「黄金の庭園」は、彼にとって、屈辱と、そして自己欺瞞に満ちた、歪んだ復讐の場所となった。