第八十九話 中央大食堂:配膳と派閥の衝突
王立総合学園の中央大食堂の昼休憩は、90分と長大だった。しかし、その配膳形式は、貴族の優雅なフルコースではなく、貴族の好みに配慮しつつも、効率化された半セルフ形式が採用されていた。
中央には、磨き上げられた金属製のロングカウンターが設置され、数種類のメインディッシュ──肉・魚・野菜料理と、多様な副菜が並べられている。生徒は、自分の好みの皿をレーンで選び、配膳人にトレイに乗せていく形式だ。これは、「学園の用意した配膳人や使用人しか入れない」という規律を守りつつ、多くの生徒に迅速に食事を提供するための、合理的なシステムだった。
ルーカスは、アルタイル寮の席が固まるエリアを避け、中央の配膳カウンターに並んだ。彼は、栄養価とカロリーを瞬時に計算し、効率の良いプレートを組み立てていく。
彼の隣に、ラスターバン寮所属の生徒、マティアス・ハルトマンが、興奮冷めやらぬ様子でトレイを押し付けてきた。マティアスは、今日の魔導学の授業内容に心底魅了された、真面目な秀才だ。
「トレンス侯爵!いや、ルーカス様!…お話したかった!先ほどのフィードバック制御と普遍的な技術の議論!あれは本当に革命的でした!ザイデマン教授の『魔力は才能依存』という古い常識を、理論で粉砕した!」
マティアスは早口で捲し立て、ルーカスのプレートに、無意識に副菜を一つ追加してしまった。
「私の家は、小型の魔道具を扱うのですが、ルーカス様の『減衰率の制御』の理論が広まれば、魔道具の量産化と価格破壊が一気に進みます!本当に…我々にとっては希望の光です!」
マティアスは、ルーカスが下位貴族や商会の利益を、「論理」という武器で守ろうとしていることを直感し、興奮していた。
「ハルトマン子息。落ち着きたまえ」
ルーカスは、追加された副菜を見て、わずかに眉をひそめたが、すぐに表情を戻した。
「論理は感情を抜きにして成立する。貴殿の『希望』は、あくまで『理論の副産物』として受け取っておこう。…そのキノコのソテーは、私にはカロリーオーバーだ」
その時、配膳レーンの横から、アンジェリカ・ルミナス・ド・ハートフィリア公爵令嬢が、侍女のミリアリアを伴い、軽やかに割り込んできた。
アンジェリカが強引に割り込んできた瞬間、彼女が振りまいた華やかな香水の香りが弾ける。それは高価なスパイスの香りと混ざり合い、ルーカスにとっては、その背後に潜む何かを覆い隠すための、あまりに厚すぎるベールのように感じられた。
「ルーカス、いた!ごきげんよう!あら?そちらの方は?」
「ごきげんよう。ハートフィリア嬢。彼は同じ寮生のマティアス・ハルトマン子息」
「あ、ハートフィリア公爵令嬢様…失礼しました」
マティアスは、公爵令嬢の登場に恐縮し、
「では、また後ほど!」
と慌ててその場を離れた。
「ねぇ、ルーカス、今度は何を論破するの?今日の魔導学、あの精密な魔力制御、最高に面白かったわ!」
アンジェリカは、ルーカスの「合理性」を、「面白い遊び」として捉えている。
「ハートフィリア嬢。次の授業でもそのような予定はありません。そして、私は論破したのでは無く、ただ一学生として質問していただけです」
ルーカスは、冷静に返した。
「いいじゃない。さあ、ルーカス、私たち、そこで食事しましょう!」
アンジェリカは、ルーカスのトレイを半ば強引に掴み、周囲の貴族の視線など気にもせず、空いている中位のテーブルへと歩き出した。
ミリアリアは、ルーカスの侯爵としての体面を気にし、青ざめながら謝罪する。
「申し訳ございません、ルーカス侯爵。アンジェリカ様は、その…自由な方で…」
ルーカスは、ため息をついた。
(第一王子派閥への接近という点では、都合のいい接触だ。だが、このお転婆といると俺の調子が狂う)
ルーカスは、アンジェリカとのなし崩し的な昼食を受け入れた。そのテーブルは、武門のアルタイル寮と学術のラスターバン寮が交錯する、目立たないが観察には最適な位置だった。
「いいじゃない、ミリー。ルーカスは、本当に面白いもの。ねぇ、ルーカス、今度はあのタップのリズムを魔力制御に応用するって、どういうことなのかしら?私、すごく興味があるの!それとね、またあのギターも聞かせて!」
アンジェリカの言葉は、急に「一年前の侯爵邸での出来事」へと飛び、ルーカスの冷徹な思考を大きく乱した。
「ここは学問を学ぶ場所であって、遊ぶ場ではありませんよ」
「そんなことないわ!」
アンジェリカは、ルーカスの言葉を遮った。
「あの『音の深淵』は、この世界の音楽とは違う『魂の叫び』よ!ねぇ、またあのギターでロックンロールを弾いてよ!私、また歌いたい!」
その時、配膳係がルーカスに頼まれた紅茶を置く小さな金属音が、中央大食堂全体が、一瞬静まり返った。
ホールの奥から、アイリス・ユークリッド・アナリュティカ・ド・アークランド公爵令嬢が、侍女を伴い、優雅な歩調でルーカスのテーブルへと近づいてきた。
(まさか、第二王子派であるアークランド公爵令嬢が、第一王子派閥のハートフィリア公爵令嬢と同じテーブルにつくのか!?)
(昨夜といい、トレンス侯爵は、二人の公爵令嬢を同時に誑かしているというのか…!)
アイリスは、ルーカスのテーブルの前に立ち、形式的な笑顔を浮かべた。
「失礼いたします、トレンス侯爵。そして、ハートフィリア公爵令嬢。このような場所で『親しいご歓談』とは、婚約者として、少し嫉妬してしまいますわ」
──最悪だ。効率性から見れば、この場の静寂、この視線の集中は、食欲を減退させ、その後の講義への集中力を削ぐ、純粋なエネルギーの浪費だ。
ルーカスは、穏やかながらも、僅かに冷たさを帯びた声で応じた。
「これは、アークランド公爵令嬢。まだ婚約は発表されていませんが、どうされましたか? 私は、学友との歓談をしているだけですが」
ルーカスは、「まだ発表されていない」という事実を強調し、レオナルドの性急な政治的アピールへの不本意を滲ませる。
──俺が発した言葉は、周囲への「プロパガンダ」だ。「トレンス侯爵家は、まだアークランド公爵家を正式に受け入れていない。支配下にはない」という、第二王子派閥に都合の良い虚偽の情報を周囲に流すための、最も効果的で効率的な手段。
だが、アイリスはそれを見透かし、さらにそれを上回る「カウンタープロパガンダ」で返してきた。
「まぁ、お冷たい事。その婚約者候補のわたくしとの公的な交流も、ご学友との私的な歓談より優先されるべき『将来の効率的な共同作業』への準備ではございませんか?」
アイリスはルーカスの論理を認めつつ、「将来の効率」という上位概念を持ち出し、優位性を確保する。
この女は、俺の行動を完全に理解した上で、それを「レオナルド殿下の手腕によるトレンス侯爵の支配」というストーリーラインに完璧に組み込んできた。これ以上の『貴族の義務』の強制は、むしろ反発を生む。適切なタイミングでの撤退。
「ごもっともでございます」
頭を下げた。感情はどこにもない。しかし、内面のシステムは警鐘を鳴らしている。
「ハートフィリア嬢は、先程までの授業に少々興奮しておられるようです。その無邪気な好奇心が、私の優雅な昼食の時間を乱しています。あなたであれば、この『感情的な乱数』の発生をどのように見ていますか?」
ルーカスは、アンジェリカという「不合理」な変数をアイリスに投げつけ、彼女の論理の土台を試す。
俺の計画にこの女の『合理性』を組み込み、その上でお転婆姫の『感情』という不純物まで処理する必要があるというのか。まるで、退屈な学園ドラマの、面白くない二股シーンに巻き込まれたような気分だ。…このエネルギーの浪費は、許容できん
アイリスは、ルーカスとアンジェリカの脈絡のない過去の共有のやり取りを見て、ある種の確信を抱いた。
──フフ…。この男は、再び、この少女の前で、この無垢な少女の前では、計算を乱され、制御を放棄しつつある。昨夜、貴族の伝統を嘲笑う野蛮な『踏み鳴らす舞踏』によって、学園全体を熱狂させた。彼の言う『効率』は、この『共鳴』の前では無力。これが、わたくしを拒絶した『壁』に隠された唯一の『隙』。わたくしの『力』を無効化してきた彼が、この少女の隣でだけ『未知の力』を解放する理由。この少女は、彼の『不合理な才能』を解き明かすための、最強の『鍵』ね。
アイリスは、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「あら、光栄ですわ、トレンス侯爵。わたくしこそ、この『乱数』を、貴方という『未知の変数』を解くための、最も重要な『ヒント』だと考えておりました。ですが、『計算』に組み込む前に、その因子が持つ『感情的な価値』を正確に測定する必要があるでしょう」
アイリスは、そう言って、アンジェリカの反対側のルーカスの隣に、優雅に、そして有無を言わさぬ威圧感を持って座り込んだ。
二大公爵令嬢が左右を固めるという、全生徒が羨望の眼差しを向ける「修羅場」の中心で、ルーカスはただ一人、テーブルの端にこびりついた「拭き残しの跡」を凝視していた。
「まぁ!アイリス様もご一緒なのね!素敵!ねぇ、ルーカス。ワルツを踊るより、『タップダンス』を踊りましょう?それとも
また一緒に『ロック』をする?ワルツなんて、みんな同じで退屈でしょ!あの時のロックの方が、ずっと面白いわ!」
アンジェリカは、アイリスの高度な論理の土台を一瞬で「退屈」という非論理的な言葉で掘り崩し、「タップダンス」という非貴族的な共通の体験を持ち出す。
──この少女は、侯爵家当主との公的な席を理解していないのか。『ロック』とは、一体、何を指すのか。粗野な地方の土着の祭りで披露される、不作法な舞のようなものだろうか。いずれにせよ、王立学園の中央大食堂という場に相応しい話題ではない。わたくしとトレンス侯爵の『真剣な会話』に、自らの立場も弁えずに割り込んできた、ただの躾のなっていないお子様の戯れ。わたくしを牽制するつもりで不合理な言動を繰り返しているのなら、それはあまりにも浅慮。
アイリスは、表情を崩さずに、アンジェリカに向かって、優しく諭すような、しかし内側には一切の感情を伴わない『貴族の笑み』を浮かべた。
「ふふ、ハートフィリア公爵令嬢。お誘いは光栄ですわ。ですが、わたくしとトレンス侯爵は今、公的な席におります。放課後の茶会で、また改めてそのような『自由なご歓談』の機会を設けましょう。どうぞ、午後の授業に遅れないよう、わたくしたちにお気遣いなく」
「トレンス侯爵、二大公爵令嬢の昼食を独占か..」
「アイリス様、完全にアンジェリカ様を子供扱いしてるぞ... 公的な席って..」
アンジェリカは、アイリスの言葉の裏にある威圧感や軽蔑を一切感じ取らず、ただ首を傾げて、何処までも明るく返した。
「あら?公的な場?ここ、お昼を食べる場所よ?それにまだ、ルーカスにお返事を貰ってないわ!ねぇ、ロック、弾いてくれるんでしょう?」
ミリアリアの焦りの囁きが続く。
(ちょっと!アンジェ! あんた何を言ってるのよ!アークランド様を刺激しちゃダメ!)
アイリスの瞳が、僅かに細められた。この少女の無知は、彼女の論理と美学にとって、最大の『不快な要素』だった。
アイリスの顔から、一瞬、完璧な笑顔が消えた。
「ハートフィリア公爵令嬢。ご質問は、論理性を欠いていますわ。昨夜の舞踏は、貴族の教養と格式を重んじる場において、『雑音』に過ぎません。その『雑音』を、わたくしとの『国の未来に関する真剣な協議』より優先せよと?貴方の倫理的優先順位は、どこか根本的に間違っているようですわ」
アイリスは、アンジェリカの論理の欠如を指摘し、「倫理的優先順位」という、貴族社会の規範の土台に彼女を引き戻そうと試みる。
「倫理的?」
アンジェリカは首を傾げ、テーブルに並んだ皿を指さした。
「でも、ルーカスが一番楽しそうな顔をしたのは、あのタップを踊っていた時よ?みんなの顔色を気にしながら、退屈なワルツを踊っている時じゃなくて!ねぇ、アイリス様は、楽しいことより、顔色を気にすることの方が大事なの?ルーカスは、そんな退屈な人じゃないわ!」
アンジェリカは、「倫理的優先順位」という論理を、「楽しいこと 」「顔色を気にすること」という感情的な二択に単純化し、アイリスの土台を再び引き下げる。
ミリアリアは、もはや頭を抱えそうだった。アンジェリカが言うことは正論だが、アイリス様の「持続可能な発展」という壮大な論理の前に、あまりにも子供じみている。
「アンジェ!お願いだから、もうやめて!この場を収めるために、私に、あと何度謝罪させたいの!?」
ミリアリアの悲痛な囁きは、アンジェリカの耳には届かず、彼女はアイリスを真っ直ぐに見据えたままだ。
エスカレートしていく2人の会話にルーカスは、蚊帳の外に置かれた。それゆえに、周囲から聞こえてくる囁きにうんざりしていた。
「嘘だろ... あれって完全に修羅場だよな…。アークランド公爵令嬢があんなにも..」
「トレンス侯爵、二股かよ!? いや、でもアンジェリカ様は完全に本命の女の顔してるぞ..」
「侯爵が二大公爵家を独り占めしようとしている。あの無表情の下は、さぞ愉しいだろうな!」
「婚約者候補とお転婆な想い人の昼食会?これ、絶対に
「正妻争いってやつか…」
ルーカスは混沌としていくその光景を、疲労にも似た辟易の念を込めて見つめた。アイリスの冷徹な探求心、アンジェリカの無邪気な情熱。二つの不合理な力がぶつかり、中央大食堂の視線が集中する。アンジェリカの屈託のない笑顔は、アイリスに対する敵意や、この状況への不快感といった、ルーカスの内面に生じかけた毒気を、まるで無効化するかのようだった。この場を支配するはずの効率的な論理は、今、二人の公爵令嬢の『不合理な勢い』によって完全に機能不全に陥っていた。
──この……!この少女は、わたくしが構築した『高次元の論理ゲーム』を理解できず、本能的な感性で、全てを台無しにする。楽しいこと? 貴族の義務を放棄して、自らの感情を優先することが、どれほどの非効率を生むのか、理解できない愚鈍さ。わたくしが求めているのは、貴族社会の最適化。この少女は、その最適化の最大の障害となる!
アイリスは、優雅さを保ちながらも、その瞳には明確な苛立ちが宿っていた。
「ハートフィリア嬢。貴方の言う『楽しさ』というものは、予測不能な感情に基づいた、極めて非効率的で刹那的な概念ですわ。対して、わたくしたちが語り合っているのは、数十年、数百年続く王国の『持続可能な発展』。貴方の視野は、あまりにも狭すぎます」
アイリスは、アンジェリカの「楽しさ」を「刹那的」と断じ、自身の論理を「持続可能な発展」という時間軸の優位性に乗せて、圧倒しようと試みる。
「数百年後のことなんて、誰も分からないでしょ?」
アンジェリカは、パッと顔を輝かせ、屈託なく笑った。
「それより、今、ルーカスと私は一緒にいたいの!ねぇ、アイリス様。そんなに遠い未来より、今この時のワクワクの方が、ずっと確実でリアルじゃない?」
アンジェリカは、アイリスの「時間軸の優位性」を、「不確実な未来」「確実な現在」という存在のリアリティで崩してしまう。
……マジで勘弁してくれ。さっきまで、俺とこの女は国家の最適化と知的遊戯の土台で、最先端の議論をしていたはずだ。それが、『楽しいか、退屈か』、『今か、数百年後か』という、幼稚な二元論に成り下がっている。高度な論理は完全に崩壊し、もはや公爵令嬢たちの取っ組み合いだ
ルーカスは、大きくため息をついた。
──
彼の口元がわずかに歪む。完全に蚊帳の外に置かれ、二人の公爵令嬢の言い争いに呆れ果てた表情だった。
二大公爵令嬢が左右を固めるという、全生徒が羨望の眼差しを向ける「修羅場」の中心で、ルーカスはただ一人、この場とは全く無関係な場所に意識を飛ばしているように見えた。
彼は、さきほど配膳人がテーブルを拭いて去った、その雑巾の「軌跡」をぼんやりと目で追っていた。
アイリスが「国家の未来」を語り、アンジェリカが「今この時のワクワク」を説く。その高次元と低次元が激突する喧騒のただ中で、ルーカスの視線は、テーブルの端に僅かに残った、乾きかけの水の輪染みに釘付けになっていた。
アイリスは、アンジェリカの本能的な反撃に、優雅な仮面の下で、制御不能な怒りを感じていた。
「……トレンス侯爵」
アイリスは、冷静さを装いながら、ルーカスに視線を向けた。
「貴方の『合理性』の土台に、この『非効率的な感情の乱数』を組み込むのは、可能ですか?それとも、貴方は、この程度のノラ猫の介入すら、予測できなかったという、致命的な欠陥を抱えておられるのですか?」
アイリスは、ルーカスを「論理ゲームの蚊帳の外」から引き戻し、「予測不能な変数への対処」という、新たな高度な論理の土台へ強制的に押し上げることで、主導権を取り返そうと試みた。
ルーカスは、アイリスの挑発と、アンジェリカの無邪気な好奇心という、二つの相反する視線を受け止めた。彼は、再び、「ハイスクールドラマ」への出演を余儀なくされたことに、内心で深くため息をついた。
「…その手の『茶番の結末』を私に聞かないで頂きたい。オルスタイン嬢が、貴女方の『非効率的な喧騒』に、さらに苦労を重ねる前に、速やかに、この議論を中断することを提案します、アークランド公爵令嬢」
ルーカスは、アンジェリカの侍女であるミリアリアへの配慮という、「不合理な感情」をあえて持ち出し、「喧騒の速やかな中断」という実利的な効率性を理由に、この茶番劇からの離脱を宣言した。
彼は、アイリスとアンジェリカの二つの視線を無視し、配膳されたばかりのスープに、静かに手を伸ばした。
……飯が冷める。これ以上の非効率は、許容できん