幕間:秩序の中の
中央大食堂へ向かうゼオン・ド・フィアットは、二限目の魔導学で受けた屈辱を、ただの論争ではなく「王国の教養と秩序を侮辱する暴言」として反芻していた。
「……クララ。あの男は、『才能』を否定し、『普遍的』なものがすべてだと宣う。それは、我々が何代にもわたり、血と汗と、そして教養をもって積み重ねてきた貴族の義務を、一瞬で『欠陥品』と断じる行為ではないか!」
ゼオンの憤りは、彼の魂が信じる「貴族の美徳」が、ルーカスの冷徹な論理によって踏みにじられたことへの純粋な怒りだった。
「そして、不可解なのは、ザイデマン教授だ!トール教授が規律で敗北したというのに、なぜザイデマン教授は、あの男の、基礎魔導の範疇を逸脱した異端の空論を、公然と授業で認めたのだ!?あの男は、学園の秩序と王国の学術の根幹を、根こそぎ乱しているというのに!」
彼の思考は、「正しいことは認められ、正しくないことは排されるべき」という、単純で揺るぎない正義に基づいている。それゆえ、教官という権威がルーカスの「無秩序」を許容している現状が、彼の世界観を激しく揺さぶっていた。
ゼオンの憤りは、ルーカスの論理そのものよりも、その論理が「貴族の教官たちによって、規律を破っても許されている」という、貴族社会の「秩序の矛盾」に向けられていた。彼の正義にとって、権威が異端を黙認する状況は、世界の崩壊にも等しい。
「ゼオン、感情的にならないで」
クラリーベルは、冷静に彼の激情を受け止め、歩調を合わせた。
「貴方が憤るのは理解できる。貴方が信じる『地道な努力』と『純粋な献身』こそが、王国の貴族が持つべき最も尊い徳だという点は、わたくしも疑わない。貴方のその愚直さこそが、フィアット家の誇りよ」
彼女は、ゼオンの正義感を認めることで、彼の緊張をわずかに和らげた。
「けれど、だからこそ、あなたは『優雅な貴族の作法』を、『無骨な剣』のように使ってはいけないわ。思い出して。一限目、トール教授を論理で下したルーカス侯爵に対し、あなたが感情的に発言しようとした時、わたしはなぜ止めたの?」
ゼオンは、悔恨の念を込めて答えた。
「……授業内容への介入は、『秩序を乱す者』として扱われる、と。私が彼に論理で負け、その上、規律でも罰せられるという、二重の醜態を避けるためだ」
「その通りよ」
クラリーベルは、諭すように続けた。
「あのトレンス侯爵は、私たち貴族が『優雅さ』や『血筋』によって無視してきた、『法の厳密性』や『公的な規律』という、最も無味乾燥で冷たい武器を完璧に使いこなす。彼の論理が異端であろうと、教授がそれを黙認しようと、私たちには関係ない。彼を打ち負かすには、彼の土俵で、彼の武器より、さらに鋭利な規律の剣を突きつけるしかない。私たちが『公の場』で感情的に割って入れば、彼の『規律』という罠にかかり、無秩序の罪を負うのは私たちよ。良いわね?貴方がすべきは規律を守りながら、彼の論理の『穴』を正確に突く。それこそが、貴族としての『正しい戦い方』よ」
クラリーベルの指摘は、ゼオンの純粋な激情を、「貴族の体面」と「効率的な戦略」という現実的な視点で再び縛り付けた。
「……わかっている。クラリーベル。彼の異端な論理は、必ずどこかで、『王国の定められた秩序』という名の矛盾に突き当たるはずだ。その時こそが、私が彼を正す時だ」
彼は、ルーカスが「論理」で打ち砕いた「規律」を、今度は自らの「正義」を貫くための「盾と剣」として利用することを決意した。
二人が中央大食堂に入ると、まずその空間の荘厳さに圧倒された。巨大な石造りのホールは、高く組まれたゴシック様式の天井を持ち、磨き上げられた石床は窓から差し込む冬の光を反射して煌めいていた。
中央には、磨き上げられた金属製のロングカウンターが設置され、数種類のメインディッシュと多様な副菜が、まるで祝祭の食卓のように並べられていた。これは、「王立学園の生徒」という身分を持つ者だけが享受できる、贅沢と効率の融合だった。
ゼオンは、ルーカスへの怒りで顔を赤くしていたが、その視線は、一瞬にしてカウンターの料理に引き寄せられた。
「……クララ、見てくれ…」
彼は声を潜めた。目の前に並ぶ料理は、彼のような下位貴族家では、領主の祭礼でしかお目にかかれない品々だった。
カウンターには、香辛料を贅沢に使い、蜂蜜と林檎の酸味で煮込まれた仔牛肉のパイ包みが山と積まれ、その隣には、サフランで炊き上げられた米と魚介の煌びやかな盛り合わせが湯気を上げていた。仔羊の腿肉は香草と塩で焼き上げられ、ナイフを入れれば滴る肉汁が、赤ワインとベリーの濃厚なソースと混ざり合う光景は、彼にとって「富と力の具現」そのものだった。
「このサフランの魚料理! わが家の食卓に上がったのは、香草と煮ただけの普通の魚だったというのに……。上位貴族の家では日常なのか?」
クラリーベルは、ゼオンの俗物的な興味を静かに見つめた。彼女もまた、公爵家出身ではないため、この贅沢さを理解していた。
「ゼオン、王立学園は、『王国の未来を育成する場』。食事の質と量は、貴族の士気を保つ上で最も重要な投資よ。貴族の嗜好に合わせた半セルフ形式は、個々の贅沢を許容しつつ、規律も守らせるという、合理的な形なの。トレンス侯爵のような『効率至上主義者』が、この環境を最大限に利用しようとするのは当然だわ」
クラリーベルは、冷静に食堂のシステムを分析した。彼らはトレイを押し進め、配膳人に料理を乗せてもらう。このプロセスですら、秩序と規律が保たれていた。
二人はアルタイル寮の定席に向かい、席に着いた。ゼオンは早速、ナイフとフォークを手にし、パイ包みに切り込みを入れた。
「……うん!」
彼が発したのは、感嘆の一言だった。香草と煮込まれた仔牛肉の濃厚な旨味が、口の中で広がり、先程までのルーカスへの激しい苛立ちは、一瞬にして美食の歓喜へと変わった。
ゼオンは興奮しながらも、仔羊の腿肉の柔らかさに意識が引き戻された。
「……ああ、この仔羊の腿肉は絶品だ!肉の質がまるで違う。まるで羊飼いの夢のようだ」
クラリーベルも、サフランの魚介の盛り合わせを一口運び、優雅に口元を拭った。彼女の表情にも、満足の色が浮かんでいた。
「まったく、単純ね、ゼオン。先程までの怒りはどこへやら。この豪華な食事一つで、あなたの正義感も一時休戦というわけ?」
「揶揄うのはよしてくれ、クララ」
ゼオンは、顔を赤くしたが、すぐに好奇心に目を輝かせた。
「しかし、クララ。大貴族たちは、毎日こんなに豪勢なのか……?」
クラリーベルは、ワイングラスを傾け、中央大食堂全体を見渡しながら、冷静な声で答えた。
「毎日ではないでしょう。しかし、トレンス侯爵のような高位貴族の『日常の基準』は、我々が考えるよりも遥かに高いのでしょうね」
彼女はため息にも似た息を漏らした。
「それも、上位貴族の権利と義務なのでしょう。王国の富を滞らせず、その豊かさの象徴を示す。それが、彼らに許された『規律』の一つ。我々が、学園の規則を守るのと同じくね」
ゼオンは、再び仔牛肉を口に運びながら、その言葉を反芻した。ルーカスの持つ富、そして彼に許された『上位の規律』。それは、彼が今抱える怒りの根源である、「異端の侯爵」という存在の圧倒的な高さを、改めて突きつけるものだった。
彼らは束の間、ルーカスへの苛立ちを忘れ、「貴族としての権益と義務」、そして王立学園の美食について談笑していた。
クラリーベルは、この秩序こそが貴族社会の価値だと確信していた。
・・・・・
・・・
しかし、その完璧な秩序は、食堂の中央、ルーカスのテーブルエリアで、突如として破綻した。
「……馬鹿な」
ゼオンは目を疑った。アイリス・アークランドとアンジェリカ・ハートフィリアという、王国で最も話題と地位を独占する二人の公爵令嬢が、ルーカスを挟んで座り、公然と言い争いを繰り広げている。
「あの男は、何を仕掛けているんだ!? なぜだ、クララ!? 彼は我々に『規律と論理を守れ』と命じながら、自分は庇護せねばならないご令嬢方を弄び、公的な秩序を乱しているではないか!彼は、『高貴な義務』と『卑劣な私欲』を同時に行使している。あのような高貴なご令嬢方の威厳を汚し、私的な痴情の道具とすることは、騎士たる王国の貴族として許されるはずがない!」
ゼオンの怒りが込み上げる横で、クラリーベルは、その非論理的な集中の中心にいるルーカスを凝視した。
「……意外ね」
クラリーベルの硬質な声が、ごくわずかに抑揚を帯びた。
「午前中、あれほどまでに『普遍的な論理』と『規律の厳密性』を弁舌で披露し、ザイデマン教授の権威を論理で打ち砕いた『論理の権化』が」
彼女は、銀のフォークを静かに皿の上に置いた。
「よりにもよって、この王国の命運を分ける二大派閥の筆頭格を相手に、こんな『痴情のもつれ』を公の場で露見させるなんて。まるで、論理を失った下位貴族の茶番を見ているようだわ」
彼女が信奉する「冷徹な合理性」と、ルーカスの目の前で起きている「俗悪な喧騒」との間の矛盾は、あまりにも大きすぎた。
「彼のこれまでの改革の噂や、今日の授業での『フィードバック制御』といった実績から見て、彼が王国の支配層との関係構築を怠っているとは思えない。むしろ、この二大公爵令嬢との接触は、何らかの『政治的な関係性』があることは理解できるけれど……」
クラリーベルは、アンジェリカの無邪気な笑顔が、アイリスの冷徹な合理性を「退屈」という一言で崩していくのを見た。
(論理と規律の全てを知り尽くした、あの異端の侯爵が、なぜ、この最も非効率的な『感情の乱数』に、自ら巻き込まれているの?)
彼女の理知的な瞳は、その理由を見抜くことができなかった。彼の行動が、「効率的な論理」という彼女の予測を超えた「不合理な領域」にあることに、ただ困惑するしかなかった。
ゼオンが怒りを込めて声を絞り出す中、一人の生徒がトレイを手に近づいてきた。トレンス侯爵家と取引のある商会の次男坊、アルタイル寮のヴェクター・ウィルソン、通称ヴァイスだ。
「やぁ、知的なお嬢さん。隣いいかな?」
ヴァイスは、空いている席にトレイを滑り込ませようとした。
クラリーベルは、顔を上げ、ヴァイスを一瞥した。その視線には、侮蔑すら含まれていなかった。ただの「取るに足らない要素」を処理する、冷たい事務的なものだ。
「ウィルソン子息。わたくしは、貴殿との相席を許した覚えは無いけれど?ここはアルタイル寮生の中でも、軍門を志す者のための定席です。商会の子息には、別の場所が相応しいのではなくて?」
クラリーベルの言葉は、ヴァイスを拒絶する規律の壁だった。
しかし、ヴァイスはまったく表情を崩さなかった。
「これは失礼。お嬢さんのその知的でクールな応対も、また魅力的ですね。貴族の規律は難しい。では、フィアット子息、そちらの隅っこを拝借しても?」
ヴァイスは、クラリーベルの拒絶を「口説き文句への返答」として処理し、今度はゼオンに親しみやすい笑顔を向けた。
ゼオンは、突然向けられた親しみやすい笑顔に戸惑いながらも、その笑顔に、どこか安堵を覚えた。
「ああ、構わない……が」
ヴァイスは、席につくと、すぐに中央の騒ぎを指し示した。
「いやはや。トレンス殿は男としても僕らの上を行くみたいだね。
論理で教授を叩きのめし、昼飯では二大公爵令嬢を独占ときた。しかも一人は婚約者、もう一人は対立派閥の筆頭格! あやかりたいものだ、本当に」
ヴァイスは、その状況を「男としての成功」という、最も俗物的な視点で単純化し、周りの生徒たちが内面で抱く「嫉妬と羨望」を代弁していた。
ヴァイスは、ゼオンの顔を見て、まるで共感を示すかのように、声を落とした。
「僕には、皆様のような天上の方々の論理は分かりませんが、フィアット子息の『正義』というのは、分かりやすくて好ましいですよ。ああいう公の場での無秩序は、規律を重んじるフィアット子息にとっては、さぞ不快でしょうね」
ゼオンは、ヴァイスの浅薄な言葉の中に、ようやく「自分の正義を理解してくれる者」を見つけ、僅かに目を見開いた。
「……ウィルソン子息。貴殿のような立場の者が、それを理解してくれるとは意外だ」
「いやいや。僕らは商売人ですからね」
ヴァイスは、声を潜めたまま、続けた。
「僕らが扱う商品には『信頼』が一番必要なんですよ。そして、この王国の『貴族の規律』こそが、その信頼の源だ。規律を乱すのは、商売の邪魔ですよ。特に、フィアット子息のように純粋な正義感を持った方がいるからこそ、僕ら商人も安心して商売ができるんです。あのトレンス侯爵の今日の無秩序な振る舞いは、貴族の基盤を崩す行為だ」
ヴァイスは、「商売の信頼」を「貴族の規律」にすり替えることで、ゼオンの純粋な使命感を正面から肯定した。ゼオンは、張り詰めていた感情の糸が緩むのを感じた。
クラリーベルは、二人のやり取りを、冷たい視線で見つめていた。
(このウィルソン子息は、極めて浅はかね。彼の言う『商売の規律』は、ゼオンの『貴族の義務』を矮小化し、表面的な同調で取り入ろうとしている。取るに足らない雑音だわ)
彼女は、ルーカスの高度な論理的異端性を分析する貴重な思考時間を、この俗物的な「雑音」に邪魔されていることに純粋に苛立っていた。
「ウィルソン子息。貴殿のその『男としての成功』や『商売の規律』といった低俗な話題は、わたくしたちのテーブルに相応しくないわ。貴殿がトレンス侯爵を分析するのなら、せめて彼がアイリス公爵令嬢に投げかけた上位概念で論じなさい。『普遍性の論理』と『二股の醜聞』。どちらが、より『王国の持続可能な発展』に寄与するか、分析なさい」
クラリーベルは、ヴァイスを「適当にあしらう」ため、高度な課題を提示した。
しかし、ヴァイスは、その高度な論理に気圧されることなく、軽く肩をすくめた。
「そりゃあ、決まってますよ、アウレリア嬢」
ヴァイスは、中央のルーカスを指さした。
「目の前の女性(現実)に、こんなにも振り回されているトレンス殿の姿ですよ。論理なんて、僕らには頭の良い人の『お遊び』に過ぎない。でも、美人が男を取り合うなんて話は、平民から貴族まで、誰にでもわかる『真実』だからね。論理よりも『噂』の方が、人を行動させる力があるってことですよ」
ヴァイスは、中央の喧騒を見ながら、わざと大げさに肩をすくめて、笑みを浮かべる。
「それにしても、僕らから見たら、トレンス侯爵も大変だ。公爵令嬢二人に挟まれて、顔は青ざめてるし、冷めたスープに手を伸ばしてるし」
彼は、周囲の他のテーブルにも聞こえる程度の、しかし茶化すような声で、扇動するように続けた。
「婚約者と、破天荒な恋人を同時に相手するなんて、『二股の麒麟児』って噂、すぐに広まりますよ? まぁ、そんな小競り合いも、結局は『優雅な貴族の恋愛』の範疇なんでしょうが。しかし、アイリス嬢との婚約ねぇ」
ヴァイスは、親指と人差し指で、周囲の視線の集中を摘まみ上げるジェスチャーをした。
「第二王子派閥筆頭格と噂の麒麟児が手を取り合う。この王国は安泰だな。 結局、トレンス侯爵も、政治的な『安定』という最大のルールに従うってことでしょう。僕ら商人としては、安泰が一番ありがたい」
「論理よりも『噂』の方が、人を行動させる……」
クラリーベルの顔から、冷静な仮面が微かに剥がれた。彼女が信奉する「効率的な論理」が、「感情的な扇動」の前では無力であるという、貴族社会の最も醜く、しかし最も確実な真実を、ヴァイスの俗物的な言葉が突きつけてきたからだ。
(彼は、論理的な厳密性と、俗悪なスキャンダルという、対極にある二つの武器を同時に使いこなしている……。この俗悪な光景こそが、彼を最も危険な存在にしている)
ルーカスは、論理の厳密性で支配構造を攻撃しつつ、感情的な醜聞の中心に自らを置くことで、「論理の先にある『政治的な不合理』」という、強固で予測不能な地位を確保しているのではないか。
「……トレンス侯爵も、案外、俗物的なところもあるのね。私的な場面では、優雅な体面よりも、非効率的な情熱を選ぶとは……。この騒ぎが、彼の地位を不安定にしなければ良いのだけれど」
クラリーベルは、この理解不能な状況を、「人間的な欠陥」という枠の中に収めることで、自身の論理体系の崩壊を一時的に回避した。しかし、その内面では、ルーカスの「論理的な脅威」に加えて、「俗悪な扇動者」という、新たな危険性を感じ取っていた。
ゼオンは、ヴァイスの言葉に共感し、ルーカスへの個人的な憎悪を深める一方で、クラリーベルは、ルーカスの論理と感情の二重の異端性に、深い警戒心を抱くしかなかった。
「結局、アイリス嬢との婚約は、第二王子派閥の安定のための『政治的なルール』なんだろうけど……彼が本当に愛を選んだのか、それとも『安泰』を選んだのか。僕ら商売人には、そっちの方が興味深い。論理より、王国の安泰という最大のルールが優先、ってことでしょう」
彼女は、ルーカスが計算外の人間的弱点を持っていると考えることで、彼の論理的な脅威を一時的に矮小化させた。ヴァイスは、そのクラリーベルの「安堵」にも気にもせずに、軽薄な笑いを続ける。
「それに、不安定になった方が、僕らにもチャンスがあるってもんだ」
クラリーベルは、そのヴァイスの俗悪な言葉に、もはや怒りを通り越して、深い疲労を感じていた。