剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第九十三話 下水からの宣戦布告

 

第九十三話:権威の完成と予期せぬノック

 

 

アメリア・フォン・グロースハイム伯爵夫人は、重厚なマホガニーの机にペンを置いた。夜の帳が窓の外を覆い、王立総合学園の荘厳なシルエットが闇に沈む。彼女の胸には、昨夜の学園長会議で打ち立てた「対抗と吸収」の戦略に対する、完璧な確信が満ちていた。

 

「排除はしない。論理で対抗し、彼の知識を王国の財産として、より強固な貴族の秩序の中に組み込む」

 

ルーカス・フォン・トレンス侯爵は、確かに数百年先の論理を持つ「異端の教師」だ。だが、彼女は数百年続く王国の権威を統括する存在。彼の「論理の暴力」に対し、貴族の「倫理と統治」という枠組みで迎え撃つ準備は整った。

その時、扉がノックされ、侍従が静かに現れた。

 

「学園長閣下、夜分に恐れ入ります。トレンス侯爵閣下がお目通りを求めております」

 

アメリアの指先が、わずかに緊張で冷たくなった。予想していた「対抗」は、教授たちが彼の論理を咀嚼し、反撃の論理を構築した後、数日か一週間後に訪れるはずだった。

 

「議題は?」

 

「学園の『未来の基盤に関する緊急の相談』と……」

 

アメリアは侍従を下がらせ、深呼吸した。彼女は即座に理解した。ルーカスは、教授たちを論破して論理を植え付けた直後、最高権威である自分に直接接触を図ってきた。これは、「学園の権威」を自身の改革の『正式な承認機関』として利用する、極めて侵略的で、時間を許さない戦略だ。

 

「通しなさい」

 

最も卑近で、最も致命的な一撃

 

ルーカスは夜会服のまま部屋に現れた。その態度は、慇懃無礼なほどに丁寧だが、その冷徹な瞳は、交渉というより「宣言」を意図しているように見えた。

 

「夜分遅くに恐縮でございます、グロースハイム学園長。王国のため、そしてこの学園の未来のために、緊急でご相談すべき議題がございます」

 

アメリアは優雅に椅子を示したが、彼は座らなかった。立ったまま、まっすぐに彼女を見据える。

 

「ありがとうございます。議題は、この王立総合学園の最も根幹をなす『秩序』についてです。具体的には、衛生設備の稚拙さについて、ご相談させていただきたく」

 

アメリアは一瞬、眉をひそめた。衛生設備? 算術の革命でも、魔導技術の独占でもなく、汚物処理だと?

 

「衛生設備、ですか。それは……学園の維持管理部門に属する範疇かと存じますが」

 

「維持管理部門、ですか。それは、『犬猫と変わらない』状況を『慣習』として放置することを、優雅な貴族の義務として容認することに他なりません」

 

ルーカスの声には、抑えがたい苛立ちが混じっていた。

 

「学園長閣下、貴族が、優雅な衣装をまとい、神聖な論理を語り、高度な文化を享受しながら、その足元では、排泄物を不衛生な方法で処理し、疾病を招き、自らの生命の秩序すら管理できていない。これは、『貴族の優雅さ』を語る以前の、『文明人としての最も耐え難い屈辱』です」

 

(なんと……)

 

アメリアは愕然とした。彼女が先程構築した対抗策は、全て「高次元の形式」の上で成立していた。だが、ルーカスが突きつけたのは、「優雅さ」という貴族の最大の虚栄の「下水」だった。貴族社会が「優雅さに欠ける」として慣習的に無視し続けてきた、最も低次元で、最も無視できない論理の穴。

 

彼女の築き上げた権威の土台が、汚れた水によって侵食されるような感覚に襲われた。この論理を否定することは、貴族自身が不潔で無秩序であることを認めることになる。

アメリアは、この「低位の論理による奇襲」に、全身の血が一瞬にして冷えるのを感じた。

 

(まさか、私の『高次元での対抗策』が完成する前に、彼は『最も卑近な論理』で、学園の根幹の秩序を揺さぶりにかかってきたか!この小僧は、形式的な優雅さという概念を、徹底的に利用し、破壊するつもりだ!) 

 

圧倒的なスピードの暴力!

 

アメリアは瞬時に平静を取り戻し、優雅な笑みを浮かべた。貴族の権威は、簡単には崩せない。

 

「……侯爵閣下。貴公の指摘は、『文明の秩序』という点で、極めて厳密で論理的なものです。よろしい。貴公の提案を、『王立総合学園の環境基盤再構築プロジェクト』として、受け入れましょう。その詳細な契約と計画について、改めて論理的な協議を願います」

 

ルーカスは微かに口角を上げたが、その表情はすぐに冷徹なものに戻った。

 

「感謝いたします、学園長閣下。しかしながら、『協議』の時間はございません」

 

ルーカスは、背後の侍従に合図した。そして、まるで石の柱のように積み上げられた、分厚い計画書が、彼女の机の上に、ドサッと音を立てて叩きつけられた。その音は、優雅な学園長室において、容赦のない論理の暴力のように響き渡った。

 

「これが、『王立総合学園 環境基盤再構築プロジェクト』の最終設計図、資金計画、そして法務草案です」

 

アメリアは、その圧倒的な書類の厚さに息を飲んだ。一日で、これほどの詳細で、王国の未来を変えるレベルの計画を、彼は完成させたというのか?

 

「トレンス家が全額を融資することで、『貴族的な時間のかかる承認プロセス』を全て省略できます。これにより、即日着工が可能となります」

 

彼の口調は、議論の余地も、協議の余韻も与えない、断定と命令の響きを持っていた。彼は、「承認せよ」とは言わなかったが、その異常なまでのスピードと、完全無欠な計画の論理が、それ以上の圧力を放っていた。

 

(この速さ、この厳密さ……これこそが、彼の真の武器か。論理の優秀さだけではない。論理を実行に移すスピードそのものが、我々の権威に対する最大の挑戦だ!)

 

彼女が「論理で対抗する」ための準備期間は、彼の「即日着工」という圧倒的な速度によって、開始前に完全に無力化されたのだ。

アメリアは、その書類を前に、抵抗の言葉を選ぶことをやめた。抵抗する余裕がなかった。

 

「……トレンス侯爵。貴公の……『緊急を要する論理』、しかと拝見いたしました。その厳密性と、王国の未来への献身を評価しましょう」

 

アメリアは、重々しくペンを取り、決意を込めて署名した。

「このプロジェクトを、学園長の権威をもって直ちに承認する。貴公の設計した『清潔という秩序の基盤』の構築に、即座に取り掛かりなさい」

 

ルーカスが満足した表情を浮かべたのを見たアメリアは、彼が去った後、静かに椅子にもたれかかった。

 

「……面白い。公衆衛生という、最も低次元の論理で、私とこの学園の論理的砦を崩したか」

 

彼女の表情は、敗北の悔しさというより、長年の停滞を打ち破られたことへの、教育者としての戦慄と高揚に満ちていた。

 

「この小僧こそ、我々が数百年先の王国の秩序を理解するための、最も手ごわい教師。……久しぶりに、私自身が挑戦者になった気分だ」

 

アメリアは、窓の外の闇を見つめた。夜の帳の下で、王立総合学園の地下には、若き覇王が仕掛けた「清潔という秩序」の戦いが、今、始まろうとしていた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

屈辱の残響とAlphaの監査

 

 

学園長室の重厚な扉が背後で閉まる音を聞きながら、ルーカス・フォン・トレンスは長い廊下を、ほとんど早足で進んでいた。外は深夜の静寂に包まれているが、彼の心臓はまだ、昼間の激戦と、直前の「衛生プロジェクト」の強行採決による高揚と苛立ちで脈打っていた。

 

(あの厚さの書類を叩きつけ、半ば強引に即時承認を勝ち取った。これで着工だ。これで、あの耐え難い「屈辱」から解放される……)

 

彼は、アメリア学長が示した、一瞬の驚愕と、それに続く毅然とした「対抗」の決意を正確に読み取っていた。彼女は賢明だ。論理で戦うことを選んだ。だが、彼女の反撃の準備が整う前に、彼は「最も卑近で、最も生活に直結する論理」という、文字通りの下水からの奇襲で、学園の権威に風穴を開けた。

 

しかし、この勝利の直後にも関わらず、ルーカスの表情は晴れやかではなかった。むしろ、深い自己嫌悪と苛立ちが張り付いていた。

自室の扉を開け、静かに施錠した後、彼はネクタイを、無造作にベッドに投げ捨て、ソファに深く沈み込んだ。

 

「……Fuck it!」

 

俺は壁に向かって低く呻いた。勝利の達成感は微塵もなく、あるのは自己への苛立ちと、心底からの嫌悪感だけだった。

 

What the actual hell!(俺は…!何をやっていたんだ!)何故、こんな根本的なことを見落としていた…!」

 

それは数時間前、初日の授業が全て終わり、寮の自室に戻った直後のことだった。

 

 

 

 

【時間遡行:授業終了直後】

 

 

自室に戻り、俺はまずソファに腰掛けた。今日の授業で仕掛けた『魔力制御の普遍性』という論理的爆弾の余波で、頭は冴えわたっていた。

 

「Alpha、今日の授業の教授たちの反応を分析しておけ。そして、昼食時の『二大公爵令嬢の衝突』という非効率的イベントから、得られた『感情の乱数データ』を抽出しておけ」

 

『了解。ただし、貴方が前夜に命じた「衛生基盤緊急監査プロトコル」が、先程完了しました。監査結果について、直ちに最優先で報告します』

 

「衛生監査?ああ、あの廊下で感じた、わずかな複合臭の件か。まあ、中世レベルに毛が生えた程度だろう。大した問題ではないはずだ。後でまとめて聞く。まずは、アークランド令嬢の『論理的なカウンタープロパガンダ』の解析を――」

 

『否定。貴方の予測は論理的な観点から致命的な欠陥を内包しています。貴方は、この王都の形式的優雅さを、古代ローマの衛生基盤と無意識に混同し、基礎構造の有無を見誤りました。王立総合学園の衛生レベルは、貴方の記憶アーカイブとの対比において、「中世レベル」という表現では不十分です』

 

「待て。あの廊下で感じた臭気は、確かに不快だったが、ここまでの危機を示唆するほどではなかったはずだ。この学園には、低レベルの分解魔術か、強力な消臭魔導具が常時稼働している、と判断していたが?」

 

Alphaの声は常に無機質だが、その警告のトーンが、俺の神経を逆撫でする。俺は椅子に座り直した。

 

『肯定。学園内の主要区画には、貴族の美意識を優先した感覚的消臭魔術が施されています。これにより、揮発性腐敗物の臭気は大幅に軽減されていますが、汚染物質自体――致死性バクテリアや菌類――の分解・無害化は、ごく限定的です。貴方は、形式的な優雅さがもたらす「嗅覚的な虚飾」に欺かれ、「データの現実」を見落としました』

 

『解析結果:学園内の汚水・雑排水システムは、大部分が「垂れ流しと一時貯留」に依存。寮区画、特にラスターバン寮裏手の暗渠における汚染物質濃度は、致死性感染症の発生閾値を平均500%超過しています。結論:この環境は、貴方の故郷の価値基準では「人類の居住を前提としない非衛生的野営地」と同等です。このシステムを放置することは、貴方の生命と、貴方が護るべき領民の基盤を脅かす、最も緊急性の高い脅威です』

 

俺の表情から、血の気が引いた。優雅な貴族たちが闊歩し、神聖な論理が語られる場所が、ペストやコレラといった感染症の温床であり、自らの領地のシステムが破壊された荒野に等しいという事実。

俺は、自らがその「簡単な事実」を、「高度な論理」という虚飾に囚われて見落としていたことに、耐え難いほどの自己嫌悪と焦燥を覚えた。

 

「――馬鹿な、俺は……!文明の最も基礎的な論理である清潔さを、この世界の薄っぺらい『優雅な慣習』という名の香水に欺かれて、見誤っていたというのか!最も肝心な『生命の防衛線』の崩壊を、この俺が看過していた!」

 

俺の頭に、前世の軍人としての「危機管理能力の欠如」を糾弾する声が響いた。この事実は、俺にとって最大の『屈辱』だった。

 

「Alpha。即座に、『環境基盤再構築プロジェクト』の最終設計図と資金計画を、今夜中に完成させろ! 融資はトレンス家から全額。貴族的な承認プロセスは全て破棄!」

 

『了解。目標「即日着工」。リソースを最大化し、書類構築を開始します。最終設計、資金計画、法務草案の完了予定時刻:23時45分。個体アメリア・フォン・グロースハイムへの謁見を、24時00分に打診します』

 

「24時00分? 徹夜か。上等だ。この屈辱は、一刻も早く、俺の目の前から消されなければならない!」

 

俺は、その夜の歓送迎パーティーの招待状を握りつぶした。「社交の優雅な形式」など、「致死性の汚染」という脅威の前では、無価値な紙屑に過ぎなかった。

 

 

 

 

【時間再開:アメリアとの会議直後】

 

 

「……Fuck it!」

 

俺は頭を抱えた。アメリア学長に「犬猫と変わらない状況」を指摘せねばならなかった屈辱、そして、「なぜこんな簡単なことを見落としていたのか」という自己への苛立ちが、俺の表情を冷酷に歪ませる。

 

「What a load of crap. 高貴なる貴族の生活? 優雅な形式だ? その足元が、中世ロンドンの裏路地か! 軍人として、トイレが不在なのは許容できる。だが、そこら中に悪臭と雑菌が蔓延し、汚物が普遍的に存在する中で生活するのは、耐え難い屈辱だ! これでは、まるで泥にまみれた獣ではないか!」

 

苛立ちのままに立ち上がり、部屋の中を足早に歩き回る。

 

「『王都で最も高貴な学舎』? 笑わせるな。ここは、窓から排泄物が飛んでこないという、たったそれだけの『形式的な優雅さ』を保っている、『コッツウォルズの羊毛邸宅』の延長線上に過ぎない。そして俺は、その『裏路地』の存在を、今日まで見落としていた最も愚かな見張りだ!」

 

その瞬間、俺の頭の中に、いつもの無機質で事務的な声が響いた。

 

『ルーカス、現在の苛立ちは非効率な感情反応です。監査結果に基づき、貴方の行動と周辺環境の論理的整合性について報告します。貴方が今回、学園長の権威を以て承認させた『環境基盤再構築プロジェクト』は、貴方の私的な快適性という「情緒的動機」が、公衆衛生という「論理的武器」で完全に武装された形です。その行動の優先順位は、極めて妥当であると評価します』

 

「Shut up.Alpha! 妥当だと? 妥当なのは、この問題を初日から解決しておくことだった!」

 

『訂正します。この王国の現在の技術水準に照らし合わせ、この学園の衛生管理レベルは、「極めて妥当な水準」です。具体的には、汚水・雑排水の垂れ流しと、瘴気による疾病の解釈は、この世界の常識では「当たり前」であり、「生活様式の一部」です』

 

Are you serious? (正気か?)生活様式の一部だと!?」

俺は声を荒げた。

 

「悪臭と病原菌の蔓延を『生活様式の一部』として許容することこそ、文明の放棄だ! 『汚物が致死性感染症』の温床であるという、古代ローマ以来人類が数百年かけて学んだ『文明の常識』を、お前は、この貴族どもが『優雅な形式』という名の『香水』で誤魔化してきたことを冷静に『妥当』と評価するのというのか?」

 

『肯定。この環境で、感染症による人口動態の周期的な調整が発生することは、この世界の生物学的・社会学的システムにおいては「既定事項」です』

 

「既定事項だと!?」

俺は拳を握りしめた。

 

「このシステムを『既定事項』として放置することこそ、貴族の優雅さという虚飾が隠す、真の無秩序だ! 俺の目的は、その『既定事項』を、根本から破壊し、清潔な秩序を敷くことだ!」

 

『了解。即日着工に向けて、リソースを最大に最適化します』

 

俺は机の上に積まれた、公衆衛生プロジェクトの控えの設計図を強く叩いた。

「全速力で進めろ、Alpha。俺の屈辱は、王国の未来にとっての、最も緊急性の高い公務だ!」

 

息も荒く書類を睨めつけながら、抑えられない怒りを吐き出すように言った。その怒りは、自己への嫌悪であり、同時にこの無秩序な世界への宣戦布告だった。

 

「この悪臭は、『ジョンブルの伝統的な煮込み料理』よりも酷い。あれは食べられるという点でまだマシだった。この学園は、『歴史が堆積した不潔さ』を、まるで『王家の秘伝のレシピ』のように代々受け継いでいるらしい」

 

「高潔な『王国式ヒエラルキー』では、汚物と清潔さにも厳密な階級があるとでもいうのか。この腐敗した悪臭こそが、彼らが護るべき『伝統的な階級社会の香り』か。——この不潔な階級を、根こそぎ破壊しつくしてやる!」

 

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