第九十四話:夜明け前の武装
ラスターバン寮の特別室。夜明け前の、まだ深い闇に包まれた時間。
この国では珍しいとされる真夏後の熱と湿気が室内に籠もり、空気は重く淀んでいた。
ルーカスは、昨夜からの徹夜作業で極限まで削られた精神を、効率的に回復させる必要があった。この後には、王立学園の優雅で非効率な論理戦、そして退屈な貴族の儀礼が控えている。
彼の脳内では、昨夜強行した『環境基盤再構築プロジェクト』、すなわち学園の下水処理および衛生化工事の報告書が、延々とスクロールしていた。
「学園長と維持管理部門をねじ伏せ、工事着手は一段落ついた。この高湿度の熱気のように、この国全体が、俺の『論理』の想定を非効率的に裏切り続けやがる。くだらねえ作業に徹夜で付き合わされ、自身の論理を最下層の「汚物処理」に転落させたという事実は、俺のストレス閾値を遥かに超えている……」
「それにしても、『夏は涼しい』だと?Fuck up.書庫の情報は『バレンツ海』の気象予報士にでも書かせたのか?この熱気と湿度は、『ジャングルでのゲリラ掃討戦訓練』を強いられた時の体感に近い。貴族の『涼しい』という定義は、俺の『熱中症で倒れる直前』と同義らしい。環境への適応?そんなものはただの『無能の言い訳』だ」
ルーカスは残暑の残る室温に辟易しながら、床に簡易マットを敷き、静かにストレッチと関節の可動域を広げる準備運動から始めた。心臓の鼓動が一定のリズムを刻み始めたのを確認すると、彼は腰のホルスターに手をやった。
「よし。Alpha、いつものシミュレーションを起動しろ。今日のレンジマスターはお前だ。ストレス除去には、書類仕事よりも、コンマ一秒の判断が求められる暴力が必要だ」
『承認。網膜投影を展開します。外部センサーは全てオフ。音響効果は室内遮音レベルに調整済み。この訓練は、この世界では概念すら存在しない『銃器』を用いた行為であり、最高機密に分類されます。漏洩リスク:ゼロ』
ルーカスの視界にある壁と家具がシームレスに透過し、グリッドラインで構成された未来的な射撃レンジの風景が上書きされる。壁に並んだターゲットボードは、一瞬で人型のシルエットターゲットへと変化した。
「最高機密だと?笑わせるな。ここは隔離部屋だろうが。おかげで領地のクソッタレな租税記録や王都からの牽制文書から解放された。最高に愉快だぜ。この国で最も重要な『侯爵家の書類仕事』の処理から解放される時間の確保の方が、俺にとってはよっぽど機密だ」
彼の脳内に、Alphaの無機質な声が響く。
『データ照合。貴方の心拍数と呼吸パターンは、書類処理時と比較して、戦闘訓練時の方が安定しています。貴方の言う『愉快』は、心理的な平静を指すものと推測されます。そして、貴方のユーモアは、この王国の『優雅な』貴族文化とは、言語構造及び表現方法が逸脱しています』
「セラピスト気取りか?相も変わらず優秀なAIなようで。これが俺のユーモアだ。『優雅な貴族の微笑み』なんてものは、俺にとっては何の役にも立たない。使えるのは、敵を笑い飛ばす粗野なジョークと、この手の技術だけだ。さぁ、おしゃべりは終いだ。ブザーを鳴らせ」
ルーカスは愛銃――内部に純粋な魔力エネルギーを充填し、トリガーと連動した魔術陣が、それを9mmの球形弾へと魔術的に物質変換・変形させる機構を持つ相棒――を手に取り、シミュレーション開始前の数秒間で、鬱憤を晴らすかのように言葉を続けた。
「まったく、魔術師どもは空飛ぶ船は作れても、なぜ『集中冷房システム』の概念だけは開発できなかった?王国の技術レベルにおける最大の『優先順位の誤り』だ」
彼は、苛立ちを言葉に変えながら、シームレスに慣らし射撃を開始した。
ビッ、ビッ、ビッ。
コンマ数秒の間隔で放たれる仮想弾薬がターゲットの中心を穿つ音が、室内に低く響く。
その弾道特性は、前世の物理法則に厳密に準拠していた。
「夜が明けてもこの熱気が残る。貴族の娘たちが朝の優雅な散歩を始める頃には、彼女たちの『蝋で作られた優雅な笑顔』は、この残暑で『溶けて床に張り付いている』だろう。この熱は、この世界の『虚飾』を焼き払うには最高の『効率的な清掃機』だ。感謝すべきかもしれないな」
彼はターゲットの中心を正確に撃ち抜き続けながら、言葉を止めない。
「この高湿度の空気は、微生物にとって完璧な『
彼の言葉が途切れ、マガジンを交換した、その瞬間。Alphaの分析が静かに割り込んだ。
『分析。貴方の現在の言語出力は、「深刻な疲労とストレスが結合した状態」のパターンと99.8%一致します。この愚痴の吐出は、書類処理の非効率なストレスを、言語化による認知経路で処理しようとする、貴方の極めて非効率的な行動です』
『提案。この非効率な認知プロセスを直ちに中断し、クイックドローによる射撃訓練を最優先することで、ストレスを最も効率的に処理し、実戦的スキルを向上させます。愚痴は、戦場における貴方の生存率に寄与しません』
ルーカスは鼻で笑った。
「分かってるよ、セラピストAI。だが、俺が今ここで吐き出しているのは、『無能な上官への報告書』だ。この世界の構造そのものが、俺の最も憎む『無能』で満ちている。感謝しろ、お前のお陰で、この熱が『虚飾』を焼き払う『効率的な清掃機』だという屁理屈を見つけたんだからな」
ルーカスは目を閉じ、深く息を吐く。彼のクイックドローは、単なる反射動作ではない。意識が体の内側に深く沈む瞬間、周囲の空気の粘性が一気に高まったように感じられる。網膜に投影された仮想ターゲットも、僅かに動きが緩慢になったように錯覚する。これは、彼の過剰発火する脳神経系が、この世界の時間を相対的に引き伸ばしている証拠だ。前世で培った『引き金を引く瞬間までの思考の停止』、そして『完璧な射線のみが存在する一瞬の集中』を再現するための、精神統一の儀式だった。
ビッ!
ピストルを抜き放つ。コンマ一秒にも満たない動作で、魔力から変換された仮想弾薬が、ターゲットの中心を穿つ。
『タイム、コンマ六七秒。静止ターゲットへの命中精度:99.98%。シミュレーション環境は、温度68°F、湿度50%、無風としています。貴方の動きが生み出す空気抵抗と粘性を計算に入れた場合、完璧な射線維持率は99.97%に低下しました』
「クソ、まだコンマ六秒台か。生身の反応速度の限界と、このホルスターの相性を、もっと突き詰める必要があるな。0.01%のブレ?そんなものは戦場で命を奪うには十分すぎるノイズだ」
シミュレーション環境が変化する。ターゲットは左右に高速で動き、さらに魔力攪乱波による予測困難な空気粘性の変化が追加された。
『シミュレーション環境変更。風速12mph・3時方向からの横風、急激な気温上昇──現在85°F、魔力攪乱波による空気粘性の変化を付加。動体ターゲット、ランダム数で出現。10発の射撃を許可します』
ビッ!
ルーカスは低くしゃがみ、壁を遮蔽物として利用しながら射撃する。魔力から変換され弾頭形状に変形した仮想弾薬は、横風や魔力攪乱波による影響を受けながらも、次々と仮想敵の急所を撃ち抜いた。
「風速12マイル……フルバリューか。距離はないが、魔力干渉で弾道が読めない。だが、この世界には『解読できるルール』がある。Alpha、結果はどうだ?」
『射撃数:10発。平均タイム:コンマ八〇秒。命中精度:97.0%。風による弾道の僅かな変化に対し、貴方の肉体の反射的な微修正が有効に働きました。前世の訓練データが、この環境変化に自動で適応しています。一連のプロセスに問題はありません』
「上出来だ。ここにいる間、俺は高貴な義務を休戦しているんじゃねえ。戦場にいない間の『戦い方』を忘れていないだけだ」
シミュレーションはさらに過酷になる。標的は、この世界に存在する凶暴な「魔獣」、中でも「
「このレベルの風と熱なら、まだ『慣れ』で対応できる。だが、この世界の敵は、熱気や冷気どころか、『不可視の呪文』まで撃ち込んでくる。こいつと俺の目が、どこまで対応できるか……」
『ターゲット変更:アーマー・ビートル。甲殻は9mm仮想弾薬に対し、貫通抵抗値95%。目標は「動きを止めること」。弾頭形状を
ビッ!
ルーカスは即座に狙いを切り替えた。致死的な急所ではなく、運動機能を破壊するための部位へ。
ピストルから放たれた仮想弾薬は、魔獣の胴体で甲高い音を立てて弾かれるが、ルーカスが狙った「右前足の付け根の関節部」には正確に吸い込まれた。
命中直後、魔獣は大きく体勢を崩し、不快な鳴き声を上げながら数歩よろめいた。
「OK。装甲の薄い関節部と神経節に、運動エネルギーを叩き込む。9mmでブチ抜くのが無理なら、脚をへし折って動きを止めればいい。この世界の魔獣相手なら、ダブルタップどころか、弾倉一つくれてやる覚悟が必要だ」
『射撃数:10発。平均タイム:コンマ八五秒。牽制有効率:97.0%。関節部への集中命中。ただし、魔獣の特性を考慮した場合、牽制が持続する時間は現実時間で約三秒と予測されます。この間に、援護射撃または次の戦術に移行する必要があります』
ルーカスは、網膜投影された仮想射撃場の中央で、深く息を吸い込んだ。
「三秒あれば十分だ。Alpha、最終フェーズだ。魔力による身体強化を射撃シーケンスに組み込め。魔力消費率の最適化は俺自身が操作する」
『承認。対象:ルーカス・フォン・トレンスの骨格筋と神経系。貴方の魔力操作技術が、動作に応じて必要な部位へ、瞬時に魔力を供給します』
ルーカスの全身の皮膚の下で、青白い魔力の光が一瞬、脈動した。彼は、自らの意識で魔力を腰、背筋、肩、肘、手首へとシームレスに流し込む。これは、Alphaのシステムを介さずに行う、彼独自の「
仮想ターゲットは、最高速で回避行動を取る魔獣に変わり、ルーカスは人間を超越した動きでピストルを抜き、発砲した。
その瞬間、網膜の残弾インジケーターが『01』を指して点滅した。マガジンは空だが、チャンバーにはまだ、最後の一発が残っている。
ルーカスは、その最後の一発が激発されるまでの加速した体感時間の中で、次なる動作を開始した。
左手はすでに腰のマガジンポーチへと走り、同時に右手の親指がマガジンキャッチを鋭く弾く。空になったマガジンが自重と慣性で銃から離脱するのとほぼ同時に、左手が掴んだ新しいマガジンが吸い込まれるようにウェルへと叩き込まれた。
――ビッ!
最後の一発が銃口から放たれた衝撃。そのリコイルを利用してスライドが後退し、戻る瞬間に、今挿入したばかりの新しいマガジンから初弾が滑らかに薬室へと送り込まれる。
スライドストップを掛ける必要さえない。一発の空白も作らず、銃は再び殺意を充填した。
その一連の動作は、現実の時間の流れでは、ただ一度の射撃の合間に完了していた。
「いける……! 体感時間圧縮と魔力制御。この二つがあれば、銃器の構造的な弱点であるタイムラグすら完全に消せる」
『射撃数:10発。平均クイックドロータイム:コンマ四四秒。リロード時間:現実時間コンマ八〇秒。体感時間約コンマ四四秒。命中精度:99.95%。動的身体強化により、肉体の反応速度の律速を克服しました。魔力消費最適化率:98.2%。戦闘時の魔力消費を抑え、継続戦闘能力が向上しています。魔力操作と体感時間圧縮の相乗効果により、貴方の前世のキャリアにおいて最高水準に位置します』
「最高水準?笑わせるな。この世界じゃ、これは『優秀』の範疇だ。違うか?」
『その通りです。この世界では、騎士や魔導士は「一騎当千」の信仰のもと、全身魔力強化により瞬間的な反応速度をさらに高めることが可能です。また、「ドラゴン・クラス」は、貴方のクイックドローよりも遥かに速い速度で、理不尽な攻撃を仕掛けてきます。コンマ四四秒は、この世界の脅威レベルに照らすと『致命的な遅さ』に分類されます』
「Hah. つまり、俺の『優秀』が、ここでは『致命的な遅さ』ってことか。上等だ」
ルーカスは熱を帯びた銃口を下げ、口元を歪めた。
「じゃあ、次の課題が見つかったな。お前の言う通り俺は、『超人』には成れねぇ。だが、このテクノロジーとロジックで、その喉元に食らいつくことくらいはできるだろうよ」
室内での精密訓練を終えたルーカスは、ピストルをホルスターを仕舞い、リボルバーブレードを手に、静かに部屋を出た。空は濃い藍色から、オレンジとピンクが混じる夜明けの光へと移り変わっていた。
彼の肉体は、魔力の動的強化により疲労をほとんど感じていない。しかし、彼は敢えて寮の裏手にある広い中庭へと向かう。
夜明け前の澄んだ空気の中、ルーカスは中庭を低く、速いペースで走り続けた。魔力による強化がされていない生身の肉体に、負荷をかける。
ランニング後、彼は剣を構えた。朝日がその剣に反射し、きらめく。流れるような素振り、時に重く、時に速いその動作は、前世の近接戦闘術とこの世界の剣術を融合させた、彼独自の戦闘フォームだった。
ルーカスが寮の裏庭にある古びた井戸へと向かう頃には、夜の闇は完全に消え、空は澄んだ青色に変わっていた。朝日はラスターバン寮全体に静かな光を投げかけている。
彼はランニングと訓練剣の素振りを終え、井戸水を頭から一気に浴びた。
「……贅沢な給湯器の代わりに、原始的な井戸水か。この冷たさが、俺を『優雅な貴族』の夢から引き戻し、『生身の肉体を持つ軍人』であることを思い出させる。悪くない。少なくとも、この水は、俺が徹夜でねじ伏せた『優雅な学園』の汚染された水道管を一度も通っていない。……その代償に、この地下水が近隣の排泄物とどれだけ混ざり合っているか、神のみぞ知るだがな」
彼は濡れた髪を手で掻き上げ、井戸の傍で訓練を締めようとした。
・・・・・
・・・
その頃、アルタイル寮の庭でも、一人の少女が早朝の稽古を終えたところだった。
エリザベート・ド・バルフォア。彼女は騎士団の血を引く者として、誰よりも早く稽古に励むことを矜持としていた。彼女は自身の魔力強化された肉体を酷使し、訓練剣での何百もの素振りを終えたばかりだった。しかし、額の汗を拭い、隣接するラスターバン寮の方角に目をやったとき、彼女の視線が釘付けになった。
(私よりも早い? しかも、あの男は……)
視界に捉えたのは、井戸の傍で冷水を浴びていたルーカスの姿だ。彼は王都の貴族が好むような優雅なローブではなく、訓練着を纏い、その立ち姿には一切の隙も虚飾もない「武」の匂いが満ちていた。そして、最後に傍に置いた異形の剣
エリザベートは、昨夜ヴァイスに指摘された「女性だから」という檻への不満を抱えていた。自分こそがこの寮で最も優れた武人であると証明したい。その熱意と競争心が、彼女の直情的な性格を突き動かした。
彼女は、訓練剣を手に、アルタイル寮の庭とラスターバン寮の庭を分ける目に見えない境界線を、躊躇なく踏み越えた。
ルーカスが井戸の傍で濡れた髪を拭い、訓練を締めようとした瞬間。
ドシン!
エリザベートの魔力強化による踏み込みが地面を強く叩き、ルーカスの背後から迫った。
ルーカスは反射的に振り返った。彼の体感時間圧縮の脳が、現実の時間の流れをスローモーションに変える。
──攻撃……誰が……回避……そんな暇は無い!
夜明けの空を背景に、真紅の訓練剣を頭上に振りかぶった女子生徒の姿があった。彼女の目には、迷いや躊躇いは一切ない。あるのは、純粋な戦闘への渇望と、「本気の相手を求める不満」だけだ。
「貴様は! 本物か!」
エリザベートの直情的な咆哮が、夜明けの静寂を切り裂いた。彼女は、ルーカスよりも数段上の魔力強化による絶対的な加速で、ルーカスの肩口めがけて剣を叩き込もうとした。
ルーカスは、加速した思考の中で、致命的な遅れを把握する。この速度では、回避も防御も間に合わない。
一か八かの迎撃
彼は濡れた訓練着のまま、井戸の傍に置いた異形の剣──リボルバーブレードの柄を掴んだ。
──全魔力を抜刀加速へ──
剣は、柄を握られた瞬間に内部のシリンダーに魔力がチャージされ、斬撃強化と抜刀速度の向上に魔力が撃発する。
カシャン!キンッ!
一瞬の金属音と火花が散った。剣は辛うじてエリザベートの真紅の剣を受け止めたが、それは一瞬の拮抗に過ぎなかった。
ゴオォ!
次の瞬間、ルーカスは迎撃の衝撃を体全体で受け止めきれず、まるで巨岩に吹き飛ばされたかのように、リボルバーブレードを握りしめたまま、地面を数メートル転がりながら衝撃を分散させた。冷たい井戸水が飛び散り、濡れた芝生の上を滑りながら、彼は即座に反撃に転じるための態勢を取った。
彼の脳内で、体感時間圧縮が依然として最大化された状態にある。
──魔力強化の純粋な出力で、俺の加速を上回った。だが、『間合い』は潰させない。
地面を蹴って態勢を立て直す寸前、彼は即座に戦術を転換する。リボルバーブレードの残弾は温存し、まずは遠距離攻撃で彼女を牽制する。ピストルは不所持。純粋な掌からの魔力弾に切り替えろ。
ルーカスは勢いを利用して半身で立ち上がると同時に、左手と右手を前に突き出した。
「チェックメイトだ!」
彼の掌から、牽制のための魔力光弾が、エリザベートの顔面と視界上部へ向けて数発放たれる。同時に、二つの強力な魔力塊が、地を這うように極めて低空で、彼女の足元を狙って突き進んだ。
エリザベートは、ルーカスが地面に倒れた状態から即座に反撃に転じたことに、一瞬だけ目を見開いた。しかし、その動きは止まらない。
ゴッ!
彼女は、持ち前の数段上の身体能力と魔力強化を駆使し、牽制の光弾を剣で払い、地を這う本命の魔力塊を魔力で防御しつつ、そのまま突進してきた。彼女にとって、ルーカスの魔力弾は、「動きを止める要因」ではなく、「突破すべき障害」でしかなかった。
「まだだ! その程度の技で、私を止められると思うな!」
エリザベートの咆哮と共に、中庭が再び振動する。彼女の剣は、すでにルーカスの喉元を狙っていた。
ルーカスは、エリザベートが近接距離に入り込んだのを確認すると、迷わず残りの弾倉を解放した。
──連続斬撃、加速重点へ!──
キン!キン!カァン!
リボルバーブレードのシリンダーに残された魔力が、エリザベートの猛攻に合わせて一つ、また一つと連続的に撃発され、斬撃速度の強化に変換されていく。二人の剣が夜明けの光の下で火花を散らす。ルーカスの剣は、魔力強化されたエリザベートの猛攻に対し、「加速」という技術で五合の間、対等に渡り合った。彼の視界は加速しているが、エリザベートの剣戟の速さは、一瞬の判断ミスが即死につながる極めて危険な領域にあった。
そして、最後の斬撃が交差した直後。
ルーカスは、エリザベートの剣が払い終わる最も危険な一瞬を狙い、魔力チャージが完全に尽きたことを承知の上で、渾身の力を込めた全力の反撃を、エリザベートの脇腹めがけて鋭く突き進ませた。
しかし、エリザベートは、その斬撃の予測と防御において、ルーカスよりもさらに一枚上手だった。
ドッ!
彼女は、体重を乗せた強力な切り払いでルーカスの剣を真正面から叩き、その剣を大きく横へ弾き飛ばした。
剣を弾かれ、体勢を崩したルーカスは、その勢いを次の攻撃へと利用した。
彼は、弾かれた勢いを利用して半身を回転させ、リボルバーブレードを手放しながら左手を、エリザベートの無防備な顔面めがけて叩きつけた。
ガンッ!
エリザベートは、剣戟による勝負に完全に意識を集中していたため、体術による不意打ちに対応が遅れた。魔力で強化された拳が、彼女の顔面にもろに喰い込む。彼女の体がわずかにのけぞり、鼻先から血が滲んだ。
ルーカスは、その隙を見逃さず、距離を取るために後方に跳んだ。
「くそ……」
顔面への痛打に、エリザベートは一瞬、眉をひそめた。しかし、次の瞬間。
彼女は、体から激しく血を流しながら、突然、笑い出した。
「ハハハハハハ!」
それは、周囲の誰にも理解できない、純粋な武人としての歓喜の笑いだった。
エリザベートは、鼻の血を訓練着の袖で乱暴に拭いながら、満面の笑みでルーカスを見据えた。
「今の……最後の、あの汚い一手。貴様、本当に面白いな! 私が求めていたのは、こういう相手だ!」
彼女の瞳には、伝統的な騎士道を志す者としての喜びと、戦場を生き抜いた軍人として「勝利のためなら手段を選ばない」ルーカスの本質を垣間見た、複雑な興奮が宿っていた。
ルーカスは、濡れた髪を手で掻き上げ、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「どうにも俺の知らねぇ間にお嬢様方の挨拶ってのは随分と優雅になったようだな」
ルーカスは、鼻から血を流しながらも歓喜に笑うエリザベートを見据えながら、皮肉たっぷりにそう言い放った。訓練着は井戸水と汗と土で汚れ、背中と左腕には先ほどの剣戟による痛みが走っている。
エリザベートは、その言葉を聞くとさらに声を上げて笑った。
「優雅? 笑止千万! 貴様こそ、私に吹き飛ばされてなお、地面を転がりながら不意打ちを仕掛けてくるとは、随分と『武人らしからぬ』御挨拶ではないか!」
彼女は剣を下ろし、ルーカスに向かって真っ直ぐに歩み寄った。その一歩一歩には、もはや敵意はなく、獲物を見つけた狩人のような喜びだけがあった。
「名乗りを上げろ! 貴様、何者だ! 私はバルフォア侯爵家のエリザベート!」
ルーカスは、彼女の強烈な熱意に、わずかに呆れたような息を吐いた。
(騎士団長家の娘か。なるほど、道理でバケモノじみているわけだ。そして、どうやら俺がラスターバン寮のトレンスだということも、俺が『優雅な貴族』ではないということも、何も知らないらしい)
彼は、濡れた髪から滴る水を払いながら、地面に散らばった魔力弾の残滓を見つめた。
「悪いが、俺は貴様がいう『武人』じゃねぇ」
ルーカスは、皮肉を込めた笑みを深くした。
「俺は軍人だ。目的のためなら、不意打ちだろうが、汚い手だろうが、利用できるものは全て利用する。──ラスターバン寮のルーカスだ。そして、俺とお前の挨拶は、これでおしまいだ」
彼は、戦闘を終わらせる意思を明確に示し、井戸端に落ちたリボルバーブレードを拾い上げた。
「待ってくれ、もっと語らおうではないか!」
エリザベートは歓喜に目を輝かせ、距離を詰めながらルーカスに詰め寄った。顔面に受けた柄の衝撃も、鼻から流れる血も、彼女にとっては興奮の証でしかなかった。
(ルーカス……ラスターバンの! まさか、あのトレンス侯爵家の嫡男か? いや、そんなことはどうでもいい。こんな理不尽なまでの速度と、勝利への執念を持った相手が、こんな場所にいたとは!)
彼女の体は、先ほどの数合の切り結びで熱く、その血は沸騰しているかのようだった。彼女が探していた「本物」の相手は、まさに目の前にいるこの男だった。伝統や形式に囚われず、勝利のためなら体術や遠距離の魔力攻撃、そして不意打ちという『汚い手』さえも駆使するその戦い方。それは彼女の求める騎士団の理想とは似て非なるものだったが、その純粋な「強さ」への渇望は、彼女の心の奥底に響いた。
「貴様は『軍人』だと言ったな! 私はバルフォア騎士団の血を引く者だ! その汚い手段、私は大いに気に入ったぞ! 貴様の『軍』と私の『騎士』の力の差、もっと見せ合おうではないか!」
エリザベートは、訓練剣を肩に担ぎ、瞳に闘志を燃やした。
ルーカスは、手に取ったリボルバーブレードの表面についた水と泥を拭いながら、心底辟易したという表情を隠そうともしなかった。彼の脳内では、エリザベートという危険な変数をどう扱うか、Alphaの分析データが激しく回転している。
「ゴメンだが、お嬢さん。俺とお前の『おままごと』に付き合っている暇はない。今日はこれでお終いだ」
ルーカスはそう言い放つと、濡れた訓練着を気にすることもなく、踵を返した。
「それに、俺の目的は『武』を語ることでも、『力の差』を見せ合うことでもない。生き残ることだ。そして、貴様の無計画な挑戦は、俺のその計画を乱すノイズにしかならない」
彼は、エリザベートの返答を待たずに、ラスターバン寮の裏口へと向かって足早に去り始めた。彼の背中には、「面倒事に構っている時間はない」という冷徹なメッセージが明確に刻まれていた。
ルーカスは、エリザベートの熱狂的な呼びかけを無視し、冷たく背を向けた。
彼の脳内では、わずか数秒間の戦闘データが、体感時間圧縮によって詳細に分析されていた。
(コンマ四四秒の精度を上げていなければ、初撃の抜刀加速は間に合わなかった。そして、もし掌からの魔力弾による遠距離牽制を怠っていれば、彼女は最初の勢いのまま俺を両断していた)
ルーカスは、自身の訓練の成果と、エリザベートの驚異的な実力とを、冷徹に秤にかける。
「ここに来てすぐの俺だったら……いや、今日の射撃訓練で限界まで『加速』の精度を上げていなかったら……」
彼は、自嘲するように呟き、すぐに思考を打ち切った。
「よそう。所詮この世の中は結果が全てだ」
この一戦は、彼が政務で鈍らせかけていた戦闘感覚を、一気に研ぎ澄ませるには十分すぎた。自身の努力があったからこそ、致命的な敗北を回避できたのだ。
そして、同時に認識する。
(勝敗はつかなかった。それは、俺の技術的な回避と、エリザベート自身が『勝負』を中断できる程度の理性を持っていた、という二つの不確定要素のおかげだ。これが、理性を持たない魔獣や、勝利しか眼中にない兵士相手なら、この優柔不断な決着はありえない)
彼は、濡れて重くなった訓練着のまま、寮の裏口の影へと消えていった。残されたエリザベートの歓喜の咆哮が、夜明けの静かな中庭に長く響き渡っていた。