剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第九十五話 

 

第九十五話:不可解なノイズの中の論理

 

 

マルチネス・ド・シュタイナー伯爵の授業が始まった瞬間、講堂の空気は凍りついた。彼のテーマは、「持続的な統治の基盤:短期的な効率性か、長期的な歴史の連続性か」。ルーカスの前日の強引な行動を暗に批判する内容だった。

 

「さて、来週は、諸君らが将来の進路を決定するための『体験選択週間』だ。貴族の義務とは、短期間の利益や瞬時の効率性をもって測られるものではない。それは、数世紀にわたる王国の歴史と、伝統の上に築かれた『連続性(コンティニュイティ)を護り、静かに継承することだ」

 

マルチネス教授は、ルーカスへ牽制の視線を投げた。

 

「ゆえに、今日の講義のテーマは、『持続的な統治の基盤』だ。諸君は、過去の叡智を軽んじる暴力的な効率性に、いかにして打ち勝つか――」

 

教授が言葉に力を込めた、まさにその時だった。

 

ゴッ……ガシャァン……。

 

講堂の地下から響くような、重く鈍い衝突音と、連続したドリル掘削機の低周波な唸りが、教授の言葉の響きを容赦なく押し潰した。音は大きく、講堂の石造りの床と壁が、微かに低く振動しているのが肌で感じられる。

 

マルチネス教授は、一瞬、顔色を変えた。彼は朝の会議で「学園基盤の小規模な改修」が始まると知らされたが、この騒音レベルは、静謐な授業を行う上での許容範囲を遥かに超えている。

 

「な、何の音だ!?これは、事前の通達とは……!」

 

教授は、怒りを抑えきれずに外を睨んだ。しかし、彼は誰に指示を出せばいいのか分からない。形式上、この工事は学園長が承認したトレンス家への「依頼」であり、生徒や教授陣には詳細が伏せられている。この騒音は、「誰の指示か不明な、未知の無秩序」だった。

教授は、顔を赤くしながらも、あえてその騒音を論理の材料とした。

 

「諸君、今、この耳障りな騒音に集中しなさい。この音こそが、短慮な効率性がもたらす『暴力』の具現化だ。王国の秩序は、このような予測不能で、起源も定かではない無秩序に簡単に破壊されてしまう。真の貴族の義務とは、この騒音の中でも、自らの静謐な思考を護り抜くことだ!」

 

 

ゼオンは、この不可解な振動で、机の上のインク壺が波立つのを見ていた。彼の心の中の「貴族の美徳」とは、予測可能で揺るぎない規律に守られた環境で、真剣に教養を積むことだった。しかし、この起源不明で不規則な騒音は、彼の思考と集中力を掻き乱した。

 

(何の音だ?なぜ止まらない?教授も知らないというのか?この状況は、規律違反ではないのか?王立学園の静謐な環境が、誰も制御できない未知の力によって乱されている……)

 

強い不快感と、自分が信じる「秩序の崩壊」への困惑が、ゼオンの表情を硬くする。彼の胸には、誰かを糾弾する怒りではなく、「正しくないことが起きている」という本能的な拒絶感が満ちていた。

 

「教授、よろしいでしょうか!」

ゼオンは反射的に立ち上がった。

 

「この騒音は、単なる改修ではありません!王立学園の『規律』が、誰も理由を知らない無秩序によって踏みにじられています!我々は、来週の進路選択という『重要な責務』に集中すべき時に、この不確実で不快な環境をなぜ容認するのでしょうか!この状況を、誰が、そしてどのような論理で許可したのですか!」

 

ゼオンの焦点は、「誰が」ではなく「なぜこのような不合理な状況が容認されているのか」という、論理と規律の整合性が崩れたことへの強い問いかけだった。

 

マルチネス教授は、この常識を超えた振動と音の性質に、内心で強い動揺を覚えていた。彼は誰に指示を出せばいいのか分からない。この「未知の無秩序」は、彼の権威の基盤そのものを揺るがしていた。

 

「静粛に! 何を騒ぐか! この程度の不測の事態に、王家の重鎮たる候補生が取り乱してどうする!」

 

教授は怒鳴ったが、床からの振動で彼の声は情けなく震えていた。

 

「フィアット君、君の言う『規律』とは、平穏な時のみ守られる軟弱なものか!? 否だ! 諸君、この耐え難い騒音こそが、現在、王国の伝統を蝕もうとしている『未知の脅威』の写し鏡だと思え! 理由が分からぬからと叫ぶのは、無知な平民の仕草だ。我ら貴族は、この無秩序の渦中にあってなお、数百年の歴史という盾を持って、内なる平穏を護り抜かねばならんのだ!」

 

彼は言葉の力で生徒を支配しようと試みたが、振動で講壇の上の水差しがガタガタと音を立て、彼の言葉の説得力を物理的に削り取っていった。

 

 

ゼオンは、震える机を両手でしっかりと押さえた。その眼差しは、恐怖に揺れるのではなく、濁りのない強い正義の光を宿している。彼にとって王立学園は、王国が守るべき「高潔な秩序」そのものであり、そこで行われる教育は神聖不可侵な儀式であった。

 

(……納得がいかない。教授、あなたの言うことは矛盾しています。平民の仕草か否かなどという精神論は、今、この場を支配している『不合理』を是認する理由にはなりません)

 

ゼオンの思考は、どこまでも直線的で、歪みがない

彼には、昨日のルーカスの暴言と今日の騒音を結びつけるような、裏を読む「邪推」という機能が備わっていないのだ。彼にとって、昨日のルーカスは「無作法な個人」という点で既に裁定が下った過去の事象であり、今日の騒音は「管理不届きという学園側の過失」という、全く別の、しかし等しく看過できない不備であった。

 

(我々貴族が守るべきは、目に見えぬ歴史の盾などではなく、目の前の規律が正しく運用されているという『真実』ではないのか。理由も明かされぬ不規則な振動が、知性を研鑽する場を侵食している。これを放置することこそが、王国の規律を重んじる我が家訓に対する背信だ)

 

ゼオンは、自分を「平民のようだ」と侮辱した教授を恨むことすらなかった。ただ、自分たちの信じる聖域が、得体の知れない「不徹底」によって泥を塗られていることに、騎士のような純粋な憤りを燃やしていた。

 

「――私は、認めません」

 

低く、だが鋼のように硬い声がゼオンの口から漏れた。

 

「理由なき無秩序を、精神論で受け入れることは、高潔さではありません。それは、規律の死を黙認することです」

 

彼は、周囲の貴族生徒たちが騒音に顔をしかめる中、ただ一人、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、揺れる講堂の中で「あるべき正しい姿」を体現しようと試みていた。

 

 

クラリーベルは、隣で彫像のように硬直しながら正義を貫こうとするゼオンを横目で見つつ、冷静に状況を分析した。

 

(ゼオンのその正義感は、理解しているし、その真っ直ぐさは尊いと思うわ。けれど、今必要なのは嘆きではなく、この異音の『発生源』と『承認経路』の特定よ)

 

彼女の視線はルーカスに向けられていたが、ルーカスは騒音の中でも微動だにせず、ただ淡々と教授の言葉を聞き流しているように見えた。

 

(この工事…事前通達も無く、教授ですら詳細を知らない、常識を超えた振動……。まさか、トレンス侯爵が……?)

 

彼女が持つ情報と、目の前の事実――誰も止められない無秩序な騒音――を照らし合わせる中で、ルーカスの関与という一つの可能性が頭をよぎる。しかし、確証はない。

 

(だとしたらなぜ、ここまで性急なの?なぜ、遮音魔法を破るような低周波の振動なの?彼は、昨日まで『効率性』を説きながら、この授業の『非効率的なノイズ』を計算しなかったのかしら、それとも……。この騒音は、少なくとも学園長が承認したことは確実……。だとしたら、いったいどのような論理なのかしら?)

 

クラリーベルは、ゼオンとは異なり、このノイズを感情的に排斥するのではなく、この騒音の「構造」そのものを解析しようと決意した。

 

クラリーベルの理知的な頭脳は、「誰が」という疑問よりも、「この無秩序が、いかなる論理で成立しているのか」という、論理的な構造の欠如に深く困惑していた。彼女は、このノイズを感情的に排斥するのではなく、「論理の穴」として解析するため、来週の「体験選択週間」で、この騒音の起源を直接探るという、一手を心に決めた。

 

 

その時、後方の席から、朗らかな声が響いた。それは、ルーカスの隣の席に座っていたアンジェリカ・ハートフィリアの声だった。

 

「ねぇ、ルーカス!この『ゴウンゴウン』って音!心臓に響いて、なんかワクワクしない!?ねぇ、これ、何かの魔道具の実験なの?すごく大きな魔力を使ってる気がする!」

 

アンジェリカは、周囲の生徒や教授が顔をしかめる中、ただ一人、満面の笑みを浮かべていた。彼女は、この不快な振動を「楽しい音」として受け止め、ルーカスに無邪気な好奇心で話しかけた。

その横には、アンジェリカの制服の袖を必死に引き、身を縮ませるように座るミリアリアの姿があった。ミリアリアは顔面蒼白で、マルチネス教授の厳格な視線と、周囲の不快感を一身に浴びているように見えた。

 

ミリアリアがアンジェリカの服の袖を引きながら、小声で囁き続けている。

「このおバカ!早く元の席に戻るわよ!授業中よ!教授がお怒りだわ!」

 

ルーカスは、そのアンジェリカの不合理な問いかけに対し、顔色一つ変えず、淡々と事務員のように答えた。

 

「ハートフィリア嬢。貴女の席はこちらではありません。速やかに所定の位置へ移動を推奨致します」

 

「そんな細かい事、気にする事ないわ!それよりも、どのクラスターに体験する?わたし、ルーカスと同じクラスターにする!」

 

アンジェリカは、ルーカスの規律を無視し、騒音というノイズの中で、私的な感情のノイズを放ち続けた。 

ルーカスは、それ以上の強い拒絶はしなかった。彼はただ、窓の外の、振動の源である地面の方向を一瞬見つめると、再び静かに授業に意識を戻した。

 

教授は、アンジェリカの無作法を咎めたかったが、彼女が王国の最大派閥の公爵令嬢であるため、何も言えずに講義を続行した。

この光景は、生徒たちに、ルーカスが「論理的な規律」で私的感情を処理しつつも、「ハートフィリア家という貴族の権威」と「予測不能な無秩序な騒音」という二つの巨大なノイズに対しては、静かに耐え忍んでいるという、不可解な矛盾を突きつけた。

 

(昨日、全能の論理を説いた侯爵が、今日は自ら発したかもしれないノイズと、手のつけられないご令嬢に、静かに屈している……?この不可解な無秩序は、トレンス侯爵の論理構造における決定的な欠陥なの?それとも、私たちには見えていない上位概念に基づくものなのか。どちらにせよ、感情的に処理するノイズではないわ)

 

彼らにとって、ルーカスの行動は、「絶対的な論理」を掲げながら、「貴族の現実という非合理」に飲み込まれているように見えたのだ。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

同じ頃、本校舎の第一大講堂の天井は高く、窓からは柔らかな初秋の光が差し込んでいた。アイリス・ド・アークランドは、最前列の席で背筋を伸ばし、歴史学の権威である老教授の講義に耳を傾けていた。彼女の周りには、レグルス寮の格式高い上級生たちが静かに並んでいる。

 

講義内容は、「トレンス侯爵家と王家の血縁関係の変遷」。

 

皮肉にも、彼女が昨夜、論破されたトレンス家の嫡男に関わる話だった。

アイリスは、完璧な姿勢を保ちながら、扇子を広げ、優雅に口元を覆った。彼女が隠しているのは、あくびではない。

 

ゴオォ…… ガリッ…… ドスン!

 

講堂の地下、あるいはすぐ外の地面から響いてくる、不規則で野蛮な振動と異音だった。

 

「――よって、侯爵家が持つ『武』の権能は、王家からの下賜というよりも、むしろその『共依存的な歴史』に由来すると解釈すべきであり、これこそが……」

 

老教授の重厚な声が、巨大な何かが大地を叩くかのような「ドスン!」という音でかき消される。講堂内の張り詰めた静寂は、この野蛮で説明のつかない異音によって、何度も、執拗に切り裂かれた。

アイリスは、扇子の奥で眉を微かにひそめた。この異音は、今朝から続いている。

 

(この音は何? 地鳴りにしては不規則すぎる。魔術的な発動にしては魔力の残滓がない。まるで、巨大な獣が地下で粗暴に爪を振り下ろしているよう…。そして、その音が、最も格式高い第一大講堂を意図的に狙っているかのように響く……非合理的なノイズ)

 

隣席のレグルス寮の女子生徒が、苛立ちを隠さずに囁いた。

 

「ねぇ、アイリス様。この騒音、我慢なりませんわ。学園長に抗議を……何かの災害なのでしょうか?」

「静かに」

 

アイリスは声を潜めた。彼女は、「災害」という言葉に違和感を覚えた。災害であれば、もっと連続的で予測可能であるはずだ。これは、意図的ではないにせよ、何らかの『意志』によって動かされているとしか思えない。

 

アイリスにとって、この騒音は単なる不快音ではない。それは、彼女の知性と、学園の論理的秩序を侮辱する、不可解なエラーだった。彼女の合理的な思考をもってしても、その発生源も目的も特定できない。

「優雅な学びの場」が、「不規則な暴力的な音」によって破壊される。この事態は、彼女の公爵令嬢としての責任感と、知識人としての探究心を強く刺激した。

老教授が、次の話に移ろうと咳払いをした瞬間。

 

ドシン!ガリガリ!

 

再び、野蛮な音と振動が講堂を揺らした。アイリスの白い指が、扇子の軸を強く握りしめた。

 

アイリスは扇子を静かに下ろし、教授に向かって、冷たく張り詰めた声で問いかけた。

 

「教授。この不可解な音と振動は、一体何事ですの?これでは講義の進行と、学生たちの集中力を維持できません。早急な原因の究明と排除をお願いしたいのですが」

教授は、彼女の鋭い指摘にたじろいだ。アークランド公爵令嬢からの質問を無視するわけにはいかない。

 

「あ、ああ……アイリス令嬢。まことに申し訳ない。現在、学園の『施設の補修』を行っていると、昨晩、維持管理部門から報告を受けております。音については、最大限の配慮を求めておりますが……」

 

「補修?」

 

アイリスは冷静に言葉を挟んだ。

 

「どのような補修が、このような不規則で大規模な振動を伴うのですか?具体的に、どの施設で、どのような工法を用いているか、詳細をお教えいただけますか?」

 

教授は、顔に汗を滲ませた。彼はルーカスが強行した工事の具体的な内容どころか、使われている「重機」の概念すら知る由もない。

 

「そ、そこまでは……維持管理部門の『複雑な技術的な問題』と聞いておりまして。すぐに担当者を呼び出して、音量の抑制を指示させましょう。ご不便をおかけします」

 

(これは、学園の構造的な欠陥か、あるいは、外部から持ち込まれた、全く新しい種類の問題だ。論理的な理解が、この音を前にして停止している。このノイズの正体を突き止めなければ……)

 

彼女の瞳の奥に、この不可解な現象を解析し、秩序を回復させなければならないという、公爵令嬢としての使命感と、論理的闘志が、複雑に交じり合った光を灯した。そして、彼女の意識は、昨夜、自身の論理を破綻させた、あの異質な存在へと静かに向かっていた――ルーカス・フォン・トレンス。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

その頃、ラスターバン寮、裏庭と寮施設の地下境界線付近

 

 

ギュオオオォン……

 

重く唸りを上げる魔力駆動式掘削機と、分子レベル分解式・魔力浄化槽から発せられる魔力の振動が、周囲の空気を震わせていた。この工事は、最短30日の工期で学園全体の衛生を刷新するプロジェクトの、最も重要かつ騒音の大きい初日だった。

 

「隊長! ラスターバン寮からレグルス寮側へ抜けるメイン配管の接続完了です! 魔力でコーティングした新しい便器と手洗い場へのラインも繋がりました!」

 

「よし! 浄化槽の最終チャージを開始しろ! この設備を昼までに稼働させ、学園メインの汚水経路へ繋げ! 一秒でも早く汚物を排除するんだ!」

 

工兵隊長は額の汗を拭った。この工事の規模と速度は、学園の歴史において前代未聞だった。作業員の一人が、重機の油圧アームを操作し、地下の浄化槽へと巨大な配管を押し込む。

 

ドスン! ガリガリ!

 

この音こそが、わずか数百メートル離れた第一大講堂で、アイリス公爵令嬢の優雅な授業を何度も中断させている、『野蛮なノイズ』の正体だった。

 

「隊長、音が酷すぎます! お貴族様の方から抗議が来るんじゃありませんか?」

 

「来るかもな。だが、止まれない。閣下からの命令は、『この学園の優雅な病原菌を、昼までに物理的に排除せよ』だ。音を止めずに、作業を急げ!」

 

「ラジャー!しっかし、俺らは別邸の整備に来たはずなんだがな。なんだって、こっちを優先させるんだ? 別邸の作業も重要だったはずだろ?」

 

一人が作業の手を止めずに、素朴な疑問を口にした。彼ら海兵隊にとって、給与や報酬の変動は問題ではなかったが、ルーカスの命令の優先順位が急に変わったことだけが、彼らにとって小さな違和感だった。

 

「確かにな。閣下にしては、ヤケに性急な指示だったが……。生命の安全を優先する閣下の論理は、いつだって正しい。だが、その代わり、この作業計画書はいつもながら完璧だ。無駄な動きは一切ない。俺たちはやる事をやるだけだ!」

 

その時、一人の女性が、作業員たちの中から静かに一歩前に出た。ルーカスの筆頭補佐官、エレノア・フォン・ハートン男爵だった。

 

「皆さん。ご苦労様です。急な予定変更ですが、どうかよろしくお願いします。貴方たちがここで生命線となる基盤を築いている間、別邸の作業は別の部隊が引き継ぎます。どうか、公衆衛生という最も重要な戦線に集中してください」

 

エレノアの言葉は、作業員たちの小さな疑問を一瞬で解消した。彼女の合理的な指示と、ルーカスの「生命の安全」という論理の絶対性が、彼らの任務の正当性を再確認させたからだ。

 

 

そんな中裏手から、場違いなほど優雅な足取りで近づいてきたのは、まさしくアイリス・ド・アークランドだった。彼女は、その異音の発生源を見て、扇子で鼻と口元を覆った。

 

「――あなた方、一体何をしておいでなのですか?」

アイリスの声は、冷たく、そして明確な怒りを帯びていた。

 

「この騒音は、第一大講堂での授業を完全に妨害しています。これは学園の秩序を乱す行為であり、即刻中止すべきです!」

 

工兵隊長がアイリスを睨み返そうとするのを制し、エレノアは優雅な礼を捧げた。

 

「これは、アークランド公爵令嬢様。突然の騒音、まことに申し訳ございません」

 

「あなたは何者ですの? そして、この野蛮な騒音の原因である、この『施設破壊』のような行為は何を意味するのですか?」

 

アイリスはエレノアを知らなかった。だが、目の前のこの女性の完璧な作法は、彼女が最近耳にする「トレンス侯爵がゴロツキや盗賊を叙爵している」というおぞましい噂と、激しく矛盾していた。エレノアは、男爵という下級の爵位でありながら、その立ち居振る舞いは、公爵令嬢であるアイリスをも圧倒するほど洗練されていた。

エレノアは微笑みを崩さなかった。

 

「わたくしは、トレンス侯爵名代ルーカス様より、この『環境基盤再構築プロジェクト』の一切の管理を任されております、エレノア・フォン・ハートンと申します。ご指摘の通り、騒音は現在、学院の施設補修作業によって発生しております」

 

「補修? このような無秩序で大規模な掘削が、一体何の補修だというのですか? そして、その得体の知れない『機械』は?」

 

エレノアは、事前にルーカスと打ち合わせていた通りの、曖昧で、貴族がこれ以上追求するのを躊躇するような言葉を選んだ。

 

「これは、寮の『土壌沈下』に伴う、複雑な魔力流路の調整でございまして。トレンス侯爵家が独自に開発した、極めて特殊な工法を用いております。その性質上、学園の機密保持と技術的な専門性から、詳細な開示は難しく……ただ、騒音については、昼までには必ず収束させるよう、最大限努力いたします」

 

アイリスは、専門的すぎる、しかし内容のない言葉に眉根を寄せた。彼女の論理が、この曖昧な説明を消化しきれない。

エレノアは深々と頭を下げた。

 

「重ねてお詫び申し上げます。ですが、この作業は学園の長期的利益』のため、ご容赦いただきたく。わたくしどもは、トレンス様の名誉にかけて、昼までに必ずこの作業を完了させます」

 

アイリスは、それ以上追求できなかった。「侯爵家の名誉」「機密保持」「長期的利益」という、貴族社会で最も触れにくい三つのキーワードで、エレノアが完璧に防御線を張ったからだ。

 

「……分かりました。昼まで、必ず収束させなさい。わたくしは、この件についてトレンス侯爵ご本人から、詳細な説明を求めさせていただきます」

 

アイリスはそう言い残すと、踵を返し、再び優雅な足取りで大講堂へと戻っていった。

 

「エレノア様、完璧な対応でしたな」

工兵隊長が言った。

エレノアは、静かに頷いた。

 

「ええ。ですが、この騒音のノイズは、『若様ご本人』という最大のノイズを呼び込む結果となりました。『目的のためなら手段を選ばない』ルーカス様の工法が、今回は『最も面倒な貴族』を惹きつけてしまったようですね。作業を急いでください」

 

彼女はそう言って工兵たちに背を向けかけたが、ふと立ち止まり、首を傾げた。そして、掘削穴の脇に積まれた、美しくコーティングされた新しい便器の山を指差した。

 

「隊長、ルーカス様から、これら新しい手洗い場と便器の『使用方法の案内書』は預かっていますか?」

 

工兵隊長はきょとんとした顔で首を振った。

 

「いえ、閣下からは『便器はトレンス家独自規格の魔力コーティングにより常に清潔』であること、そして『速やかな設置』との指示のみで……特に図解などは……。まさか、隊員に使い方を教えるためですか?」

 

「いいえ。貴方たちではなく、学園の生徒、特にご令嬢方のためですわ」

 

エレノアは、静かに、しかし心底呆れたようにため息をつき、苦笑を漏らした。

 

「全く、困った方ですね、ルーカス様は!」

彼女は軽く頭を振った。

 

「確かに『清潔の確保』という論理的命題は満たしていますが、『使い方の不理解』という人間的非効率を完全に無視している。確かに、機能としては完璧でしょう。ですが、この『新しい便器と水栓の魔導具』を、この学園の生徒たちが生まれて初めて使うという可能性を、彼は完全に考慮に入れていません」

 

隊長は理解できず首を傾げた。

 

「貴族令嬢たちは、『便器と身体が直接触れない』という優雅な習慣を優先し、その構造を詳しく見ようとしないでしょう。使用法がわからなければ、彼女たちはパニックを引き起こすでしょうね」

 

「おお……なるほど。構造ではなく、作法の問題、ですか」

 

エレノアは軽く頭を振った。

自身も昨夜の徹夜作業で頭が回っていなかったことを自覚し、頬を少し赤らめた。

 

「ああ、わたしも気づきませんでした。ルーカス様の極端な『直感的理解』への信頼に、ついつい引っ張られてしまいます……隊長、すぐに『誰でも使える』図解を作成し、使用法を壁に貼り出すように手配してください。貴族令嬢たちのパニックは、重機の騒音よりも危険なノイズになりえますから」

 

エレノアは、改めてルーカスの「合理性の盲点」を実感した。

 

(ルーカス様は、『公衆衛生』という巨大な非効率を根絶することに集中しすぎて、『初めて高性能なトイレを使う令嬢の心理』という、取るに足らない人間的な非効率を完全に無視してしまわれる……彼の戦場は常に大陸規模。小さな生活の機微は、常にわたしが補わなければ)

 

エレノアは、再び穏やかな表情に戻り、完成間近の浄化槽を前に、淡々と次の作業指示を出し始めた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

アイリスは、優雅な足取りを崩さなかったが、その胸中は激しく波立っていた。

 

「ハートン男爵……」

彼女は脳内で、先ほど遭遇した人物の姿と、その言葉を反芻する。エレノア・フォン・ハートン。彼女は爵位を持つ男爵本人だと言った。

 

(男爵。トレンス侯爵は、領地では、盗賊やゴロツキすら所構わず爵位を与え、部下に取り立てているという、おぞましい噂が流れている。しかし、目の前の現実は、その噂と全く矛盾していた。ありえない)

 

エレノアは、年嵩の女性であり、その立ち居振る舞いは、アイリス自身が学ぶ公爵家の礼節をもってしても、寸分の隙もない完璧さを備えていた。物腰は穏やかで、言葉の選び方は曖昧でありながらも、決して相手を不快にさせない。

 

(もしあの女性が、ゴロツキ上がりの『新しい叙爵者』だというのなら、トレンスは何を基準に爵位を与えている? 彼は、あの野蛮な工事現場で、この学園で最も優雅で洗練された作法を持つ女性を、自分の盾として立たせている……)

 

彼女の持つ、野蛮な騒音と完璧な礼節という極端な対比は、アイリスの知性を深く混乱させた。トレンスの周りで起こっていることは、彼女の知る貴族社会の論理、秩序、そして美学の全てを侵食している。

アイリスは、全身に鳥肌が立つような戦慄を覚えた。エレノアという存在が、ルーカスという異端者を、この社会の中で完璧に機能させていることに恐怖を感じた。

 

「あの男爵は、トレンス侯爵の非効率な部分を、貴族社会の論理で完璧に補佐している。まるで、彼の『合理性』という暴力を、我々が理解できる『礼節』という言語に翻訳するかのような…」

 

「あの騒音は、昼までに収束する。その瞬間、私はトレンス侯爵を呼び出し、直接その『論理の核心』を抉り出してやる。あの男爵の完璧な煙幕の背後に隠された、貴方の真の目的を、必ず暴いてみせますわ」

 

アイリスの視線は鋭さを増し、再び大講堂へと向かった。彼女の心には、エレノアの存在が、ルーカスという異端者を解読するための、新たな、そして戦慄すべき障壁として刻み込まれたのだった。

 

 

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