剣と魔術とライフルと   作:あききし

124 / 163
第九十六話

 

 

第九十六話:屈辱の御旗

 

 

その日の授業を終えたルーカスは、無人の廊下を歩いていた。制服は整っているが、目の下にはわずかな疲労の色が滲み、その表情は昨夜の徹夜と、自らの愚かさへの自己嫌悪によって、極限まで苛立ちに歪んでいる。先ほどは、訓練中にエリザベートが「無意味な挑発」を仕掛けてきたため、彼のストレス値はピークに達していた。

 

その廊下の曲がり角で、アイリス・ド・アークランド公爵令嬢が待ち構えていた。彼女は完璧な装いだが、その瞳の奥には、抑えきれない苛立ちの炎が揺らめいている。彼女は、ルーカスが「通信インフラの構築」という高次元の論理を保留し、「下水処理」という低次元の雑務を強行したという学園内の報告に、論理的な裏切りを感じていた。

 

「トレンス侯爵」

 

アイリスの声は静かだが、鋼鉄のような響きを持っていた。

 

「夜が明け、貴方が直ちに学園の維持管理部門と土木部門に『環境基盤再構築プロジェクト』なるものを強行させたという報告を受けました。そこで、改めて伺います」

アイリスは、昨日交わされた『閉じた論理の招待状』の核心を突く。

 

「トレンス侯爵、わたくし達が昨日合意した、王国の最適化に向けた最優先の要件は何でしたでしょうか?」

 

ルーカスは足を止め、アイリスの鋭い視線を、感情の介在しない冷たさで見返した。

 

「王国の非効率性の解消、すなわち『通信インフラの構築』ですな」

 

「……そうですわ」

 

アイリスは静かに断言し、苛立ちを隠そうともしない。

 

「それが、なぜこのような『維持管理部門の範疇』である下賤な作業を、『即日着工』という驚異的なスピードで優先させているので? 貴方の掲げる『効率性の美学』とは、このように論理の下位へと転落することでしたか?」

 

ルーカスの表情が、僅かに、だが明らかに硬直した。彼女の言葉に含まれる「下賤」「論理の下位転落」という表現が、昨夜の彼の「耐え難い屈辱」を正確に抉り取ったからだ。

 

周囲には、遠巻きに二人の様子を伺う生徒たちの視線がある。ルーカスは眉間の皺を深くし、苛立ちを押し殺した声で告げた。

 

「……アークランド公爵令嬢。このような人目のつく廊下で、王国の根幹に関わる優先順位の定義を議論するのは、貴女の言う『優雅な形式』に含まれるのですか?」

 

ルーカスの冷たい一瞥に、アイリスは一瞬言葉を詰まらせた。

 

 

「…よろしい。ならば場所を変えましょう。わたくしの執務を兼ねた会議室の準備をさせますわ。一時間後、そこで貴方のその『論理の転落』の言い訳を、存分に伺わせていただきます」

 

「……承知しました。一時間後ですな」

 

ルーカスは短く答え、踵を返した。

その一時間の間、アイリスは公爵令嬢としての権限をフルに使い、学園の一角にある格式高い会議室を完全に「自身の領分」へと作り替えた。香を焚かせ、最高級の茶葉を用意させ、完璧な防音魔法の展開を確認する。彼女にとって、これは単なる話し合いではなく、昨夜の敗北を雪ぐための「審判の場」であった。

 

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

一時間後。

アイリスは、完璧に整えられた会議室の長卓の上座で、優雅に扇子を動かしながらルーカス・フォン・トレンスを待っていた。

扉が開き、入室してきたルーカスの姿に、アイリスは僅かに眉をひそめた。

彼は一時間前よりも、一層冷ややかで、近づきがたい拒絶のオーラを纏っていた。制服の乱れは整えられていたが、その瞳の奥には、徹夜の疲労だけではない、煮えたぎるような「静かな怒り」が宿っている。

 

「お呼び立て、痛み入ります、アークランド公爵令嬢」

 

彼の声は低く冷たく、アイリスの耳には、その疲労と怒りが「公爵令嬢たるわたくしへの不遜な苛立ち」として響いた。

 

ルーカスは、席に着く前に、その異様な動作を披露した。

ポケットから取り出した、銀色の小さな魔導具のような噴霧器。彼は、それを触れる前の椅子の背と、テーブルの端に一瞬、サッと吹きかけたのだ。透明な液体はすぐに乾き、跡も残らない。

しかし、その独特な刺激臭が、アイリスが丹精込めて用意させた香の香りを無慈悲に上書きしていった。

 

 

(な、何事……? 執事たちに磨かせたばかりのテーブルに、一体何を……?疲労のあまり、不可解な狂気の淵に立たれたの? ……香水とも違う…独特な匂い…これは一体…?)

 

アイリスは淑女の体裁を保つため、その動作を無視するほかなかったが、内心では「婚約者候補の異常な行動」に強い不快感を覚えた。しかし、それをおくびにも出さず、彼女は優雅に口を開いた。

 

「トレンス侯爵。わたくしが、『王国の最適化』という最上位の議題を保留し、『排泄物処理の刷新』などという、維持管理部門の最下位に属する下賤な事柄に、貴方が軍事機密の如き迅速さで取り組まれているという噂を、信じられずに呼び出しました」

 

ルーカスは、その「下賤な事柄」という言葉に、冷たい怒りの眼差しをアイリスに向けた。それは、ルーカスの中で限界まで張り詰めていた理性の糸を、音を立てて断ち切った。

 

トレンス領において、清潔さは空気と同じだった。

魔術陣を精密に量産・回路化し、複雑な物理現象を「結果」から逆算して魔術的に模倣するトレンス流魔導技術は、領内に現代社会と遜色ないインフラを実現していた。

 

自動で水位を検知する魔導ポンプ、分子レベルで汚れを剥離する超音波洗浄器、そして汚物を瞬時に分解・無害化するバイオ魔導浄化槽。それらが「当たり前」に存在する環境で育ったルーカスにとって、この王立学園に来てからの数日間は、いわば「魔法という消臭剤で誤魔化された肥溜め」の中にいたも同然だった。

 

学園には、確かに「消臭」や「簡易分解」の魔道具は設置されていた。だからこそ、ルーカスはその「表面的な清潔」に騙され、足元に広がる未開な汚染の連鎖に気づくのが遅れたのだ。その自らの「油断」と、今まさに全身を汚染されているという「生理的な恐怖」が、彼を極限まで攻撃的にしていた。

 

「……アークランド公爵令嬢。貴女のご質問は、優先順位の定義が根本的に間違っています」

 

彼の声は低く、感情を押し殺しているが、その底には爆発寸前の怒りが満ちていた。その声は、もはや警告ですらなかった。それは、無知な者を物理的に踏みつけるための、冷徹な「事実」の宣告だった。

 

「私は、『最も優先順位の高いもの』を進めているに過ぎません」

 

「それが、我々が合意した、伝令の遅延を解消し、王都の情報を一瞬で結ぶ通信設備よりも優先されると?」

 

アイリスは信じられないというように、軽蔑を込めて問い返した。

 

「情報と論理の流通こそが、貴方の『秩序の基盤』ではありませんか」

 

ルーカスは、冷たい眼差しをアイリスに向ける。その冷徹な視線が、彼女の完璧な優雅さを、「汚染された偽装」と断罪するかのように貫く。

 

彼は吐き捨てるように言った。

 

「最も優先順位の高いものを進めているだけです、アークランド公爵令嬢。それが、貴女方が優雅な形式という名で完全に看過している『生存の前提』です」

 

「……それが、我々の通信技術よりも優先されると?」

アイリスの声に、既に微かな引きつりが混ざり始める。

 

「当然です」

 

「貴女が言う『高次元の論理』など、『生存』という根源的な基盤が崩壊している状況下では、無価値な『形式的な遊び』に過ぎません。貴女は昨日、『通信インフラ』という名の『未来の屋根』を求めた。だが、その屋根を支える『土台』は、既に崩壊の危機に瀕していた」

 

ルーカスは、自身の最大の屈辱を、アイリスへの痛烈な皮肉として昇華させた。

 

「我々の足元には、貴族の優雅な形式という名の『堆積物カーペット』で汚染されています。我々が、『知識』を語る神聖な学舎と、『排泄物』を放置する無秩序な『家畜小屋』を区別できないのであれば、それはもう『文明人』ではありません。畜生と変わりません。そうでしょう?アークランド公爵令嬢」

 

「汚物……カーペット……!?」

 

アイリスは、自分が心血を注いで整えさせた、この美しい会議室を見回した。最高級の絨毯、磨き上げられた黒檀のテーブル。それが「汚物」だと言い切られたことに、喉の奥が引き攣るのを感じた。

 

彼女が予測していたのは、『予算』や『技術的な機密』といった高次元の駆け引きだった。しかし、ルーカスが突きつけたのは、「優雅さの否定」と「人間としての最低基準の欠如」という、貴族が最も無視してきた『低次元の論理の暴力』だった。

彼女の瞳に、怒り、屈辱、そして、「この男は、本当に何を考えているのか?」という、論理的パニックの色が複雑に絡み合った。

 

ルーカスは、追撃の手を緩めず、手元の白く滑らかな合成紙の資料を開いた。従来の羊皮紙文化を否定するその「効率の暴力」的な質感そのものが、アイリスの神経を逆撫でする。彼はその中から一枚の図面――『汚染拡散フローチャート』を卓上に滑らせた。

 

「このレジュメは、アークランド公爵家のような王国の重鎮であれば、既にご領地の監査項目として定着されているであろう『汚染拡散経路』の再確認資料です。……もっとも、これほど基礎的な事柄を、改めて説明するのは、貴女ほどの聡明な方に対しては、いささか失礼にあたるかもしれませんが」

 

(っ……!当然知っているはず、ですって? 何という傲慢!わたくしの知的プライドを弄び、私の領地を、この学園を、野蛮だと言うつもり!?)

 

ルーカスは、アイリスのプライドを執拗に抉りながら、資料を突き出した。そこに描かれているのは、アイリスが「貴族の嗜み」として行ってきたあらゆる優雅な所作が、いかに目に見えない『病原菌』を、効率的に、そして確実に、口内へと運び入れているかという地獄の図解だった。

 

アイリスは、全身の血の気が引くのを感じた。排泄物から手へ、そして「ハンカチ」「食器」「握手」を通じて汚染が他者へ「優雅に拡散」していく、恐るべき経路図だった。

ルーカスは追撃の手を緩めない。

 

「貴女はその美しい唇で、先ほど何を口にされましたか? その紅茶のカップは、誰の手で運ばれ、どのような水で、誰の指が触れた布で拭かれたものか、論理的に説明できますか?」

 

「っ……、そ、それは……」

 

「説明に窮されるとは、意外ですな。……トレンス領では、乳幼児ですら自衛のために学ぶ『作法の前提』なのですが。王都の貴族の方々は、随分と……おおらかな、自然主義を貫いておられるようだ」

 

ルーカスの言葉は、どこまでも慇懃で、紳士的だった。しかしその内容は、アイリスが「優雅」と信じていた生活を「管理不届きな不潔」と定義し、彼女を文明の底辺へと静かに押し流していく。

 

その苛立ちは、アイリスという個人を超え、この「この世界の非合理」そのものへと向けられていた。彼は、自領であれば数時間で完了する工事を、この未開な地で自ら指揮し、騒音を撒き散らしてまで強行しなければならない自分自身の不甲斐なさを、アイリスへの罵倒に変えて吐き捨てた。

 

「よろしいですか。皆様が重んじる『作法』は、このチャートによれば、汚染を効率的に広めるための『媒介』に過ぎない。この事実に目を背け、高次元の通信網を語るなど、泥沼の上に砂の城を築くようなものです。私は、彼等が無自覚にばら撒いている『非効率な死の種』を根絶し、真に論理を語るに値する場所へと、この学園を強制的に引き上げることにしました。文明人としての、最低限の義務ですから」

 

この、「文明の前提を問い直す」という最上位の論理によって、貴族の優雅な生活を汚物処理の是非という最低次元の問いに引きずり下ろされた事実に、アイリスは論理的な敗北を認めざるを得ず、彼女の顔は蒼白に染まった。

 

しかし、ルーカスの皮肉はそれだけでは止まらなかった。彼は、自己嫌悪という名の八つ当たりを、アイリスの優雅な形式にぶつけ続けた。

 

ルーカスは、アイリスの公爵令嬢としての体裁を完全に無視し、彼女の知的プライドを最大限に刺激する皮肉を込めて、新システムの具体的な強制条項を並べ始めた。彼の疲労と苛立ちは、言葉の冷たさをナイフのように研ぎ澄ませていた。

 

「まずは、汚染された手で触れる必要のない、フットペダル式水栓の導入。……まさか公爵家では、未だに他者の触れた蛇口を直接回すなどという、野蛮な行為を続けておいでではありませんよね?」

 

 

――この男は、目に見えない存在を異常に恐れ、我々の技術と経済基盤を無視した、非効率極まりない儀式を押し付けてきているのではないの?!

 

 

アイリスには、ルーカスの「汚染拡散フロー」を否定する対抗論理が存在しなかった。彼の論理は、『生存』という最も原始的で強力な土台に支えられていたからだ。アイリスは、その「当然」という言葉に、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。彼女の領地にそんなものは存在しない。にもかかわらず、彼女は虚勢を張るしかなかった。

 

「……ええ。わたくしも、そのように思っておりました。領地での導入は、時期を調整している最中でしてよ。学園での導入は、王国の模範となるでしょう…」

 

 

――二次…汚染……? 蛇口で手を洗うという行為が、次の清潔な人間を汚染する行為に転化するというの?

 

 

アイリスは戦慄した。彼女のこれまでの人生において、水を出すための道具は「清め」の起点であり、危険な場所ではあり得なかった。ルーカスは、この連鎖を断ち切るために、フットペダル式水栓の導入を要求していた。

しかし、ルーカスにとって、文明の前提条件とは、「汚染源に触れない」こと。彼の提示する新しい世界は、これまでの「触れ合うこと」で成立していた優雅な慣習を、根底から否定するものだった。

 

ルーカスは、彼女の虚飾を見透かしながら、無機質な視線で次のページを示した。

 

「次に、手洗い後の乾燥です。貴女様程のご高貴な身分でしたら、既に個人的に取り組んでいるとは思いますが、手を拭くハンカチなどは雑菌の培養環境として極めて優れています。よって、手洗い場の側に、完全に滅菌されたドライタオルを導入させて頂きます」

 

彼は、「個人的に活用されている」という前置きを使いながら、この世界の貴族が知らない技術を、あたかも「基礎的な常識」であるかのようにアイリスに突きつけた。

 

「も、勿論ですわ……。淑女として、高貴なる身分として、わたくし自身、常々あのハンカチという形式の非効率性については、気になっておりましたの。ご、ご配慮頂き……ありがとうございますわ………」

 

アイリスは、自分が普段使用している美しい刺繍のハンカチが、実は目に見えない『菌の温床』であったという事実に、思わずその絹の感触を忌避した。

アイリスの返答は、既に声が上ずっており、その言葉には自己防衛的な弁明の色が濃く滲んでいた。「気になっていた」という言葉で、自分の無知を隠そうとする彼女の必死さが、ルーカスには滑稽に映った。

 

「そして最も重要かつ、貴族社会が長年看過してきた致命的な欠陥についてです。新しく導入する水洗式トイレは衛生的ですが、蓋をせずに水を流す行為は、排泄物の汚染物質を空中に最大90分間も拡散させます。これは優雅な衣装をまとう貴族の皆様にとって、耐え難い屈辱と化します。この拡散を防ぐため、流す前に必ず蓋を閉めるという、至極単純な行動矯正を義務付けます」

 

アイリスは、「空中に90分間拡散する汚染の霧」という、彼女の常識を根底から覆す概念に、全身の血の気が引くのを感じた。そして、「耐え難い屈辱」という言葉が、彼女のプライドを抉った。

 

「……わたくしも、その空気の滞留については、常々、懸念しておりました。……確かに、貴公の指摘される『屈辱』を避けるためにも、矯正は必須でしょう……」

 

彼女は、もはや「思っておりました」という虚勢を張る力さえ失い、ルーカスの提示する論理が事実であることを、ただ受け入れるしかなかった。

 

「最後に、維持管理です。この新システムは『清潔な状態を維持するシステム』と定義されます。よって、清掃は最低日に8回、そして、清掃員と監督者の署名を含む『クレンリネス・ログ』を厳密に記録します」

 

アイリスはわずかに声が引きつりながら、ぽつり、と呟いた。

 

 

「日に……8回……。そこまで煩雑な記録が必要なのですか……」 

漏れ出たその言葉には最早、取り繕う余裕も無かった。

 

「必要です。『貴族の優雅さ』は、『体系的な管理による予測可能な秩序』によってのみ成立します。この記録は、貴女様の公爵家が目指す『王国の最適化』の最も基礎的な証明となります。貴女様程の理知的な方が、この効率性を否定することはないでしょう」

 

ルーカスは、彼女の反論の余地を、「貴女の目指す論理的な理想のために、この屈辱を飲め」という形で完全に封じた。

アイリスは、足元の土台が汚物によって揺らぎ、プライドが汚された感覚に襲われた。彼女は、ルーカスの顔を見つめることができず、口数は極端に少なくなり、勢いを失った、か細い声で了承するしかなかった。

 

「……承知いたしました。その厳密性と、王国の未来への献身を……わたくしも……評価いたしましょう。……書類を精査させていただきます」

 

アイリスは、屈辱と自己嫌悪の感情に飲み込まれながらも、「評価いたしましょう」という言葉で、かろうじて公爵令嬢としての最後の体裁を取り繕った。しかし、その声はほとんど聞こえないほどに小さく、ルーカスの圧倒的な圧力の前に、完全に論破された敗者の響きを持っていた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

会議室の重厚な扉が閉ざされ、ルーカスの冷徹な足音が遠ざかった後も、アイリス・ド・アークランドはしばらく動けずにいた。

 

テーブルの上には、彼が残した『汚染拡散フローチャート』のレジュメと、『環境基盤再構築プロジェクト』の詳細な技術仕様書が、彼女の優雅な無知の残骸の上に、冷たく広げられている。

 

彼女は、震える指先で、自身の完璧に整えられた紅い髪と、清潔な肌を、見えない汚染に触れられたかのように忌避し、身震いした。

資料を読み進めるにつれ、アイリスの白い顔色は青ざめていった。フローチャートは、彼女が「形式的な作法」として行っていた『水での清め』や『ハンカチによる拭き取り』が、いかに目に見えない汚染物質を再活性化させ、食器や握手、衣服を介して「優雅な循環」を作り出しているかを、冷酷なまでに視覚化していた。

 

ルーカスが平然と並べた石鹸、アルコール消毒、オゾン水発生装置といった技術は、彼女の知識では「未知の贅沢品」だったが、資料の隅々まで貫かれた『致死性感染症発生閾値の極限的低減』という目標は、徐々に彼女の論理にねじ込まれていく。

そして、その時、彼女の記憶に、数年前から流れていた、一つの『非論理的な噂』が蘇った。

 

「そういえば……ここ数年、トレンス領では、王都や他領で周期的に発生する大規模な流行病の報告が、極端に少ないと……。あれは、トレンス侯爵の持つ新たなの魔導技術による、軍事的な防衛システムか、あるいは領民の体質改善魔術によるものだと、皆、推測していたが……」

 

もし、この『次亜塩素酸ナトリウム』や『送風乾燥』といった、「基礎的な衛生基準」こそが、トレンス領の「不滅の健康」の秘密だとしたら?

彼女が『王国の最適化』と呼んでいた通信技術の構築よりも、『汚物の循環を断つ』ことこそが、最も基礎的で、最も強力な『生存戦略』だったという、論理の転倒に、アイリスは戦慄した。

 

 

……馬鹿な。わたくしが、この高貴なる王立学園の、この完璧に清潔な部屋で、知識の探求を語りながら……無意識のうちに、自身の排泄物と、他者の排泄物を、循環させ、体内に再導入する行動を担っていた、というの?!

 

 

ルーカスの言葉は、貴族の優雅な生活という最大の虚栄を、「汚物の非効率な循環」と定義し、人間から「獣」へと引きずり降ろす、生物学的な論理だった。

彼女の脳裏に、この一日――いや、これまでの人生の光景が、悍ましい映像として蘇る。

 

 

朝食の席で、父と交わした抱擁。午前の講義で、友人たちと手を添えながら分かち合った羊皮紙の巻物。給仕が運んできた豪華な陶器の皿を、手を拭いた直後のハンカチで抑えながら受け取った瞬間。そして、極めつけは、先ほどルーカスと会談する直前、控え室で口にした紅茶のカップ。

 

 

それらすべての行動が、今や「汚染拡散の経路」として、明確な線で結ばれていく。

 

「……っ、全身に虫唾が走る……!」

 

アイリスは、胸の奥から湧き上がる生理的な嫌悪感に耐えきれず、自らの唇を強く噛んだ。知らなければ、この嫌悪に苛まれることはなかった。知らなければ、これまで通り、優雅な無知の中で、高貴に生きていられたのに。

 

 

そして、彼女の思考は、ルーカスが入室した直後に行った、あの極めて異質な動作へと繋がった。

彼が椅子に座る前に、ポケットから取り出した小型の噴霧器。そして、触れる直前のテーブルと椅子に、サッと吹きかけた透明な液体。

あれは、この資料に書かれている「菌の不活化」のための、「消毒」というものだろう。彼は、既にこの部屋、そしてこの部屋にいる『文明人でない』自分自身を、汚染源として認識していたのだ。

 

 

あの男は、わたくしにこの『汚染拡散フロー』という最上位の知識を突きつけながら、自分の行っている「生存の前提」となる行動の意味を、一切説明しなかった……!

 

あの男は、わたくしの論理的知性を試すふりをしながら、自身が持つ「基礎的な常識」を、あえて優越的な沈黙によって隠し通した……!!

 

あの男はわたくしが自ら資料を読み解き、「消毒」という行為の意味を悟り、自分の「無知」と「不潔さ」を、自らの論理で断罪するのを待っていた………!!!

 

 

アイリスは、激しい憤怒にその身を震わせた。この『知識の毒』を体内に注入したルーカスに対する、憎悪にも似た感情。

 

 

「この屈辱……! トレンス侯爵は、わたくしの知的プライドを、この汚物まみれの事実によって打ち砕いた。……けれど……」

 

彼女は、震える指先で、ルーカスの残した『環境基盤再構築プロジェクト』の分厚い仕様書に触れた。この瞬間、知的屈辱が、倒錯的な歓喜へと反転した。

 

「……わたくしは、論理的な道具として、最低限の衛生すら理解していなかった。あの男の論理の次元は、文明の再定義……。わたくしが求めていたのは、レオナルド殿下の予測可能な『最適解』などではなかった。全てを見通すわたくしの知性を、完全に覆し、制御下に置く……この『不合理な絶対者』の論理でした」

 

アイリスは、立ち上がり、窓の外の王都を見下ろした。その瞳は、狂気に近い探求心に輝いている。

 

「あなたは、わたくしを『知的遊戯の相手』として選んだのではありません。あなたは、わたくしを『不完全な文明』の代表者として、その支配下に置いたのです。そして、わたくしは、そのことにこれほどの歓びを感じている……」

 

彼女の口元に、歪んだ、しかし恍惚とした笑みが浮かんだ。

 

「あぁ……ルーカス・トレンス……貴方の冷徹で、理不尽な論理で、わたくしを徹底的に屈服させてくださる? 貴方の『生存の前提』という名の暴力は、わたくしが長年求めていた支配者の姿………貴方は、わたくしという道具を、最高の状態に磨き上げる、絶対的な主人ですわ」

 

「わたくしは、もう退屈ではありませんの。貴方の完璧な道具となること。そして、貴方の『王道』を実現するために、この汚物まみれの『公衆衛生の御旗』を、誰よりも完璧に振り、貴方の支配の正当性を、この王国全土に証明してみせますわ」

 

「貴方の為にもわたくしは、この論理を完全に理解させて頂きます……。そして、いつか貴方の持つ『真の知性』の全てを、わたくしの掌中に収めてみせます。……それこそが、わたくしにとっての、最高の『最適解』ですわ」

 

アイリスは、ルーカスへの隷属を誓いながらも、その支配者すらも利用し尽くそうとする、公爵令嬢としての最後の傲慢さと、被虐的な愛を同時に燃え上がらせた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。