第九十七話 深夜の不協和音
ラスターバン寮・ルーカスの一人部屋
アメリアとの会見翌日、深夜1時頃。ルーカスは衛生プロジェクトの承認を強行し、極度の焦燥感にあった。
ルーカスはネクタイを乱暴に引き剥がし、設計図が散乱する机に額を押し付けていた。
朝のエリザベートによる「奇襲」、そしてアイリスから受けた下賤な作業という無知な「糾弾」。昨日からの睡眠不足も重なり、ルーカスの「貴族としての仮面」は完全に剥がれ落ちていた。
その部屋に、ヴェクター・ウィルソンの顔を貼り付けたヴァイスが、親愛の情を示すように明るい調子で入ってきた。
「ご機嫌麗しゅうございます、ルーカス様。夜会をすっぽかしてまで取り掛かられた『未来の基盤』とは、さぞかしロマンチックな夢物語かと!」
ヴァイスは、恭しいふりをしながらも、ルーカスの極限の殺気と不機嫌を纏っていることを瞬時に察知し、机上の分厚い書類をちらりと見た。
「さて、私めはアルタイル寮の『才能豊かな殿方』との『親睦を深める』という大変名誉な任務を終えてまいりました。その成果、報告させていただきます。王都の商会ウィルソン家、次男ヴェクター・ウィルソン、ただ今、参上!」
ルーカスは顔を上げず、机を叩いた。その音は短く、冷たい。
「茶番はいい、ヴェクター。お前の『親睦』で、あの『優雅な貴族たち』が何を考えているか報告しろ。そんな御大層な連中も、結局は自分の糞尿の上でダンスを踊っているという事実に変わりはないがな。……あの連中、この『バイオハザード地帯』で何を考えてやがる」
(ああ、今日は一段と素晴らしい。ルーカス様の『不衛生への絶望』が最高潮だ)
ヴァイスは、ルーカスの露骨な苛立ちと、そのユーモアに、内心で感心しつつ、軽薄さを崩さずに報告を続けた。彼はこの「本性」を好ましく思っていた。ルーカスのこの粗野で、しかし極めて過激な合理主義こそが、領地の驚異的な発展を支えてきた原動力であることを知っているからだ。
「一人目はクレメンス・ド・ノイマン子息です。彼は『知恵の鎖』と表現しましたが、要するに『群れで騒ぐのが嫌いなインテリ貴族』でしてね。周囲の古い価値観を鼻で笑う捻くれ者です。彼の関心は、学園のカリキュラムの『歪み』、つまりは『いかに効率よく権力を手に入れるか』という実利に集中しています」
「『実利』、か。笑えるな」
ルーカスは鼻で笑った。
「その『実利』を追求する『知恵』が、自分たちの住む場所が致死性の汚染源であるという、最も簡単な事実を見落としていた。貴族が何百年も追求してきた『高貴な学術』など、『トイレの設計図』以下の価値しかないということだ。そのクレメンスの『知恵』を、まずは『公衆衛生学』に集中させてやれ。彼にとっては、最も屈辱的で、最も有用な教養になるだろう」
「もう一人は、エリザベート・ド・バルフォア嬢。熱烈な騎士団志望ですが、女性という理由で枠に収められようとしていることに、激しくご不満でございます。『不満の鎖』というより、『戦いたくて仕方がない番犬』といったところでしょうか。彼女の不満と反抗心は、アルタイル寮内の『古い形式』を崩すのに最適──」
ルーカスは、エリザベートの名を聞いた瞬間、ヴァイスの言葉を冷たく遮った。
「その『番犬』の報告は後回しだ、ヴェクター。そして訂正する」
ルーカスは、机上の書類を叩き、吐き捨てるように言った。
「奴は、『番犬』ではない。あれは、『
ヴァイスは、その言葉に内心で驚きを隠せなかった。ルーカスが特定の人間をここまで高く評価し、しかも「狂戦士」と呼ぶことは極めて稀だ。そして何より、「番犬」として仕込んだ相手に、なぜルーカスが接触したのか。
「おや? エリザベート嬢と、何か『親睦』でも深められましたか? 私が仕込んだ段階では、彼女は『女性という形式』への不満に囚われた、単なる『不満の鎖』として機能すると予測していたのですが」
「不満だと?ご立派な事だな。 彼女に言っておけ。真の『戦場』は、美しく磨かれた剣ではなく、目に見えない細菌が蔓延する『不潔な基盤』にある、とな。騎士の誇りだ? Bullshit! 下水管の詰まりを前にして、どれほど役に立つ!」
ルーカスは、吐き捨てるように続けた。
「騎士だろうが、バキューマーだろうが、死んで焼かれりゃ骨と皮。一皮剥いたら皆同じだ。それが分からないなら、誇りなど単なる自己満足の、汚れた紙切れに過ぎん」
ヴァイスは、ルーカスの「狂戦士」という言葉に面白さを感じつつ、苦笑いを浮かべた。
「ルーカス様。それは絶対、お嬢様方に言ってはダメですよ。貴族の世界は『一皮剥く前』の体裁が全てでございますから。しかし、そのエリザベート嬢も、『華やかな社交界』の裏側で、ああいった『武』を追求しているのですね」
ヴァイスは、華やかな調子を装った。
「ああ、そうそう。大事な事を忘れておりました。メルセデス・ド・シュミット嬢などは、実に眼福でございました。魔導学の名門のご令嬢でしてね。お淑やかながら、瞳の奥に知的な輝きを宿しておられる。ドレスの着こなしも華やかで、まさにアルタイル寮の美の象徴といったところ。彼女のような麗人が、我々の『公務』に協力してくれるとなれば、気分も高揚するでしょうに!」
ルーカスは、その華美な描写に顔をしかめ、冷たい言葉を投げつけた。
「Hah!どんなに綺麗にめかしこんでいても所詮、垂れ流した栄養の循環という強烈な香水で誤魔化しているだけだろう。近くに寄るだけで、その『華やかさ』という名の『病原菌の集合体』に感染しそうだ。それを『慣習』という名のフレグランスでごまかすとは、実に前時代的だ。俺の基準では、彼らはとっくに伝染病のパンデミックで絶滅している」
ルーカスは、自らが目撃した、学園の衛生状況を重ね、嫌悪感をさらに露わにした。
その言葉は、古い権威を「設計上の欠陥」として切り捨てる、冷徹なまでの機能主義に満ちていた。
「いいか、ヴェクター。彼らの『優雅な香水』の歴史は、そのまま『悪臭からの敗走』の歴史だ。臭いものに蓋をするどころか、花びらを撒いて踊っている。鏡の間で着飾る暇があるなら、まずはシャベルを持って穴を掘れ。……我々が自由を求めて、ボストンに投げ捨てたのは、茶葉だけじゃなく、こういう『古臭くて不潔な権威』からの決別だった筈だ」
ヴァイスは、ルーカスが時折口にする「トレンス領の独立独歩の精神」を、海兵隊員としての誇りを持って聞き届けた。
「あの令嬢たちの引きずるようなドレスの裾を見てみろ。あれはもはや『動くモップ』だ。 廊下の汚染物質をすべて回収しながら優雅に歩き、それを自室のベッドまで持ち帰る。……『伝統的な美学』? いや、生物学的観点から言えば『効率的なウイルス・トロール網』だな。奴らに軍のキャンプの設営を任せてみろ。三日で
「相変わらずお嬢様方に厳しい。メルセデス嬢のような美の象徴ですら、貴方様にかかれば『移動式の汚染キャリアー』扱いですな」
「事実だろう。ここは『窓から投げ捨てる芸術』が栄えている街だ。上空には常に、予期せぬ『天からの贈り物』が舞っている。彼らは道を歩くのではなく、排泄物を避けるという高度な障害物競争を、貴族のたしなみと呼んでいるらしい」
ルーカスは立ち上がり、苛立ちのままに部屋の中を歩き回る。その言葉は、どこか海の向こうの、古い歴史に固執する島国をこき下ろすような、合理的で辛辣なユーモアを孕んでいた。
「この道はまさに、『ロイヤル・マイル』と言っても差し支えないな。人類の歴史を圧縮した堆積物の上を、よくもまあ平然と歩けるものだ。踏み違えれば、400年前の誰かの便意に触れることになるぞ。歩くたびに跳ねる汚泥が、我々の足元に『現代アート』を描き出している」
ヴァイスには単語の意味は分からなかったが、主がこの王都の通りを「歴史の堆積=古い汚物」として激しく蔑んでいることは痛いほど伝わった。
「特に、あの廊下の臭気と汚染レベルは、さしずめ『ソールズベリ大聖堂』と言った所だ。優雅な貴婦人たちが微笑むカーペットの下には、数世紀分の汚物が沈殿している。彼らは、これを『伝統』という名の『芳醇な土壌』と呼ぶのだろう。……吐き気がする。
ヴァイスは、主のこの皮肉と「徹底的な合理主義による侵略」を、面白そうに受け流した。
「いやはや、ルーカス様。その『公衆衛生学』に対する異常なまでの執着は、もはや哲学の領域でございますな。その『大聖堂』だか『ロイヤル』だか知りませんが、貴方様にかかれば、どんなに高名な場所も、『汚水に浮かぶ知識の残骸』と化す。その華美な権威の裏側を、ここまで正確に『生物学的危険性』として指摘されるとは、まさに文化人類学の領域でございます」
ヴァイスは、扇子を仰ぐ仕草で、ルーカスを茶化し始めた。
「現在、貴方様のユーモアの七割が『排泄物』に絡んでいる。これは、我々のトレンス領が最新の上下水道と廃棄物処理場の恩恵を受けているからこそ抱ける、贅沢な『文化人類学』かと」
「つい数年前まで、この王立総合学園ですら、王都の他の街並みと比較すればむしろ綺麗な方という認識でございました。それを、貴方様は『致死性の汚染源』と断罪する。それはつまり、貴方様が『世界』の基準を、ご自身の居心地の良いトレンス領の基準に引きずり上げようとなさっている、ということでしょう?」
ヴァイスは、その軽薄なヴェールの下に、鋭い分析を忍ばせた。
「まるで、この汚れた世界を、ご自身の清潔な規格に合わせて侵略するかのように、法と技術と、そして公衆衛生という『基盤』から改革する。ご自身の『快適な居場所』を確保するためなら、王国の慣習すらも踏み潰すという、その不敵な行動の根底にあるのは、一体何でしょうか?」
ヴァイスは、愉快そうに笑い、核心を突く言葉を投げかけた。
「ひょっとして、ルーカス様は、この王国全ての『王』にでもなるおつもりで?」
ルーカスは、そのヴァイスの最後の言葉に、表情を一切崩さなかった。彼の視線は冷たく、ヴァイスの冗談を、単なる『データ』として処理していることが見て取れる。
「王ではない。俺は、領地と領民を護るという、最も価値の高い公務を遂行しているに過ぎん」
ルーカスは、静かに、しかし明確な意思を込めて答えた。
「そして、『汚物』の上に立つ『王冠』など、何の価値もない。俺が求めるのは、汚染源の排除によって『生存可能』となった、論理的な秩序だ。その秩序のためなら、優雅な王国の慣習も、無能な貴族も、そして俺自身も、全て『道具』として利用する」
「お前の言う『侵略』は、『生存戦略』だ。この世界が伝染病や無能な統治で滅びる前に、俺が『最適解』を導入しているに過ぎん」
ヴァイスは、ルーカスの言葉に満足そうに頷いた。この冷徹な自己分析こそが、彼が期待する主の姿だった。
そして、口元に軽薄な笑みを浮かべ、さらにルーカスを茶化すように視線を投げかけた。
「ですが、ルーカス様も隅に置けませんな」
ルーカスは顔を上げ、冷たい視線でヴァイスを射抜いた。
「…何が言いたい?」
「おや、ご冗談を」
ヴァイスは、扇子を広げるような仕草で、華やかな調子を装った。
「その優雅なヴェールを纏った麗しきご令嬢を二人も…いや、今朝の様子から察するに、三人も虜になさっているではありませんか」
ヴァイスは愉快そうに、周囲のゴシップを語る。
「学園の噂話では、アイリス嬢とアンジェリカ嬢の二大公爵令嬢が、まるで正妻の座を争うかのように、ルーカス様の『異端な論理』を巡って火花を散らしているとか。そして、その争いに割って入ろうとしているのが、今朝、貴方様の御前で血と汗を流したあのエリザベート嬢ですよ」
「誰がその栄光を掴むのか、と専らの噂ですよ。『清潔な王子』が選ぶのは、『純粋な理想』か、『華やかな美貌』か、それとも『血塗られた武人』か、と。貴方様はご自身の『公務』で多忙かもしれませんが、巷では大変ロマンチックな話になっているのです」
ルーカスは、顔をしかめ、心底辟易したという表情を隠そうともしなかった。
「Hmph!馬鹿げている。『栄光』? その『栄光』とやらは、俺の部屋の窓から排泄物が飛んでこないという、最低限の衛生環境の上に成り立つ空虚な幻想に過ぎん」
ルーカスは、冷たい皮肉を乗せて続けた。
「あの二人は、『優雅な形式』という名の檻の中で、俺の『異端な論理』という名の新しい培養地を見つけたに過ぎない。そして、あの戦闘狂に至っては、下水管の詰まりを前にして、剣を振り回す狂ったバキュームカーだ」
彼は部屋の中を数歩行き来しながら、拳を震わせ力説していく。
「彼ら彼女らが俺を巡って争っている? 笑わせるな。彼らが争っているのは、俺という『新しい汚物処理機』を、自分たちの『
ルーカスの怒りと皮肉に、内心で──やはりこの方は面白い──と強く感じたものの、表面上は苦笑いを見せた。
「やれやれ、ルーカス様。その『華やかな社交界』の裏側を、これほどまでに冷静に分析されるとは。その『歴史の堆積物』を『未来の基盤』に書き換える作業は、実に愉快なロマンでございます」
ヴァイスは、好奇心と戯れ心に勝てず、さらに一歩踏み込んだ質問を投げかけた。何処までも楽しげで軽薄な調子を崩さない。
「一つ、参考にまでにお伺いしたい。その『汚物処理機』たるルーカス様にとって、先ほど噂に上がりました麗しき令嬢たちの中で、どなた方がお好みですか? 公的な義務を離れ、個人的な美意識の範疇で構いませんよ?」
ルーカスは、完全に呆れ返った目でヴァイスを見た。その視線は、極めて無価値なデータ収集に時間を割くAIを見るかのようだ。
「……愚問だ、ヴェクター」
ルーカスは、椅子に深く腰掛け直し、静かに、しかし冷酷な皮肉を込めて、令嬢たちを査定し始めた。
「まず、アイリス。彼女の化粧はけばいの一言に尽きる。あの濃い色使いと不自然なラインは、『優雅な貴族』という名の張りぼてを、さらに塗り固めようとする劣悪な偽装工作だ。まるで、下水管の腐臭を香水で誤魔化すのと同じ、安っぽい誤魔化しだ」
ルーカスは机上のペンを指に挟み、不快そうに回した。
「厚塗りの化粧は、『毒性バイオマス』を隠すための『劣悪な偽装コーティング』だ。その下の皮膚の病理は、高精度スキャンで見れば、すぐに『感染レベル』として表示される。論理的な『健康スコア』は極めて低い」
ヴァイスは、アイリスの誇り高い美貌を「偽装工作」と切り捨てる主の極論に、危うく吹き出しそうになった。王都の貴公子たちが跪くその美を、彼はただの「不完全な被膜」として処理しているのだ。
「次に、エリザベート。彼女は汗と泥臭い。『狂戦士』という表現がぴったりだ。武人としての実力は認めるが、その服装の乱れと、汗と血の臭気を無視した自己満足な熱狂は、公衆衛生の視点から見ても、極めて不快な汚染源でしかない」
ルーカスは、朝方に彼女と接触した際の手の感触を思い出したのか、忌々しげにウェットティッシュで指先を拭う動作を見せた。
「騎士道だの鍛錬だのと騒ぐ前に、まずは除菌スプレーを浴びてこいと言いたい。戦場ならいざ知らず、学園という閉鎖環境において、彼女の存在は『動く生物学的リスク』そのものだ」
ヴァイスは肩をすくめた。ルーカスにとって、彼女の情熱やひたむきさは、機能美を損なう「ノイズ」に過ぎないらしい。だが、それほどまでに毛嫌いしながらも、その「出力」だけは正確に測定しているあたりが、この主の恐ろしいところだ。
「そして、メルセデス嬢だったか? 服のセンスが壊滅的だ。あの過剰なレースとフリルは、非機能的な装飾の典型であり、現代的な美意識からは遠くかけ離れている。ああいった無駄な布地は、『微生物の捕獲効率を最大化する非機能的な対病原体トラップ』だ。優雅さを装いながら、自ら進んで『汚染物質キャリア』として機能している」
ルーカスは、まるで設計上の致命的な欠陥を指摘するエンジニアのような冷めた声を出した。
「奴らが、何代も続く名家だか何だか知らないが、彼らの血筋と同じくらい、この建物の配水管も詰まっているらしい。『古き良き秩序』が、文字通りの『腐敗』を招いていることに誰も気づかない。 大英帝国の連中ですら、コレラで死に始めてようやく重い腰を上げたっていうのに、この国の連中はまだ『瘴気が悪い』なんて、馬鹿げたの迷信に縋り付いている。Fuck it, まるで進化の止まった博物館だ」
ルーカスの独白は、もはやこの世界の住人が理解できる範疇を超えていた。ヴァイスには、時折混ざる「ダイエイテイコク」や「コレラ」といった単語の意味は分からなかったが、主の視ている景色が、この王都のきらびやかな夜景とは全く別の──より殺伐とした、しかし論理的な真実の世界であることを確信した。
ルーカスは、そこで言葉を止めた。一瞬の沈黙が、部屋の空気を重くする。彼はわずかに視線を逸らし、その例外について言及することを避けた。
「……そもそも、俺の交際関係は戦略的観点で捉えねばならん」
ルーカスは、即座に冷徹な視線をヴァイスに向け、論理的な話に戻った。
「美貌や個人の感情など、最も無価値なデータに過ぎん。結婚も交際も、領地の安定、軍事技術の獲得、そして母上の安全という、最も価値の高い目的対して使われる必要がある。俺自身が、その目的のための一つの『駒』であり、『最も高価な兵器』として機能しなければならないからだ」
「だからこそ、彼女たちが持つ『優雅な形式』の力を、最も効率的に利用するための『論理的な結合』を探る。それが、俺にとっての『好み』だ」
ヴァイスは、ルーカスがアンジェリカについて、一言も皮肉を言わなかったこと、そして、わざとらしく話題を戦略論に切り替えたことに気づき、口元に深い笑みを浮かべた。
(なるほど。『最も高価な兵器』のロジックが、唯一適用されない『清潔な異物』がいる。これはまた、ロマンチックな計算ミスでございますね、ルーカス様)
「承知いたしました、ルーカス様。その『最も高価な兵器』を、私が最も効率的に運用してみせましょう。そして、その『論理的な結合』を乱す『不測の変数』についても、しっかりと警戒しておきます」
ヴァイスは、アンジェリカの名を出すことなく、暗にその存在を認めたことを示唆した。
ルーカスは、ヴァイスの言葉にわずかに平静を取り戻した。
「分かっている、ヴェクター。お前の指摘通り、俺の『私的な感情』が、『公的な公務』を妨害しては意味がない。しかし、俺のこの『屈辱』こそが、この王国の未来の秩序の原動力だ」
ルーカスは、机の上の設計図を指差した。
「ヴェクター、あの『狂戦士』を次の衛生プロジェクトの警備に配備しろ。古い慣習に固執して工事を妨害する連中を、彼女の『騎士の正義』という名の暴力で叩き潰させる。彼女には『これは弱き民の健康を護る聖戦だ』とでも吹き込んでおけ。……狂犬は鎖に繋ぐより、敵の喉元へ向けて放し飼いにするのが一番効率的だ」
「……あんな制御の利かない暴れ馬を、本当に御せるのですか?」
ヴァイスは、ヴェクター・ウィルソンの軽薄な笑みを崩さぬまま、狙撃手らしい冷徹な観察眼で疑問を呈した。
「ヴェクター、勘違いするな。馬を御すのに、馬と同じ言語を話す必要はない。必要なのは『圧倒的な序列の提示』と『逃げ道のない論理の檻』だ」
ルーカスは机上のペンを置き、冷たい視線を向けた。
「あの女の脳内は、勝利と闘争という単純なニューロンで構成されている。ならば話は簡単だ。彼女の『騎士道』という空虚な定義を、俺の『生存戦略』の一部として再定義してやればいい。……彼女が、俺の提示する『敵──不衛生や旧弊』を噛み砕くことに快感を覚え始めた時、その鎖は誰にも解けないものになる」
「なるほど、道理で。……あの初対面の時、彼女は窓の外を睨んで『牢屋だ』と言いました。バルフォアの看板が重くて仕方ないのでしょう。ですがルーカス様、あの女は『誰かに飼われたい』のではなく、『自分という弾丸を、誰よりも速く、誰よりも深く敵に叩き込んでくれる
ヴァイスは楽しげに肩をすくめた。彼にとって、新しい「玩具」の調整ほど面白い仕事はない。
「ならば簡単だ。彼女の前に、俺が『敵』という名の獲物を並べ続けてやればいい。騎士道という名の檻の中で腐るか、俺の戦場で狂戦士として完成するか。彼女に選ばせるまでもないだろう。ヴェクター、彼女を次の『公務』に連れ出せ。泥と汚物にまみれた現場で、彼女の剣がどれほど『高潔』でいられるか……試してやる」
ルーカスは椅子に深く背を預け、天井の闇を見つめた。その瞳には、熱狂的なエリザベートの姿ではなく、彼女という「個体」をどう効率的に配置するかという、冷徹な設計図が浮かんでいた。
「結局のところ、あの狂戦士にとっての『騎士道』など、自分を納得させるための舞台装置に過ぎん。彼女は、自分を縛り付けてきたバルフォアという名の檻を壊してくれる何かを、死に物狂いで探していた。初対面で貴様がその不満を突き、今朝、俺が暴力という名の現実を突きつけた。……もはや、彼女の中に残っているのは『期待』という名の飢えだけだ」
ヴァイスは、扇子で口元を隠し、低く笑った。狙撃手として「獲物」が罠にかかる瞬間を見るのは、何よりの愉悦だ。
「ええ。彼女はもう、ルーカス様が指し示す場所なら、それがたとえ地獄の底だろうと、あるいは肥溜めの中だろうと、喜んで突っ込んでいくでしょう。自分を『女』でも『令嬢』でもなく、ただ一人の『戦力』として扱ってくれる主のためなら、泥を舐めることさえ『騎士の献身』だと錯覚してくれるはずです」
「錯覚させておけ。真実など、この『生存戦略』には不要なノイズだ」
ルーカスは机の端に置かれた、王都の汚染地図と次期衛生プロジェクトの計画書を、指先で叩いた。
「エリザベートには、このプロジェクトの『武装護衛』という役割を与えろ。旧弊に染まり、変化を拒む連中を『悪』と定義し、彼女の剣を『民を救うための正義の鉄槌』として振るわせる。……脳筋な彼女にとって、これほど分かりやすく、刺激的な任務はあるまい」
ルーカスは立ち上がり、窓の外に広がる、眠れる王都を冷ややかに見下ろした。
「ヴァイス、これが俺の『不協和音』だ。優雅な学園のメロディを、俺の合理主義という名の不快な重低音で上書きしてやる。……まずはあの狂戦士を、俺の秩序を構築するための、最も頑丈な『杭』として打ち込んでやれ」
「御意、ルーカス様。……夜明けには、彼女にふさわしい『血と泥の招待状』を届けておきましょう。新しい遊び場を与えられた時の、あの弾け飛ぶような顔を見るのが今から楽しみですよ」
ヴァイスは深く、芝居がかった一礼をして、影の中に溶け込むように部屋を後にした。
独り残されたルーカスは、再び机に向かった。
「……さて、Alpha。次のフェーズだ。あの『移動式汚染キャリア』どものドレスを、どうやって合理的な作業着に着替えさせるか……その計算を終わらせるぞ」
ルーカスの呟きは、深夜の闇に静かに、しかし冷酷な響きを伴って消えていった。