幕間 静寂の不協和音 - 王子の観測
エドワード・ブラン・ホーネリア第一王子は、ホールの喧騒を見下ろす二階の賓客用バルコニーに立っていた。
手元のクリスタルグラスには、琥珀色の高い酒が揺れている。すでに数杯を煽り、脳内には不快な熱がねっとりとこびりついていた。酒の力で感覚を麻痺させ、世界を膜の向こう側に追いやらなければ、この場に立っていることすら耐えられなかった。
彼の周囲には、常に「甘い汁」を吸おうと群がる下位貴族や、王都のあぶく銭を転がす商属たちが、高級な酒と追従を捧げている。だが、エドワードの心は常に孤独だった。彼は、王族としての重圧から距離を置くように、ホール全体を他人事のような「調和」の象徴として眺めていた。
「レオナルド殿下も質が落ちた。あのような『動く計算機』を重用して、王国の美徳を切り売りするおつもりか。エドワード殿下、やはり正統なる王道を歩まれるのは貴方様しかおられません」
耳元で囁かれる、安っぽい賞賛。エドワードはそれに対し、力なく口角を上げる。
(……正統なる王道、か。吹き出しそうになるな)
その「調和」の中心で、第二王子レオナルドとアイリス・ド・アークランド公爵令嬢が、完璧な絵画のような姿で貴族たちの羨望を集めていた。レオナルドの顔には、すべてが計画通りに進んでいるという満ち足りた自信が浮かんでいる。
(レオナルドは、俺を『伝統と慣習の象徴』という名の置物としてこの場に立たせ、自らは『進歩と合理性の指導者』として舞台を支配している。すべて、彼の『最適解』の盤上の駒だ。この鬱屈とした二階席こそが、俺に与えられた「盤上の位置」であり、俺はそこで、無能たちの王として泥の中に浸かっている)
エドワードが弟への複雑な感情を抱いている、その時だった。ホールの片隅から、貴族生徒たちのざわめきと、侮蔑を含んだ嘲笑が、バルコニーまで届いた。
「見ろよ、あれが例のトレンスの若造だ。
「へぇ、噂通りの異端児だな。第二王子殿下の駒になった途端、公然と王国の秩序を無視するとは。所詮は下賤の出を拾った者、下品さが抜けない」
エドワードは、その露骨な嘲笑の声に、反射的に視線を向けた。王族として、彼は「不躾」や「無作法」といった『雑音』を嫌う。かつては心地よかったはずの取り巻きたちの追従が、今はひどく安っぽく、頭の悪い雑音にしか聞こえない。
(……これが、俺の選んできた『世界』、か)
王位継承権1位という重すぎる看板。それを、実力と合理性ですべて塗り替えていく弟レオナルド。
その現実から目を逸らすように、エドワードは再び毒にも薬にもならない酒を喉に流込み、視線を向けた。
それは、簡素な、しかし一切の無駄を削ぎ落とした濃紺のスーツを完璧に着こなし、周囲の華美な燕尾服とは明らかに一線を画している。
その姿は、確かに貴族社会の格式から見れば違和感であり不躾だった。しかし、そのシルエットは戦場に向かう将校の軍服のような、異様な「完成度」を誇っている。
(違う。奴はドレスコードを知らないのではない。この場の『ルール』をあえて踏みにじることで、自分という異物を王都の心臓部に叩き込んでいるんだ。……だが、所詮はレオナルドが拾い上げた有能な道具。俺のような、明日をも選べぬ男には無関係な話だ……)
隣で扇を広げる令嬢たちの冷ややかな嘲笑が、エドワードの耳に刺さる。
「殿下、あそこをご覧ください。あのトレンスですよ。あんな野蛮ななりで……」
「燕尾服すら着こなせぬ辺境の成金が、アークランド公爵令嬢と踊るなどと。身の程を知りませんわ」
(……凡俗な。お前たちの視界には、あのスーツの『意味』すら映っていないのか?)
エドワードは、誰にも気づかれないほど微かに目を細めた。
彼は放蕩に耽ってはいたが、王族として授けられた「教育」と、レオナルドという鏡を隣に置き続けたことで磨かれた「観察眼」は失われていなかった。
(あの濃紺の布地……ただのスーツじゃない。光の反射を抑える特殊な織り、可動域を確保したカッティング。あれは社交を楽しむための衣装ではない。敵の血を吸っても汚れが目立たず、激しい格闘においても一切の死角を作らない軍装だ。 奴はこの華やかな舞踏会を、文字通り『戦場』として定義している)
エドワードの脳が、久しぶりに急速な回転を始める。レオナルドの「最適解」を体現したかのようなルーカスの立ち居振る舞い。周囲を煽り、論破し、秩序を塗り替えていくその手際に、エドワードは形容しがたい恐怖と、そして奇妙な既視感を覚えた。
「全く、レオナルド殿下も随分と余裕がない。あのような成金を重用して王国の格式を汚すとは。やはり、真の優雅さを理解されているのはエドワード殿下、貴方様だけだ。さあ、今夜の遊びの予定を……」
取り巻きの一人が、馴れ馴れしくエドワードの肩を叩こうとした。
その瞬間、エドワードの胃の底から、鋭い嫌悪感がせり上がる。
(こいつらは、俺を褒めているのではない。俺の隣に座ることで、自分たちが『有能なレオナルドに否定された無能』ではないと思いたいだけだ。……そして、俺もまた、その鏡合わせの中にいたのか?)
自分の価値が、自分を貶めることでしか保てない「偽りの群れ」。
その停滞した空気の中で、エドワードの意識が、階下で独り異彩を放つ「トレンス」という存在に、磁石のように吸い寄せられていく。
(……トレンス。お前はレオナルドに何を見た? なぜ、その才をあんな冷徹な機械に捧げた?……いや、無意味な思考はよそう。俺には関係ない……)
そう思い、再び酒で意識を溶かそうとした、その瞬間だった。
──コンッ。
旋律を裂くような、硬質な音が、階下からバルコニーへと突き抜けてきた。
心臓を直接指で弾かれたような衝撃が、エドワードの全身を、電気のような衝撃が走る。
(……!?)
「なんだ? あの音は。……トレンスが狂ったのか?」
「不協和音だ! 衛兵を呼ぶべきでは?」
周囲が狼狽し、嘲笑のトーンを不快な金属音へと変えていく。だが、エドワードの耳には、もはや彼らの声は届いていなかった。
今まで自分を温めていた琥珀色の液体が、一瞬にして冷たい泥水に変わったかのような不快感。脳を覆っていた膜が引き剥がされ、痛烈な「正気」が彼を襲う。
(……っ、醒めてしまう。この音のせいで、俺は
優雅なワルツの旋律を物理的に叩き壊す、乾いた、しかし暴力的なまでに正確な打音。
オーケストラが戸惑い、会場が静まり返る中で、そのリズムは次第に加速し、熱を帯びていく。
(この音……この、魂を削り出すようなリズムを、俺は知っている!)
それはもはや、既存の社交ダンスではなかった。ルーカスが紡ぎ出す流麗な重心移動と、アンジェリカの無邪気な感性が生み出す「即興の熱狂」が混ざり合い、ホールの空気を物理的に塗り替えていく。
オーケストラの演奏家たちが、その熱に引きずり込まれるようにアドリブを加え始める。優雅なワルツは、いつしか激しいスウィングへと変貌を遂げていた。
(これだ。この音だ。……あの日、俺の腐った意識を叩き起こしたのは……!)
エドワードの脳裏に、あの路地裏の光景がフラッシュバックする。
それは、エドワードの記憶の底、最も暗く、そして最も暖かかった「あの夜」の残響そのものだった。
誰に媚びることもなく、ただ己の魂をぶつけるようにリズムを奏でていた、あの正体不明の少年。
エドワードは、吸い寄せられるようにバルコニーの淵へ身を乗り出した。震える手が手摺りを握りしめる。
ダンスフロアの中央で、アンジェリカの手を取り、見たこともない異質なステップで舞っている男。
「……あいつは……」
声が震えた。
茶髪ではない。完璧に整えられた琥珀色の髪。そして、路地裏のボロを脱ぎ捨て、一切の無駄を排した濃紺の戦闘服を纏ったその姿。
脳裏に浮かぶのは、ギターを抱えた少年の姿。自分を「王子」としてではなく、ただの「中身の空っぽな男」として見抜き、不敵に笑った、唯一の少年。『お前の音をぶつけて来い』と言い放った、あの傲慢で、自由な、救いのような声。
視界の中、アンジェリカの小さな足が床を叩くたび、魔力の火花が散る。ルーカスは、アンジェリカの小さな足が床を叩くたび、その火花が消えぬうちに次の音を重ね、さらにステップを加速させる。二人の間に生まれる、刹那の遅滞もない音楽の対話。
その中心で、ルーカスは笑っていた。
アイリスやレオナルドに見せた計算された笑みではない。まるで、自分の音を誰かに届けられたことを喜ぶ、子供のような無垢な笑顔。
その笑顔を見た瞬間、彼の中で猜疑心と渇望が激しく衝突した。今のエドワードにはそれが「捕食者が獲物の急所に牙を立てた瞬間の悦楽」のようにも見えた。あの夜、俺の音を求めた優しさですら、俺をこの絶望の底へ誘い出すための周到な計算だったのではないか。
感情を表現するか如き異質な躍動でアンジェリカを翻弄するルーカスの姿が、路地裏の少年の幻影と重なり、そして──結晶化した。
(嘘だと言ってくれ…!)
ああして、誰かを巻き込み、その魂までをも自分のリズムで染め上げていく。あの夜、俺の心に触れたあの手つきで、今度はハートフィリアの娘を……王国そのものを、お前の色に塗り替えるつもりか。
心臓が早鐘を打つ。
レオナルドを勝たせるために、最も不甲斐ない王位継承者である自分を籠絡し、さらにその隙にハートフィリアの娘までをも手中に収める。
すべては緻密に計算され、残酷なまでに「最適化」されていた。
間違いなかった。
あの夜、自分を王族の枷から一瞬だけ救い出してくれたあの少年が、今、レオナルドの「最適解」の中心に立ち、アイリスという「最強の盾」を許嫁とし、あろうことかエドワード自身の派閥の筆頭、ハートフィリア公爵家の愛娘までもをその旋律に巻き込んでいる。
(すべては、俺を笑い草にするための舞台装置だったのか? あの夜、俺が信じようとした『友情』すら、お前という死神が用意した、ただの餌だったのか!?)
エドワードの心に、冷たい氷が突き刺さったような感覚が走る。
猜疑心が黒い毒液となって全身の血に混ざり、彼は逃げ場のない「現実」に完全に叩き起こされた。
(なぜだ? なぜお前がトレンスなんだ? なぜレオナルドの隣にいる? ……あの日、あの場所にアイツがいたのは偶然じゃなかったのか? 俺の孤独を知り、わざと懐に飛び込んできたのか? 俺を堕落させ、レオナルドに王冠を捧げるための……完璧な『偽装された出会い』だったのか?)
裏切られたという絶望。だが同時に、今、楽しげに踊るルーカスの瞳に、一瞬だけ宿った「あの夜と同じ光」を、エドワードの魂は見逃せなかった。
(俺は騙されたのか……?。……いや、信じたい。だが、もしこれが計画の一部だとしたら、俺は……!)
「殿下、いかがなさいましたか? 顔色が……」
取り巻きの一人が心配そうに声をかけるが、エドワードはその手を、見たこともないほどの峻烈さで振り払った。手摺りを握りしめる指が白く震え、グラスからこぼれた酒が、彼の高価な正装を汚していく。
(お前の本当の顔はどれだ、ルーカス・フォン・トレンス。俺に『自分の音を鳴らせ』と言った、あの言葉までもが作り物だったというのか──?)
エドワードは、動けなかった。駆け出すことも、叫ぶこともできない。
階下から響く軽快なタップの音。それに反して、エドワードの足は石像のように床に張り付いて離れない。一歩でも動けば、積み上げてきた『放蕩の王子』という仮面が粉々に砕け散り、その下にある惨めな剥き出しの心が、ルーカスに、見透かされてしまう気がしたからだ。
ただ、黄金の光に満ちたホールの中で、底なしの深淵に叩き落とされたような絶望と、狂おしいほどの探求心に身を焼かれていた。
(……お前が奏でた不協和音は、俺の腐った意識を叩き起こすための警鐘か? それとも、俺を絶望の底へ突き落とすための嘲笑なのか?)
弟の駒として動く「死神」か、路地裏でギターを弾いた「友人」か。
その矛盾を解き明かさない限り、自分は二度と眠ることはできないだろうと、エドワードは確信した。彼は今、初めて「自分の意志」で、バルコニーの手摺りを乗り越えんばかりの眼差しで階下を凝視していた。
その視界が、怒りと恐怖、そして強烈な渇望で歪む。もはや、手に持っていたクリスタルグラスの重みすら感じていない。
「おやおや、エドワード殿下。あのトレンスの『雑音』に、それほどまでにお心を乱されるとは」
背後から、酒の臭いの混じった、粘りつくような声がした。
このバルコニーで、エドワードの「放蕩」という腐った蜜を吸い続けてきた下位貴族の一人だ。彼はエドワードの肩に馴れ馴れしく手を置こうと、千鳥足で近づいてくる。
「あんな無作法は、明日にはレオナルド殿下が厳罰に処すでしょう。さあ、そんなことより、先ほど話した極上の酒と……」
エドワードの全身の毛が逆立った。
それは、王子としての誇りというより、一人の男としての、生理的なまでの拒絶だった。
今まで、自分はこの程度の、この次元の「雑音」の中に安住していたのか。
レオナルドに否定されることを恐れ、自分より愚かな者たちに囲まれて、安心を得ていたのか。
エドワードは、その手を峻烈に振り払った。
ガシャン、と床でグラスが砕け、琥珀色の酒が飛び散る。
「……下がれ。その口を、二度と俺の前で開くな」
「な……殿下……?」
貴族たちが凍りつく。
エドワードは彼らに一瞥もくれず、背を向けた。
立ち去ろうとする彼の前に、さらに別の取り巻きが「殿下、お待ちを!」と縋り付くように立ちふさがる。
だが、その「壁」は一瞬で排除された。
「殿下の御前だ。控えよ」
低い、地鳴りのような声が響く。
いつの間にか、バルコニーの出口を固めていた二人の男が動いていた。
一人は、給仕のふりをして控えていた大男、ダモン。彼はその巨躯をただ横たえるだけで、放蕩仲間たちの進路を物理的に遮断した。その右手が、儀礼用の剣の柄に、無造作に、しかし完璧なタイミングで添えられている。
もう一人は、影のようにエドワードの隣に並んだ、知的な佇まいの男、ウィルフレッド。彼はエドワードの汚れた上着を一瞬で見抜き、周囲へ向かって事務的で冷徹な声を投げた。
「殿下は急用を思い出された。これ以上の不躾な引き止めは、王家への不敬と見なす。……ダモン、道を開けろ」
「了解だ」
ダモンがその肩で、しつこい貴族の一人を軽々と弾き飛ばす。
エドワードは、一言も発さなかった。
だが、その足取りは、先ほどまでの泥のような酔いを感じさせないほどに、鋭く、確実だった。
彼は、自分を守護するように前後に並ぶ二人を従え、黄金の光に満ちたホールから、暗い回廊へと「敗走」した。
背後で鳴り響く、あの不協和音──タップのリズム。
それが遠のき、やがて厚い扉の向こう側へと消えていく。
無人の回廊を歩きながら、エドワードは初めて、隣を歩くウィルフレッドに、低く、押し殺した声で命じた。
「……ウィルフレッド」
「はっ」
「……あの男……ルーカス・フォン・トレンスのすべてを洗え。あいつが今日この瞬間、この学園に何を齎したのか。その一挙手一投足を……一秒も漏らさず報告しろ」
「御意のままに」
ウィルフレッドの眼鏡の奥で、知性的な瞳が怪しく光る。
それは、長年待ち望んでいた「主君の帰還」を確信した者の色だった。
エドワードは、自身の私室へと続く扉を睨みつける。
もはや、そこは逃げ込むための殻ではない。
あの夜の少年の「真意」を暴くための、作戦室へと変わろうとしていた。