剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第九十八話 太陽の影、あるいは空白の玉座

 

 

第九十八話 非効率の突撃と論理の強制承認

 

 

午後の授業が全て終わり、学園は夕暮れ前の静寂に包まれ始めていた。真夏の熱気がわずかに引き始めたものの、ガゼボの石のベンチはまだ、昼間の残暑を帯びていた。

ルーカスは、レグルス寮に隣接する庭園の一角、アイアンワークが施されたガゼボの石のベンチに座り、一息ついていた。彼の表情には、先日の授業で仕掛けた論理的な攻防、そしてそれに続くアイリス・ド・アークランド公爵令嬢との会談の激戦の疲労が色濃く滲んでいた。この暑さの中で徹夜し、最も低次元の論理戦を強いられたことへの苛立ちが、彼の眉間に深い皺を刻んでいた。

 

(『汚物による屈辱』は、アイリスの『論理的傲慢』という標的を打ち砕くための、最も有効な武器となった。あの女は、今頃、自らの無知と不潔さに戦慄しているだろう……)

 

彼は、頭の中で、アイリスに突きつけた「生存の前提」という論理の勝利を再確認しながらも、あの時感じた自己への嫌悪感と、それに伴う極度の疲労に苛まれていた。

 

(最早、優雅な形式などという『虚飾』に付き合っている時間はない。王国の最適化に向けた通信インフラの構築を急がねば……)

 

彼は、今日の授業ノートを見返し、頭の中でミューズ教授との交渉の最適な手順をシミュレートしていた。

 

(まず、教授が提示するであろう価格体系を解析し、供給量を絞ることで、技術の「希少性」を維持しつつ……)

ルーカスの脳内にある冷静なビジネスロジックは、突如として破られた。

 

「ルーカス!」

 

庭園の向こうから、アンジェリカ・ド・ハートフィリア公爵令嬢が、まるで妖精が駆けるように、白いドレスを翻しながら一直線にこちらへ走ってきた。その手には、真新しい羊皮紙の書類が握られている。

 

彼女の背後、庭園の木々の影には、彼女の侍女であり生徒であるミリアリア・アンナ・ド・オルスタインが控えている。さらにその周囲には、風景のノイズに紛れるようにして、数名の影が点在していた。

 

ハートフィリア公爵家の私設護衛――通称「黒服」。学園の規律では部外者の立ち入りは禁じられているが、彼らは「生徒」として学籍を買い、教師や他の生徒に決して悟らせないという暗黙の了解のもと、アンジェリカを囲む絶対的な防壁として機能していた。彼らが放つ気配は微かで、並の人間であれば、そこに「誰か」がいることすら気づかぬまま通り過ぎるだろう。

 

アンジェリカは、ルーカスの目の前で立ち止まると、肩で息をしながらも、太陽のような明るい笑顔を浮かべた。その金色の瞳はキラキラと輝き、ルーカスをまっすぐに見つめている。

 

「ごきげんよう、ハートフィリア嬢」

 

ルーカスは、内心の辟易を一切顔に出さず、形式的な挨拶を返した。

 

「あら?ごきげんよう、ルーカス様! 挨拶は大事よね!」

 

アンジェリカは、ルーカスの真似をするように返事をすると、すぐに本題に飛びついた。ルーカスの「順序立てた論理」を、一瞬で無視する行動だった。

 

「それで、このクラスターなんだけど!」

 

彼女は、ルーカスの膝の前に、その書類を突きつけた。タイトルには、優雅なカリグラフィーで『王立総合学園公認音楽・音響研究クラスター(仮称):ロックの魂』と書かれている。

ルーカスは、書類に一瞥をくれただけで、顔を上げずに冷静に問い返した。

 

「話が見えません。まず、順序立てて説明していただきたい。私は貴女との午後の『非効率的な喧騒』を終えたばかりで、まだ頭を切り替える途中です」

 

アンジェリカは、ルーカスの論理的な要求を、全く理解していない様子で、両手を組んで熱弁した。

 

「あの音楽!あなたが弾いた、あのチョーキングの音!とっても楽しかったでしょう?あのギターの響きの上で歌ったら、絶対に最高よ!だから、私たち、みんなでやりましょう!」

 

ルーカスは、ため息をつく代わりに、書類の隅に目をやった。新設クラスターの申請書類は、既に学園長の署名が捺されているように見えた。彼は、その手続きの速度の異常性に疑念を抱いた。

 

「…オルスタイン嬢。説明を頼む」

 

ルーカスは、アンジェリカの背後に、疲れ切った顔で立っているミリアリアに視線を向けた。ミリアリアは、正式に学園に入学している生徒であり、常識と規律を理解している唯一の人間だ。

 

ミリアリアは、恐縮しきった様子で、すぐに一歩進み出た。その声には、呆れと疲労、そして諦めが交じっていた。

 

「申し訳ございません、トレンス侯爵。アンジェリカ様が、今日の音楽の授業の直後、『ルーカス様と一緒に、あの魂の音楽を研究する!』と叫びながら……私にもなんだか、よくわからないうちに……止める間もなく、学園長室へ駆け込んで、新設クラスターの書類を提出してしまいました……」

 

彼女は、小さく頭を下げた。

 

「その直後、公爵閣下の側近の方々が、学園の運営規則を……その、閣下流に『再定義』なさいまして」

 

「閣下流の再定義、だと?」

 

「ええ。本来なら理事会の承認が必要な案件ですが、閣下は『若き才能の芽を摘むことは、学園の理念に対する重大な背信である』と、非常に高い見地から解釈を示されました。その結果、手続き上の『些細な待機時間』は全て、学生の情熱を支援するための『特例措置』として、速やかに省略された次第です」

 

ミリアリアは、公爵家が「規則の尊重」を盾に、その実、規則を強引に踏み潰したことを、最大限にオブラートに包んで伝えた。

 

ルーカスは、わずかに眉をひそめた。

 

「公認クラスターの申請プロセスは、最低でも一週間を要するはずだ。署名に至るまでの審議はどうした。規則上、そんなに早く済むとは思えんが」

 

「……審議についても、閣下の側近の皆様が『理事の方々の貴重なお時間を煩わせるのは心苦しい』と、一軒一軒、個別に『ご説明』に回られましたの。皆様、閣下のあまりに熱心な教育への情熱に深く感銘を受けられたようで……その場で快く、承認の署名を賜ったと伺っておりますわ」

 

「一軒ずつ個別に、か。それは随分と『丁寧』な説得だったようだな」

 

ルーカスは、こめかみを指で押さえた。公爵家は、権力という巨大なハンマーを、ベルベットの布で包んで振り下ろしたのだ。相手に拒否権を与えないほどの「丁寧な暴力」。それは軍隊的な圧力よりも、ある意味では性質が悪い。

 

「……つまり、ハートフィリア公爵閣下の親心が、学園の行政システムという歯車を、物理的な速度を超えて回したということか。非効率な手続きをショートカットした手腕だけは認めよう。だがオルスタイン嬢。このように論理を飛躍させたツケは、必ず現場に回ってくる」

 

「……その現場を司るのが、私と、そしてトレンス侯爵……貴方様になるのでございます」

 

ミリアリアは、深く、痛ましいほどのため息を吐いた。二人の間に、実務担当者としての暗く沈んだ連帯感が流れた。

 

 

 

そんな二人の「現場の絶望」など、アンジェリカの黄金色の瞳には一滴も映っていなかった。彼女は、もどかしげに書類を振り回すと、それをルーカスの胸元に勢いよく突きつけた。

 

「大丈夫よ!お父様がね、『好奇心と才能の開花は、王国の未来にとって最も効率的である』って、学園長に優しく言ってくれたんですって!だから、この通り、もう公認よ!」

 

彼女は、ルーカスが先日の授業でトール教授に突きつけた「効率性」という言葉を、父の「親バカな感情」によって完全に悪用し、規律を無力化したのだ。

ルーカスは、無表情のまま、その書類を受け取った。

 

「…で、私に何の用です?」

「決まっているじゃない!」

 

アンジェリカは、満面の笑みで、ルーカスの顔を覗き込んだ。

 

「クラスターの正式名称を、ルーカスと一緒に考えたいの! それと、あなたは、このクラスターの『音響技術統括顧問』に就任するのよ!ね、私、ギターとベースはあなたが弾くロックンロールじゃなきゃ嫌なの!」

 

彼女の目は、ただひたすらに、ルーカスの持つ「熱狂の技術」を独占し、それを共有したいという、純粋で向こう見ずな感情に満ちていた。それは、論理を完全に無視した、感情による支配だった。

ミリアリアは、ルーカスに対し、目だけで「本当に申し訳ございません」という深い謝罪を送った。彼女の目には、既にこの「非効率なクラスター」の事務作業と、アンジェリカの暴走を止める未来の疲労が見えていた。

 

 

……権力によるゴリ押し、規則の私物化、そして感情による現場への介入か。前世の軍上層部でもこれほど酷い不条理(FUBAR)は早々拝めなかったが……。だが、この『歪んだ特権』、利用価値だけは最大級だな。

 

 

「…この資料によると、正式な認可には最低でも5名は必要なようですが?」

 

ルーカスは、書類に目を走らせながら、静かに、しかし有無を言わさぬ論理を突きつけた。彼は、アンジェリカが権力で手順をショートカットしたとしても、根幹のルールを無視することはできないと知っていた。

 

アンジェリカは、まったく動じなかった。彼女は、ルーカスの指摘を、まるで楽しいパズルのピースのように捉えた。

 

「これから探すわ! ラスターバン寮の人たち、興味津々だったもの!あなたのアンプ技術を聞いたら、きっとみんな喜んで入ってくれるわ!」

 

彼女の言葉は、「論理的裏付けのない希望的観測」そのものだった。

ルーカスは、さらに書類の欠陥を指摘した。

 

「…また、クラスターの認可には、活動を監督する担当教授も不在のようですが」

 

「大丈夫!」

アンジェリカは、天真爛漫に胸を張った。

 

「あのトール教授だって、ザイデマン教授だって、ミューズ教授だって、みんなあなたの議論に興味を持っていたじゃない!きっと、快く承諾してくれるわ! だって、あなたの音楽と技術は、とっても素敵ですもの!」

 

「つまり、まだ何も具体的に決めていない、と」

 

ルーカスは、ガゼボの冷たい石に額を当てる寸前だった。目の前の公爵令嬢は、自らの感情的な衝動と、父の非論理的な権力だけで、「公的な学術組織」を設立しようとしている。これは、彼が最も嫌悪する「無計画性」と「非効率性」の極致だった。

 

「そうなるわ!」

 

アンジェリカは、その稚拙な計画性を、全く恥じることなく肯定した。

ルーカスは、もはや彼女との問答が無意味であることを悟り、最後に残された「合理的な調整役」に視線を向けた。

 

「オルスタイン嬢」

 

ミリアリアは、深いため息を一つだけ飲み込んだ。この状況下でルーカスが彼女に助けを求めるのは、彼女が「論理を理解できる唯一の生存者」であるからだ。

 

「トレンス侯爵。誠に申し訳ございません」

彼女は、静かに頭を下げた。

 

「アンジェリカ様が『技術統括顧問』としてトレンス侯爵を指名したことは、このクラスターの学術的信頼性を確保するために、唯一絶対の論理となります。学園長も、侯爵が関与されるなら、このクラスターが『単なる遊び』で終わらないと判断されたのでしょう」

 

ミリアリアは、「アンジェリカの感情(遊び)」を、「ルーカスの論理(学術的信頼性)」で相殺するという、学園側の判断構造を正確に伝えた。

 

ルーカスは、自らの「論理の厳密性」が、「感情的な暴走」を担保するために利用されたという事実に、内面のシステムが激しく警鐘を鳴らしたのを感じた。

 

彼は、深く息を吐き、視線をアンジェリカに戻した。彼女は、今にも飛び跳ね出しそうな、期待に満ちた目でルーカスを見つめている。この茶番劇から、最大の効率を抽出するしかなかった。

 

「…承知しました。私がこのクラスターに関与する場合、一つ条件があります」

 

「え?条件?」

アンジェリカは、予想外の展開に首を傾げた。

 

「貴女の『ロックの魂』を実現するためには、午後の授業で私が論じた『音響増幅技術(アンプ)』の実証と研究を、このクラスターの最優先事項としなければなりません」

 

ルーカスは、アンジェリカの非効率な趣味を、自身の効率的な技術開発へと強制的に軌道修正した。

 

「そして、クラスターの名称です。感情的で曖昧な『ロックの魂』など、学術の場に相応しくない。名称もまた、その活動内容を論理的に定義すべきです」

 

ルーカスは、書類の仮称欄を指でなぞった。

「貴公の『楽しい』という感情を普遍的に再現可能にするために、このクラスターは、感性の支配を研究する組織でなければならない」

 

彼は、静かに、そして冷徹に、新しい名称を提案した。 

「クラスターの仮称名称は、『普遍的感性制御研究部(UECC):ユニバーサル・エモーショナル・コントロール・クラスター』と仮称します。これならば、ミューズ教授の学術的探求心を満たし、貴女の『楽しい』という目的を、論理的に正当化できる。どうです、ハートフィリア嬢」

 

アンジェリカは、目を丸くしたが、ルーカスが「関与する」ことを約束したという事実に、すぐに満面の笑みを浮かべた。

 

「ユニバーサル・エモーショナル・コントロール・クラスター! かっこいい!よくわからないけど、すっごく強そう! それに、あなたも一緒でしょう?」

 

彼女は、論理的な意味を全く理解せず、ただその響きと、ルーカスの関与という「結果」だけを受け入れた。

ルーカスは、深く静かにため息をついた。これで、「感情的な乱数」は、「論理的な研究開発の場」という名の檻に閉じ込められた。彼にとって、この非効率な騒動は、自身の技術実証という「効率的な結果」に変換されたのだ。

 

「……オルスタイン嬢。では、この『UECC』を仮称とし、今後は……」

 

「やっぱりダメよ! ルーカス!」

 

だが、安堵は数秒と持たなかった。彼女の瞳は、まるで突然閃いたインスピレーションを掴みそこねるまいとするかのように、熱烈な光を帯びていた。

 

「UECC?ユニバーサル……なんだか長くて退屈だわ。あなたの音楽は、もっと心臓に響くでしょう?」

 

彼女は、かつてトレンス家で聞いたブルースとロックンロールを思い出し、胸に手を当てた。

 

「あの時、あなたのギターは、私の心臓を叩いたのよ!ねぇ、ルーカス、あの曲にしましょう!あの、私とあなたが出会った深淵の音に!」

 

ルーカスは、内心で警鐘を鳴らした。この女は、またしても感情的な二元論で、彼の厳密な論理を掘り崩しにかかっている。

 

「ハートフィリア嬢。あの曲は、公的な学術機関の名称に相応しくない。それは、私の私的な趣味の領域に属する」

 

「いいじゃない!趣味の活動が、一番楽しいでしょう?」

 

アンジェリカは、ルーカスの冷徹な論理を跳ね除け、目を輝かせながら、最高のインスピレーションが降りてきたかのように、ぴょんと飛び上がった。

 

「決めたわ!私たちのクラスターの名称はね……『ハートビート・ロマンス』よ!」

 

「…………Ah?」

ルーカスの顔に、初めて明確な感情の乱れが浮かんだ。それは、疲労と絶望に似た、ごくわずかな歪みだった。

 

「ハートビート・ロマンス?」

 

「ええ!私の心が叩かれる『ハートビート』と、あなたと私が出会った運命的なロマンスよ!素敵でしょう?ねぇ、ルーカス様」

アンジェリカは、ルーカスの許可など待たずに、書類の仮称欄に、そのキャッチーで、学術的に最も不適切な名称を走り書きした。

ミリアリアは、顔を覆い、心の中で悲鳴を上げていた。

 

(ハートビート・ロマンス!? アンジェリカ様!公爵令嬢のクラスター名として、あまりにも俗物的で、王立学園の品格を冒涜しているわ!しかも、ロマンスなんて、トレンス侯爵への告白じゃないの!)

 

ミリアリアは、ルーカスに視線を送り、無言で「この命名を阻止してください!」と懇願した。

 

しかし、ルーカスは、既に思考を「感情的な対立」から「効率的な撤退」へと切り替えていた。名称の非論理性を巡ってアンジェリカと争うことは、それこそが最大のエネルギーの浪費であると判断したのだ。

 

「…承知いたしました、ハートフィリア嬢」

ルーカスは、疲労の滲む声で、諦めにも似た同意を与えた。

 

「『ハートビート・ロマンス』。学術的な目的からは著しく逸脱した名称ですが、貴女の『感情的な特性』を反映した、予測不能因子としての分類には最適と判断します」

彼は、一気に本質的な条件へと話を戻した。

 

「ただし、私がこの『ハートビート・ロマンス』に関与する唯一の論理的な理由は、午後の授業で私が論じた『音響増幅技術(アンプ)』の実証と研究を最優先とすることです」

 

ルーカスは、アンジェリカにその書類を突き返した。

 

「先程の話では、機材も不十分。人員も不足している。特に、音響技術の普遍的な再現性を証明するためには、トレンス領で生産された実機材が必要不可欠です」

 

彼は、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で続けた。

 

「貴女の活動の非効率的な遅延を回避するため、機材一式を学園に運び込む必要がある。このクラスターは、形式上は『ロマンス』かもしれませんが、実態はトレンス領の機材を用いたアンプ技術の学術実証実験場となります。これが、私が関与する『効率的な実利』です」

 

アンジェリカは、ルーカスの言っている「学術実証」や「効率的な実利」といった堅苦しい言葉を全く理解しなかったが、彼の口から「エレキギター」と「アンプ」という、熱狂的な音楽の源となる単語が出たことに、目を輝かせた。

 

 

「あら、そうでしょう? やっぱり持っているでしょう?」

 

彼女の言葉は、まるでルーカスが秘密を隠していたかのような、軽い非難と、確信に満ちた喜びを含んでいた。

 

ルーカスが「機材一式を学園に運び込む必要がある」という条件を提示した直後、アンジェリカはルーカスの言葉を「機材がある」という事実のみに絞って解釈し、太陽のような笑顔でルーカスをまっすぐに見つめた。

 

ルーカスは、もはや反論する気力もなかった。彼の技術体系、そして彼がロックンロールを知っているという過去の事実から、機材の存在は彼女の「非論理的な直感」にとって、自明の理だったのだろう。

 

「……王都別邸になら、研究用として一式保管してあります」

ルーカスは、心の中で深くため息をつきながら答えた。その声には、呆れと、この非効率的な騒動の迅速な収束を願う諦めが滲んでいた。

 

「最高よ! ルーカス!じゃあ、早く機材を運び込みましょう!ハートビート・ロマンスの準備よ!」

 

彼女は、ルーカスの論理を、自身の衝動的な行動力で上書きし、すぐにでも動き出そうとする。

 

ミリアリアは、深々と頭を下げた。彼女にとって、この展開は「トレンス侯爵の私的な機材を学園に持ち込む」という、新たな規則違反と、その事務手続きの労苦を意味していた。

 

(……侯爵は、またしても、非効率な名称と引き換えに、最も効率的な技術実証の場を手に入れた……そして、私はその事務処理に追われる。これが、この世界の『感情と論理の調和』なのね……)

 

「それなら、すぐに取りに行きましょう!」

 

アンジェリカは、両手を叩いて歓声を上げた。彼女の思考回路には、「欲しいものがある→すぐに手に入れる」という極めて単純な二段階しかない。

 

「待ちなさい、ハートフィリア嬢」

ルーカスは、走り出そうとするアンジェリカを、静かな威圧感で制した。

 

「学園の規律上、生徒の私物を多量に、しかも授業外の研究用機材として持ち込むには、相応の公的な理由と許可が必要です。貴公の『ハートビート・ロマンス』という名称の感情的な非効率性を鑑みれば、正規の手続きを経ずして、それが許されるとは思えませんが?」

 

ルーカスは、彼女が唯一理解するはずの「規律の壁」を提示した。

アンジェリカは、立ち止まり、頭を軽く傾げた。

 

「そうね! 確かに、『ハートビート・ロマンス』が、ただの遊びだと思われたら困るものね!」

 

彼女は、ルーカスの指摘を、「クラスターの品格を守る」という方向性ではなく、「自分のワガママを正当化する手順」として解釈した。

 

「大丈夫!ちょっとお願いしてくるわ!」

 

アンジェリカは、ルーカスとミリアリアを残し、嵐のような勢いで、学園長室へと続く本館の方向へ走り去った。黒服の護衛たちは、気配を消したまま、主人の突撃に遅れないよう、庭園の木々の影を縫うように移動した。

ミリアリアは、顔を覆う寸前でそれを堪えた。

 

「トレンス侯爵。アンジェリカ様は、今、学園長に『公的な理由』ではなく、『最も感情的なお願い』をしに行かれました……我々は、最悪の論理的破綻を予想すべきでしょうか?」

 

「いや、オルスタイン嬢」

 

ルーカスは、冷静に紅茶を一口飲んだ。

 

「彼女の『非論理的な突撃』は、時として、最も効率的な最短経路となる。学園長は、ハートフィリア公爵家の圧力と、私の技術への期待という二重の圧力をかけられ、論理を放棄せざるを得ないだろう」

 

 

・・・・・

・・・

 

 

学園長室

 

その頃、学園長室では、ミューズ教授が、ルーカスから提案された「アンプ技術」の交渉について、学園長と詰めの話し合いをしている最中だった。

 

「学園長。トレンス侯爵の技術は、革命的です。我々が技術提供を受けることで、普遍的な音響研究の分野で、他国の追随を許さない優位性を確立できます。問題は、侯爵が求める技術料と、『公正な契約』の定義ですが……」

 

教授が、ルーカスとの「効率的な商取引」の定義を慎重に進めようとした、その矢先だった。

 

ドォンッ!

 

優雅な学園長室の扉が、外側から力任せに開け放たれた。

 

「学園長!ミューズ教授!」

 

アンジェリカは、息を切らしながらも、瞳を輝かせ、書類を両手で振りかざして突入してきた。

 

「お願いがあります!私たちのクラスター『ハートビート・ロマンス』を、王国の学術発展に不可欠な研究機関として、正式に認めてください!」

 

学園長とミューズ教授は、その場に固まった。

 

「ハートフィリア公爵令嬢。淑女として、そのような、はしたない行動は慎みなさい。クラスターはまだ、仮称でしょう」

 

アメリアは動じず、アンジェリカを窘めた。

 

アンジェリカは、ミューズ教授にまっすぐ駆け寄った。

 

「教授!あなたは、昨日の授業で、ルーカスのベースの音が出なかったのは、増幅器がないからだとおっしゃったでしょう?あの音響技術は、個人の才能に依存しない、普遍的な感性の再現に不可欠だと!」

 

「そ、それは事実だが……」

 

教授は、アンジェリカの突拍子もない熱意に圧倒されていた。

 

「その増幅器と、エレキギター、エレキベース一式が、ルーカス様の王都別邸に全て揃っているのです!しかし、学園の規律が、その革命的な技術の持ち込みを阻んでいますわ!」

 

アンジェリカは、ルーカスの「論理」を、極めて感情的な修辞で飾り立てた。

 

「王国の学術発展を、たった一つの『規則』が妨げているとしたら、それは最大の非効率ではありませんか?ルーカスは、この技術を公的に実証したいと望んでいらっしゃるのに!」

 

ミューズ教授は、ルーカスの技術の価値を理解しているだけに、アンジェリカの訴えを完全に無視できなかった。

 

(トレンス侯爵の技術が、今すぐ学園に入ってくるというのか!?しかも、それが『ハートビート・ロマンス』という名のクラスターで……?)

 

ミューズ教授は、アンジェリカの言葉が論理的な真実(機材の存在と技術の重要性)を含んでいるため、感情的な非効率性(名称と突撃)を無視して、実利を取るべきだと瞬時に判断した。

 

「学園長!これは機会です!『ハートビート・ロマンス』という名称は問題がありますが、トレンス侯爵の技術が学園内で実証されるならば、それは王国全体の利益となります!機材の持ち込みを、研究特例として直ちに承認すべきです!」

 

ミューズ教授は、アンジェリカの非効率的な突撃を利用し、自身の効率的な研究目標を達成しようと、ルーカスの論理に沿った『強制的な承認』を学園長に迫った。

 

学園長は、ミューズ教授の学術的な圧力、ハートフィリア公爵家の政治的な圧力、そして「規則が発展を阻害している」というルーカスが好む論理的な批判という、三重の攻撃を受け、顔を青くした。

 

「……。わかりました。『音響技術の普遍的再現に関する研究特例』として、トレンス侯爵の機材持ち込みを特例承認する。ただし、ミューズ教授、貴殿がクラスターの担当教授として、その研究内容を厳しく監督することを条件とします」

 

「承知いたしました!」

 

ミューズ教授は、興奮を抑えきれず答えた。

アンジェリカは、満面の笑みで書類を握りしめた。

 

「ありがとうございます、学園長!教授!さあ、ルーカスのところに知らせに行かなくては!」

 

アンジェリカは、再び嵐のように学園長室を後にした。彼女の論理を無視した「感情の突撃」は、通常正規の手続きであれば数日かかる筈だった「規則の迂回」を、わずか数分で完了させたのだった。

 

 

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