剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第百話

 

第百話 均衡の瓦解と鏡像の深淵

 

 

王立総合学園を包み込む秋の乾いた気配は、今年に限って、どこか遠い異国の熱帯に遮断されたかのようだった。

 

第一王子エドワード・ブラン・ホーネリアの私室は、本来なら夜ごとに暖炉の準備を意識し始める時期であるはずが、今は壁の石材がじっとりと結露し、まるで古城が冷や汗をかいているかのような不気味な湿気に満ちている。

下位貴族たちの奏上を聞きながら、エドワードは自身の首元に張り付く絹のシャツの不快な感触に眉をひそめた。この国では経験したことのない、肺の奥までねっとりと絡みつくような重い空気。それが、ルーカスという異物がもたらした変革の余波であるかのように思えてならなかった。

 

「トレンス侯爵の増長、目に余りますな。初日から教授陣を足蹴にするとは」

「全くです。その上、昼食時には二大公爵令嬢を侍らせて……。あれでは学園が彼の私物も同然。殿下、一刻も早くあのような『不敬な放蕩者』には、王族としての厳しい裁きを」

 

口々にルーカスを貶め、自らの忠誠心をアピールする彼らの言葉は、エドワードには「雑音」にすら聞こえなかった。

 

「不快だ。耳を貸す時間は一秒たりとも残っていない。下がれ」

 

エドワードの一喝は、羽虫のような貴族たちだけでなく、室内に澱むこの異常な熱気そのものに向けられていた。

彼らが這々の体で退室すると、室内には信頼を置く腹心、ウィルフレッドとダモンだけが残された。

 

彼らが去った後の静寂の中で、ウィルフレッドが差し出した報告書は、湿気を吸って僅かに波打っている。

エドワードは重厚な革張りの椅子に身体を沈め、窓の外、暗闇に沈む学園の敷地を見据えた。脳裏に焼き付いているのは、あの夜の舞踏会で目撃したあの少年の姿だ。路地裏で不敵に笑ったあの一年生が、レオナルドの「冷徹な駒」として立ち振る舞っていた衝撃。その正体が今、報告書という冷たい事実によって暴かれようとしていた。

 

「ウィルフレッド、始めろ。……あの一年生の怪物が、今日一日でこの学園の秩序をどれほど徹底的に解体したのか。すべて、一つ残さず報告せよ」

 

エドワードは、ウィルフレッドが机に並べた数枚の報告書を、食い入るように見つめた。ウィルフレッドは、分析者の静かな声で報告を始めた。

 

「まず、一限目の算術です。トレンス侯爵は、レグルス寮の重鎮ガブリエル・フォン・トール教授を……即ち、王国の知性を公然と屈服させました。彼は教授の出した『比率』の問題に対し、一意の解が存在しないと断じ、三つの解釈を突きつけました」

 

ウィルフレッドがスレートに再現した数式──「60÷1/2 + 20 = 140」という数字を見た瞬間、エドワードの背中を冷たい悪寒が走り抜けた。

 

「140……。本来なら50で済むはずの計算を、ここまで跳ね上げたのか。論理という刃一つで」

 

「左様です。トレンス侯爵は、貴族が誇る『優雅な曖昧さ』こそが、悪意ある権力者による搾取を誘発する論理的な欠陥であると断じました。曖昧な言葉は強者の毒であり、厳密な数値こそが弱者を守る盾である。即ち、曖昧な統治を続ける我々は『無能』である、と」

 

エドワードは自身の指を強く握りしめた。彼らがこれまで、伝統や慣習、あるいは慈悲という名の下に許容してきた「統治の余白」を、ルーカスは一瞬で「汚職の温床」へと定義し直したのだ。

 

「さらに殿下、ここからが本質です。フィアット家の子息が感情的に反論を試みましたが、侯爵はそれを『許可のない発言』として黙殺しました。彼は、トール教授自身が定めた規約を『盾』として利用し、教官に自分の敵を排除させたのです。教授は自らの権威が、侯爵の論理を補強する礎として利用されたことに戦慄し、完全に屈服しました」

 

「……凄まじいな。初日にしてこれか。論理の隙間を突き、王国の根幹である統治の正当性そのものを汚職の温床と切り捨てたというわけか」

 

「えぇ…。教授の権威を、そのまま教授自身を縛る鎖に変えたのです」

 

だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。だが、続く二限目、基礎魔導学。そこでトレンスが放ったのは、人類の限界を否定する暴論だった。

 

「続いて、基礎魔導学です。ここでトレンス侯爵が放った言葉は、魔導学史上最大の禁忌……数百年未解決の難問『フィードバック制御(自己回帰的魔力補正)』でした」

 

エドワードはその単語を目にした瞬間、喉の奥が乾くのを感じた。

 

「……ウィルフレッド。聞き間違いではないな? トレンスは、あの『フィードバック』を基礎の授業で口にしたのか?」

 

「はい。ザイデマン教授も絶句したとのことです。殿下もご存知の通り、それは数世紀前、伝説的な魔導の始祖たちが挑み、ついには『人類には不可能』として神の領域に棚上げされた、魔導学史上最大の未解決問題です」

 

ウィルフレッドの声は、未知の怪物への恐怖で僅かに上ずっていた。

 

「魔力は常に揺らぎ、精神は常に変質する。その動的なノイズを、魔術式そのものが事象の発生と同調し、刹那の遅滞もなく検知して、自動で補正し続けるなど……。それはもはや、魔術という名の『意志』ではなく、自律して拍動する『生命体』を数式で創り出すに等しい暴論です」

 

エドワードは窓際へ歩み寄り、自身の震える指先を隠すようにマントを握りしめた。

 

「算術で支配の隙を突き、次は魔導の根幹を……神すら諦めた難問をもって否定したか。あいつは、我々が『才能』という名の奇跡に依存して築き上げたこの文明を、根底から『不完全な設計図』として破棄しようとしている」

 

エドワードにとっての衝撃は、ルーカスの「正解」ではない。

 

「それが数百年解明されていない難問であることを知りながら、なお、それを『基礎で解決されるべき当然の前提』として扱っている」という、ルーカスの傲慢なまでの知性そのものだ。

 

「……だが、ザイデマン教授は『杖との精神接続の切断』という課題を与えたそうだな。これは、魔導師にとっての死を意味する。精神を通わせぬ者に、杖はただの枯れ木に過ぎない。さすがのトレンスも、この世界の物理的限界には抗えまい」

 

「左様です。ですが殿下、もし彼がこれすらも『論理的厳密性』のみで突破したならば……」

 

「……その時は、王国の秩序だけでなく、この世界の理そのものがトレンスの手に落ちるということか」

 

エドワードは、かつて路地裏で自分の音を求めた少年の、あの全てを冷笑するかのような、皮肉げに歪んだ口端を思い出そうとした。

当時はそれを、過酷な環境を生き抜くための「強がり」だと思っていた。だが今、報告書の中に浮かび上がる「ルーカス・フォン・トレンス」の像は、異なる真実を告げている。

 

あの時のルーカスは、救いを求めていたのではない。

ただ、自分という王族の反応を、実験動物の脈拍を測るような冷徹な好奇心で観察していただけではないのか。

 

──……ルーカス。あの日、お前が私に向けたあの射抜くような酷薄な瞳の奥に、一体何を見ていた……?──

 

 

そして、エドワードにとって最も精神的なダメージが大きかったのは、午後の音楽の授業だった。彼にとって音楽は、王族の重圧から逃れるための唯一の聖域だったはずだ。

 

「……あいつは、私の拠り所まで、数式で作り変えるつもりか」

 

「殿下……。ミューズ教授の講義において、トレンス侯爵は楽器を『音響的な周波数比のパターン』として再定義しました。彼によれば、音楽とは神の調和ではなく、聴衆の心拍を強制的に同調させるための『音響支配(サウンド・コントロール)』に過ぎない、と」

 

ウィルフレッドの報告は、冷酷なまでに詳細だった。

 

「彼はアンプという魔導具の概念を提示し、『才能』や『感性』を、増幅器という『普遍的な技術』に置き換えました。誰が弾いても、ピックという均一な道具を使えば、同じ『激情』を再現できる。……即ち、音楽は選ばれた者の芸術ではなく、誰もが一定の出力を得られる『感情の量産技術』であると断じたのです」

 

エドワードは、自身の胸元を強く掴んだ。

舞踏会で聞いたあのタップ。路地裏で聞いたあのリズム。自分を救ってくれたあの「熱」が、今や「増幅魔力と信号の1対Nの比率」という無機質な言葉で処理されている。

 

「……あいつが鳴らしたあの音は、私を救うためのものではなかったのか。ただ、私を『熱狂』という計算通りの反応に導くための、効率的な演算だったというのか……!」

 

「殿下、問題はそれだけではありません。ミューズ教授は、その技術に魅了され、トレンス侯爵への『技術提供の交渉』を開始しました。午前中のトール教授、ザイデマン教授は屈服させられましたが、ミューズ教授は自ら『トレンスの理』に取り込まれたのです。……学園の権威が、次々と奴の軍門に降っています」

 

エドワードは、震える手で音楽堂からの報告書を机に叩きつけた。

ウィルフレッドとダモンは、主君から溢れ出す、怒りとも絶望ともつかない殺気混じりの魔力に、思わず言葉を失う。

 

エドワードの怒りと戦慄は、さらに「物理的な現実」へと向けられた。

 

「……ウィルフレッド。あの忌々しい音の正体は、もう突き止めたのだろうな?」

 

エドワードの声は、苛立ちよりも、底知れぬ「異物」に対する戦慄を孕んでいた。昼間に学園の地面を揺らし続けたあの「暴力的な地響き」。それは、エドワードが大切にしてきた学園の「静謐な秩序」を、物理的に踏みにじる行為だった。

 

「……昨夜、トレンス侯爵が学園長室へ殴り込みをかけ、何らかの『強行採決』を勝ち取ったようです。トレンス家が全額を融資し、学園の基盤を根底から作り直すプロジェクト──名目は『環境基盤の再構築』。今日始まったあの工事は、その第一段階です」

 

「環境の再構築だと?」

 

エドワードは立ち止まり、まだ微かに熱を帯びた夜気の中、ラスターバン寮の方向を睨みつけた。

 

「算術で国を縛り、魔導で個を殺し、音楽で魂を操る。……ルーカス・フォン・トレンス。お前は、この世界の美しさをすべて剥ぎ取り、合理性という名の冷たい鋼で塗り固めるだけでは飽き足らず、我々が拠り所とする『静謐な伝統』という物理的土台さえも粉砕し始めた。あれは修繕ではない。古き秩序を破壊し、奴の『理』を埋設するための進軍だ」

 

「……だが、これほどの知性を見せつけながら、昼食時のあの醜聞(スキャンダル)は何だ? 説明しろ、ウィルフレッド」

 

ウィルフレッドは困惑を隠せない表情で、食堂での騒動を報告した。

 

「……はい。アイリス・アークランド嬢とアンジェリカ・ハートフィリア嬢。この王国の命運を握る二大公爵令嬢が、食堂のど真ん中でトレンス侯爵を奪い合い、公然と痴情の縺れを演じました。アイリス嬢は婚約を盾に正当性を主張し、アンジェリカ嬢はそれを退屈と一蹴して彼に寄り添う……。学園中の注目は今、彼の『論理』から、この『二股の麒麟児』という俗悪な噂へと完全に移行しています」

 

ウィルフレッドは、この事態を高度な「情報操作」として分析した。

 

「昨日大食堂で起きたあの騒動……アイリス嬢とアンジェリカ嬢を挟んで冷めたスープを啜っていたあいつの姿。学園中の連中は『結局は俗物だ』と嘲笑していますが、俺にはどうしてもそうは思えやせん」

 

ダモンの言葉に、ウィルフレッドが付け加えていく。

 

「同感です。殿下、恐ろしいのはここからです。この醜聞により、学園内ではトレンス侯爵の『論理の怪物』という尖ったイメージが、瞬時に『女にだらしない麒麟児』という卑俗な噂に塗り替えられました。……これは、彼に対する警戒心を、民衆レベルで意図的に弛緩させるための『認知的攪乱』ではないかと思われます」

 

エドワードは激しい怒りと、それ以上の戦慄を覚えた。

 

「認知的攪乱……。あいつは、午前に放った王国の根幹を揺さぶる猛毒を、この『甘いスキャンダル』という口直しで包み込み、気づかぬうちに全員に飲み込ませたのか。色恋沙汰という最も理解しやすい皮を被り、自身の危険思想を『よくある放蕩』へと擬態させた……。さらには政治的にも、第二王子派閥の筆頭と婚約しながら、殿下の派閥の象徴と熱狂を共にする。どの派閥にも属さず、同時にすべての派閥の心臓部を握る二重工作。……彼は人間ではありません。この王国を、自らが描く脚本通りに動かす『装置の設計者』です」

 

エドワードの瞳には、もはや迷いはない。だが、室内の空気は先ほどから異様なほどに重く、湿り気を帯びていた。エドワードは窓際へ歩み寄り、豪奢な装飾が施された窓を乱暴に開け放った。

 

「昨夜、トレンスが地下を掘り返し始めてからだ。この、喉を焼くような不快な風が吹き始めたのは」

 

流れ込んできたのは涼気ではなく、濡れた土と鉄の匂いが混じった重苦しい夜気だった。大陸の乾いた冬を待つこの学園に、あり得べからざる湿熱が立ち込めている。奴は言葉で教授陣を屈服させ、音楽で魂を操り、今度はこの物理的な空気そのものまで、奴の支配する『理』の色に染め上げようとしている。エドワードの目には、この異常な暑さは、旧き良き王国がトレンスという名の劇薬に侵され、高熱を発している断末魔の叫びのように思えた。

 

「奴は、美姫たちの言い争いなど一顧だにせず、ただ『テーブルの汚れ』を凝視していたという。奴にとって、公爵令嬢との政治的な結びつきも、派閥の対立も、あの瞬間の『汚れ』と同じ……即ち、除去すべき『非効率な不備』に過ぎなかったのだ。あの騒動は、奴が地下でこの大規模な破壊活動を進めるための目眩まし。己が『感情で動く人間である』と周囲を欺くための、計算された認知的攪乱だったのだ」

 

エドワード達にとって、「公衆衛生」という概念は存在しない。排泄物や下水は、視界から排除すべき不浄であり、触れることすら忌むべき対象だ。彼等の常識において、王族に近い地位の者がわざわざ不浄に触れ、そこにトレンス家の莫大な資産を投じる理由は、より高次元の「陰謀」以外にあり得なかった。

 

「なぜ奴は、わざわざ『地下』を掘り返す? 貴族が最も忌避すべき『不浄』に、あえてトレンス家の莫大な資産を投じる理由は一つしかない。……地下だ。奴は学園の地下に眠る、王国の根幹に関わる『何か』を独占しようとしている。古代の遺産か、あるいは魔力の源流か。衛生などという下卑た名目は、地中を掘り進め、学園の心臓部を掌握するための、これ以上ない『不可侵の隠れ蓑』なのだ。奴が敷設しているあの鋼の配管は、王国を絡め取る蛇の神経網に他ならない」

 

エドワードは窓に映る、王子としての孤独な影を睨みつけた。その背後には、彼が守るべき古き秩序が、ルーカスの影によって今にも塗り潰されようとしている幻影が見えた。

 

「醜聞で民衆の目を欺き、さらには学園の地下を掘り返し、衛生という名目で物理的な支配の基盤すら埋設しようとしている。奴がこの学園を完全に作り変え、我々が『トレンスが設計した檻』の中に閉じ込められる前に……。あいつが怪物なのか、それともただの空虚な天才なのか、この手でそのメッキを剥ぎ取ってやる」

 

エドワードは重厚なマントを翻し、決然と言い放った。

 

「公式の場ではない。北の古塔の廃礼拝堂だ。ダモン、あいつをそこに呼び出せ。……お前がどんな音を鳴らしたいか。あの夜の言葉の真意を、その冷たい『理』の奥底から引きずり出してやるよ、ルーカス・フォン・トレンス」

 

第一王子の決然とした歩みが、不穏な夜の静寂へと消えていった。旧世界の弔鐘か、新時代のファンファーレか。その答えは、今宵の対峙の中にしかない。

 

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