第百ニ話 攪拌される均衡 — スナップ・ビート
学園長室から続く廊下に、アンジェリカの弾むような足音が響き渡っていた。
談話室は、夕刻の穏やかな静寂を保っていた。しかし、その静寂は、金色の旋風となって現れたアンジェリカ・ド・ハートフィリアによって一瞬で粉砕された。
「ミリー! ミリー、見て! 許可よ、学園の歴史を書き換える許可を奪い取ってきたわ!」
「ちょっと、アンジェ……。声が大きいわよ、このおバカ」
ミリアリアは反射的に周囲を窺ったが、既に手遅れだった。アンジェリカが振りかざした書類に、談話室にいた令嬢たちが一斉に視線を向ける。ミリアリアは額を押さえ、心の中で「オルスタイン家の品位」を一度だけ弔った。
「アンジェ……! その、学園長は……」
「ええ、もちろん許可をいただいたわ! 教授も『特例承認』ですって! これでルーカスと一緒に、あの素敵な音楽を研究できるのよ!」
アンジェリカが突き出した書類には、まだ乾ききっていない学園長の署名が鮮やかに躍っていた。ミリアリアはそれを受け取り、絶望に近い溜息を漏らした。
「見て、この署名! 学園長も最後は泣いて喜んでいたわ。これでルーカスのあの『叫ぶような音』を、私たちの手で、このハートビート・ロマンスで再現できるのよ!」
「はいはい、分かったから。少し落ち着いて」
ミリアリアは、ルーカスから受けた「メンバーの抽出」という難題に、胃の辺りが重くなるのを感じていた。ルーカスからは「ヴェクターは最終手段だ」と釘を刺されている。だが、王立学園の誇り高い貴族子弟の中で、誰がこの「嵐」に飛び込むというのか。
「ほんとに……信じられない。規則を一足飛びに超えて、これほど短時間で。ですが、アンジェリカ様、問題は山積みです。認可にはあと2名、いえ、トレンス侯爵が妥協してくださっても、この荒唐無稽な名称――ハートビート・ロマンス――に付き合ってくれる、かつ『品位を損なわない』メンバーなど……」
(トレンス侯爵には言えない……「そんな都合のいい人間は、この学園には一人も存在しません」なんて!)
ミリアリアが指折り数えて思考を巡らせようとした時、その言葉は遮られた。
葛藤に悶えるミリアリアの耳に、ふと、異質な音が届いた。
パチン、パチン、パチン。
乾いたスナップが三回。等間隔ではない。だが、間が不思議と“前へ”進ませる。
——それは貴族の拍ではなく、群衆を煽る拍だ。
視線を向けると、少し離れたソファ席で、数人の女子生徒に囲まれた一人の男子生徒がいた。ウィルソン商会の息子、ヴェクターだ。
彼は、令嬢たちの華やかな笑い声の隙間を縫うように、一定のリズムを刻みながら軽妙に語っていた。
「……そう、音楽ってのは計算じゃない。
パチン。
「まぁ、ヴェクター様ったら。そんなお話、音楽の授業でも聞いたことがありませんわ」
「ははは、教科書に載るような退屈な話は、僕の柄じゃありませんから。ねぇ、お嬢さん方、もし世界がもっと『熱い音』で満たされたら、素敵だと思いませんか?」
その軽薄な、しかしどこか人を惹きつけるリズムの刻み方。ミリアリアの脳裏に、先ほどルーカスが提示した条件が火花を散らした。
(――このおバカの『熱狂』を増幅させる音楽的才能。そして、この場に馴染む社交性……)
ミリアリアは息を呑んだ。ルーカスが提示した条件「熱狂を増幅させる音楽的才能」。目の前の軽薄な商人の息子が放つリズムは、不気味なほどそのパズルに合致していた。
(――待って。トレンス侯爵は彼は最終手段だと言っていた。もっと慎重に、彼の素性を調べてから……)
ミリアリアが冷静さを取り戻し、アンジェリカの袖を引こうとした、その瞬間だった。
「…………いたわ」
アンジェリカの瞳が、獲物を見つけた肉食獣のように黄金色に輝いた。
「アンジェ? ちょっと、待ちなさい!このおバカ!」
ミリアリアの制止など、嵐の前の小枝も同然だった。アンジェリカは豪華な絨毯を蹴るようにして、令嬢たちが囲むソファへと一直線に「突進」した。
「そこの貴方! 今の! 今のリズムよ!」
突如乱入してきた公爵令嬢に、ヴェクターを囲んでいた令嬢たちは悲鳴を上げそうになって跳ね上がった。
「は、ハートフィリア公爵令嬢……!?」
「ごきげんよう、アンジェリカ様。その、何事でしょうか……」
令嬢たちが困惑と恐怖で顔を強張らせる中、アンジェリカはヴェクターの膝のすぐ前に立ち、熱病に浮かされたような表情で両手を広げた。
「聞こえるわ、貴方の指先から! それは、ルーカスがアンプを通して放つ『魂の震え』の欠片! 貴方は知っているのね? 理屈じゃない、内側から溢れ出す、あの爆発するような熱いロマンスを!」
「……おっと。これは、かなり熱烈な歓迎ですね」
ヴェクターは苦笑しながらも、スナップを止めず、令嬢らしい礼儀を一切無視したアンジェリカの至近距離からの視線を受け止めた。
「最高よ! 貴方、私たちの仲間になりなさい! 一緒に、この退屈な学園を、
アンジェリカの抽象的すぎる、しかし圧倒的な熱量を孕んだ勧誘に、周囲の令嬢たちは真っ青になった。彼女たちの目には、アンジェリカが「何らかの危険な魔術儀式」に生徒を誘っているようにしか見えなかった。
「あ、あの、アンジェリカ様……。私たち、そろそろ失礼しなければ……」
一人の令嬢が震える声で告げると、アンジェリカは眩しい笑顔で彼女たちを振り返った。
「あら、貴女たちもどう? ちょうどメンバーが足りないの! 一緒に魂を震わせましょう!」
「ひっ……! め、滅相もございませんわ!」
「失礼いたします!」
爵位の差、そして「公爵令嬢の暴走に巻き込まれたら人生が終わる」という本能的な恐怖。令嬢たちはスカートを翻し、蜘蛛の子を散らすように談話室から逃げ出していった。
静まり返った空間に、ミリアリアの深いため息が落ちた。
「……アンジェ。貴女、また私の仕事を増やしましたわね」
逃げ出した令嬢たちの足音が遠ざかる中、ミリアリアが肩を落として歩み寄る。ヴェクターは、逃げ去った令嬢たちを「残念だなぁ」と言わぬばかりの苦笑いで見送った後、面白そうに目を細めてアンジェリカを見上げた。
「もう一度! ヴェクター、もう一度その指の音を聞かせて!」
アンジェリカはヴェクターの鼻先数センチまで顔を寄せ、その瞳には金色の火花が散っている。彼女にとって、ヴェクターが刻むスナップ音は、もはや単なる音ではなく、ルーカスのギターが放つ「あの夜の衝撃」の断片そのものだった。
「ははは、そんなにねだられちゃ、僕の指も休んでいられませんね」
ヴェクターは軽やかに笑うと、再び指を鳴らした。
パチン、パチン、パチン。
単調なスナップではない。彼は空いている方の手で、木製の重厚なテーブルを「ドンドッ、カッ」と力強く叩き始めた。指の乾いた音と、テーブルの重厚な打撃音が重なり、談話室に野生的なリズムが生まれる。
「これよ! これなのよ、ミリー! 音楽は譜面の上で澄ましているものじゃない、こうして今、私たちの胸を叩くものなのよ!」
アンジェリカは我慢できないといった様子で、ヴェクターの真似をして自分の膝を叩き始めた。最初はぎこちなかったが、彼女の持つ天性のエネルギーがリズムを捉え始める。
「そう、いいですよアンジェリカ様! 自分の内側にある『鼓動』を、そのまま外へ吐き出すんです!」
「ええ、見えるわ! 音の向こうに、あの青白い火花が見える!」
支離滅裂な、しかし圧倒的な確信に満ちたアンジェリカの叫び。ヴェクターは彼女の感情の爆発を否定するどころか、さらに複雑なリズムを刻むことで、その「熱狂」に拍車をかけた。
「ちょっと、二人とも……。ここをどこだと思っているのですか…」
ミリアリアは呆れ果てていた。格式高い談話室で、公爵令嬢と商人の息子が机を叩いて暴れている。これこそがルーカスの言う「非効率」の極致ではないか。
「ミリーもやりましょう! 貴女だって、あの時ルーカスの音を聞いて、身体が震えたでしょう?」
「それは……そうだけど、私は……」
「ほら、オルスタイン嬢。難しく考えるのは『論理』の仕事。今ここでやるのは『ハートビート』の仕事ですよ。貴女のその鋭い知性が、このリズムをどう解釈するか……僕は興味がありますね」
ヴェクターがいたずらっぽく笑い、ミリアリアの前のテーブルを指のスナップで「パチン」と弾いた。
「さあ、このリズムに乗って」
「……っ、もう、どうなっても知らないわよ!」
ミリアリアは半ば自暴自棄になり、ヴェクターが刻む4拍子の裏、2拍目と4拍目で小さく手を叩き始めた。
「いいわ! ミリー、最高よ!」
アンジェリカが満面の笑みでミリアリアの肩を抱き、三人のリズムが重なり合う。ヴェクターが主導する変則的な「ビート」に、アンジェリカの「熱狂」が色を塗り、ミリアリアの「規律」がそれを支える土台となる。
「……あ、あら? 不思議ですわ。なんだか、少しだけ……心が軽くなるような……」
ミリアリアのぎこちなかった拍手が、次第に力強くなっていく。事務作業の疲労も、ルーカスへの畏怖も、今のこの「非効率な騒音」の中では溶けて消えていくようだった。
三人は、もはや周囲の目も忘れ、夕暮れの談話室で無心にリズムを刻み続けた。机を叩き、膝を打ち、スナップを鳴らす。それは、洗練された貴族の音楽とは対極にある、剥き出しの生命の叫びだった。
「ふふふ、あはははは! 見てミリー、私たちが新しい世界を鳴らしているわ!」
アンジェリカが歓喜に瞳を輝かせ、ミリアリアもまた、頬を紅潮させて笑みをこぼした
やがて、ひとしきり鳴らし終えた三人の間に、心地よい充足感と乱れた呼吸の音だけが残る。アンジェリカは紅潮した顔を輝かせ、ヴェクターに向き直った。
「決まりよ、ヴェクター! 貴方のその指、私たちの『ロマンス』に貸しなさい!」
「ロマンス……? 穏やかじゃありませんね。具体的にはどういったご用件で?」
ヴェクターがわざとらしく首を傾げると、アンジェリカは机に身を乗り出して捲し立てた。
「クラスターよ! 私とルーカス・トレンス侯爵が今日立ち上げた、最高に熱くて新しい研究グループ! 名前は『ハートビート・ロマンス』。従来の退屈な魔導音楽なんてゴミ箱行きよ。私たちは、魂を直接揺さぶる『普遍的で正確な秩序』を証明するの!」
アンジェリカは興奮で言葉が先走る。
「ルーカスのあの『叫ぶギター』……あれを再現するには、貴方のような、理屈を飛び越えてリズムを刻める手足が必要なの! 貴方はさっき、世界が『熱い音』で満たされたら素敵かって聞いたわね? その答えを、私たちと一緒に作るのよ!」
ヴェクターは、アンジェリカの支離滅裂な説明の中に、ルーカスの影と、自分が果たすべき役割を明確に読み取った。
「『ハートビート・ロマンス』、ですか。公爵令嬢の仰ることは、半分も理解できませんが……」
彼は指のスナップを一度、強く鳴らした。
「その『熱』、僕も嫌いじゃありません。ウィルソン商会のヴェクター、喜んでそのロマンス、お引き受けしましょう」
「最高だわ! ミリー、聞いた!? 彼は私たちの『同志』よ!」
「あ、アンジェ、痛いわ……。ですが、ええ。これで書類上の不備はなくなりましたわね」
ミリアリアは、依然としてヴェクターに対する疑念を捨てきれずにいた。トレンス侯爵が警戒していた男。単なる商人の息子にしては、あまりにも場慣れしすぎている。彼女は居住まいを正し、事務的な鋭い視線をヴェクターに向けた。
「ウィルソン殿。貴方は自分が何に首を突っ込んだか、本当に理解していらして? 私たちの主導者はトレンス侯爵です。彼は『無駄』を何よりも嫌うお方。貴方のその……軽薄とも取れるリズムが、彼の論理に適わなければ、即座に除名されますわよ」
「……厳しいですね」
ヴェクターはわざとらしく肩をすくめ、しかしその瞳には柔らかな、敬意を孕んだような光を宿らせた。
「ですがオルスタイン嬢。僕が先程、貴女の刻むリズムに驚いたのは本当ですよ。貴女の拍手には、ただ正確なだけじゃない、このクラスターを影で支える『知性の骨格』のような響きがあった。アンジェリカ様の眩しい熱量を、貴女がその冷静さで形にしている……。このクラスターが成立しているのは、トレンス侯爵の頭脳以上に、貴女のその『調整能力』があってこそでしょう?」
「えっ……。そ、そんなことは……」
不意に突かれた「自分の役割」への正当な評価に、ミリアリアは言葉を詰まらせた。彼女はこれまで、アンジェリカの暴走を抑え、その無茶な要求を形にする「裏方」として、誰に褒められることもなく奔走してきた。それを、出会ったばかりの男に、音楽的な比喩で真っ向から肯定されたのだ。
「僕のリズムは商売柄、少々不規則で掴みにくいと言われるんですが、貴女は初見で完璧に『裏』を取っていた。あれは並大抵の集中力じゃありませんよ。……トレンス侯爵が、なぜ貴女をこのクラスターの要に据えたのか、今の数分で理解できました」
「え……? あ、あら、そんな。私はただ、事務手続き上、必要に迫られて……」
ミリアリアは戸惑い、頬を朱に染めた。これまで彼女が受けてきた称賛は「令嬢としての嗜み」や「家柄」に対する儀礼的なものばかりだった。だが、今の言葉は――この騒々しいセッションの中で、確かに自分自身の
「謙遜はいけません。事務能力だけでなく、その『正確な耳』こそが、アンジェリカ様の情熱を形にするための羅針盤になる。……どうですか、オルスタイン嬢。僕のような新参者に、貴女のその鋭い審美眼で、リズムの指導をしていただけませんか?」
ヴェクターの低く、しかし誠実さを感じさせる声音に、ミリアリアの警戒心は目に見えて溶けていった。
「……ふん、口のうまい男。ですが、貴方がそうまで言うのなら……。ええ、クラスターの運営責任者として、貴方の不規則な癖を矯正して差し上げますわ」
「商人の息子ですから、物の価値を見極めるのだけは得意なんです。僕のような遊び人には、貴女のような気高く、かつ献身的な『重石』が不可欠だ。……これからの運営、僕も微力ながら貴女のサポートをさせていただきますよ。事務作業の合間の、最高のリズムと共にね」
ヴェクターはそう言って、ミリアリアが持っていた書類の端を、優雅な動作で整えた。
ミリアリアの頬が、わずかに赤らむ。彼女の警戒心は、ヴェクターが放つ「自分を理解してくれている」という絶妙な温度感の言葉によって、みるみるうちに霧散していった。
「そうよミリー! ヴェクターは分かっているわ! ルーカスが『冷徹な指揮者』なら、貴女は『完璧な調律師』なのよ!」
アンジェリカが加勢するように笑う。三人の間には、先程の狂乱的なセッションとは違う、穏やかで、しかし確固たる共同体としての空気が流れ始めていた。
自然と笑い声を上げた。名門公爵家、伝統ある伯爵家、そして新興の商人。本来交わるはずのない三つの色が、夕闇の談話室で奇妙な調和を見せていた。
「……これで4人。あとは、トレンス侯爵が連れてくる『不運な生贄』が一人いれば、認可は完了ですわ」
ミリアリアは乱れた前髪を直し、上気した顔で書類にペンを走らせた。ヴェクターという「理解者」を得たことで、彼女の心は驚くほど軽くなっていた。しかし、事務作業を終えようとしたその指先が、ふと止まる。
(――私、何を浮かれているの?)
ヴェクターの放つ心地よいリズムと、自分を「完璧な調律師」と称えた甘い言葉。それらが魔法のように、彼女の記憶の蓋を一時的にこじ開けていただけだった。
ミリアリアは、数時間前の、あの学園裏門での出来事を思い出した。
ルーカスの肩を乱暴に掴んだ、あの傷跡のある男、ダモン。
ルーカスは自分を逃がすためにあえて一人で残った。あの時、彼の背中から感じたのは、いつもの冷静さを超えた、軍人のような鋭利な殺気だった。
『この件は、一切、口外するな』
ルーカスにそう厳命されていたからこそ、彼女はアンジェリカにさえ真実を話せず、たった一人で「彼が殺されているかもしれない」という最悪の想像と戦い続けてきたのだ。
「……トレンス侯爵。あの方は、まだ戻られませんのね」
ミリアリアの呟きは、先ほどまでの明るい色を失い、深い不安を湛えていた。
「心配性ねぇ、ミリーは。ルーカスなら大丈夫よ! あの子、あんなに理屈っぽくて偉そうなのよ? 転んで泣いてる姿なんて想像できないわ!」
アンジェリカは、ソファに深く腰掛け、窓の外を眺めながらケラケラと笑った。彼女にとって、ルーカスは「常に完璧な解答を持って現れる弟分」であり、その信頼はもはや信仰に近い。
「そうですよ、オルスタイン嬢。そんなに眉間に皺を寄せちゃ、せっかくの綺麗な顔が台無しだ」
ヴェクターが、軽やかに指のスナップを一回鳴らした。
「商売人の勘で言わせてもらえばね、あのお方は『損』をしない人だ。今頃どこかで、自分に突っかかってきた野良犬を躾けて、ついでにそいつの餌代まで請求している頃ですよ。ハハハ、案外、新しい荷物持ちでも雇って帰ってくるんじゃないですか?」
「もう、ヴェクターったら! 荷物持ちなんて、あの子は繊細なのよ?」
アンジェリカの言葉に、ヴェクターは表向きは爽やかな笑みを崩さなかったが、内心では愉快そうに目を細めていた。
(繊細、ね。――確かに。
あの方の“繊細さ”は、誤差を許さない。
そして誤差は、静かに排除される)
ヴェクターは、アンジェリカが抱く「お坊ちゃま」像と、自分が知る「冷徹な支配者」のあまりの乖離を、最高に面白いジョークでも聞かされたかのような気分で楽しんでいた。
「ええ、全くです。あの方の繊細さは、僕らのような凡庸な人間が測れるものじゃありません。きっと今も、誰かの運命を『繊細』に書き換えている最中でしょう」
ヴェクターは皮肉な笑みを隠して、アンジェリカの軽妙な冗談に乗り、楽しげに談笑を再開した。二人にとっては、これは単なる「少し遅い帰還」に過ぎない。
しかし、ミリアリアだけは笑えなかった。
彼女の視界には、ルーカスに命じられた通り、何食わぬ顔で談笑に混ざっている自分自身の「欺瞞」が映っていた。
(……アンジェは知らないから、そう言えるのよ。あの方が、どれほど危険な火中に飛び込まれたのか。ダモンという男のあの威圧感……普通の生徒が太刀打ちできる相手ではない。口止めされているとはいえ、私は……私は、彼を一人で見捨ててしまったのではないの……?)
ミリアリアは、震える手で書類の端を握りしめた。
自分の論理的な判断力は不要だと言われた。だが、時間が経てば経つほど、忘れていたはずの「恐怖」が胃の底を冷たく冷やしていく。
「……ええ。そうですわね。あの方は、私の論理など不要だとおっしゃいましたもの」
ミリアリアは、自分に言い聞かせるように、しかし消え入りそうな声で呟いた。
目の前では、アンジェリカとヴェクターが、新しいクラスターで使う楽器や予算の話で盛り上がっている。その明るい喧騒が、今の彼女には遠い世界の出来事のように感じられた。
(戻ってきてください、トレンス侯爵。……どうか、ご無事で……)
彼女の祈りは、夕刻の談話室に溶けて消えていく。
窓の外、学園を包む薄明かりが次第に濃さを増していく中、ミリアリアは震える指先で書類の端を強く握りしめた。彼女だけが知る「静かな戦場」の終わりは、まだ見えていなかった。