第百三話:不協和音のアンサンブル
扉を開けた瞬間、室内は嵐の後のような熱気に満ちていた。妙に明るい。
——嫌な予感しかしない、そんな種類の明るさだ。
部屋の中央、豪華なソファセットが置かれた一角には、アンジェリカが身を乗り出すようにして座り、その隣ではミリアリアが、手元のメモを取りながら今にも倒れそうな顔で控えている。
そして、その正面。
「……で、その時に俺が『これこそが運命のビートだ!』って叫んだら、商会の親父が腰を抜かしちまいましてね!」
軽快な笑い声を上げながら、アンジェリカと対等に、いや、それ以上に場を盛り上げている男がいた。ヴェクターだ。彼は、持ち前の親しみやすさと「ウィルソン商会の御曹司」という偽装された肩書きを最大限に利用し、既にアンジェリカの懐に深く入り込んでいた。
「面白いわ、ヴェクター! あなた、音楽のセンスも最高ね! ルーカスが来る前に、もう一人のメンバーが決まっちゃうなんて、今日はずっと幸運だわ!」
アンジェリカの弾んだ声が室内に響く。
ルーカスは無表情のまま、その光景を視界に収めた。
(ヴェクターの奴、立ち回りが速すぎるな……。だが、これで『渋々受け入れる』という俺の芝居に、さらなる真実味が加わる)
ルーカスが一歩踏み出すと、室内の視線が一斉に彼へと集まった。
「……お待たせしました、ハートフィリア嬢。オルスタイン嬢」
ルーカスの声に、ミリアリアは弾かれたように立ち上がった。
「あ、トレンス侯爵! お戻りに……って、えっ!?」
ミリアリアの声が裏返った。
彼女が最悪の事態を想定して心配していた相手──粗野な暴漢であったはずのダモン、そしてもう一人の側近ウィルフレッドが、まるで借りてきた猫のように神妙な顔でルーカスの後ろに控えていたからだ。
だが、驚愕はそれだけでは終わらない。
ミリアリアの視線が、ルーカスの背後に立つ人物に固定され、驚愕に凍りついた。第一王子、エドワード・ブラン・ホーネリア。王国の至宝とも言える存在が、なぜか苦虫を噛み潰したような顔で、ルーカスの数歩後ろを歩いているのだ。
「で、殿下!? なぜこちらに……!?」
アンジェリカも目を丸くした。
「あら、エドワードお兄様! 珍しいわね、こんなところにいらっしゃるなんて!」
エドワードは、妹のような公爵令嬢の明るい声に、一瞬だけ顔を歪めた。彼はルーカスを鋭く睨みつけたが、ルーカスはそれを柳に風と受け流し、淡々とミリアリアへ告げた。
「オルスタイン嬢。クラスター認可に必要な人数についてだが、解決した。ここにいる殿下、およびその側近を、我がクラスターの『
「ざ、雑用……!? 王子殿下を、ですか!?」
ミリアリアのペンが、カタンと床に落ちた。
「そうだ。殿下は、私の提唱する『普遍的感性制御』の学術的検証に、多大なる興味を示され、自ら現場での実働を志願された。……違いますかな、殿下」
ルーカスが冷たく問いかけると、エドワードは屈辱に震えながらも、あの夜の「共犯者」としての沈黙と、引き換えにした「検証権」のために、短く答えた。
「……ああ。トレンス侯爵の技術には、検証の価値がある。……そのためなら、形式など問わん」
その言葉は、屈辱の仮面だった。——本当は、逃したくないだけだ。
室内が、静まり返った。第一王子の「志願」という重すぎる言葉に、誰もが言葉を失う中、ただ一人、空気を読まずに──ある意味では完璧に読み切って手を叩く者がいた。
(ハハハ! まさか、本当に『荷物持ち』を連れてくるとは……。それも、王国の第一王子様をか。あの方は、冗談を現実に変えるスピードまで『繊細』らしい)
ヴェクターは、ジョークがそのまま最悪の形で現実化したことを知り、内心で快哉を叫んだ。彼は完璧なタイミングでルーカスに近づく。
「いやぁ、これは凄まじい面々ですね!」
ヴェクターが、いかにも「偶然その場に居合わせた幸運な生徒」という風体で、ルーカスに近づいてきた。
「ごきげんよう、トレンス侯爵。僕はヴェクター・ウィルソン。今、アンジェリカ様からこの素晴らしいクラスターのお話を伺っていたところなんです。僕も音楽には目がなくて……ぜひ、末端のメンバーに加えていただけませんか?」
ヴェクターは、ルーカスの瞳の奥にある「命令」を読み取り、完璧なタイミングで加勢した。
ルーカスは、わざとらしく眉をひそめてミリアリアを見た。
「……オルスタイン嬢。先程、君が懸念していた生徒が、既にここにいるようだが。どうやらハートフィリア嬢とは意気投合しているらしい。……数合わせとしては、これで5名を超えて7名。文句はないはずだ」
ミリアリアは、顔色を青くしたり赤くしたりしながら、目の前の「第一王子」「公爵令嬢」「冷徹な侯爵」「軽薄な商人の息子」、そして先程まで恐怖の対象だった「側近の男たち」という、地獄のような不協和音を視界に収めた。
「……承知、いたしました。……ハートビート・ロマンス、正式メンバー7名。ただちに、認可書類を最終更新いたします……」
彼女の震える手で書かれた書類には、王国の歴史上、最も不釣り合いで、最も危険な、そして最も「予測不能」なリストが刻まれた。
夕闇が迫る中
ミリアリアの震える指先が、書類に最後の署名を書き加えた。
第一王子の名が「運営補助」という屈辱的な役職の欄に刻まれた瞬間、彼女の頭の中では、オルスタイン家の将来を弔う鐘の音が響いていた。
ルーカスは窓の外、急速に濃くなる夕闇を一瞥し、それから「新入部員」たちへ向き直った。
「さて、予定を伝える。今からすべての機材を運び込むのは非効率だ。明日までの平日は、学園内の監視も厳しく、大規模な搬入は不要な摩擦を生む。よって、機材搬入の決行日は、二日後の休校日に設定する」
エドワード、そして背後のダモンとウィルフレッドが、一瞬だけ安堵の息を漏らした。だが、ルーカスの次の一言がその安堵を即座に凍りつかせる。
「だが、当日になってから右往左往するのは論理的ではない。よって、今日と明日の二日間を『事前展開フェーズ』とする。搬入経路の障害物排除、および第一音楽室の清掃・配置シミュレーションを終わらせろ。……運営補助員、ダモン、ウィルフレッド」
「……は、はいっ!」
名前を呼ばれた二人が、軍隊の徴用兵のような鋭い返事をして直立不動になる。ミリアリアは、あの凶暴だった男がここまで怯えきっている姿を見て、ルーカスが裏で一体何をしたのか、想像することすら恐ろしくなった。
ルーカスは、一歩前に出た。エドワードの肩がびくりと震える。
「殿下には、学園長へ提出する『活動細則案』の浄書をお願いします。……ああ、書き間違いは許されません。音楽の調和を乱すノイズと同じですから。オルスタイン嬢が書き上げた草案を、一言一句、完璧に写していただく。休校日の搬入に、書類の不備でケチをつけられるのは御免ですからね」
「……私が、書記だと……?」
エドワードの声は震えていた。王族が、一介の伯爵令嬢の書いた下書きを清書するなど、本来あり得ない。
「『現場での実働』とは、そういうことです。……オルスタイン嬢、彼に場所を。ヴェクター、君は搬入経路の図面を引けるな?」
「お安い御用ですよ、トレンス侯爵。僕も商売柄、裏路地の寸法を測るのは得意ですから」
ヴェクターは楽しげに答え、既に胸ポケットから筆記具を取り出していた。
(この空気感……面白い。ルーカス様は、ただメンバーを集めたんじゃない。この『不協和音』そのものを、自分の支配下に置くための装置としてクラスターを使おうとしているんだ)
ヴェクターは内心で舌を巻いた。
心配して、今にも倒れそうな顔をしていたミリアリアは、ルーカスの「一文字も間違えるな」という厳命を受けた王子の前で、震えながらも下書きを差し出している。
「あ、あの……殿下、こちらが……その、草案ですわ。……汚い文字で、申し訳ございません」
「………………貸せ」
エドワードは、奪い取るように紙を受け取ると、談話室の隅にあるデスクに座らされた。
王国の第一王子が、小さなランプの灯りの下で、一介の生徒が書いた事務書類を、屈辱に震えながらも必死に書き写し始める。
その光景を見届けたルーカスは、満足げに一つ頷くと、最後にミリアリアへ視線を向けた。
「オルスタイン嬢。君の心配は不要だった。見ての通り、彼らは極めて意欲的だ」
(……どこが意欲的なのよ!あんなに青ざめて……!)
ミリアリアは心の中で叫んだが、その言葉が外に出ることはなかった。
ルーカスの冷徹な「論理」の前では、王子の威厳も、暴漢の暴力も、そして彼女の良識すらも、すべてがクラスター運営のための「パーツ」へと書き換えられていく。
「さあ、始めよう。明日の朝、学園が『ハートビート・ロマンス』という衝撃で目覚めるために」
ルーカスの号令と共に、前代未聞のクラスター活動が、不気味なほどの効率性を持って動き出した。
・・・・・
・・・
夕闇が降りた談話室の片隅で、エドワード・ブラン・ホーネリアは、自らの指先が震えているのを必死に抑え込んでいた。
目の前の卓上には、安っぽいランプの灯りに照らされた一枚の草案。ミリアリア・ド・オルスタインが書いたという、お世辞にも高貴とは言えない──しかし、実務的で一切の無駄がない──事務書類が置かれている。
(……なぜ、俺が、このようなことを……)
羽ペンの先が紙に触れるたび、屈辱が胸の奥からせり上がってくる。
王族のペンは、本来、国を揺るがす勅令や、高潔な詩文を記すためのものだ。それが今、あろうことか「備品管理規程」だの「練習室の使用時間割」だのといった、事務官にすら鼻で笑われるような雑務を書き写すために費やされている。
「殿下。……そこ、一文字だけインクが滲んでいます。あなたの『迷い』が論理を汚している」
背後から、氷のような冷やかな声が降ってきた。
振り返らずともわかる。ルーカス・トレンスだ。あの日、路地裏で自分の喉元を「繊細に」狙い澄ました、あの怪物がそこに立っている。
「……っ、ただの滲みだ。内容に支障はないはずだろう」
「いいえ。私のシステムにおいて、0.1ミリの誤差は致命的なエラーに繋がる。殿下の優れた頭脳は、それを『些細なこと』と切り捨てるためにあるのですか? それとも、弟君であればもっと正確に記しただろうと、そうお考えなのですか?」
弟、レオナルドの名。その一言が、エドワードの喉元に鋭い楔を打ち込んだ。
「もう一つ、その優雅な
エドワードは奥歯を噛み締めた。
王族として、最高峰の教育を受けてきた自負がある。その自分が、一介の侯爵嫡男に「字が美しすぎて役に立たない」と断じられているのだ。放蕩に逃げていた間も捨てきれなかった「王子としての最後の殻」を、ルーカスは事務作業という名のヤスリで削り取っていく。
「……わかっている。今、直すところだ」
反論したかった。王族を捕まえて書記などと、不敬にも程があると叫びたかった。
だが、できない。この日、自分たちは「共犯」となった。トレンス侯爵が提示した『普遍的感性制御』という甘美で未知の毒に、自分は自ら手を伸ばしてしまったのだ。その代償が、この「雑用」という名の拘束である。
(実働、だと……? これが……?)
カリ、カリと、静かな談話室に羽ペンの音だけが響く。
エドワードは、自らの筆先がかつてないほど正確に、かつ無機質に紙の上を滑っていることに気づき、愕然とした。
放蕩に身を任せていた時は、ペンを持つことすら苦痛だった。弟と比較され、何を作っても「王太子の座を揺るがすノイズ」として扱われたあの日々。
だが、今、ルーカスに命じられたこの「清書」には、政治的な駆け引きも、王位を巡る暗闘も介在しない。ただ、圧倒的な「正解」を書き写すだけの作業。
(……皮肉だな。王族としての誇りを踏みにじられ、雑用を押し付けられている今の方が、俺の筆は迷いなく動いている)
自分の能力を、ルーカスという怪物は「王子」としてではなく、単なる「高性能なパーツ」として、残酷なまでに正当に評価しているのだ。
隣では、ミリアリアが恐縮しきった様子で、しかし「書き直しは許されない」というルーカスの無言の圧力を感じて、泣き出しそうな顔で自分を見守っている。
ふと視線を上げると、少し離れた場所ではダモンとウィルが、顔を真っ青にしてルーカスの機材を運ぶための梱包作業を命じられていた。
自分を守る盾となるはずだった屈強な側近たちが、今や小さな木箱の角をぶつけないよう、産まれたての仔鹿のように震えながら這いつくばっている。
(滑稽だな、エドワード)
自嘲の笑みが漏れそうになるのを、唇を噛んで止める。
あの日まで、自分はこの学園の「太陽」の周囲を回る、選ばれた存在だと思っていた。だが、ルーカス・トレンスという「特異点」が現れた瞬間、その秩序は瓦解した。
太陽を回っていたはずの惑星は弾き飛ばされ、今はただ、一人の少年が作り出す新たな重力圏の中で、必死に「書記」という役割を演じることでしか存在を許されない。
「殿下、手が止まっていますよ。集中してください。……不協和音が混じっています」
「……っ、黙れ、トレンス! 書けばいいんだろう、書けば!」
エドワードは吐き捨てるように言い、再びペンを走らせた。
屈辱。それ以上に、自分の能力が「必要とされている」という、歪んだ充足感。
エドワードのペンは、もはやミリアリアの下書きを超えるほどの、冷徹で美しい「論理の譜面」を完成させつつあった。
不思議なことに、屈辱に塗れた作業を続けるうちに、頭の奥が妙に冴え渡ってくるのを感じた。
この規程、この論理的な言葉の並び。
これが、あの夜に聞いた「魂を揺さぶる音」の正体へと繋がっているのか?
もしそうなら、自分は今、王族としての誇りを削り取り、新しい世界の「楽譜」を書き写していることになるのではないか。
一方で、ミリアリアは、自分の人生で最も恐ろしい「校正作業」に直面していた。王位継承権を持つお方の筆跡をチェックし、一文字でも間違っていれば指摘しなければならない。それはもはや、事務作業ではなく「死刑執行」に近い緊張感だった。
「あ、あの……殿下、そ、その……『備品』の『備』の字の、最後のはねが……少し……」
「……っ、わかっている! 直せばいいのだろう!」
王子の怒声と羽ペンの軋む音。ミリアリアは、オルスタイン家の将来を本気で神に祈った。
(認めん。……私はまだ、貴様の軍門に降ったわけではない……!)
心の中でそう叫びながらも、エドワードのペンは、ミリアリアの下書きを一文字の狂いもなく、完璧な楷書で模写し続けていた。
その背中を、ルーカスはただ、興味深そうに観察していた。
エドワードが屈辱に震えながら清書を続け、ダモンたちが怯えながら待機する中、室内にはもう一つの「熱源」があった。
「ねえ、ルーカス! 清書なんて地味なこと、お兄様に任せておけばいいわ。それより見て! 私たちの『ハートビート・ロマンス』の象徴よ!」
アンジェリカが、談話室の大きなテーブルいっぱいに高級な絹布を広げた。彼女はいつの間にかどこからか裁縫道具と色とりどりの刺繍糸を取り出し、猛然と何かを縫い始めていた。
ルーカスは、ペンを走らせるエドワードの背中から視線を外し、アンジェリカの「作品」を一瞥した。
「……ハートフィリア嬢、それは?」
「決まっているじゃない、クラスターの旗よ! 音楽は目でも楽しむものだって、貴方も言ったでしょう? 燃えるような心臓と、貴方のあの青い火花をイメージして……ほら、ここに金糸で『H.B.R』って入れるの!」
アンジェリカの瞳は、エドワードの絶望とは対照的に、純粋な創作の喜びに燃えていた。彼女にとって、このクラスターはルーカスとの「約束の結晶」であり、その準備の一分一秒が至高のエンターテインメントなのだ。
(やらせておいて正解だったな。彼女に実務を任せれば10分で書類は灰になるが、こうして『演出』という名の聖域に隔離しておけば、こちらの作業を邪魔される心配はない。それに、この旗は将来的なプロパガンダとしても利用価値がある)
ルーカスは内心で冷徹に計算しながらも、表向きはわずかに口角を上げた。
「素晴らしい情熱だ。その旗が完成した時、私たちの『音楽』は初めて形を持つことになる。……殿下の清書が終わるまで、その象徴の完成を君に託したい」
「任せて! 世界で一番熱い旗にしてみせるわ!」
アンジェリカは再び布地に向き直り、鼻歌を歌いながら凄まじい速度で針を動かし始めた。時折、「あ、そこはもっと赤くしなきゃ!」と独り言を言いながら、彼女は自分だけの世界に没入していく。
その傍らで、ミリアリアは呆然と彼女を見ていた。
「……アンジェ、貴女って人は。王子の隣で、よくそんなに楽しそうに……」
「あら、ミリー。お兄様だって楽しそうじゃない! ほら、あんなに一生懸命ペンを動かして。あんなお兄様、初めて見たわ!」
「……っ!」
エドワードの背中が、怒りと屈辱で跳ねるように震えた。だが、アンジェリカの底抜けに明るい「無邪気な評価」は、かえって彼から反論の気力を奪い去った。
「さあ、殿下。妹君も期待されていますよ。……ヴェクター、図面は?」
「準備万端ですよ、トレンス侯爵。アンジェリカ様の旗が夜風にたなびく頃には、搬入ルートも完璧に仕上がっているはずです」
ヴェクターがウィンクを投げる。
アンジェリカが熱い刺繍を刻み、エドワードが冷たい規約を写し、ダモンたちが震えて待つ。
その不協和音を、ルーカスは指揮者のような眼差しで統率していた。
談話室の片隅で、アンジェリカが金の糸を引き抜く「シュッ」、羽根ペンの「カリッ」、そして誰かの「パチン」という音が、この奇妙な夜のメトロノームとなって響き続けていた。