第百四話 塹壕のパートナー
ルーカスは、談話室の隅々まで視線を走らせた。
アンジェリカがヴェクターと騒いでいるその背後、影のように控える数人の男たち。公爵家が配した護衛──通称「黒服」たちだ。彼らは完璧に気配を消しているつもりだろうが、ルーカスの目には、その配置の不備が「ノイズ」として不快に映っていた。
談話室の影に「生徒」として紛れ込んでいるはずの黒服たちを一瞥し、深い溜息をついた。
「……オルスタイン嬢」
ルーカスは、疲労の色を隠さない溜息をつきながら、隣のミリアリアに声をかけた。
「は、はい、トレンス侯爵」
「……一つ確認したいのだが、この学園の入学基準は、いつから『ハートフィリア公爵令嬢の半径5メートル以内に居座ること』に変わったんだ?」
ミリアリアは、ルーカスが何を指しているかを即座に理解し、胃を押さえるように身を縮めた。
「あの死角の三人。テラスの柱の影に一人。……さっきから一歩も動かずに十五分間、同じ角度で壁を見つめている。『退屈して私語を始める』という、学生として当然の行動すらシミュレートできていない。あんな『私は命令を待つ機械です』と全身で叫んでいる案山子が、一般生徒に紛れ込めると思っているのか?」
ミリアリアは一瞬言葉を失い、それからルーカスが指し示した方向に視線を向け──そこに護衛が潜んでいたことに、指摘されて初めて気づいた。
「え……あ、あれは、選りすぐりの……」
「冗談だろう? 右側の奴は重心が偏り、柱の影の男は自分の呼吸音で周囲の音を殺している。非効率の極致だな。……オルスタイン嬢。君が彼女を護る気が無いのなら、今すぐあの出来の悪い
「そ、そんな……放置しているわけではなく! あれは学園の風紀と、公爵家の威信を……」
ミリアリアは、言い訳をしながらも、ルーカスの指摘があまりに的確、かつ致命的であることに気づき、がっくりと肩を落とした。
「……申し訳ございません。これでも、学園内では『最強の護衛』と謳われている者たちなのです。ですが……侯爵の目から見れば、そうなのですね」
「最強、か。最早彫像とも呼べん。あんな隙間だらけの衝立を並べて威信を語るとは。語彙の定義を辞書で引き直したくなるな」
ルーカスは冷たく吐き捨てると、ミリアリアの視線に宿る「疲労の共有」を僅かに感じ取った。彼女もまた、この「無作法で非合理な世界」に振り回される被害者なのだ。
「……あれは、その……ハートフィリア公爵閣下が、学園の『適切な年齢の親族、あるいは家臣の子弟であれば入学を認める』という規則を……その、最大限に解釈された結果でして」
「詭弁だな。制服の肩幅が合っていないし、何よりあの目付き。特に端の男だ。学園指定の靴でステルス・ワークをする奴がどこにいる。一体、何の意図があってこんな無様を晒している」
「意図、と言われましても……。閣下は、アンジェリカ様に『万が一のことがあれば、この学園ごと消滅させる』と豪語されておりまして。……要するに、ただの親バカによる、権力の暴力的な濫用ですわ」
ルーカスは、こめかみを指で押さえた。
「親バカ、か。……君も災難だな、この部屋でまともに現実を処理しているのは、今のところ君だけだ」
「ご理解いただけて、光栄ですわ、侯爵……」
二人の間に、一瞬だけ、実務担当者としての深い「連帯感」が流れた。
「……まあいい。今はリソースを割く余裕は無い。次からはあの出来損ないどもに『立っている時はせめて息を止めろ』と伝えておくんだな。耳が腐りそうだ」
「……善処、いたします……」
掠れた声で応じながら、ミリアリアは天を仰ぎたい衝動を必死に抑えた。
なぜ自分は、この男の言葉を理解できる程度の知性を持ち合わせてしまったのか。アンジェリカのように無邪気に騒げていれば、これほど鋭い「現実」という名の刃に、心臓を抉られずに済んだはずなのに。
その巨大な力に挟み撃ちにされている現状に、「なぜ私が」という言葉が喉元まで出かかったが、それを飲み込む理性が、彼女にはまだ残っていた。
・・・・・
・・・
カリ、という音だけが、談話室に戻った。
エドワードが、羽ペンを止めて顔を上げた。その瞳には、事務作業への屈辱とは別の、王位継承権保持者としての鋭い警戒心が宿っていた。
羽ペンを握ったまま、眼前のルーカスを射抜くような視線を向けた。
「……トレンス侯爵。雑務をこなす前に、一つだけはっきりさせておきたいことがある。……君が、先日からこの学園内で強行している『大規模な下水工事』。あれの真の目的は何だ?」
エドワードの脳裏には、学園全域を揺るがしたあの掘削音と、ハートン男爵というトレンス家の寄子貴族が「機密保持」を理由に煙に巻いた報告書があった。
「下水を隠れ蓑にして、地下に何を築いている? 軍用通路か、あるいは王都へ続く秘密の回廊か。……アークランド公爵令嬢すらも、あの異様な振動に危機感を抱いているのだ。白状しろ、地下に何を埋めた?」
エドワードにとって、ルーカスのような男が、ただの「下水」のために学園の静謐を物理的に破壊するなど、到底信じられなかった。あれは、何らかの戦略的拠点の構築に違いない。
だが、ルーカスは、心底退屈そうに鼻を鳴らしただけだった。
「……殿下。あんたの想像力は、どうしてそう『非効率な陰謀』の方へばかり向くんだ? それとも、王族というのは自分の排泄物の行方すら把握していないほど、感覚が麻痺しているのか?」
「何……?」
「あれはただの公衆衛生、つまり、便所の水洗化をしているだけだ」
──便所。
ルーカスの断言に、談話室は墓場のような沈黙に包まれた。
ヴェクターですら一瞬だけ笑いを引きつらせ、アンジェリカの針が止まる。
「……ッ、ゴホッ! ゴホッ!!」
エドワードは激しく咳き込み、信じられないものを見る目でルーカスを凝視した。
ミリアリアは、持っていた書類で顔を半分隠し、激しく目を泳がせた。
(……言った。この人、本当にアンジェリカ様の前で、あの『不浄の極致』を、さも最新兵器のように語ったわ……!)
彼女にとって、その言葉を聞くこと自体が、自身の淑女としての格を削り取られるような苦痛だった。
「……不浄な、なんという厚顔無恥なことを……ッ!」
エドワードは顔を真っ赤に染め、震える手で刺繍入りの絹のハンカチを口元に強く押し当てた。王族としての耳を汚されたことへの、精一杯の防御反応だった。
「貴様、淑女の前で、あまつさえ王族の前で、その……『それ』を口にするのか! 恥を知れ、トレンス!」
だが、それを見たルーカスの眉間の皺が、一気に深まった。
「……止めろ。その『雑菌の培養布』を顔に擦り付けるな。吐き気がする」
「な……何だと?」
ルーカスは、自らの制服の内ポケットから気密性の高い小袋を取り出し、そこから一枚の湿った白い紙を引き出した。自領で生産させている、アルコールに近い揮発性魔導薬液を浸透させた「除菌紙」だ。
「自らの排泄物から飛散した目に見えない汚染物質を、その布で丁寧に回収し、湿ったポケットの中で培養しては、また顔に塗りつける。……殿下、今やっているのは『優雅な拒絶』ではない。ただの『自損行為』だ。私の視界で
ルーカスは、引き出した除菌紙をエドワードの前の卓上に無造作に放り投げた。独特の、ツンとした清潔な薬品の匂いが談話室に広がる。
「口を拭くならそれを使え。一度使ったら廃棄だ。君が握りしめているその『不潔な塊』は、今すぐゴミ箱へ捨てろ」
「……っ!」
エドワードは、卓上に落ちた「奇妙な濡れた紙」と、自分が縋っていたハンカチを交互に見た。ミリアリアは、その光景を横で見ていて、自身の常識が音を立てて軋むのを感じた。
(……ハンカチを、不潔な塊ですって? 王子殿下が、公爵家から贈られたであろう最高級の刺繍布を……捨てろと?)
彼女にとって、ハンカチは淑女や騎士の嗜みであり、汚れを拭うための「聖域」に近い道具だ。それを「菌の培養所」と断じ、見たこともない奇妙な紙を押し付けるルーカスの行動は、もはや不敬を通り越して、未知の宗教の儀式のようにも見えた。
ルーカスは天を仰ぎ、深く、重い溜息を吐き出した。そして、喉の奥で吐き捨てるように、しかし冷徹な響きを漏らした。
「...
その場にいた全員が、ルーカスの口から漏れた未知の言語の響きに、一瞬だけ言葉を失った。意味は分からずとも、それが「自分たちの常識を底辺から見下す、強烈な呆れ」であることだけは、その声の低さから痛いほどに伝わってきた。
「……ただの、トイレだろ。誰もが使う場所だ。それとも高貴なる身になると、排泄物を体内に循環させる構造になるとでも?否、目を背けるな。トイレはトイレだ」
その言葉に、背骨の奥の緊張が、情けないほどほどけた。
自分が人生を賭けて挑もうとした「巨悪の正体」が、「快適な排泄環境の整備」という、あまりにも即物的な現実だったことに、目眩を覚えた。彼が昨日まで必死に解読しようとしていた「地下からの振動」は、単にルーカスが古い秩序を粉砕していた音に過ぎなかったのだ。
「き、貴様……! まだ……まだその言葉を、平然と口にするのか!? 正気か、正気なのかトレンス! 王家の耳を、こともあろうに……その、『不浄の極致』のために、学園の地を、あの地鳴りのような轟音と共に穿ったというのか!」
「『掃除』ではない。根本的な刷新だ。殿下、君の足元の下にある古い石造りの溝に、どれほどの病原菌が堆積しているか考えた事があるか? 私は、あの野蛮な汚水溜まりを、新型の浄化システムに置き換えたにすぎん」
ルーカスは、エレノアが苦労して貼り出した「図解付きの使用説明書」を思い出し、不快そうにこめかみを押さえた。
「『身体を直接触れさせないのが優雅』だの何だの……。機能よりも作法を優先させるから、システムにノイズが混じる。……殿下、あんたが疑っていた地下通路の正体は、それだ。ただ、私が設計したその『通路』を通るのは、重装甲の兵士ではなく、君たちの排泄物だけだ」
エドワードは、持っていた羽ペンを落としそうになった。
自分が「王国の存亡」だと危惧していた大工事の正体が、単なる「快適なトイレ」であったという事実。そしてそれを、事もなげに「民の生産効率のためだ」と言い切るルーカスの異常なまでの現実主義。
「……トレンス、貴様……。本当に…それだけのために、あの大公爵令嬢を相手に立ち回らせ、学園中を敵に回したというのか……」
「君達は揃いも揃って、『それだけ』というがな。歴史を紐解けば、最強の軍隊を崩壊させるのは敵の剣ではなく、常に野営地の不衛生がもたらす伝染病だ。自分の衛生すら管理できない人間に、どうして国家の管理などできる?」
「……さあ、下らない妄想の時間は終わりだ。
ああ、感謝の言葉なら結構だ。文明人としての義務だからな。健全な精神は健全な腸内環境から生まれるという訳だ。君達が夢想する『王国の救済』とやらに、快適なトイレは不可欠なインフラだろう?……さあ、その感動をペンに乗せて、備品管理表の清書に戻れ。そのペンは、陰謀を論じるためではなく、私のシステムに合意するためにある」
ミリアリアは、顔を覆った。ルーカスの「合理性」は、王子の「深読み」さえも、無価値なゴミのように粉砕してしまったのだ。
「くっ…!いつか、不敬罪で投獄してやる!」
「素晴らしいパッションだ。是非ともその熱量で書き終えてくれ。……ああ、そこ、ハネが甘いですね。王家の審美眼とは、その程度の誤差を許容するほど大雑把なのですか?」
「……っ、黙れ! 見ていろ、貴様の『システム』とやらが、私の完璧な文字を前にして平伏する様をな!」
怒鳴りながらも、エドワードのペン先はかつてないほど精密に、そして美しく規約を書き写していく。
(……見ろ。俺は、使える…!)
ルーカスは不快そうにこめかみを押さえた。彼が怒っているのは、不潔そのものに対してではない。「防げるはずの病」を、作法という名の無知で放置しているこの世界の「非効率」に対してだった。
ふと、ルーカスは隣で凍りついているミリアリアに視線を向けた。彼女の指先は、極度の緊張と、エドワードの清書をチェックするための神経衰弱で、わずかに汗ばんでいる。
ルーカスは、もう一束の、乾いた厚手のペーパータオルを取り出し、彼女の近くに置いた。
「……オルスタイン嬢。それを、使うといい。書類を扱うなら、その湿った布よりはマシだ。インクも滲まないし、何より『余計なもの』を紙に残さずに済む」
「え……あ、ありがとうございます……?」
ミリアリアは戸惑いながらも、その清潔で無機質な紙を受け取った。
ルーカスの言葉には、王子への時のような棘はない。ただ、実務を滞りなく進めるための、淡々とした「資材の提供」だった。
・・・・・
・・・
談話室の空気は、夜が深まるにつれてさらに密度を増していた。
エドワード王子が屈辱に震えながら「ハート・ビート・ロマンスの規約」を清書し、アンジェリカが能天気に刺繍を刺している。その異様な光景の真ん中で、ミリアリアの精神はついに限界を迎えた。
彼女は、ガタガタと震える手でエドワードの清書を受け取ると、それを確認する。一文字のミスも許されない。王族のミスを指摘するたびに、彼女の寿命は縮まる思いだ。
その「極限のストレス」の矛先は、ただ一人、この状況を平然と支配している少年へと向けられた。
視界が、過労と不条理による熱で歪んでいく。
私は、手に持っていた自作の「根回しリスト」を、指が白くなるほど強く握りしめていた。正確には、それはルーカスが殺されたり、退学に追い込まれたりした際、オルスタイン家の総力を挙げて彼を救い出すための「嘆願書案」だった。
(……私は、一体何をしていたのかしら)
ガゼボでルーカス・トレンスに「現場を司るのは君と私だ」と言われた時、私はまだ、この嵐をオルスタイン家の調整能力で御せると思っていた。
公爵閣下の「閣下流の再定義」を必死にオブラートに包み、学園側に「これはあくまで音響技術の実証特例です」と頭を下げ続け、なんとか「ハートビート・ロマンス」というふざけた名称の裏に、かろうじて既存の規律という名の「壁」を立ててきたのだ。
その後に、血の匂いのする暴漢に連れ去られたルーカスの背中を見送った時、私は本気で、これが今生の別れになるかもしれないと震えていた。
アンジェリカやヴェクターが明るく笑っている間も、私は胃を焼くような不安の中で、彼一人のために人生を賭ける覚悟を固めていたのだ。
なのに、戻ってきた彼は。
かすり傷一つ負っていないどころか、王国の第一王子エドワード殿下と、その側近を、まるで「道端で拾った都合のいい労働力」のように引き連れて戻ってきた。
「……オルスタイン嬢。メンバーは揃った。これでクラスターの設立要件は満たされる。事務処理を続行しろ」
その、あまりにも「いつも通り」で、あまりにも「非道」な声を聞いた瞬間。
私の中で何かが、音も立てずに砂となって崩れ落ちた。
私が守ろうとしていた「秩序」も、殿下の「威厳」も、そして私の「死ぬほど重かった覚悟」も。すべてはこの男の「効率」という名の臼で、跡形もなく挽き潰されたのだ。
視線の先では、先刻まで「王国の秩序を守る」という悲壮な決意を胸に秘めていたはずのエドワード殿下が、震える手で羽ペンを握りしめていた。
「……殿下、そこ。インクが掠れています。王族が書く公文書に不備があるのは、学園の事務効率を著しく低下させる『罪』ですよ。書き直しだ」
「……っ、ルーカス・フォン・トレンス……。お前は、私にどこまで……」
「論理を語る前に、まずは正確な出力を。さあ、次はアンプ用の真空管の在庫リストです」
ルーカスの仮借ない言葉に、殿下の肩が屈辱で小刻みに震える。だが、彼は書くのをやめない。やめられないのだ。ここで投げ出せば、彼はルーカスに「論理的に敗北した無能」という烙印を押されることを、何よりも恐れているから。
そして左を見れば、我が主
私が必死に守ろうとしていた「秩序」なんて、最初からどこにもなかった。
この男は、王子を事務員に変え、公爵令嬢に革命を歌わせる。私が必死に窓にテープを貼っている間に、彼はこの学園の
「……君が握りしめているその『根回しリスト』。それが、この部屋で最も『無価値なノイズ』だとは、まだ気づかないのか?」
ルーカスの声が、耳の奥で爆ぜた。
……そうね。その通りだわ。
私が窓に貼っていたテープなんて、最初から必要なかった。
「……あは、あははは……」
乾いた笑いが漏れた。淑女の仮面が剥がれ、その下から剥き出しの「疲弊」と「怒り」が顔を出す。
ああ、なんて無意味。私が必死に積み上げた『政治的な防波堤』なんて、この男にとっては、ただ視界を遮るだけの不透明なパーティションでしかなかったのね……。
彼女の中で、代々受け継がれてきた「オルスタイン家の調整術」という名のプライドが、音を立てて崩れ去った。代わりに芽生えたのは、生き残るために不必要なものをすべて削ぎ落とした、剥き出しの「生存本能」だった。
「……決めたわ。もう、どうにでもなればいいのよ」
私は、手に持っていた「命懸けの嘆願書」を、ゆっくりと、しかし確かな殺意を込めて、粉々に引き裂いた。
「……オルスタイン嬢? 何を……」
ヴェクターが初めて本気で引いたような声を出すが、知ったことではない。私は、引き裂いた紙片をルーカスの目の前に雪のように──いや、書類の屑は雪ほど綺麗じゃない。
焼けた灰だ。指を離した瞬間、重く、崩れるように、書類の上へ落ちていく。
ルーカスの手元の、清書されたばかりの完璧な書類の上に、その白い残骸が、叩きつけるように降り積もった。ルーカスはそれを払いのけようともせず、ただ一枚、自分の手の甲に落ちた紙片をじっと見つめた。そこには「トレンス侯爵救出」という、今や無意味となった文字の断片が踊っている。──処理順が、決まらない。
「……トレンス侯爵。これ、どうすんのよ」
蚊の鳴くような、しかし、はっきりと「敬語を放棄した」声がルーカスの耳に届いた。
視線を向ければ、ミリアリアが虚空を見つめたまま、書類を幽霊のように指差している。
「……何か言いましたか、オルスタイン嬢」
「言ったわよ。もういいわ、令嬢は爆走してるし、王子様は泣きながらペンを走らせてる。私の胃はさっきから雑巾みたいに絞られてるの。……ねえ、ルーカス。あんた、これが『効率的』だって本気で思ってんの?」
彼女の瞳から「令嬢の侍女」としての光が消え、そこにはただの、過労死寸前の女子生徒の「恨み」だけが宿っていた。
「……。名称の非効率性については、既に議論済みだ」
「議論じゃなくて、あんたが切り捨てたんでしょ。……はぁ。もう勝手にして。私は清書が終わったら、これを学園長に叩きつけて寝るわ。あとの
ミリアリアの刺すような視線を受け、ルーカスは手に持っていたペンを置き、背もたれにゆっくりと身を預けた。
驚くべきことに、その口角はわずかに上がっている。皮肉でも、嘲笑でもない。それは、激戦を終えた後の塹壕で、隣の兵士と煙草を分かち合う時のような、奇妙に平熱な笑みだった。
「ふむ。随分と『簡略化された言語体系』だな。伯爵家のマナー教育も、アンジェリカ嬢の熱量で蒸発してしまったか」
「……皮肉のつもり? 悪かったわね、お淑やかじゃなくて。嫌なら今すぐ令嬢に報告して、私をクビにさせればいいじゃない。喜んで実家に帰って寝るわよ」
「……いや、むしろ蒸留だったか。余計な装飾や虚栄が揮発して、ようやく私のシステムで使い物になる『実務能力』という原液が抽出された訳か」
「……誰のせいでこうなったと思ってんのよ、この怪物が!」
ルーカスは、背もたれに深く身を預け、ふっと口角を上げた。それは揶揄いを含みつつも、どこか彼女の「素」を歓迎するような笑みだった。
「その方がいい。余計な敬語、過剰な装飾、貴族特有のまどろっこしい前置き……。それらを維持するリソースを全て、状況把握と愚痴に割り振れ。その方が、私としても話が早いし、何より『隣の席の人間』のコンディションを把握しやすい」
ルーカスは、窓の外でまだ騒いでいるアンジェリカを顎で示した。
「あの『最大級の非効率』を相手に、我々実務担当者が形式に拘泥していては、身が持たないからな。……今の君は、少なくとも先刻までの『仮面を被った案山子』よりは、頼りになるパートナーに見えるぞ」
ミリアリアは、ルーカスの意外な言葉に一瞬目を丸くし、それから力なく笑った。
「……パートナー、ね。あんたの言うそれは、たぶん『一緒に地獄の泥掃除する作業員』って意味なんでしょうけど。……まあ、いいわ。今はその言葉に甘えておくことにするわよ。……ルーカス」
「……いいわ。あんたの言う『仕事』に付き合ってあげる。その代わり、このクラスターが爆発して王国が燃え上がった時は、あんたが一番に炭になりなさいよ」
その言葉は、呪いのようでありながら、戦場において「殿」を任せる信頼の言葉のようにも聞こえた。
ルーカスは、初めてミリアリアを「オルスタイン嬢」という家名のラベルではなく、「目の前の有能な個体」として正しく認識した。
「了解した、
アンジェの楽しげな鼻歌と、殿下のすすり泣くようなペンの音。
それを聞きながら、私は、かつて経験したことのないほど、深く、暗く、そして清々しい安らぎを感じていた。
二人の間に流れたのは、もはや「侯爵と侍女」のそれではなく、激戦を終えた塹壕で泥だらけのまま顔を見合わせる、兵士たちのそれに近かった。