第百五話:撤収と未来への宣告
深夜。談話室の窓から差し込む月光が、机の上に山積みにされた「清書済みの規約」と、複雑な「設計図」、そしてアンジェリカが完成させた「血のように赤い旗」を照らしていた。
「できたわ! 見てルーカス! できたてのホヤホヤよ!」
アンジェリカがガタリと椅子を鳴らして立ち上がり、血のように赤い布を掲げた。
「クラスター」の旗。布端の処理は甘く、刺繍も少し歪んでいるが、彼女の顔には戦場を制した将軍のような達成感が溢れている。
「もう……アンジェ。その『ほやほや』の端から糸が数本逃走してるわよ。せっかくトレンス侯爵が美しく図面をお書きになったのに、これでは革命軍のボロ布じゃない」
ミリアリアが、疲れを見せない優雅な手つきでアンジェリカの旗を指し示した。口調こそ丁寧だが、その内容は遠慮のない「突っ込み」だ。
先ほどの事件以来、彼女の中で何かが完全に吹っ切れたらしい。その瞳には、かつての張り詰めた緊張の色はなく、親友としての開き直った強さと、この状況を楽しむような奇妙な明るさが宿っている。
「いいのよミリー、この『荒々しさ』が情熱なの! ほら、ダモンもそう思うでしょ!」
「……ああ、情熱的すぎて……目がチカチカするな……」
扉が重々しく開き、ダモンとウィルフレッドが這いずるように入ってきた。
放課後からずっと続けさせられていた、第一音楽室とその周辺の「特別清掃」。
彼らは、決して裕福な家の出身ではない。
ダモンは貧乏騎士家の三男として「飯食い虫」と疎まれ、ウィルフレッドは下級文官の家で「融通の利かない変人」と隅に追いやられてきた。
そんな彼らにとって、エドワードという「見放された王子」の隣だけが、唯一息ができる居場所だったのだ。
だからこそ、彼らは耐え抜いた。
ルーカス・トレンスという怪物が突きつけた「主君の恥」を雪ぐため、慣れない洗剤とブラシを武器に、文字通り床に這いつくばって戦い抜いたのだ。
その服は埃と汚水で汚れ、その目は虚無を映しているが、そこには「やり遂げた男たち」の静かな矜持があった。
「終わりました、トレンス侯爵……」
ウィルフレッドが幽霊のような足取りで入り、ルーカスに向けて力なく、しかし義務的に報告した。彼の手には、全ての項目にチェックが入ったリストが握りしめられている。
それは下級生が上級生にする報告であり、同時に、敗軍の将が敵将に向ける敬意にも似た降伏宣言だった。
(……完璧だ。指示書通りに動けば、俺たちのような「持たざる者」でも、最短時間でプロの清掃員以上の成果が出せる。この男の
その瞳の奥には、敵意とは別に、奇妙な納得の色があった。
「ゴミ一つ残さず、床は鏡のように……磨き上げた。もう、雑巾を見るのも嫌だ……」
続いて入ってきたダモンが、呻くように成果を口にした。その巨躯はボロ雑巾のように疲れ切っているが、その言葉には「やり遂げた」という、奇妙な実感が籠もっていた。
ウィルフレッドはエドワードの隣に力なく沈み込み、ダモンはその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「……ご苦労だった、ハワード、リドリー。報告は受領する」
ルーカスは手元の作業を止めずに、淡々と彼らの労をねぎらった。
「清掃箇所の仕上がりについては、明朝、私が直々に検分を行う。指で撫でて埃が付けばやり直しだが……今の君たちの消耗を見る限り、最低限のノルマは果たしたようだな。今日は解散だ。寮へ戻って泥のように眠るといい」
「……あ、ああ……。悪魔め……」
ダモンは呻くように呟いた。だがその言葉には、理不尽への怒りよりも、自分たちのような「はぐれ者」を的確に使いこなし、成果を出させた圧倒的な「指揮官」への、戦士としての畏怖が混じっていた。
彼らが安堵の息を漏らしたのと同時に、最後の一人がペンを置いた。
書類の端は一ミリの狂いもなく揃えられ、設計図の傍らには、使用済みのペンがその役割を終えた順番通りに並んでいる。
エドワードが力なく背もたれに体を預けた。その指先はインクで汚れ、王族としての輝きは完全に消え失せ、そこにはただ「ノルマを達成した一人の労働者」の抜け殻があった。——彼自身も、それを自覚していた。
「……終わったぞ、トレンス。これで……満足か」
エドワードの掠れた声に、ルーカスは視線を上げず、淡々と仕上がりを確認した。彼の視線は文字の内容よりも先に、行間の等間隔性や、インクの滲みによる「ノイズ」の有無を検分している。
「ああ。文字の乱れが後半に目立つが、最低限の読み取りは可能だ。……ご苦労だった、殿下。今日は解散だ。自分の寮へ戻り、せいぜい質の良い睡眠をとるんだな。明日からは、さらに脳のリソースを削ることになる」
エドワードは反論する気力すら湧かないのか、重い足取りで椅子を立った。
彼を追う側近の背中も、敗残兵のように丸まっていたが、その歩調は主君を守るように揃っていた。
彼らが去ると、アンジェリカが再び口を開いた。
「あら、もう終わり? 私、まだあと三枚くらいは旗を縫えるわよ!」
「ハートフィリア嬢。過剰な在庫はリソースの浪費だ。君も速やかに帰還しろ」
「えぇー、もっとルーカスとお喋りしたかったのに!」
「……わかった。君の労力には感謝している。その旗は、大切に預かっておこう」
アンジェリカが誇らしげに掲げた、少し不恰好な「赤い旗」。それを見つめるルーカスの眼差しが、鋭利さを解き、ほんの一拍だけ柔らいだ。
それが「彼女だけに向けられた」ものなのか、「騒音が収束した安堵なのか」、判別はつかない。
だが、すぐに彼はその視線を、側に控えるミリアリアへと転じる。
「……オルスタイン嬢、彼女を頼む」
その声は事務的だったが、指示の精度だけが妙に高かった。
ルーカスの言葉に、ミリアリアはゆっくりと立ち上がった。彼女の目にはまだ、先ほどルーカスと「毒」を吐き合った時の熱量が微かに残っていたが、アンジェリカに向き直った瞬間、その表情は再び「完璧な侍女」の仮面へと滑り込んだ。——その仮面が、以前よりも薄くなったことに、彼女自身が気づいている。
「……承知いたしました、トレンス侯爵。アンジェリカ様、参りましょう。明朝の授業に響きますわ」
「じゃあねルーカス、明日も楽しみにしてるわ!」
アンジェリカの天真爛漫な声が、夜の静寂を不規則に揺らす。ルーカスの眉が、ほんの僅かに動いた。
その指先は、無意識にこめかみを強く押さえている。
脳髄を走った鋭い頭痛。だが――。
その痛みは、いつもより早く引いた。
それが、なぜなのか。
彼は理由を検索しなかった。
その横顔は、嵐のような少女にペースを乱された少年が、理解の及ばない「熱」に困惑しているようにも、あるいは去りゆく賑やかさを惜しんでいるようにも見えた。
・・・・・
・・・
嵐のようなアンジェリカが連れ去られ、談話室にようやく「本来の静寂」が戻る。
ルーカスは、二人が去った扉の残響を、無意識に指先でデスクを叩きながら反芻していた。アンジェリカの天真爛漫な光への安らぎと、ミリアリアとの間に生じた、あの「毒」を啜り合うような奇妙な高揚感。
残されたのは、ルーカスと、壁際で控えていたヴェクターの二人だけだった。
「……お疲れ様でした、閣下。それにしても……いいんですか? あんなに牙を剥いてましたけど。明日にはまた、元の調子に戻って、閣下を告発したりしませんかね」
ルーカスは、引き裂かれた嘆願書の残骸――ミリアリアが雪のように降らせた紙片の一枚を拾い上げ、無機質に指先で弄んだ。
「その心配はない。……人は一度、自分が信じていた秩序がただの幻想だと気づき、泥の中に身を投げ出した快楽を知れば、もう以前の綺麗なだけの世界には戻れない」
指先で弄んだ後、それを灰皿に落として火をつけた。
「……それよりも、ハートフィリア嬢のあの『ワガママ』、このままでは単なる公爵令嬢の暴走で終わる。だからこそ、この規約が必要だった」
ルーカスは、エドワードが書き上げたばかりの山のような書類を指し示した。
「彼女の衝動と権力の濫用を、『クラスター活動』という論理の枠組みに閉じ込め、学園長に正式に承認させる。……これはもう、単なる遊びではない。学園公認の、拒絶不能な『システム』だ」
「なるほど。ワガママをインフラに変換するわけだ。……閣下のそういう『強引な最適化』、嫌いじゃないですよ」
「……しかし、閣下も相変わらず人たらしだ。鮮やか過ぎて、恐れ入りましたよ」
ヴァイスが肩をすくめ、わざとらしく感心したように口笛を鳴らした。彼はルーカスの机に軽く腰を下ろすと、茶目っ気のある笑みを向ける。
「……人たらしだと?」
「ええ。あんなに堅物で、貴族の義務だの何だのと自分を縛り付けていたオルスタイン嬢を、たった一晩で『こちら側』の顔に変えちゃうんだから。……その若さで、女性の心の隙間に入り込む極意でも心得ているんですか? 彼女、最後はなんだか、毒を食らわされたっていうより……すっかりその気にさせられていたように見えましたよ」
ヴェクターの言葉は、ルーカスの実務的な「人心掌握」を、どこか「女性を口説き落とす手腕」に重ねるような、絶妙な揶揄いを含んでいた。
「不名誉な事を……。引きずり込んだ覚えはない。彼女が自分の足で、幻想の殻を破っただけだ」
「ハハッ、そこが怖いんですよ。世間では『洗脳』とか『教育』って呼ばれる手口だ。本人に自覚がないまま、相手を一番心地いい……いや、一番熱い所に引きずり込む。13にしてその天分、末恐ろしい……」
揶揄うように口元を歪め見据える。
「彼女は今日、私という『怪物』を罵倒することで、自分を縛っていた退屈な貴族の規律を破壊した。その解放感は、毒のように回る。……今の彼女は、かつての模範的な令嬢よりも遥かに使い勝手のいい『実務家』だ」
「……そいつはまた、閣下らしい非情な見立てだ」
ルーカスが灰を見つめて淡々と語る姿に、ヴァイスは笑みを少し消し、ルーカスの横顔に、値踏みするような視線を投げた。
「……やれやれ。将来、泣かされる女性の数が今から計算できなくて困りますねぇ、閣下?」
ルーカスは、紙片が灰になるのを無表情に見つめ、冷たく返した。
「……お前がそれを言うか。女子生徒に囲まれて道化を演じている今の自分を、鏡で見てから言ったらどうだ」
痛烈な皮肉に、ヴァイスは一瞬だけ表情を崩し、自嘲気味に笑った。
「ハハッ……手厳しい。まあ、僕は『自覚』がありますよ。これはあくまで任務のためのパッケージだ」
「Hmph.……どうだかな。 あまり自分を偽りすぎると、本質を見失うぞ。
ルーカスがかつて訓練中に叩き込んだ「戦場での自己保持」の教え。ヴァイスは一瞬だけ真剣な眼差しをルーカスに返したが、すぐにいつもの軽薄な笑みに戻した。
「閣下。僕の『芯』は、閣下がドラムを鳴らしてくれたあの日に、もう決まってますよ。……ご心配なく」
ルーカスの冷たい一瞥を受けても、ヴェクターはちっとも堪えた様子はなく、むしろ楽しげに笑いながら立ち上がった。
「工事関係は既に連絡済みです。あとの残務は第一音楽室の整備……特に、あの暴力的な『音』を閉じ込めるための防音工事と、機材配置の整理ですね。例の『運営補助要員』を、明朝から馬車馬のように働かせる手配は済んでいます。あの方々のプライドを、建材と一緒に叩き潰してやりますよ」
「ああ。……行け」
「Copy Actual. ……あんまり根を詰めすぎて、その綺麗な顔を台無しにしなさんなよ?『演出』には、主役の冴えた顔が必要ですから」
ヴェクターはじっと、ルーカスを見つめている。
「……。下らない軽口を叩いている暇があるなら、自分の仕事をしろ」
ヴェクターは軽く手を振って応え、軽快な足取りで出口へと歩き出した。
だが、扉の取っ手に手をかけたところで、その動きが吸い付くようにピタリと止まる。
「……閣下。最後に一つ、気になることが」
「何だ」
ルーカスが怪訝そうに視線を上げると、ヴェクターはゆっくりと体を半身に開き、扉に背を預けるようにして立ち止まった。肩越しに投げられたその視線には、道化の仮面など微塵も残っていない。
「今日の閣下……少しだけ、楽そうに見えましたよ」
ヴァイスは、そこから先は言葉にしなかった。ただ、かつてルーカスに叩き込まれた「戦場の心理」を思い返すように、首筋を軽く掻いた。
「嵐の最中にいる時の顔だった」
ルーカスの指先が、わずかに止まった。だが、彼はその言葉の意味を解釈することも、自らの内面を覗き込むこともしなかった。ただ、不要なノイズを消去するように、事務的な冷たさで一言、切り捨てた。
ヴェクターは満足げに頷き、軽快な足取りで夜の廊下へと歩き出し、扉に手をかけたところで一度だけ振り返り、最後にウィンクを残して消えていった。
消えゆく紙片の火影の中で、ルーカスの瞳だけが、獲物を狙う猛禽のように冷たく光っていた。
遠ざかる足音の余韻の中、新しい設計図を無造作に引き寄せ、ペンを走らせ始めた。
ペン先が紙を削る音だけが、深夜の闇に規則正しく響き続ける。
自らの胸に訪れた、あの奇妙な「静寂」の正体に、彼は最後まで触れようとはしなかった。
・・・・・
・・・
ヴェクターが去った数分後、扉が再び静かに開いた。戻ってきたのはミリアリアだった。その手には、簡素な盆に乗った厚切りのパンと、具沢山のスープ、そして干し肉がある。
「……何だ、それは。忘れ物か」
「『薪』よ。あんたという、この学園を焼き尽くさんばかりの不届きな『火』を絶やさないためのね」
ミリアリアは、エドワードが血を吐く思いで書類を書いていた机の上に、トレイを置いた。
「……毒でも入れてきたか?」
皮肉げに茶化すように言った。
「入れたいのは山々だけど。今はあんたに倒れられると、この学園がただの燃えカスになって終わるわ。……食べなさいよ。脳を回すにも『油』が必要でしょう?」
ルーカスは僅かに眉を動かし、ゆっくりと椅子を引き寄せた。
二人は豪華な談話室の片隅で、向かい合って、貴族の晩餐とは程遠い「事務的な食事」を始めた。
「……スープの塩気が強いな」
「素直に感謝の言葉くらい、言えないのかしら?深夜にこれだけのものを用意させるのに、私がどれだけ『調整』をしたと思ってるの」
ミリアリアは、パンを千切りながらルーカスをじっと見つめた。
「……ルーカス。一つ聞かせて。あんた、本気でこの国をどうにかしようとしてるの? 王子を泣かせ、下水を掘り返し、このふざけたクラスターで一体何を狙っているのよ」
ルーカスは、手元の干し肉を咀嚼し、嚥下してから、窓の外に広がる闇の先――その混沌とした「現在」を見据えるように答えた。
「……私は、この国の『不備』が気に食わないだけだ」
ルーカスの声は、深夜の談話室の空気を震わせるほどに低く、重かった。
「秩序が機能せず、不衛生が蔓延し、技術が停滞する。その摩擦で生じる余計な『熱』が、本来進むべき歩みを阻害している。私は、そのノイズを削ぎ落としているに過ぎない」
「……ノイズ? 王子殿下や、私たちの伝統が?」
「そうだ。機能しない伝統はただのバグだ。私が作っているのは、この学園という閉鎖空間における、最も合理的で、最も『正しい』動作環境の雛形だ。このクラスターはそのための、実証試験場に過ぎない」
ミリアリアは呆れたように笑い、残ったワインを一口飲んだ。彼女の目には、もはやルーカスへの恐怖はなく、得体の知れない「強固な意志」への諦念と、奇妙な高揚が宿っていた。
「……ふん、やっぱり怪物ね。……英雄にでもなりたいわけ?」
ミリアリアは、パンの最後の一片を口に運び、揶揄うように目を細めた。
ルーカスは、その問いを即座に、一切の迷いなく切り捨てた。
「まさか。個人で出来る事など高が知れている。……それに」
ルーカスは、空になった皿を僅かに押しやり、ミリアリアの目を正面から射抜いた。
「英雄一人に縋らなければ護れぬと言うならば、その構造は終わっているも同然だ。私が求めているのは、個人の資質に依存する脆弱な平和ではない。たとえ、明日私が死のうとも、代替のパーツが現れ、滞りなく機能し続ける『仕組み』だ」
ルーカスの声は、深夜の談話室の空気を震わせるほどに低く、重かった。
「……私がこの手で描く
「……」
ミリアリアは息を呑んだ。
自分自身さえも「替えのきくパーツ」の一部として冷徹にカウントし、その上でなお、国という巨大な歯車を回し続けようとする意志。
それは英雄というよりも、もはや残酷なまでに誠実な「世界の設計者」の言葉だった。
「……最悪ね。あんたの隣にいると、自分がただの数字になった気分だわ。……でも」
ミリアリアは自嘲気味に笑い、トレイを片付け始めた。
「その『数字』が狂わないように見張るのが私の仕事なんでしょ。……わかったわよ。明日、誰が欠けても動くシステムの、最初の『頑丈なパーツ』になってあげる」
「期待している、
二人は、どちらからともなく席を立った。
談話室に残された二つの空の皿は、この夜、まだ誰も知らない未来の土台を築くための「非情な契約」を交わした、唯一の証拠だった。
消えゆく紙片の火影の中で、ルーカスの瞳だけが、獲物を狙う猛禽のように冷たく光っていた。
彼が見ているのは、目の前の設計図ではない。その図面が、数ヶ月後にこの停滞した学園の壁を突き破り、王国全体の『常識』という防壁を粉砕する光景だった。
「……チェックだ」
暗闇の中で、ペン先が再び、誰かの運命を書き換える音を立て始めた。