幕間 止まらぬ歯車
ルーカスの瞳に宿る、揺るぎない「加速」への意志。それを見た瞬間、アメリアの中で「伝統を守る学園長」としての仮面が、一回り大きな「一人の人間」としての顔に取って代わった。
言葉を尽くしても届かない。この少年は、自分が築く「鋼鉄の楽園」において、自分自身が最も摩耗しやすい「部品」であることを計算に入れていない。
「トレンス侯爵。……いえ、ルーカス殿。貴公に、最後の一言を贈ります」
アメリアは、手元のティーカップをソーサーに置く音すらさせず、深い沈黙を部屋に満たした。そして、刺すような、だが悲しみを帯びた眼差しをルーカスに向ける。
「貴公は『効率』という名の神を信じ、世界を資源へと変え続けている。だが、忘れないことね。……いつか、貴公のその効率性の極致において、貴公自身が『最も非効率な不純物』として、貴公が作った『仕組み』そのものに選別され、滅ぼされる日が来る」
ルーカスがわずかに眉を動かした。だが、アメリアは言葉を止めない。
「人は、自分を救ってくれる者であっても、自分を『資源』としてしか見ない存在を愛することはありません。論理で書き換えられた市場は、貴公が一度でも躓けば、即座に貴公を『欠陥品』として廃棄し、次なる効率を求め始めるでしょう。だからこそ……周囲を頼りなさい。貴公が切り捨てようとしている『無駄な情愛』や『非効率な絆』こそ、仕組みが貴公を食い殺そうとした時、唯一、その歯車に指を差し込んで止めてくれる『余白』になるのだから」
アメリアの言葉は、もはやマナーの矯正でも、発音の指導でもなかった。
それは、孤独な加速を続ける「全能の少年」の足元に、彼女が持てるすべての経験を注ぎ込んで掘った、最後の
アメリアが放った、祈りにも似た剥き出しの忠告。
だが、ルーカスは眉一つ動かさなかった。それどころか、その瞳にはアメリアの情愛すらも「計算外のノイズ」として処理する、透徹した冷気が宿る。
「……その時は、私が死ぬだけの話です」
ルーカスの声は、あまりにも平坦だった。まるで明日の天気を口にするかのように、自身の「死」を語る。
「大局に影響はありません。私が倒れれば次席責任者が後を継ぎ、私が構築したシステムという歯車は回り続ける。……もし、私自身がこの論理の障害となるのであれば、私という個体すらも切り捨てましょう」
アメリアは、目の前の少年が「自分自身」という存在にすら、一切の執着を持っていないことに気づき、愕然とした。彼女が説いた「救い」は、ルーカスにとっては「不純物」でしかなかったのだ。
「すべては王国の未来のために。王国が千年先まで繁栄するために。私は一貴族として、領主として、愛国心の赴くままに――最善を尽くす。それだけです、学園長閣下」
ルーカスは姿勢を正し、完璧な角度で再度一礼した。
それは軍人としての敬意であり、同時に、これ以上「人間的な対話」は不要であるという拒絶の儀礼でもあった。
ルーカスが退室し、重厚な扉が閉ざされた後も、アメリアは膝の震えを止めることができなかった。
彼は「わがまま」を通しているのではない。彼は、自分という存在を「王国の未来」という祭壇に捧げた、最も冷徹な供物なのだ。
(……救いようがない。あの子は、自分が『愛国心』と呼ぶその猛毒で、自分自身を真っ先に焼き切ろうとしている……!)
アメリアの脳裏には、かつて「誇り」という重圧に押し潰された父キースの姿がよぎった。
だが、違う。
目の前の息子は、押し潰されているのではない。彼は自ら進んで、自身の心臓を鋼鉄の部品に作り替えてしまったのだ。
(なんて……なんて悲しく、そして恐ろしいほどの『高潔さ』)
アメリアは思わず口元を手で覆った。吐き出される息すらも、凍りつくような戦慄に支配されていた。
……ああ、トレンス侯爵。貴方は、なんて酷いことを言うの。
貴公が語る「愛国」は、あまりに純粋すぎて、もはや毒のようです。
自らを歯車の一つと断じ、代わりがいるから構わないと笑う。それは、数千年の歴史を繋いできた私たちの「家」という誇りを、効率という名の紙屑に変えてしまう行為。
けれど否定出来ない。
その冷徹な自己犠牲こそが、今の停滞した王国が最も必要とし、誰もが成し得なかった「
(貴方は、王国を救うために、王国から「心」を奪おうとしている。
そして、そのために真っ先に自分の「心」を殺した)
その歩みが、自分自身を燃料にしていることを、あの子は理解した上で選んでいる。
誰にも理解されず、誰にも助けを求めず、ただ独りで「千年先」の暗闇を見つめているその背中に、私は何を掛けてあげられるでしょう。
アメリアは目を閉じ、深く息を吐いた。
脳裏にこびりつく「憐れみ」と「恐怖」。だが、それだけではこの怪物を止めることはできない。
彼女は、自分の中で荒れ狂う感情を一つずつ棚卸しし、それを「覚悟」へと変換していく。
ゆっくりと瞼を開け、彼女は天井の高い装飾を見上げた。そこには、歴代の学園長たちが見上げてきたであろう、変わらぬ「学園の空」がある。
――私がすべき事は、嘆き悔やむ事ではない筈だ。
……いいでしょう、トレンス侯爵。
貴方が「効率」という名の剣を振るい、この王国の皮を剥ぎ取ろうとするのなら、私はそれを「美徳」という名の色を塗り、新たな伝統として仕立て直して差し上げなければならない。
貴方の言葉を否定はしません。ですが、そのまま飲み込むこともしない。
貴方が持ち込むその「冷たい真実」を、私は私というフィルターを通して、この王国の血肉に変えてみせる。
それが、貴方の凄まじいまでの高潔さに対する、私なりの「貴族としての返礼」。
アメリアは、部屋の隅にある古い
それはまるで、彼が切り捨てた彼自身の「感情」のように見えた。
(貴公が私を『資源』として利用しようとするなら、私は貴公を『王国を更生させるための毒』として使い切ってくれる。……壊れるまで止まらないというのなら、その最期がどれほど無残な『がらくた』になるのか、特等席で見届けてあげましょう)
その視線には、もう迷いはない。あるのは、一人の少年を見守る母性にも似た、静かで確固たる決意だけだ。
貴方は一人で千年先を見つめているつもりでしょうけれど……忘れないで。
貴方が歩むその足跡を、一歩も逃さず見つめ、その不遜な背中を追い続ける「証人」が、ここにいるということを。
アメリアは、その場に立ち尽くしたまま、しばらくの間、瞳を閉じた。
網膜の裏には、去りゆく少年の、あまりに真っ直ぐで、あまりに危うい背中が焼き付いている。
指先が微かに震えている。それは恐怖というより、あまりに巨大な「異物」を無理やり飲み込まされた、知性の拒絶反応に近かった。
例年より長く居座る残暑の熱気が、開いたままの窓から入り込み、肌にまとわりつく。湿り気を帯びた空気が、かつてないほど重く、部屋を沈滞させていた。
アメリアは、糸が切れたようにソファへと身を沈めた。
背もたれに深く体を預け、乱れた呼吸を整えること数秒。
やがて、彼女はゆっくりと目を開けた。
そこには、先ほどまでの「危うい教え子を案じる一人の人間」の影はない。
彼女はその震える指で、冷え切ったティーカップを手に取った。
カツン
静寂を破ったのは、アメリアがティーカップをソーサーに置く音だった。
湿った空気の中でもなお、それは高く、硬質な鋭さを持って響いた。彼女の意志が、周囲の湿り気すらも一瞬で凍てつかせたかのように。その音を合図に、アメリアの顔から「慈悲深い学園長」の仮面が完全に消え失せた。そこにあるのは、獲物を定める鷹のような、冷酷な知性が宿る瞳。
アメリアは、署名の終った契約書を一瞥し、鼻で小さく笑った。
「……身の程知らずな『雛』だこと」
彼女は立ち上がり、窓辺から眼下の学園を見下ろした。その視線は、教え子を慈しむものではなく、領土の境界線を検分する領主のそれだ。
「あれほどの不遜、並の貴族なら即座に首を撥ねている。伝統を、美徳を、形式を……あの小僧は『不便な贅肉』だと断じた。それも、無知ゆえの暴言ではない。全てを理解し、使い古されたボロ布を捨てるような無頓着さで。私の差し出した『手綱』を、貴公は逆に、私を縛り上げるための『鎖』に編み変えようとした」
アメリアの指先が、窓枠をゆっくりとなぞる。
硬い木の感触。これが私の
「『自分が死んでも、システムが回ればいい』? ……笑わせないで。それは愛国心などという美しいものではない。自分という『個』すらも効率の炉にくべる、一種の宗教的な狂気だわ。貴公は、自分を人間だと思っていない。王国の千年を走らせるための、使い捨ての心臓だと定義している」
アメリアの口角が、歪んだ弧を描いた。そこにあるのは心配ではなく、「制御不能な怪物」を飼い慣らそうとする側の、暗い興奮だった。
――否。
飼い慣らすのではない。
同じ檻に入って、どちらが生き残るかを試すのだ。
「やってご覧なさい」
声に出した瞬間、迷いが消えた。
「ならば、その『効率』という名の狂気が、この古臭い王国の伝統という巨大な岩盤をどれだけ穿てるか、試させてもらおう。
貴公が『水』を『ヴォーテル』と呼ぶ代償に、私から何を奪い取ろうとするのか。あるいは、何を捧げさせるのか」
アメリアの瞳に、鋭い光が宿る。
「私が、貴公の描く未来を無条件に通過させる『
彼女は、ルーカスが座っていた空席を睨みつけた。
そこには、彼が座っていたはずの体温すら残っていないように感じられた。ゴミ一つ、熱一つ残さない、徹底した「滅私」。
「そして、ただの『ブレーキ』で終わると思ったら大間違いだ、ルーカス・フォン・トレンス」
アメリアは、くずかごに投げ捨てられた「資源」――ルーカスが効率化の果てに不要と断じた書類の端切れを、愛おしむように指先でなぞった。
「……思い知らせてやろう。伝統とは、貴公が切り捨てた『無駄』の堆積であり、それが時に、鋼鉄の歯車を狂わせる唯一の砂利になるのだということを」
アメリアは、ゴミ箱から視線を外し、壁に掛けられた重厚な学園の年表と、トレンス領の地図へと歩み寄った。
かつて王国の空を駆けた竜騎士としての本能が、数年ぶりに眠りから覚める。古傷の疼きを、彼女はあえて無視しなかった。その痛みこそが、かつて戦場を支配した誇りの証であり、今まさに目の前の「怪物」によって踏みにじられようとしている「伝統」そのものなのだから。
彼女の背筋は、王国の峻烈な盾として、あるいは空を裂く一振りの槍として、鋼のごとき硬度を持って真っ直ぐに伸びる。ドレスの裾が床を擦るわずかな音さえ、まるで白兵戦を前にした抜剣の如き鋭さを帯びて、重く沈滞していた室内の空気を一刀の下に両断した。
(完成された狂気。……あの瞳は、ただの天賦の才で磨かれたものではない)
彼女は、かつてのトレンス侯爵キースの、どこか脆さを孕んだ優しさを知っている。だが、その息子には欠片もない。あるのは、自分自身を薪にして未来を照らそうとする、あまりに異常で、孤独な「機能美」だけだ。
そして何より、彼は口にした。「飢饉」を。「資源管理の失敗」を。
まるで、地獄の釜の底を見てきた者だけが持つ、独特の「臭い」を纏っていた。
アメリアは、ゆっくりと歩き出し、壁に掛けられた重厚な学園の年表と、トレンス領の地図を見比べた。
(理解しなければならない。貴公が何を背負い、何を見て、あのような『鋼鉄の心臓』を持つに至ったのか。教育者として、いいえ――この王国の行く末を担うグロースハイムの名にかけて、あの深淵の正体を突き止める義務があるわ)
彼女の指先が、地図の上のトレンス領へ滑る。その鋭い動きは、地形を確認する教育者のものではなく、敵陣の喉元を探る、指揮官のそれだった。
指が、その中心部にある「本邸」の上でピタリと止まる。
ふと、彼女の脳裏に、学園の古い革袋に眠る「伝統」の条項が浮かび上がった。
「……そういえば、そろそろ
アメリアは、独り言のように呟いた。その声は、もはや宥めるような慈母のものではなく、王国の柱石たる高位貴族の、峻烈な響きを帯びていた。
「王立総合学園、伝統儀礼――『
アメリアの唇が、挑戦的で、かつ冷徹な弧を描く。
ルーカスが「効率」という名の剣を振るうなら、彼女は「伝統」という名の盾を携えて、彼の本拠地に踏み込む。彼を否定するためでも、迎合するためでもない。彼の高潔さの正体を「理解」し、それを飲み込むためだ。
「トレンス侯爵。貴公が私を『踏み台』として利用しようとするなら、私は貴公の『ルーツ』を暴き、その足元が如何に脆い泥舟であるかを証明して差し上げます」
アメリアの唇が、艶やかで、かつ致死性の毒を孕んだ花のように綻んだ。
「……安心なさい。貴公は学業に専念していればいいわ。
主のいない揺り籠を、私が責任を持って、最高に不便で、最高に優雅で――そして、吐き気がするほど『無駄に長い』おもてなしで満たして差し上げるから」
アメリアは、優雅に身を翻してデスクへと戻り、呼び鈴を鳴らした。
チリリン、と。
夜の静寂を破るその澄んだ音色は、給仕を呼ぶ合図ではない。
それは、ルーカスが築き上げた「鉄の論理」という城門をこじ開けるための、アメリア・フォン・グロースハイムからの、一方的で慈悲深い開戦のゴングであった。