第百七話 硝子の聖域
王都から届いた一通の書簡。それがトレンス侯爵邸の空気を、静かに、しかし劇的に変えていた。
ルーカス・フォン・トレンスと、アークランド公爵令嬢アイリスとの婚約。
それは、トレンス家にとってこれ以上ない栄誉であり、ルーカスが名実ともに王国の重要人物として認められた証左でもあった。
侯爵邸の裏手、ルーカスが母のために莫大な魔力と技術を投じて建設した巨大な温室。
ダイアナは、その豪奢なガラスの扉の前で、一度足を止めた。
中からは、むせ返るような花の香りが漂ってくる。常春の魔術が施されたこの空間は、外の世界の季節や雑音を一切遮断した、完璧な楽園だ。
完璧すぎて、息をするのにも許可が要るのではないかと思うほどに。温度も湿度も花粉の量すら、見えない術式が秒単位で均している。扉には非常解錠用の魔導キーが備えられているが、それを使う必要が生じたことは一度もない。
それほどまでに、この空間は出る理由そのものを奪う設計になっていた。
そしてそれは、ルーカスがクリスティアナのためだけに用意した、世界で最も安全な場所であり――美しくも強固な「聖域」のようにも見えた。
(……この吉報を、あの方はどう受け止めているのかしら)
ダイアナは、小さく息を吐き、扇子を握り直してから扉を開けた。
扉を開けると、そこには無数のシザンサスが、まるで蝶の群れが静止したかのように咲き乱れていた。
光が降り注ぐ温室の中央、白いアイアンのテーブルに、クリスティアナは座っていた。
彼女は、送られてきた書簡をテーブルに広げ、ただじっと見つめていた。その横顔は、彫像のように美しく、そしてどこか儚げだ。
白い髪が陽光を透過し、今の彼女はまるで、触れれば崩れ落ちてしまいそうな硝子細工のように見えた。
「……ごきげんよう、クリスティアナ様」
ドレスの裾を数ミリも乱さぬ完璧な所作のカーテシー。
それは友人への挨拶というよりは、聖堂の偶像に対する礼拝に近い、静謐な儀礼だった
クリスティアナはゆっくりと顔を上げた。その赤い瞳がダイアナを捉え、ふわりと、いつもの柔らかな微笑みを浮かべる。
「まあ、ダイアナ様。いらしたのね」
その声は穏やかで、取り乱した様子は一切ない。しかし、ダイアナの鋭い観察眼は、クリスティアナが紅茶に一度も口をつけていないこと、そして書簡の端を指先で無意識に何度もなぞっていることを見逃さなかった。
ダイアナは対面の席に座り、給仕に目配せをして下がらせると、わざと大袈裟に肩をすくめてみせた。
「吉報、拝聴いたしましたわ。アークランド公爵家の『氷の華』。……あの厳格な家風で磨き上げられた令嬢ならば、ルーカス様の鋭利すぎる知性とも、さぞや美しい『和音』を奏でることでしょう。これでトレンス侯爵家の未来も、盤石というものです」
ダイアナは、カップの縁越しに上目遣いでクリスティアナを見た。
それは、貴族社会における正解の言葉であり、母親に対してかけるべき祝福の言葉だった。
クリスティアナは、「ええ」と小さく頷いた。
「それにしても、王都の貴族たちは騒がしいこと。アークランド公爵令嬢との婚約だなんて、号外が出る騒ぎですわよ。……で? 主役の母上は、寂しさでメソメソ泣いているかと思って飛んできましたのに」
「まあ、ひどい。泣いてなんていないわ」
クリスティアナはくすりと笑い、テーブルの上の書簡を愛おしそうに撫でた。
「ええ。本当に……素晴らしいことだわ」
その指の動きは、まるで赤子の頬を撫でるように一定のリズムを刻んでいる。
「あの子の翼が、ようやく正当な風を捕まえたのですもの。アークランド家の広大な領地と権威は、あの子が空へ昇るための、何よりの助けになるはずよ」
その言葉は完璧だった。
言葉は完璧だった。息子の成功を喜ぶ、理想的な母親の言葉だ。
だが、ダイアナはそこに、隠しきれない「諦念」を感じ取った。
喜びの中に混じる、澄んだ寂寥感。それは、子が親の手を離れ、自分の知らない世界へと羽ばたいていくことへの、純粋な寂しさだ。
「翼、ですか」
ダイアナは、扇子を半分だけ開き、口元の笑みを隠した。
「ええ、翼よ。あの子はずっと、遠くへ行きたがっていたから」
クリスティアナの瞳には、一点の曇りもない。
息子が王都という大空へ羽ばたくことを喜ぶ、慈愛に満ちた母の顔。
「あら、そうですの? わたくしには、『あの子には私しかいない』と思っていた蜜月が終わり、新しい『
少し拗ねていらっしゃるように見えますけれど」
ダイアナは、親しい友人としての遠慮のない軽口を叩いた。
これは、あの日以来、二人の間で築かれた「距離感」だ。
クリスティアナは、図星を突かれた少女のように、少しだけ頬を膨らませた。
「……意地悪ね、ダイアナ様は」
「ええ、昔から性格がひん曲がっておりますので。……で、本音は?」
意地悪な問いかけ。
しかし、クリスティアナはきょとんとして、それから鈴を転がすように笑った。
「奪われるだなんて。……ダイアナ様は、鷹狩りはお好き?」
クリスティアナは観念したように息を吐き、窓の外の青空を見上げた。
「……嗜む程度には」
「なら、お分かりでしょう? 鷹はね、どれほど高く飛んでも、どれほど遠くで獲物を仕留めても……夜になれば、必ず止まり木が必要なの」
クリスティアナは、自身の胸元で輝く青い宝石に触れた。
「アイリス様は、あの子と一緒に空を飛ぶ『風』になれる方よ。それは私にはできない。あの子の論理も、苦悩も、私には難しすぎて共有できないもの」
彼女は、少しだけ寂しそうに、けれど至上の幸福を噛み締めるように目を細めた。
「だから、私はここで待つの。
外の世界で傷つき、疲れたあの子が、重い鎧を脱いで、猛禽の爪をしまって……ただの子供に戻って羽を休める。そんな『止まり木』でいてあげたいの」
「止まり木……」
「ええ。外でどんな偉業を成し遂げても、最後に帰る場所がここであれば、あの子は壊れないですむわ。
……風はいつか止むけれど、止まり木は動かないでしょう?」
クリスティアナは、まるで愛しい息子の頬を撫でるかのような手つきで、テーブルの上のカルミアの花を慈しんだ。
「ルーカスは、いつも私のそばにいてくれたから」
それだけ言って、彼女は書簡をそっと畳んだ。
封蝋が割れないように、丁寧に。丁寧すぎるほどに。
「ルーカスは、病室のベッドの横で、小さな手で私の手を握って……『僕が母さんを治す』って、それだけを考えて生きてきてくれた。
……でも、今のルーカスには、私が理解できないほどの知識があって、私には見えない未来が見えていて……そして今、その景色を隣で共有できる方を手に入れた」
「だから、私はここを整えて待つの。あの子が帰ってこられるように」
その言葉には、母親としての無力感と、息子にとって「最も必要な存在」ではなくなることへの、静かな撤退の意志が滲んでいた。
それは、あまりに健気で、あまりに常識的な母親の姿だった。
ダイアナは、扇子で口元を隠した。
(……ああ、本当に。この方は、どこまでも無垢で、善良な母親だわ)
だからこそ――私が支えて差し上げなければ。
「でもね、ダイアナ様。それでいいの」
クリスティアナは、テーブルの上の書簡――『婚約』の文字――を、愛おしそうに撫でた。
「あの子は外の世界で戦うために、重い鎧を着ているわ。誰よりも賢く、強く、冷徹な仮面を被って。アイリス様は、その『戦うルーカス』の隣に立つ方でしょう。
……なら、私はここで、あの子が鎧を脱げる場所を守り続けてあげたいの」
「……守る、とおっしゃいますの?」
「ええ。どれほど立派になっても、どれほど遠くへ行っても……あの子が傷ついた時、疲れた時、何もかも忘れて子供に戻れる場所が必要でしょう?
私がしてあげられるのは、変わらない笑顔で『おかえり』と言ってあげることだけ。……この温室のように、いつも変わらない暖かさで、あの子を待っていてあげたいの」
クリスティアナは、聖母のような慈愛に満ちた瞳で、ダイアナを見つめた。
「ルーカスが外でどんな偉業を成し遂げても、最後に羽を休める場所がここであれば、あの子は壊れないですむわ。だから、私はここで待っていればいいの。それが、母親である私の、最後のお役目だもの」
一点の曇りもない、純粋な母性愛。
息子の重荷にならぬよう身を引き、しかし息子が帰ってくる場所を永遠に維持し続けるという決意。
あまりに美しく、あまりに完成された論理。
ダイアナは、ふわりと漂ってきた花の香りに、一瞬だけ眩暈に似た感覚を覚えた。
(……見ているだけで、当てられてしまうわね……)
彼女は音もなく扇子を開くと、その極彩色の羽で自身の口元を覆い隠した。
扇子の向こう側で、貴族夫人としての仮面を完璧に貼り直す。
「ええ。氷の華。王都の貴公子方が、勝手に凍えて勝手に散ったという噂ですわ」
扇子が、ひらりと蝶のように揺れる。
「……まぁ、あの方の冷たさが、ルーカス様に通じるかは別ですけれど」
「通じない、かしら?」
クリスティアナが不思議そうに小首を傾げた。
陽光を浴びたその仕草は、どこまでも無垢で、少女のように愛らしい。
ダイアナは、その無垢さを直視することを避けるように、ふっと目を細めた。
「さぁ。理屈は通じても、『休み方』は別ですわ」
言った瞬間、ダイアナはほんの僅かに視線を逸らし、手元の紅茶に目を落とした。
カップの中で揺れる琥珀色の液体。そこに映る自分自身の顔を確認してから、彼女は言葉を継ぐ。
「ですから」
パチン、と。
ダイアナは意図的に扇子を閉じた。その乾いた音が、温室の甘い空気を一瞬だけ切り裂く。
「わたくしが、近いうちにお相手を見定めて差し上げますわ。……アークランド公爵夫人……あの女狐クラリスも巻き込んでね」
「アークランド公爵夫人……? ダイアナ様のお知り合いなの?」
「ええ、腐れ縁ですわ。あの方も大概、性格がひん曲がっておりますから。氷の華の母親がどのような教育をしたのか、小一時間ほど問い詰めてやりませんと」
悪戯っぽく片目を閉じてみせると、クリスティアナはくすりと笑った。
「まぁ、意地悪」
「意地悪で結構。あなた様の“巣立ち”に、水を差されたら困りますもの」
ダイアナは、あえて「巣立ち」という言葉を口に乗せた。
この硝子の城を作り上げた設計者にとって、その言葉こそが、最も忌み嫌う計算外の『バグ』であることを知りながら。
「……ふふ。クリスティアナ様は、本当に『欲張り』なお方ですこと」
「え?」
クリスティアナがきょとんとする。
「戦場での栄光は公爵令嬢に譲り、ご自身は『安息』という、人の心が最も抗えない部分を独占なさるおつもりでしょう? ルーカス様が、どんな美姫よりも、貴女様の淹れたぬるい紅茶を恋しく思うように仕向けるなんて……とんだ策士ですわ」
ダイアナの皮肉めいた称賛に、クリスティアナは困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
「まあ、ダイアナ様ったら。そんな計算なんてしていないわ。ただ、あの子が心配なだけよ」
「ええ、存じておりますとも。計算でなさっているなら、わたくしもまだ可愛げがあると思えますのに」
ダイアナは小さく肩をすくめ、再び扇子を開いて顔を隠した。
この無自覚な天然さが、かつて自分の憎しみを溶かし、そして今は、あの合理の怪物を繋ぎ止めている。
(……罪な子。一体どれほどの女性を泣かせるつもり?)
「まあ……ルーカス様は本当にお優しいこと。まるで世界の方が先に壊れてしまいそうですわね。
あんなに大切にされていては、きっと王都の空気など、少々毒が強すぎるでしょうに」
ダイアナは、目の前の純真な女性をじっと、見つめた。
あるのは、諦めにも似た受容だけだった。
「さあ、クリスティアナ様。お祝いの手紙を書きましょう。ルーカス様と、アイリス様に。とびきり温かい、貴女様の愛がたっぷり詰まった、祝福の言葉を」
「ええ、そうね! ダイアナ様、文面を相談に乗ってくださる? 失礼がないようにしたいの」
「喜んで。……あの『お母様想い』のルーカス様が、貴女様の文字を見ただけで、張り詰めた糸を緩める姿が目に浮かびますわ」
花々は今日も、季節を忘れて咲き誇っている。
「奥様はお幸せですね。世界でたった一人、何をしても赦してくれる殿方をお持ちなのですもの」
「あの子、王都でちゃんとやっていけるかしら……」
ため息とともに窓の外を眺めクリスティアナが言った。
ダイアナが笑って返す。
「大丈夫ですわ。あの子は、規格外の才能をお持ちですもの。王都の常識のほうが、彼に道を譲るでしょう」
クリスティアナが苦笑する。
「それに……なら、わたくしが見定めて差し上げるわ。あなたの息子さん、ちょっと普通じゃありませんもの」
「もう……ダイアナ様ったら」
「……まぁ、何にせよ。ルーカス様が休める場所は、変わりませんわ」
ダイアナは、クリスティアナの無垢な瞳からふと視線を外し、永遠に時間を止めた花々へと目をやった。
「……変わらないはずですもの」
「ええ、そうね。あの子は、疲れたらきっと帰ってくるわ」
クリスティアナはそう言って、窓際で陽光を浴びる紫色の小さな花――ヘリオトロープの鉢に、愛おしそうに指を触れた。バニラのような甘い香りが、温室の空気を一層濃密に染め上げる。
「この子たちは、お日様が動く方へ、ずっと顔を向けているの。どんなに遠くても、光が見えればそれで幸せなんですって。……ふふ、私みたいね」
クリスティアナは変わらぬ無垢な笑顔で紅茶に口をつけた。
ダイアナは何も言わず、ただ扇子の陰で、そっと息を吐く。
(……ええ、きっと。あの方も)
どんなに遠く離れても。どんなに立派な翼を手に入れても。
太陽が花を照らすように、花が太陽を追いかけるように。
あの怪物――いや、母親大好きなだけの、ちょっと不器用な息子は、この甘い香りのする箱庭へ、必ず戻ってくる。
ダイアナは、扇子で口元を優雅に覆い隠すと、まるでここだけの秘密を囁くように瞳を細めた。
「まあ、せいぜい、あの子離れできないマザコン息子が、泣きついて戻ってきた時に備えて、ハンカチでも用意しておくことですわね」
「そんなに泣かないわ!」
二人の笑い声が、温室に響く。
硝子の向こうでは、冬の気配が色濃くなっている。
だが、この場所だけは永遠に春のままだ。
世界が壊れても、ここだけは維持される。
あるいは――ここを維持するために、世界が壊されるのかもしれない。
論理の高速道路を走る怪物を止めるための、唯一にして最強のブレーキ。
それは、騎士道精神でも、公爵令嬢の威光でもなく、この温室に咲く一輪の無垢な花なのかもしれない。
ダイアナは扇子を閉じ、そっと祈るように目を伏せた。
その硝子の城が、いつまでも温かな春の日差しに満たされていることを願って。
・・・・・
・・・
場所は変わって――王都、別邸。
深夜の執務室には、針の落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂と、冷徹な規律が満ちていた。
机上には、承認を待つ兵器開発の稟議書と、作戦立案の書類が山のように積まれている。それらはすべて、ルーカスが構築した「論理の高速道路」を走るための燃料であり、王国の未来を決定づける重要な文書だ。
だが、ルーカスの手は止まっていた。
彼が手にしているのは、無機質な報告書ではない。
トレンス領から届いたばかりの、封蝋の押された一通の手紙だ。
ルーカスは、ペーパーナイフを使わず、指先で慎重に封を開いた。
中から滑り落ちたのは、少し不格好な飾り文字と、押し花にされた一輪のシザンサス。
そして、ふわりと漂う、甘く懐かしい温室の香り。
その瞬間、執務室を支配していた張り詰めた空気が、嘘のように霧散した。
王都の政治的駆け引きも、軍部の予算闘争も、物理法則の計算式さえも、すべてが「ノイズ」となって消え失せる。
ルーカスは、文面を目で追った。
そこには、婚約への祝福と、体調を気遣う言葉、そして「いつでも待っている」という、何の変哲もない母の言葉が綴られていた。
論理的な情報価値など皆無に等しい。
だが、ルーカスにとって、これは世界で唯一、「自分が人間であることを許される」許可証だった。
「…………」
彼は、深く、長く息を吐いた。
常に張り詰めていた肩の力が抜け、鋼鉄のようだった背中が、わずかに椅子へと沈み込む。
それは、ダイアナが予見した通り。
高速で回転する歯車が、油を差されて静かに熱を冷ます瞬間。
あるいは、空を駆ける猛禽が、遠い止まり木の感触を思い出して翼を休める瞬間。
ルーカスは手紙を丁寧に折り畳み、懐のポケット――心臓に最も近い場所――へとしまった。
それは、まるで何千何万という兵士の命よりも、この紙切れ一枚の方が遥かに重いとでも言うかのように。
そして再び顔を上げた時、その瞳には、先ほどまでの冷徹な光に加え、決して折れることのない、狂気じみた「安らぎ」が宿っていた。
「……Alpha。再開だ」
『了解。タスクを続行します』
ルーカスは再びペンを取り、書類の山へと向き直った。
その背中は、あまりに孤独で、あまりに強靭だ。
窓の外には、王都の冷たい夜景が広がっている。
だが、彼の懐の中だけは、永遠に春のままだ。
世界が彼を怪物と呼ぼうとも、論理が彼を蝕もうとも。
帰るべき「硝子の聖域」がある限り、この怪物が止まることはない。
――あるいは、止まることを「許されない」のかもしれない。