第百八話:追憶の円舞曲
「名乗を上げろ! 貴様、何者だ! 私はバルフォア侯爵家のエリザベート!」
去りゆくルーカスの背中に向かって叫んだその声が、朝霧に溶けていく。
私は、自身の右手に握られた「それ」を凝視した。
先ほどまで、私の過剰な魔力供給によって
だが、それはもはや使い物にならない。自身の魔力強化による加速と、彼の異形な剣による撃発の衝撃に耐えきれず、刃は至る所が深く毀れ、刀身は不自然に歪んでいる。
(……ただの訓練剣では、私の魔力にすら耐えられぬか)
私は、熱を帯びたままの剣を無造作に地面に捨てた。
カラン、という虚しい音が中庭に響く。
鼻先から滴る血が、泥にまみれた芝生を汚した。顔面の痛み、手の痺れ、そして愛剣ですらない安物の剣が壊れる感覚──それらすべてが、私にとってはこの上ない「充足」だった。
王立学園という箱庭。誰もが型通りの剣を振り、怪我を恐れて魔力を調整する。
だが、先ほどの男はどうだ。泥を転がり、不意打ちを食らわせ、自分より格上の相手に対して「生き残る」ためだけに持てる全てを叩き込んできた。
(負けた、とは思っていない。だが、勝ったとも言えない)
ズキズキと脈打つ鼻の痛みを感じながら、私は濡れた髪を掻き上げ、空を見上げた。
鼻の奥を突く、鉄錆びた血の味。
泥と井戸水にまみれた訓練着。
そして、去り際のあの男──ルーカス・フォン・トレンスが残した冷徹な「軍人」としての眼差し。
先ほどまでの数分間、私は間違いなく、王立学園という箱庭の中で唯一、本物の「戦場」に立っていた。
伝統的な騎士の剣ではない。形ばかりの武人の礼儀でもない……。
あれは──生き残るための戦いだ。
先日、自室の鏡の前で味わったあの絶望的な「清潔さ」が蘇る。
あの日、鏡の中にいた私は、今のように血を流すことも、泥にまみれることも許されなかった。
(……ヴェクター。お前の言っていたことは、これだったのか)
侍女たちが寄ってたかって着せつけた群青色のドレス。強靭な四肢を拘束するシルクの枷。きつく締め上げられたコルセットが肋骨を圧迫し、呼吸のたびに生地が微かな悲鳴を上げていた。
あの窮屈な沈黙の中で、鏡の中の自分を見つめながら、私はさらにその先日の夕刻、西棟のテラスで交わしたあの「商人の囁き」を反芻していた。
・・・・・
・・・
アルタイル寮の喧騒から離れた、西棟のテラス。
夕刻の風が、騎士たちの熱気で火照った空気を心地よく冷やしていた。ヴェクターは、手すりに背を預け、目の前の少女──エリザベート・ド・バルフォアが吐き出す熱を、静かに受け止めていた。
「……父上は、いつだって私を『バルフォアの最高傑作』と呼ぶ。だが、その意味は『騎士として』ではない。他家に嫁がせるための『宝石』としての価値だ」
エリザベートが手すりに叩きつけた拳は、石造りの装飾をわずかに削り、白い粉を散らした。その破壊的な筋力こそが彼女の真実。だが、世間が求めるのはその拳で扇を持つことだ。
ヴェクターは、沈みゆく夕日に目を細めながら、まるで高価なワインのラベルでも確認するかのような口調で言った。
「最高級の宝石、ですか。僕の耳には、それは賞賛というより、『在庫処分』の合図に聞こえますね」
「……何だと?」
エリザベートの視線が、刃物のような鋭さでヴェクターを射抜く。だが、彼は動じない。
「言葉通りですよ。バルフォア侯爵にとって、貴女という存在はあまりに強力すぎる『資産』だ。手元に置いておけば、兄君たちの立場を脅かし、家の序列を乱す。だから、最も高く売れる時期に、最も安全な場所──他家の奥座敷へと放り出し、影響力を換金したい。……違いますか?」
エリザベートは言葉を失った。父の愛だと思おうとしていた言葉の裏側を、この男は「帳簿上の都合」として無慈悲に暴いてみせたのだ。
「……兄上たちは『優秀』だ。王都の演習会では負けなし、礼儀作法も完璧、教科書通りの騎士道精神を体現している」
エリザベートは、侮蔑と、それ以上に深い諦観を込めて言葉を吐き捨てた。
「だが、彼らの剣は『審判がいる試合』でしか通用しない。彼らは、喉笛を食いちぎってでも生き残ろうとする獣と対峙したことがないのだ。一度、私が稽古で『反則』──倒れた相手への追撃──を見せた時、彼らはなんと叫んだと思う? 『卑怯だ』とさ。……殺し合いの場に、卑怯もクソもあるものか」
ヴェクターは、彼女の言葉の背後にある「実力の軽視」に対する憤りを感じ取っていた。
「確かに、彼らは平和の象徴としては一級品だろう。だが、本当に国が血を流す時、あの綺麗な剣で何が守れる? それなのに、私に用意された『道』は……剣を捨ててドレスを纏うことだ」
「父上は彼らを『王国の盾』と呼び、私には『優雅に微笑め』と説く。ただ、バルフォアの名を背負っているというだけで、将来の将軍職が約束されているのだ」
ヴェクターは、彼女の言葉の背後にある「実力の軽視」に対する憤りを感じ取っていた。彼は、彼女の言葉を遮らず、ただ促すように頷く。
「……そんな兄上たちと、私。どちらが真に王国を護れるか、子供でも分かるはずだ。それなのに、私に用意された『道』は、剣を捨ててドレスを纏うことだ。先日も、父上が勝手に決めた婚約者──どこぞの伯爵家の次男坊だ──が挨拶に来た。剣を握ったこともないような、白く細い手で私の手を握り、『君のような美しい妻を持てるのは光栄だ』と抜かしおった……!」
エリザベートは嫌悪感に顔を歪め、吐き捨てるように続けた。
「私の何を見ている? 私の剣か? 私の覚悟か? ……いや、どれも見ていない。彼らが求めているのは、バルフォアの血筋と、家の格を上げるための装飾品だ」
ヴェクターは、沈黙をもって彼女の告白を見守った。
「……ヴェクター。お前は、商人の分際で、私のこの苛立ちを『面白い』と言ったな」
エリザベートが、鋭い視線をヴェクターに向けた。
「ええ。面白い、と言いました」
ヴェクターは、初めて自分の言葉を返した。
「お嬢さん。お話を聞く限り、貴女の周囲は『資源の浪費』で満ちているようだ。兄君たちは適性のない席に座り、婚約者は貴女という最高の『戦力』を、寝室の飾りに変えようとしている。……商人の感覚からすれば、それは損失以外の何物でもない」
「損失……」
「そうです。貴女のような研ぎ澄まされた剣を、錆びつかせるために鞘に収める。それは王国にとっての損失であり、貴女という個人に対する冒涜だ。……私が『面白い』と言ったのは、この学園という場所が、そんな貴女の『火種』を消すために設計されているからです。グロースハイム学園長が説く『礎』とは、結局のところ、貴女の個性を削り、型にはめるための砥石に過ぎない」
ヴェクターは一歩、エリザベートに近づいた。その距離は、騎士としては警戒すべきものだが、彼女は動かなかった。
「お嬢さん、貴女の言う『騎士の道』が、父君や兄君たちが用意した舗装路のことを指すなら、私は邪魔をするかもしれません。ですが、貴女が自分の手で切り拓く、血と泥に塗れた『真の戦場への道』を望むなら……私は、商人の知恵と情報で、その背中を押して差し上げましょう」
エリザベートは、ヴェクターの軽薄な笑みの裏にある、底知れない「現実」を見た気がした。
「……ふん。口の減らない商人だ。だが、不思議と……兄上たちの空虚な激励よりは、耳に馴染む」
彼女は、少しだけ肩の力を抜いた。夕闇が深まり、テラスには静寂が戻る。
「いいだろう、ヴェクター。お前の言う『最高のパートナーシップ』、試してやる。私が望むのは、ドレスではなく剣だ。この国を、そして私の運命を、私自身の力でねじ伏せるための力が欲しい」
「賢明なご判断です、お嬢さん」
ヴェクターは楽しげに笑った。
「では、まず第一のステップとして……」
ヴェクターは、大袈裟な動作で胸に手を当て、エリザベートに向かって完璧な、しかしどこか芝居がかった礼を捧げた。
「近々開催される新入生歓迎の夜会にて、私と一曲、踊っていただけませんか? お嬢さん」
エリザベートは、毒気を抜かれたように目を丸くし、それから心底嫌そうな顔で鼻を鳴らした。
「……は? 正気か。私が最も嫌う『優雅な茶番』に、お前と一緒に飛び込めと言うのか。お前、商人のくせに死にたがりか? 兄たちが見ている前で、どこの馬の骨とも知れぬ男が私を誘えば、それこそ面倒なことになるぞ」
「おや、心外ですね。それこそが狙いですよ」
ヴェクターは顔を上げ、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。その瞳は、テラスに落ちる夜の闇を反射して、冷たく光っている。
「考えてもみてください。誰もが敬遠し、遠巻きに『バルフォアの最高傑作』を眺めているだけの夜会です。そこで、身分違いの商家の次男坊が不躾に手を差し出す。……周囲はどう動くでしょう? 御兄弟たちは憤慨し、お父上は不快感を示し、例の婚約者殿は慌てふためく。……そう、敵の『反応パターン』が丸見えになる絶好の機会です」
ヴェクターは手すりから離れ、エリザベートの周囲をゆっくりと歩きながら言葉を紡ぐ。
「踊りながら、私は貴女の耳元で、会場にいる者たちの『
ヴェクターの指先が、空中に見えないチェス盤を描くように動く。その動きは優雅だが、エリザベートには、彼が標的の頸動脈をなぞっているかのような錯覚を抱かせた。
エリザベートは、ヴェクターの言葉を頭の中で反芻した。
「茶番」だと思っていた夜会が、彼の言葉によって、急に攻略すべき「敵陣」へと変貌していくのを感じた。
「……つまり、ダンスを偽装した『偵察任務』というわけか。お前、本当に性格が悪いな」
「商人にとって、性格の悪さは最高の褒め言葉です」
ヴェクターは再び彼女の前に立ち、今度は冗談めかさない、静かな手差し出した。
「お嬢さん。貴女がいつかドレスを脱ぎ捨て、真の鎧を纏うその日まで。……今はそのドレスを、敵を欺くための『戦闘服』として使いこなしてみませんか?」
エリザベートは、差し出されたヴェクターの手を、品定めするようにじっと見つめた。それから、口角をわずかに上げ、挑戦的な笑みを浮かべてその手を力強く握りしめた。騎士が契約を交わすような、商人の社交辞令とは程遠い、硬い握手だった。
「いいだろう、ヴェクター。その『偵察』、付き合ってやる。……ただし、私のステップについてこれなければ、その場で首を跳ねるからな」
「肝に銘じておきましょう。バルフォアの剣に貫かれるのは、私の計画にはありませんから」
夕闇の中、二人の異端児の間に、奇妙な、しかし強固な協力関係が結ばれた。
それは、学園という「秩序の城」を内部から崩壊させるための、小さな、しかし致命的な亀裂の始まりだった。
・・・・・
・・・
アルタイル寮・西棟の自室。
鏡の中に立つ令嬢の姿を見て、エリザベートは自身の喉の奥から立ち上る「不協和音」を感じていた。
「……きつい。締めすぎだ」
「我慢なさいませ、お嬢様。これは旦那様からの『至上命令』でございます」
背後で淡々と答えたのは、学園支給のメイド服を纏った中年の女だった。
表向きは寮管理の使用人。だが、彼女の目は、奉仕のそれではない。家の目だ。
この学園は「平等」を謳う。
――だが、侯爵家の「私室」にまで、その言葉は届かない。
グッ、とさらに強く紐が引かれる。
肋骨が軋み、肺が浅くなる。息が、短くなる。剣を振るうための呼吸ではない。
「今夜は、めでたい夜会です。『最高傑作』に相応しい、究極のくびれをお見せしませんと」
その声に、慈悲はない。
彼女が見ているのは私の痛みではなく、その向こうの侯爵の顔色だけだ。
群青のドレスは、私の強靭な四肢を拘束する「枷」そのものだった。
(……浅い。これでは全力で踏み込むことも、肺の隅々まで酸素を送り込むこともできぬ)
私は、鏡の中の自分を睨みつける。
この清潔な檻の中で、「戦場」は血も泥も許されない。
――今はそのドレスを、敵を欺くための『戦闘服』として使いこなしてみませんか?――
(……ヴェクター)
「戦闘服、か。……よかろう」
「……次は、手袋を」
侍女は、エリザベートの右手を取った。
そこには、いつもの訓練で生じた、微かな腫れと、剣の衝撃による赤い鬱血が残っていた。
淑女にあるまじき「武」の痕跡。父が見れば激昂し、兄が見れば嘲笑するだろう傷だ。
「……呆れた手でございますこと」
侍女は、短く溜息をついた。
そして、懐から小さな硝子瓶を取り出し、ひやりとする軟膏を指先ですくい取った。
「動かないでください。ファンデーションが浮いてしまいます」
彼女は、鬱血した患部に軟膏を塗り込み始めた。
その指先が、エリザベートの掌の、剣を握りしめて強張った
(……チッ。入念なことだ。傷物を隠すために、高価な治療薬まで使うとはな)
エリザベートは、自分を「商品」としてしか扱わないその手つきを疎ましく思い、顔を背けた。
だが、侍女の指は、単に薬を塗るだけでなく、強張った筋肉を解きほぐすように、ゆっくりと、円を描いて患部を撫で続けていた。
「……色が消えるまで、刷り込みませんと」
そう言い添えながら、彼女は手を離さなかった。
必要以上に時間をかけ、熱を持った患部から痛みが引くまで、その指先は、商品に傷が残らぬよう、同じ場所を何度も、何度も撫で続けていた。
それは治療ではなく、展示前の最終調整のようだった。
鼻腔に残る、消毒めいた薬草の香。
不思議と懐かしさを感じた。
社交の花の名は一つも言えないのに、
戦場で使われる薬の匂いだけは、妙に詳しい。
……我ながら、出来の悪い令嬢だ。
やがて、彼女は無機質な表情に戻り、その上から白粉を叩いて傷を完全に隠蔽した。
そして、絹の手袋を嵌めさせると、最後に一度だけ、包み込むようにギュッと強くその手を握り締め──すぐにパッと放した。
「これで、完璧でございます。……決して、手袋はお外しになりませぬよう」
(当たり前だ。こんな武骨な手を見せれば、バルフォアの恥だからな)
侍女は、ドレスの背――結び目と縫い目を、検分するように一瞬だけ視線でなぞった。
そして、抑揚のない声で付け足す。
「……今夜は、長い戦になりますから……足元には、どうぞお気をつけて」
それだけ言うと、彼女はすぐに無機質な「家具」の位置へ戻った。この部屋では、主役の邪魔をしない。それが暗黙だ。
エリザベートは心の中で悪態をついたが、手袋の中の右手は、先ほどまでの痺れが嘘のように和らぎ、微かに温かかった。
コン、コン。
無機質なノックの音が、思考を中断させた。
「エリザベート。時間だ」
兄、ルードヴィッヒの声。
エリザベートは一度、深く息を吸い──コルセットに遮られ、浅い呼吸で止まった。
苛立ちを「貴婦人の冷徹」に変換する。
「……今、出ます」
扇を取る。
ドレスの裾が足首に絡む。その不快ささえ、武具の重みとして受け入れた。
鏡の中の令嬢が、獲物を見定めた魔獣のように、冷たく、美しい光を瞳に宿した。
廊下に出ると、白い手袋の手が差し出された。
豆一つなく、剣の重さを知らぬ、柔らかく滑らかな手。
――私を「守る」と称して、檻を閉めるための手。
その自覚がないからこそ、幸福なのだろう。
「参りましょう。お兄様」
カチャリ。
私の背後で、見えない錠前が鳴った。