剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第百十話

 

 

第百十話 虚飾の円舞曲──錆びた鍵

 

 

音楽が止み、熱狂と困惑が入り混じった拍手が会場を包む中、エリザベートとヴェクターはダンスフロアの端へと退いた。本来であれば、曲が終わると同時に深々と一礼し、速やかに身を引くのが「商人の分際」というものだ。しかし、ヴェクターは依然としてエリザベートの傍らに留まり、まるで彼女の影であるかのように、自然な、しかしあまりにも不遜な距離感でそこに立っていた。

高位貴族の令嬢が、一介の商家の次男と一曲以上の時間を共有する。それは社交界において「慈悲」の枠を超え、明確な「醜聞(スキャンダル)」あるいは「教育の欠如」を意味する行為であった。

 

 

「──エリザベート! 貴様、いつまでその羽虫と連んでいる!」

喧騒を切り裂いて、弾丸のような怒声が飛んできた。

 

ルードヴィッヒ・ド・バルフォアが、顔を真っ赤に染めて歩み寄ってくる。彼の背後には、先程まで談笑していた伯爵たちの、好奇と蔑みが入り混じった視線が突き刺さっていた。

 

ルードヴィッヒにとって、この夜会は最悪の展開を辿っていた。辺境の「野蛮人」と見下していたルーカス・フォン・トレンスが、社交界の至宝たるアイリス、さらには第一王子派閥の象徴であるアンジェリカまでも巻き込み、会場の注目を独占したのだ。バルフォアの威光を誇示すべき場を奪われた彼の怒りは、今や身内に向かっていた。

 

「申し訳ございません、バルフォア卿。エリザベート嬢のステップがあまりに素晴らしく、つい商売の癖で『追加の注文』を伺うような真似を……」

 

ヴェクターは即座に、芝居がかった卑屈な笑みを浮かべて頭を下げた。だが、その足元は微塵も動かず、エリザベートを守るような位置を保っている。

 

「黙れ、下衆が! 商人の倅がバルフォアの令嬢を独占していい道理などない! 一曲付き合わせてやっただけでも、一族郎党、末代までの誉れと思え!」

 

ルードヴィッヒはヴェクターを突き飛ばさんばかりの勢いで詰め寄ると、その矛先を妹へと向けた。

 

「エリザベート、お前もだ! あのトレンスの小倅が仕掛けた不謹慎極まりない『雑音』に当てられたか? あんな下劣な踊りに拍手を送る連中も同罪だが、お前がこのような場所で商人と長話を演じるなど、バルフォアの顔を泥に塗る行為だと分かっているのか!」

 

エリザベートは、兄の怒声を冷めた膜の向こう側で聞いていた。

かつての彼女なら、ここで「騎士としての誇り」を盾に言い返していただろう。だが、今の彼女の瞳には、ヴェクターという「レンズ」を通じて得た、醜悪なまでの力関係の縮図が映っていた。

 

 

「──お言葉ですが、兄上。このヴェクター殿は、我が家の物資調達において極めて有益な『懸念事項』を携えておられました。あちらでノイシュタット伯爵が貴方に差し出していた甘い酒よりも、よほど家門の利益に直結する話です」

 

「何だと……? 貴様、この期に及んで商人の口車を……!」

 

ルードヴィッヒが激昂し、妹を黙らせようとしたその時。ヴェクターが、周囲には聞こえぬほど僅かに声を潜め、ルードヴィッヒの耳元へ毒を流し込むように言葉を置いた。

 

「……バルフォア卿。あちらの伯爵、先程から卿の飲み残したグラスの数と、その顔色の変化を、背後の書記官に記録させておいでですよ。どうやら次期の『軍備維持予算』の編成会議に向け、バルフォア家の嫡男がいかに放蕩に耽り、判断力を欠いているか……その証拠を集め、予算の差配権を財務部局へ引き戻す口実にするつもりのようです。……『番犬』の鎖を握るのは、時に剣ではなく金貨の袋ですから」

 

「……っ!?」

ルードヴィッヒの動きが止まった。

 

彼は反射的に、先程まで自分がいた柱の影を振り返った。そこには、確かにヴェクターが指摘した通りの「布陣」があった。財務官吏と通じていることで知られる伯爵が、冷徹な目でルードヴィッヒを観察している。

 

武官の中枢であるバルフォア家にとって、最も忌むべきは「現場を知らぬ文官」に予算の生殺与奪を握られることだ。ルードヴィッヒの無様な醜態がその「口実」に使われれば、父である侯爵の逆鱗に触れることは想像に難くない。

 

「……貴様……、なぜ、それを……」

 

「申し上げたはずです、卿。私は商人。金と情報の流れ、そして『誰が誰を売ろうとしているか』を見るのが唯一の取り柄にございます。……さて、お嬢さん。不躾な商人の長居はここまでといたしましょう」

 

ヴェクターは、ルードヴィッヒの動揺が臨界点に達したのを見計らい、完璧なタイミングで一礼し、一歩下がった。

 

「バルフォア卿、妹君の素晴らしいダンスへの『対価』として、この情報は差し上げます。……どうぞ、素晴らしい夜の続きを。隙を見せぬよう、お気をつけて」

 

ヴェクターは、まるで初めから存在していなかったかのように、人混みの中へと滑り込んでいった。

ルードヴィッヒは、妹の手を乱暴に掴み、呪詛を吐くように囁いた。

 

「……エリザベート。今夜のことは、誰にも、父上にも漏らすな。いいか、あんな商人の戯言に耳を貸したわけではない。私が……私が事前に気づいていたことを、奴がなぞっただけに過ぎん」

 

「……左様でございますか、兄上。……少し、冷ましに参ります」

 

エリザベートは、掴まれた腕を冷ややかに振り払った。兄の矮小さに、もはや怒りすら湧かない。彼女はそのまま、人混みの奥へと消えたヴェクターの背中を、影のように追い始めた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

ヴェクターは、ルードヴィッヒの視線から完全に外れたことを確認すると、足取りを緩めた。

 

彼の向かう先には、中央の狂騒から離れ、冷めた目で会場を俯瞰している少年──クレメンス・ド・ノイマンがいた。

クレメンスは、手にしたグラスの中の琥珀色の液体を揺らしながら、近づいてくるヴェクターに視線を向けた。

 

「……先程のバルフォアの嫡男とのやり取り。見事な『誘導』だったな、ウィルソン家の次男坊」

 

クレメンスの声には、賞賛よりも、「お前の正体は何だ」という問いが含まれていた。ヴェクターは、いかにも他愛のない笑みを浮かべて肩をすくめる。

 

「おやおや、見ておられましたか、クレメンス様。私はただ、商売敵に情報を売る前に、上客にご忠告を差し上げたまでですよ」

 

「嘘をつけ。……お前がバルフォアの妹君を誘った際、彼女の『重心』が崩れないよう、完璧なタイミングで負荷を逃がしていた。商人の護身術にしては、あまりに『実戦的』すぎる」

 

クレメンスの指摘に、ヴェクターの瞳の奥で、わずかに光が変質した。

この少年は、単なる観察者ではない。システムの矛盾を見抜き、本質を突く能力に長けている。

 

「……クレメンス様。貴方は、あのトレンス侯爵とアークランド令嬢のダンスを、どうご覧になりました?」

 

ヴェクターは問いを問いで返した。クレメンスは、会場の中央で依然として注目を浴びている二人を見やり、鼻で笑った。

 

「……チェス盤の上で、互いのキングを差し出しながら、チェックメイトのタイミングを計り合っているようなものだ。美しく、そして反吐が出るほど非効率な、既存の秩序の限界だよ」 

 

「同感です。……ですが、その後に起きた『不協和音』については?」

「……あれは」

 

クレメンスは、ルーカスのタップダンスを思い出し、言葉を止めた。

 

「……ルールの『再定義』だ。あの方は、既存の音楽を否定したのではない。自らが奏でる音が、新たな音楽(ルール)であることを、力ずくで認めさせた。……あれこそが、この腐りかけた王国に今、最も必要な『暴力』だ」

 

ヴェクターは、確信した。クレメンスは、既存の秩序に絶望し、それを書き換える「知的な破壊」を求めている。

 

「──面白い。では、クレメンス様。その『新たなルール』を、この学園の裏側から一緒に書き換えてみませんか?」

ヴェクターが声を潜めて提案した、その瞬間。

 

「……相変わらず、不遜な口を利く商人だな。ヴェクター、そして……ノイマン子爵家のクレメンス」

 

テラスのカーテンの陰から、一人の影が姿を現した。

エリザベート・ド・バルフォア。

ドレスの裾を乱暴に手繰り寄せ、その美しい双眸に隠しきれない熱情を宿した彼女が、そこに立っていた。

 

「……エリザベート嬢。尾行されていたとは、迂闊でしたな」

 

ヴェクターは苦笑したが、その表情には驚きはない。エリザベートは二人を見据え、言い放った。

 

「兄上のような無能に、これ以上私の運命を委ねるつもりはない。ヴェクター、お前がトレンス侯爵の何者かは問わぬ。だが、あの男が見せた『自由』へ至る道が、この学園にあるというのなら……私は、その最前線(フロントライン)に立つ権利を買おう」

 

クレメンスは、隣に立つエリザベートを見上げ、それからヴェクターを見た。

 

「……バルフォアの最高傑作が、反旗を翻すか。……ウィルソン、お前の言う『面白い場所』というのは、どうやら想像以上に泥沼のようだな」

 

「ええ、最高に効率の悪い、血と泥の戦場ですよ」

 

ヴェクターは、主君ルーカスが望んでいた「駒」が、今、自らの意志で動き出したことを確信した。

 

「……この学園には、三種類の人間がいる」

 

エリザベートとクレメンスの視線が、同時に彼へ向く。

 

「学ぶ者。教える者。そして――」

 

一拍、間を置く。

 

「見る者だ」

 

エリザベートが、わずかに眉をひそめた。

 

「……見る者?」

 

クレメンスが、グラスを揺らしながら鼻で笑う。

 

「聖典語で言えば――『スペクテイター』、だったか」

 

「ええ。剣も地位も持たない。

だが、誰が価値を持ち、誰が切り捨てられるかを『観測する』者たちです」

 

ヴェクターの視線が、天井の向こう――学園の奥へと向けられる。

 

「彼らは命令しない。介入もしない。ただ記録し、比較し、必要な時に『売る』」

エリザベートが、低く息を吸った。

 

「……つまり、最も汚れていない顔で、最も人を殺す連中か」

「ええ。だからこそ、ここは安全で、危険なんです」

 

ヴェクターは、かすかに笑った。

 

「ようこそ。

理と不満が交差する、アルタイル寮の――『観測域』へ」

 

三人の視線が、喧騒を越え、まだ名も知らぬ学園の深層へと向けられた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

深夜のアルタイル寮、談話室の空気は、暖炉の熾火のように静かで、しかし鋭い熱を孕んでいた。

エリザベートとクレメンス、そしてヴェクター。三人の間に流れるのは、互いの喉元に刃を突きつけ合うような、緊張感に満ちた静寂だった。

 

「──なるほど、ウィルソン家の再生。それが、貴様が語る『理』の正体か」

 

クレメンス・ド・ノイマンは、ヴェクターが語った「トレンスによる破壊と、その後の再生融資」という経緯を、頭の中で冷徹に再構成していた。

 

「あの方が侯爵領で見せたのは、単なる新技術ではない。旧来の『非効率』を根こそぎ薙ぎ払い、自らの規格に合う者だけを拾い上げる……一種の選別だ。我が家はその洗礼を真っ先に受け、そして、あの方の設計図を飲み込むことで生き延びた。……だからこそ、私はあの方の『思考の癖』を、誰よりも理解しているつもりです」

 

ヴェクターの言葉は、嘘ではない。ただ、その裏にある「潜入任務」という真実を伏せ、経済的な弱肉強食の物語へとすり替えている。だが、その説得力は十分だった。トレンス侯爵領が生み出す「均一規格(スタンダード)」の衝撃は、王都の商会に少なからず混乱を巻き起こしている事実と整合していたからだ。

 

「……トレンス侯爵に救われたのではなく、その『暴力的な合理』に膝を屈し、適応したというわけか。……屈辱ではないのか、ヴェクター」

 

エリザベートが、ドレスの窮屈さを忘れたかのような鋭い視線を向けた。ヴェクターは、薄く笑った。

 

「屈辱? ……いいえ。確かに、我が家の帳簿があの方の部下に赤ペンで真っ赤に染められた時は、父も憤死しかけましたよ。ですが……その修正通りに動いただけで、翌月の利益が三倍になった時、私たちは理解したのです。感情で商売はできない、と。

死に行く伝統に殉ずるより、新たな強者のルールを学び、その内側で富を築く方が、商人の矜持というものです……」

 

三人の視線が交差したその時、重厚な扉が開く音が、静寂を破った。

 

 

「──まだ起きていたのか、エリザベート」

 

現れたのは、ルードヴィッヒ・ド・バルフォアだった。

先程までの激昂は影を潜めている。だが、その表情にあるのは冷静な品格ではない。焦りを塗り隠した、貴族特有の能面のような「取り繕い」だった。

 

兄の視線は、ヴェクターの顔ではなく――その指先と、机の上の距離を測っていた。

 

(価値を測っているんじゃない。『私が何を見たか』を、測っている)

 

ルードヴィッヒは、椅子から立ち上がろうとするヴェクターを手で制し、傲然と見下ろした。

 

「……ウィルソンと言ったか。先程の無礼、不問にしてやる。バルフォアの看板を背負う者として、妹が身分を弁えぬ者と長居することに、些か神経を尖らせすぎていたようだ」

 

それは、謝罪ではない。自身の感情的な振る舞いを「正当な理由があった」と再定義し、相手に認めさせるための儀式だ。

 

「滅相もございません、卿。私はただ、上客であるバルフォア家が、くだらぬ文官の策に嵌るのを黙視できなかっただけでございます」

 

ヴェクターは深々と頭を下げ、完璧な「卑屈な商人」を演じた。

ルードヴィッヒはその態度に満足し、懐から一枚の硬貨──否、バルフォア家の家紋が刻まれた小さなメダルを取り出した。

 

「……財務官吏の連中め、よほどバルフォアの軍事予算が惜しいらしい。……ヴェクター、貴様の目は、ネズミのように細かい所まで届くようだな」

 

彼はメダルを、ヴェクターの手のひらではなく、その前のテーブルにカツン、と音を立てて置いた。まるで、飼い犬に餌をやるような手つきで。

 

「これは、バルフォア家への自由な出入りを許可する『通行証』だ。貴様の商会が今後、王都での事業を広げる上で、バルフォアの庇護があるという事実は、無益ではなかろう」

 

(……口止め料か)

 

そう切って捨てるのは簡単だ。けれど――兄がここで頭を下げられない理由も、私は知っている。知っていてなお、腹が立つ。

 

私は、氷のような視線を向けた。

兄はヴェクターの能力を認めたのではない。「自分の弱みを握った男」を、恩義という鎖で縛り付け、飼い慣らそうとしているだけだ。私には、兄の言う「政治」が、そういうものにしか見えなかった。

 

「過分な光栄に存じます。……今後とも、ウィルソン商会をよしなにお願い申し上げます」

ヴェクターは深々と頭を下げ、震える手でメダルを押し頂いた。

 

(……チョロい。いや、正確だ。貴族はこうやって口を塞ぐ。だから長生きした。これで裏門が開く。閣下への報告事項が、また一つ増えた)

ルードヴィッヒは満足げに頷くと、私を振り返った。

 

「エリザベート、お前も今夜は疲れただろう。……トレンス侯爵のあの狂気染みたダンスは、毒だ。忘れろ。明日からはまた、バルフォアの最高傑作として、余計な思想を持たぬよう訓練に戻ってもらう」

 

「……はい、兄上」

 

「うむ。……ノイマン卿、君も遅くまで付き合わせて済まなかったな。私の広い度量に免じて、今夜の騒ぎは水に流してくれたまえ」

 

ルードヴィッヒは、最後まで自らの正当性を疑わぬまま、完璧な足取りで立ち去った。

後に残されたのは、兄が振りまいた権威の残り香と、静まり返った談話室だけだった。

 

「……兄上は、お前を自分の掌に乗せたと思っているな。ヴェクター」

 

私は、メダルを指先で弾くヴェクターに低く問いかけた。

その声には、兄への失望と、それを上回る「共犯者」への期待が混じっていた。

 

「ええ。バルフォアの保護下にある商人……。実に動きやすい肩書きです。……ですが、クレメンス様。貴方はどう見ます?」

 

クレメンスは、ルードヴィッヒが去った扉を見つめ、冷笑を浮かべた。

 

「……バルフォア卿のやり方は、教科書通りだ。敵対するよりも、恩を売って飼い慣らす。それは王国が千年以上続けてきた『正解』だ。……だが、その教科書自体がもうカビだらけだということに、彼は気づいていない」

 

クレメンスは、ヴェクターの手にあるメダルを一瞥した。

「あのトレンス侯爵が刻んだタップのリズムは、そんな『正解』の枠組み自体を、土台から揺さぶっている。……僕は、バルフォア卿の腐った掌の上で踊るつもりはない」

 

「──同感です」

 

ヴェクターは、メダルをポケットに無造作に放り込んだ。大切な通行証というより、ただの道具として。

 

「あの方は、既存のルールを破壊し、再構築する。……お二人が、バルフォア卿の見せる『正しい貴族の道』に満足できないのであれば、私の『理』は、常に開かれています」

 

私は、兄に「毒だ」と否定されたあのダンスのリズムを、心の中で反芻した。

毒? 違う。あれは解毒剤だ。この息苦しい城で麻痺していた私を、叩き起こすための。

 

「……明日だ。明日、訓練場でまた会おう。ヴェクター、お前の言う『実戦的な護身術』とやら、私にどこまで通じるか試させてもらう」

 

「お手柔らかに、お嬢さん」

 

 

三人は、それぞれ異なる思惑を胸に、自室へと戻っていった。

ルーカス・フォン・トレンスという強烈な光が、学園という「秩序の城」を焼き、そこに生まれた影の中で、

同じ火種は眠りを許さなかった。

 

私を守るために作られた檻は、いつの間にか私の呼吸まで奪う。

そして、あの足音だけが――その錆を剥がす。

 

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