剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第百十一話

 

第百十一話:軋む国境、迫る戦靴

 

 

翌朝。アルタイル寮の裏手にある早朝の訓練場には、霜を踏む音をかき消すように、木剣の乾いたリズムが響いていた。まだ生徒の姿も疎らな時間帯、エリザベート・ド・バルフォアは、ただ一人、黙々と剣を振るっていた。

 

「シッ、ハッ……!」

 

ドレスを脱ぎ捨て、簡素な稽古着に身を包んだ彼女の脳裏にあるのは、昨夜、ルーカスが見せたあの自由なステップと、圧倒的な「個」の強さだ。

 

「……また『騎士ごっこ』か、エリザベート。いい加減にしろ」

 

背後から投げかけられた冷ややかな声に、彼女は止めずに振り下ろした。木剣が空を裂き、朝霧がわずかに揺れる。振り返ると、不機嫌そうに眉を寄せた兄、ルードヴィッヒが立っていた。

 

「兄上……。『ごっこ』ではありません。私はバルフォアの剣として、己を磨いているのです」

 

「剣は兵に握らせておけばいい。お前が握るのは家格だ。……情勢が見えていないのか?」

 

 ルードヴィッヒは一歩近づき、威圧するように声を低くした。

 

「情勢を見ろ。 隣国レガリアとの緊張は極限だ。……特に、国境付近の兵たちが何と囁き合っているか知っているか? 『シルベストリの雷鳴』が近づいている、とな」

 

ルードヴィッヒは、忌々しげに、そして怯えるように視線を逸らした。

 

「奴の家系が戦場に現れる時、空は曇り、雷鳴のごとき突撃がすべてを粉砕すると言われている。……あの白銀の十字を背負う一族は、理外だ。お前がいくら剣を振ったところで、あの武勇には辿り着けん。女が戦場に出れば、あのような怪物に踏みにじられるのがオチだ」

 

「……あの方は、女でありながら前線で輝いているのでしょう。ならば私にできない道理はない」

 

「身の程を知れ! お前は輝く前に、ただ無残に散るだけだ! 昨夜のような商人の小倅と踊り、その気になっているのなら救いようがない」

 

「 かつては『竜騎士』として名を馳せた武人、グロースハイム学園長とて、今は学園という政治の場に身を置いている。それが賢い女の、そして貴族の生き方だ」

 

 ルードヴィッヒは忌々しげに吐き捨てた。その尖った言葉の奥に、エリザベートは昨夜とは違う、湿り気を帯びた「重み」を感じ取った。

 

「剣を握るな。──家門を握れ」

 

ルードヴィッヒの声は苛立ちで尖っていた。だが、その尖りの奥に、冷えたものが混じる。

エリザベートは振り返らず言い返す。

 

「兄上の盾は、私を守るためではない。私を縛るためだ」

 

「……縛らなければ、死ぬからだ。

……だからこそ、結束が要る。政治で……防ぐしかない」

 

その一言だけが、異様に重かった。エリザベートの肩が、ほんの僅かに硬くなる。

 

「……もう一度言う。剣を置け。そして、有力貴族へ手紙を書け。それがお前の幸福だ。昨夜のような茶番に触れるな……。あれは自由のふりをした、破滅の毒だ」

 

 

ルードヴィッヒは一方的に言い捨てると、訓練場を後にした。

エリザベートは、握りしめた訓練剣がミシミシと音を立てるほど、悔しさに唇を噛み締めていた。

 

(……シルベストリの雷鳴。……兄上は彼女を化け物と恐れるが、私は……私は、そうやって前線で輝く存在になりたいのだ)

 

 

言い捨てて去る兄の背中は、どこか覚束ない。その時、資材搬入口の方から、荷車の軋む音が聞こえてきた。

 

「──おや。朝から随分と良い顔をされていますね。殺す気の顔だ」

 

 軽薄な声。

 

エリザベートが鋭く視線を向けると、そこには大きな荷車を押したヴェクター・ウィルソンがいた。額に汗を浮かべ、いかにも「早朝の納品業者」といった風情だ。

 

「……ヴェクター。盗み聞きか?いい趣味だな」

 

「商人は音に敏感なんです。剣の音も、人のつく不器用な嘘もね」

 

ヴェクターは荷車を止め、手ぬぐいで額の汗を拭いながら、エリザベートに近づいた。その足取りは、昨夜のダンスで見せたような隙のないものではなく、重い荷物に疲れた若者のそれに見えた。

 

「……こう考えたらどうでしょうか。彼は貴女を護るために、不器用に、彼なりに貴族らしく振る舞っているのだと」

 

「はっ。馬鹿を言え。あいつは私を閉じ込めたいだけの無能だ」

 

エリザベートは心底くだらなそうに鼻を鳴らした。

 

「だいたい、だから何だというのだ。兄上が私を縛り付け、嫁がせるための『道具』にしようとしている事実は変わらぬ」

 

「ま、考え方の問題ですよ。そう考えれば、あのお兄上も少しは『可愛らしく』見えませんか? ……才能がないなりに、泥を被ってでも家門という屋根を支えようとしている、不格好な柵に見えなくもない」

 

あくまで仮定ですがね。そう付け加えるヴェクターのふざけた言葉が、何処か胸の奥に引っかかる。

 

「……ですが、お嬢さん。その柵は脆い。レガリアの『雷鳴』が踏み込めば、ひとたまりもなく砕け散る」

 

ヴェクターは一瞬、瞳に鋭い光を宿し、声を潜めた。

 

「兄君の仰ることも、あながち間違いではありません。レガリアの経済は今、トレンス製の『規格品』によって呼吸困難に喘いでいる。飢えた獣は、食い物を求めて牙を剥く。戦争になれば、兄君のような『伝統的な指揮官』は、真っ先に狙われやすい。──ああいうのは、格好の的になります」

 

「……お前も、私が剣を置けと言うのか?」

 

「いいえ。……逆です」

ヴェクターの瞳に、一瞬だけ鋭い光が宿った。

 

「貴女の、その剣筋は本物だ。……だからこそ言います。それ、戦場で一番早く死ぬ剣です」

 

「黙れ」

 

「黙りません。真っ直ぐすぎる。切れる。だが、折れる。兄君は盾だ。才能がないなりに、泥を被ってでも貴女を『檻』に繋ぎ止め、守ろうとしている不器用で脆い盾だ。なら──」

 

 ヴェクターは荷車の取っ手を握り直し、不敵に笑った。

 

「お嬢さんは、その檻ごと敵を切り裂く『折れない剣』になればいい。敵を見てください。森じゃない。『人の森』を。昨夜、貴女が見たのは踊りじゃない。配置図です。構造を理解すれば、その檻は貴女の武器になる」

 

「……構造、だと?」

 

「ええ。貴女の筋力を、貴女自身の重みで殺さない方法。……まあ、私のような商人は、来るべき乱世に備えて『優秀な護衛』の目星をつけておきたいだけですからね。では、私はこれで」

 

 兄の言葉、ヴェクターの囁き。それらが彼女の中で一つの旋律(リズム)へと変わっていく。

 

 

 ヴェクターが軽やかに踵を返し、荷車の取っ手を握り直した、その瞬間だった。

 

「──待て。誰が帰っていいと言った?」

 

 背後から伸びてきたしなやかな手が、ヴェクターの襟首を、逃がさぬ確信を持って鷲掴みにした。

 

「……おや」

 ヴェクターの動きが止まる。引き戻される力は意外なほど強く、彼はよろめきながらエリザベートの方へ向き直らされた。

 

「随分と雄弁に焚き付けてくれたではないか、ヴェクター。お前が言ったのだろう? 構造を理解すれば武器になると。……あいにく、私は実戦でしか理解できない性質(タチ)でな」

 

 エリザベートの瞳には、先ほどまでの迷いはない。代わりに、獲物を見つけた肉食獣のような、獰猛で純粋な好奇心が宿っていた。

 

「さあ、構えろ。……『優秀な護衛』の目星をつけたいのなら、その身で確かめるのが一番早い」

 

「……いや、私は見ての通りただの運送業者でして。朝の納品スケジュールが山積みなんです。厨房の親父さんの怒鳴り声は、レガリアの雷鳴より恐ろしい……」

 

「黙れ。煽り立てた責任は取ってもらうぞ」

 

 エリザベートは有無を言わせぬ手つきで、予備の訓練剣をヴェクターの胸元に放り投げた。

 ヴェクターは慌ててそれを受け取ると、困ったように眉を下げ、深く、長いため息をついた。

 

「……手厳しい。お嬢さん、商談の基本は『等価交換』ですよ。私の貴重な朝の時間を奪うなら、高くつきますが?」

 

「バルフォアの剣を間近で拝めるのだ。お前にとってこれ以上の利益(アドバンテージ)はないだろう」

 

エリザベートは不敵に笑い、剣を正中線に構えた。

 

ヴェクターは観念したように剣を握るが、その立ち姿は依然として「疲れ切った商人」のまま。しかし、その重心は、荷車を引く時と同じ、泥濘に足を取られないための粘り強いそれへと滑り込んでいた。

 

「……いいでしょう。ただし、服が汚れたらクリーニング代は請求させていただきますよ」

 

「……ふん、強欲な男だ。いくらでも請求するがいい!」

 

地面を、エリザベートの足が強く蹴った。

これまでの力任せな一撃ではない。ヴェクターが指摘した「自身の重みを殺さない」一撃を模索する、鋭利で重い踏み込み。

 

(……ルードヴィッヒ。守りだろうが何だろうが、私は閉じ込められるつもりは無い)

 

彼女が放った一撃は、先ほどよりも低く、深く。

迷いのない音となって朝霧を切り裂いた。

 

(私は、お前が震えながら見守るその檻ごと、敵を切り裂いて見せる)

 

独白を終えたエリザベートの脳裏に、先ほどの男の世俗的な泣き言がふと過った。クリーニング代。騎士の決闘にはおよそ似つかわしくない端金(はしたがね)の請求に、彼女は戦いの最中だというのに、わずかに口角を上げた。

 

 

逃げようとする「盾」と、それを壊そうとする「剣」。

その構造を解き明かすための、二人だけの秘密の訓練が始まった。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

朝のアルタイル寮食堂は、まだ死んだように静まり返っていた。

高い天井に反射するカトラリーの乾いた音だけが、やけに鼓膜に刺さる。

クレメンス・ド・ノイマンは、窓際の席で一人、冷めかけた紅茶を前にしていた。

卓上には広げられた新聞。彼の指先は、三段目の隅にある、ごく小さな「穀物相場の変動」の記事をなぞったまま動かない。

そこへ、重い扉を押し開けてエリザベート・ド・バルフォアが入ってきた。

朝の稽古を終えたばかりの彼女は、簡素な稽古着のまま、首筋に滲んだ汗を無造作に拭っている。髪は乱れ、瞳にはまだ鋭い残光が宿っていた。

彼女はクレメンスに気づくと、挨拶もなく向かいの席に身体を沈めた。

 

「……早いな。バルフォアの姫君は、朝食の作法も忘れたか」

 

クレメンスが新聞から目を離さずに皮肉を投げる。

 

「剣を振っていた。腹が減る。……文句があるなら兄上に言え。あいつの期待通り、私は『野蛮な女騎士』を演じている最中だ」

 

エリザベートはそう吐き捨てると、固いパンを力任せに引きちぎった。

 

数拍遅れて、幽霊のような足取りで三人目が現れる。

ヴェクター・ウィルソンだ。いつもの軽薄な笑みは影を潜め、顔色は幽霊のように白い。椅子を引く動作すら億郭そうに、彼は泥のように席へ崩れ落ちた。

 

「……酷い目に遭いました。朝からあんな……規格外の筋力に付き合わされるとは」

 

ヴェクターは無意識に右の手首をさすり、肩を回した。昨夜のダンスでの「洗練された身のこなし」の代償、そして今朝の「稽古」という名の暴力的な接触。彼の身体は、物理的な限界を訴えていた。

エリザベートは、口いっぱいにパンを放り込んだまま彼を睨んだ。

 

「慣れない動きをさせた。悪いとは思っていない」

 

「でしょうね。……剣は、物理的な距離が近すぎるんですよ。商売柄、パーソナルスペースは大事にしたいんですがね……一発で終わらないやり取りは、反吐が出る」

 

ヴェクターは溜息をつき、運ばれてきた紅茶に砂糖を山盛りに入れた。糖分を補給しなければ、思考が霧散しそうなほど疲弊している。

 

一瞬の沈黙。その隙間を、クレメンスの指先が叩く新聞の音が埋めた。

 

「……三段目の端だ。まだ『記事』ですらないが、数字が泣いている」

 

エリザベートが眉をひそめて顔を上げる。

 

「何の話だ?」

 

「国境だ。レガリアとの。名前は伏せられているが、軍需物資の物流が不自然に歪んでいる。……いや、吸い込まれていると言ったほうがいいのか」

 

クレメンスは、新聞を畳まずに指先で縁をなぞったまま、ぽつりと言った。

 

「……妙なんだ」

 

エリザベートが眉をひそめる。

「何がだ」

 

「方向が揃っているわけじゃない。それぞれ、まったく違う判断をしているはずだ。原材料も、販路も、規模も違う。本来なら、どこかで必ず衝突する。価格で、雇用で、利権で……血を流す」

 

ヴェクターは黙って砂糖を落とし、かき混ぜる音だけが響いた。

 

「……それなのに、衝突しない。誰も破滅していない。市場は、妙に静かだ」

 

エリザベートは腕を組んだ。

 

「安定しているなら、良いことじゃないのか」

 

「『良すぎる』んだ」

 

クレメンスは即答した。

 

「誰かが命じているなら、支配しているなら……まだ理解できる。だが、そうじゃない。命令も、強制も、恐怖も見えない。正しいというよりは……逃げ場がない、という感触に近い」

 

「価格を決めているのは誰だ? 売り手でも買い手でもない……この『空気』が価格を決めているようだ。そしてその空気から外れた者は、声も上げられずに消えていく」

 

「いい感覚ですね」

ヴェクターは、匙を置き、波紋を作るように、カップを揺らしながら笑った。

 

エリザベートは、その言葉を噛み砕こうとして、諦めたように鼻を鳴らした。

 

「……難しい話だな。私には、腹が減っているか、剣が鈍るかくらいしか分からない。それで? 結局それも……トレンス侯爵の仕業か?」

 

ヴェクターが、ほんの一瞬だけ口角を上げた。だが、クレメンスは首を振る。

 

「……いや。もしトレンス侯爵が『直接』やっているなら、もっと派手になる。もっと血が出る。もっと、分かりやすく壊れる」

「だろうな。あの男が、こんな回りくどいことをするとは思えない」

 

一瞬の沈黙。クレメンスは、紅茶に口をつけることなく続けた。

「だからこそ、気味が悪い。原因が見えないまま、結果だけが積み上がっている」

 

エリザベートは肩をすくめた。

 

「分からないものは、斬れない。だが……分からないからといって、全部あの侯爵のせいにして済ませるのも、癪だな」

 

ヴェクターが、ほう、と小さく息を吐いた。

「……その『保留』ができる胆力は、得難い武器だ。『誰のせいか分からない』段階が、一番危険なんです。疑問符を持ったまま、剣を握れる人間は貴重だ。たいていは、答えが欲しくて誰かに縋る」

 

クレメンスは、新聞を閉じた。

 

「……答えがない、という答えか」

 

「ええ。答えがないからこそ、縋るものが要る」

 

ヴェクターは溜息をつき、おもむろに懐から小さな硝子瓶を取り出した。中には、砂のような茶色い粉末が入っている。彼はそれを空になった紅茶のカップに無造作にあけ、湯を注いだ。

立ち上ったのは、紅茶の芳醇さとは無縁な、焦げたような、それでいて神経を逆撫でするほど強烈な香りだ。

 

「……それで、その泥水は何だ?」

 

眉を顰めた、クレメンスの怪訝そうな声が飛ぶ。

 

「これですか? コーヒーですよ。近頃できた、新しい店で出されているものです」

 

ヴェクターは匙で黒い液体をかき混ぜると、一口啜って深く溜息をついた。

 

「紅茶のように優雅に淹れる手間すら惜しい……そんな連中が飲み始めた『泥水』です。ですが、頭の芯を叩き起こすには、これ以上の薬はありません。……私も、商談の待ち合わせであの喧騒に放り込まれるたび、これを煽って正気を保っているんですよ」

 

エリザベートは顔をしかめ、カップの中を覗き込んだ。

 

「臭いな。焦げているんじゃないか?」

 

その身も蓋もない感想に、ヴェクターは思わず苦笑を漏らした。商人がありがたがる流行品も、彼女にかかればただの失敗作扱いだ。

 

「……はは、手厳しい。ま、実際に豆を黒くなるまで煎っていますからね。焦げている、というのは事実です」

 

ヴェクターは肩をすくめ、自虐的にカップを掲げた。

 

「伝統を重んじる方々からは、その見た目と出自ゆえに『悪魔の飲み物』だと忌み嫌われていますがね。しかし、品も伝統もないからこそ──『同じ匂いがする者』だけが集まる」

 

「同じ匂い?」

 

「理解していない、理解できない、それでも取り残されるのが嫌な連中です。市場が『正しい方向』を向いている時ほど、そこに居場所のない人間は増える。そういう連中は、紅茶の席じゃ息ができない。おかげで、しがらみのない連中が集まるには最高の隠れ蓑(セーフハウス)になっています」

 

「耳にしたことはある。不潔な商人と、身分を捨てた没落貴族が、不穏な密談に興じる場所だと」

 

クレメンスの言葉に、ヴェクターは薄く笑った。

 

「密談、というよりは『賭け』でしょうか。紅茶の作法も家柄も、あそこじゃ通貨にならない。 一杯払えば、噂が買える。沈んだはずの商船の『生存確率』、見つかった鉱山の『利権の断片』。──当たれば生き残る、外れれば消える。簡単でしょう」

 

ヴェクターは、カップの縁を指でなぞった。

 

「ここ数ヶ月で様子が変わりました。目抜き通りの一等地。その角にあった老舗の布地屋が廃業しましてね、その跡地に一軒、これまでにない奇妙な店が入った。看板こそ控えめですが、中を覗けば紅茶のセットは片付けられ、この黒い液体を囲んで、誰もが血走った目で紙片をやり取りしている。……あそこはもはや、店じゃない。『情報の取引所』です」

 

「目抜き通りだと? あの辺りは、由緒正しい老舗が並ぶ場所のはずだが」

 

クレメンスが初めて新聞から完全に視線を外した。

 

「その一軒を皮切りに、近頃は王都のあちこちに似たような店が増え始めています。……ただし、お気をつけなさい。その店独自の『やり方』──中身のない噂に値段をつけ、他人の投資に乗っかるような商売の形だけを真似た、質の悪い紛い物が裏通りに溢れ始めている」

 

「紛い物?」

 

クレメンスが眉を寄せる。

 

「ええ。中身のないガセネタを高く売りつけるだけの詐欺師や、コーヒーの代わりに焦げた豆の殻を煎じて出すような店です。看板は同じ『コーヒーハウス』を掲げていても、中身は別物。……新しい商売の風が吹き始めている時ほど、その勢いに(あやか)ろうとするゴミが湧いて出るものです。真偽を見抜く目がなければ、檻の外へ出る前に、裏路地のゴミ捨て場で身ぐるみを剥がされるのがオチですよ」

 

ヴェクターは笑っているのに、目が笑わない。

 

「市場が『正しい方向』を向いている時ほど、そこから零れ落ちた連中の牙は鋭くなる。そういう連中にとって、あの一等地にできた泥溜まりは、唯一息ができる場所なんでしょう」

 

カップの中の黒が、わずかに揺れた。

 

「……まあ。そんな連中を相手にする方が、商売は楽なんですけどね」

エリザベートは、立ち上る苦い香りを、挑戦を受け入れるように深く吸い込んだ。

 

「……檻の中にできた、逃げ道か。ヴェクター。お前の言うその『真偽』とやら、私もこの目で確かめてみたくなった」

 

エリザベートの言葉に、ヴェクターは軽く指を振った。

 

「お勧めはしませんよ。あそこは品も伝統もありませんから。……ですが、お嬢さんの言う『檻を切り裂く刃』を研ぐには、あの毒々しい熱気が一番でしょう。そこなら、その答えのない疑問符に、相応の『値』がつく……かもしれません」

 

ヴェクターは最後の一口を飲み干し、静かにカップを置いた。

 

「この黒い豆は、追い出された連中に『新しい遊び方』を教えた。牙の研ぎ方、ってやつですかね」

 

エリザベートは立ち上がり、短く言い捨てた。

 

「なら私は、分からないまま進む。分からない檻なら、叩き壊しがいがある」

 

剣の重みを確かめるように、彼女は拳を握る。

食堂の外で、学園の鐘が鳴る。

伝統という名の紅茶に満たされた王都に、黒く苦い新時代の予感が、静かに、しかし確実に根を下ろし始めていた。

 

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