第百十二話:戦場の算術、凡人の擬態
大講堂の中腹、アルタイル寮の席列。
張り詰めた空気の中、トール教授が出題した「商人の荷の問題」に対し、エリザベート・ド・バルフォアは、眉間に深い皺を刻んで手元のスレートを睨みつけていた。
(……60マルクの荷を、その半分の比率で割る……? 何だその回りくどい言い回しは。敵の兵力が60で、それを半分にするなら30だ。割るなら……ええい、鬱陶しい!)
彼女の脳内では、数字は常に「兵力」か「物資」に変換される。
抽象的な計算は、彼女にとって拷問に近い。
彼女は書き殴るように数字を記し、隣の席を盗み見た。
隣には、涼しい顔でスレートを伏せているヴェクターがいる。
さらにその隣では、クレメンスが退屈そうにペンを回していた。
「……おい、ヴェクター。答えはこれで合っているな?」
エリザベートは、自身のスレートをわずかに傾けて見せた。
そこには、力強い筆跡で『22』と書かれていた。
ヴェクターは一瞬、きょとんとして瞬きをし、それから口元を引きつらせた。
「……お嬢さん。どう計算すれば、その数字になるのです?」
「あ? 簡単だろう。60の『半分』と言えば30だ。60を30で割れば2。それに利益の20を足せば22だ」
それを聞いていたクレメンスが、天を仰いで小さく溜息をついた。
「……バルフォア嬢。その計算は、言語的には成立するが、商習慣としても数学的にも破綻している。
『半分の比率』というのは0.5、つまり2分の1のことだ。通常は割れば倍になる。答えは140か、常識的に考えれば50だ」
「なっ……増えるのか? 割って増えるなど、兵站管理としてあり得んだろう!」
「数学とはそういうものだ」
クレメンスは冷たく切り捨てた。
「お前の答えは、計算式としては成り立つが、現実の商人がそんな計算をすれば即座に破産だ」
「うぐっ……」
エリザベートが悔し紛れにスレートを伏せた、その時だった。
最前列のルーカス・フォン・トレンスが立ち上がり、教授との論争を開始したのは。
『解釈の自由は、不当な支配の余地を残します』
ルーカスが黒板に『140』という数字──クレメンスが想定した悪意ある解釈──を書き出した瞬間。
隣の席で、ヴェクターが喉の奥で小さく、愉悦に似た音を鳴らした。
「……出ましたね。『船頭の悪意』だ。商売の裏じゃあ、無知なカモを骨までしゃぶる時の常套手段ですよ」
ヴェクターの目は驚いていない。むしろ、「よくぞ言ってくれた」と言わんばかりに、その瞳を細めていた。彼は知っていたのだ。この数字が意味する汚さを。そして、それを躊躇いなく行使するルーカスの冷徹さを。
対して、クレメンスは背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
彼は眼鏡のブリッジを押し上げ、黒板の数式を凝視した。
(……いや、違う。あの方は単に商売の知識をひけらかしているのではない)
クレメンスの思考が高速で回転する。
(あの方は、この問題が含む『契約の穴』を、最初から見抜いていた。……そして、その穴を塞がずに『優雅さ』などという曖昧な蓋で誤魔化してきた教授の……いや、貴族社会の喉元に、その穴から引きずり出したナイフを突き立てているんだ)
「……ヴェクター。あれは講義への反論じゃない」
クレメンスが呻くように呟いた。
「ええ、クレメンス様。貴方の言った通りになりましたね。悪意ある解釈」
「ああ……だが、あそこまで徹底的にやるとはな。教授の顔を見ろ。青ざめている」
クレメンスは戦慄した。
「『曖昧さは潤滑油だ』と我々は教わってきた。だが、トレンス侯爵はそれを『致命的な欠陥』として摘発した。……たった一文字の解釈の違いで、何万という金と命が消える恐怖を、あの方は知っている」
二人がルーカスの論理構成に戦慄している横で、エリザベートだけは別の部分に注目していた。
ルーカスが、教授の逃げ道を塞ぐために提示した、『第3の解釈』である。
『言葉そのままで割る。60÷30+20 = 22マルク』
ルーカスの口から『22』という数字が出た瞬間、エリザベートの表情がぱあっと輝いた。
「──見ろ! 聞いたか、お前たち!」
彼女は声を潜めつつも、興奮を隠せない様子でヴェクターの脇腹を肘でつついた。
「トレンス侯爵も『22』と言ったぞ! やはり私の直感は正しかったのだ!
あの男も私と同じ、実戦的な兵站思考を持っているに違いない!」
「……」
「……」
ヴェクターとクレメンスは顔を見合わせ、無言で視線による会話を交わした。
(……ヴェクター。あの方は今、『最も有り得ず、貴族の無能を証明する解釈』としてその数字を出したのだぞ)
(……ええ、クレメンス様。分かっています。ですが……見てください、このお嬢さんの嬉しそうな顔を)
エリザベートは、ルーカスがその解釈を「貴族の無能の証明」と断じた部分を都合よく聞き流し、
「自分と同じ答えに辿り着いた」という事実だけに陶酔していた。
「ふふん。やはり戦場を知る者同士、通じ合うものがあるな。
クレメンス、お前の机上の空論など、トレンス侯爵の前では無力だということだ」
「……ああ、そうだな。お前のその『直感』には恐れ入ったよ」
クレメンスは訂正する労力を放棄し、生温かい目で頷いた。
その直後、ゼオン・ド・フィアットの乱入。
そしてルーカスによる完全なる無視と、トール教授による鎮圧。
「……終わったな」
クレメンスが短く呟いた。
「ええ。フィアット子息の負けです。それも、惨敗だ」
ヴェクターの目は、ルーカスの背中を、畏怖と分析が入り混じった色で見つめていた。
「トレンス侯爵は、一度もフィアットの方を見なかった。感情論に対して感情で返さず、あえて『規約』という権威を教授に使わせた。……あれは、相手を対等な敵とすら見なしていない時の戦い方だ」
「……うむ。見事な『斬り捨て』だ」
エリザベートもまた、腕を組んで深く頷いた。先程の浮かれた様子は消え、武人としての評価を下す。
「あの正義漢は、剣を抜く前に間合いに入られ、
「ええ。そして教授もまた、トレンス侯爵の論理に屈し、その手駒として動かざるを得なくなった。……この教室の支配権は、たった今、教授の権威が、生徒の手に移った。いや──移されたのです」
ヴェクターの言葉通り、講堂の空気は完全にルーカスの支配下にあった。
「曖昧な優雅さ」は死に、「冷徹な論理」が新たな王として君臨した瞬間だった。
「……退屈な授業になるかと思ったが、どうやらこの学園生活、予想以上に『学び』がありそうだ」
クレメンスがスレートの上の数字を指で消しながら、愉しげに口角を上げた。
「ああ……次は剣の授業が楽しみだ。あの男の『論理』が、物理的な戦場でどう動くのか……私が直接、確かめてやる」
エリザベートは、自身のスレートに残った『22』という数字を、どこか誇らしげに指でなぞり、不敵に笑った。
その目は、すでに仮想の戦場でルーカスと剣を交えるイメージに燃えている。
「……バルフォア嬢」
「何だ、クレメンス。お前も武者震いが止まらんか?」
「いや。次は『魔導学基礎』だ。剣術実技は次学期の選択クラスターでしか選べん。……今日は、座学しかないぞ」
クレメンスは、使い終わったペンを片付けながら、死んだ魚のような目で補足した。
エリザベートの不敵な笑みが、ぴたりと固まる。
「……何? ……剣は?」
「ない」
「模擬戦は?」
「再来月までお預けだ」
絶望の表情を浮かべるエリザベートを無視し、クレメンスはさらに追い打ちをかけるように淡々と続けた。
「そもそも、期待しすぎるな。トレンス侯爵は武家の名門だが、あの徹底した弁舌を見る限り、本質は『指揮者』か『統治者』の側だ。現場で泥を啜って剣を振るうタイプじゃない。……何より、彼は魔導のラスターバン寮だぞ。剣の握り方すら怪しいかもしれん」
「なっ……! あの『22』という数字に宿っていた実戦的な兵站感覚、あれは剣の修羅場をくぐった者特有の──」
「ただの計算ミス……いや、極論だ。……行こう、ヴェクター。次は講義室が移動する」
「ええ、クレメンス様。……お嬢さん、あまり落ち込まないで。座学でも、あの方はきっと面白いものを見せてくれますよ」
ヴェクターが苦笑しながら肩を叩き、二人はさっさと席を立つ。
取り残されたエリザベートは、一人スレートの『22』を見つめ、「いや、奴は絶対に『やる』側の男だ……」と、根拠のない確信と共に魔導学の重い教科書を抱え直した。
・・・・・
・・・
二限目。基礎魔導学の実習が行われる半地下の訓練場。
冷たい石壁に囲まれた空間は、重苦しい静寂と、生徒たちが放つ魔力の微かな熱で満たされていた。
アルタイル寮の席列。
エリザベートは、手のひらに乗せた「魔力受信石」を、まるで言うことを聞かない猛獣を見る目で睨みつけていた。
「……くっ、なぜだ。なぜ光らん!」
彼女の額には脂汗が滲み、石に込めた魔力は荒々しく波打っている。
「力を込めればいいというものではないぞ、バルフォア嬢」
隣に座るクレメンスが、涼しい顔で忠告した。
「お前の魔力は『斬撃』だ。一点に留まることを知らない。
……無理に抑え込もうとするから暴れるんだ。もっとこう、獲物を待ち伏せする時のように、殺気を消してみろ」
「待ち伏せ……? なるほど、気配遮断か!」
エリザベートが息を止めると、今度は魔力の供給自体が途絶え、石は完全に沈黙した。
「……ぬうぅ! いっそ剣で叩き割った方が早そうだ!」
「やれやれ。これだから脳筋は……」
クレメンスは呆れを含んだ溜息をつき、さらにその隣──左端に座っていたヴェクターへと視線を流した。
「……おい、ウィルソン。お前もだ。いつまで遊んでいる」
ヴェクターの手元では、受信石の光が明滅を繰り返していた。まるで接触不良の電球のように、チカチカと不安定に瞬いている。
「いやぁ、面目ない。どうもこの石、僕とは相性が悪いみたいでしてね。まるで気難しい猫みたいだ」
ヴェクターはへらへらと笑いながら、指先で石を弄んでいる。
だが、クレメンスの目は誤魔化されない。
(……下手すぎる。魔力の総量が足りないわけではない。むしろ、出力の波形が乱されているように見えるが……いや、単に制御が雑なのか?)
クレメンスがその疑念を深めようとした、その時だった。
「おっ。ちょっと失礼」
ヴェクターは、まるでカフェで知人を見つけたかのような気軽さで、突然席を立った。
「……おい、どこへ行く。授業中だぞ」
「いやね、あっちの席の方が魔力の流れが良い気がして。それに……」
ヴェクターは、二列ほど前の席に座る女生徒──メルセデス・ド・シュミットの背中を、わざとらしく顎で示した。
「あそこの彼女、石の光がすごく綺麗だ。コツを教わりに行ってきますよ」
「は……? 貴様、正気か?」
クレメンスは絶句した。
授業中に、しかもナンパ目的で席を移動するなど、アルタイル寮の規律では考えられない蛮行だ。
だがヴェクターは、クレメンスの制止もエリザベートの呆れた視線も意に介さず、軽やかな足取りでメルセデスの隣へと向かった。
「……あいつ、本当にただの馬鹿なのか?」
エリザベートが呟く。クレメンスは眉間を揉みながら、忌々しげに吐き捨てた。
「……放っておけ。馬鹿が伝染る」
だが、内心では小さく舌を巻いていた。
(……いや、昨夜の談話室で見せたあの冷徹な交渉術。バルフォアの嫡男を手玉に取った男が、ただの女好きの馬鹿であるはずがない。事実、教授が黒板に向かって背を向けた、あの一瞬の死角。商会で培ったであろう、ギリギリの線を反復横跳びする卑屈な処世術)
クレメンスは、ヴェクターが纏う「お調子者の仮面」の下にある意図を探ろうとした。
(もし奴が、トレンス侯爵の命で動く密偵なのだとしたら、行動の整合性が取れない。暗躍する者の鉄則は『目立たぬこと』だ。こんな場所でわざわざ雑音を撒き散らし、周囲の耳目を集めるなど……諜報の常識からすれば三流以下の愚行。ただの自殺行為に等しい)
だが、その思考はすぐに壁に突き当たる。
(とすれば……奴はやはり、商人特有の狡猾な観察眼を持ちながら、その才覚を女遊びに浪費しているだけの『お調子者』に過ぎないのか……?)
クレメンスの評価は、保留された。「有能」ではない。「計算高い馬鹿」か、あるいは「本物の混沌」か。
一方、移動した先のヴェクターは、完全に「空気が読めないお調子者」の仮面を被ったまま、メルセデスに囁きかけていた。
「やあ、隣いいかな? 僕の席、どうも磁場が悪くてね。お嬢さん、君は上手くいっているみたいだけど、何か『恋の駆け引き』みたいなコツがあるのかな?」
「え、あ……わ、私のこと、ですか……?」
彼女はビクリと肩を震わせて振り返った。
「本当のことですよ。君の石は、まるで静かな湖面みたいだ。
……きっと、優秀なお兄様に似て、素晴らしい才能をお持ちなんでしょうね」
その言葉に、彼女の表情が一瞬曇る。
視線が逃げ、指先が石の縁を強く掴む。
(……コンプレックスかな)
ヴェクターは、相手の精神的急所を指先でなぞるような感覚で、無邪気な笑みを崩さない。
前方では、ルーカスが、あの「フィードバック制御」の論理を展開し、教授に「質問」していた。
「才能への依存は、普遍的な技術の否定です」
その言葉が響いた瞬間、メルセデスが息を呑むのを、ヴェクターは見た。
(……なるほど。彼女もまた、『才能』という呪いに苦しむ一人か)
そのどさくさに紛れ、ヴェクターは再びメルセデスに囁いた。
「……難しすぎて頭が痛いね。きっと、ああいうのは『頭の良い人のお遊び』なんだろうさ。……それよりも、この魔晶石の色の秘密でも語り合った方が、よっぽど人生の役に立つと思わないかい?」
メルセデスは小さく、しかし確かに微笑んだ。
「……ありがとう、ございます」
その軽薄な振る舞いは、教室内の張り詰めた空気に明確な「雑音」を生んでいた。
そして、その雑音に最も敏感に反応したのは、王室の番人としての義務感に凝り固まった男、ヴィンセント・ド・ヴァレンティンだった。
「──ウィルソン子息」
頭上から、氷のような声が降ってきた。
見上げれば、ヴィンセントが冷徹な視線で見下ろしている。彼は、女生徒を庇うように立ち、ヴェクターだけを射抜いていた。
「貴殿のその『軽薄な雑談』は、授業の妨害であり、そして何よりも、貴族の子弟としての義務を放棄した行為である。アルタイル寮の名を汚すな」
その言葉には、明確な「格付け」が含まれていた。
ルーカス・フォン・トレンスという劇薬に比べれば、お前など取るに足らない寄生虫だ──という、無言の侮蔑。
ヴェクターは、大げさに縮こまって見せた。
「おっと、これは失礼いたしました、ヴァレンティン子息! いやぁ、あまりに彼女の制御が見事だったもので、つい……僕のような商人上がりには、軍門を志す貴族の『義務』の重さは、少し理解しがたいものでしてね」
「……弁えろ」
ヴィンセントは興味を失ったように言い捨て、すぐに視線を前方のルーカスへと戻した。
彼にとって、ヴェクターはもはや思考のリソースを割く価値もない「処理済みのゴミ」となったのだ。
(王室の番人は、閣下に気を取られ雑音を見逃す……優秀ではある。とはいえ俺の演技は完璧だ。……役作りが板についたかな)
ヴェクターは「すごすごと退散するふり」をして、静かに席を立つと、メルセデスの耳元にだけ届く声で囁いた。
「……また後でね。石の光、本当に綺麗だったよ」
メルセデスは、驚きと戸惑い、そして微かな安堵が入り混じった顔で、小さく頷いた。
そして、そのまま自席へと戻った。
戻り際に、わざと小さく頭を下げ、場の空気に「反省した道化」を一滴だけ垂らす。狙い通り、教室の空気が、ガクリと緩んだ。
「なんだあいつ」「ウィルソン家の馬鹿息子か」という呆れと失笑が広がる。
席に滑り込むと、クレメンスが低い声で言った。
「……満足か、色ボケ商人。監督生に目を付けられるとは、随分と迂闊だな。暗躍を気取るなら、もう少し息を潜める術を学んだらどうだ? ──それとも、あれが貴様なりの『護身術』だとでも?」
探るようなクレメンスの冷たい視線。
ヴェクターはそれに気づいてなお、道化の仮面を微塵も崩さない。彼はへらへらと笑いながら、肩をすくめた。
「おや、買い被りすぎですよ、クレメンス様。僕はただの気の迷いが多い商人です。……ただ、商売のコツというやつは知っています」
「……コツ?」
「ええ。市場で真珠が並ぶと、端の割れ皿は誰も見ない」
ヴェクターは、受信石の光を不安定に揺らしながら、クレメンスの目をまっすぐに見つめ返した。
「王室の番人も、そして──ノイマン卿。貴方のような賢明なお方もね。おかげで僕みたいな『帳簿の端数』は、息がしやすくて助かりますよ」
その言葉に、クレメンスは僅かに目を細めた。
(極上品を睨みつけている時、足元のガラクタは記憶に残らない。……ただ蹴り飛ばされるだけ、か)
理屈は、通る。実際、先程のヴァレンティンはヴェクターを完全に「処理済みのゴミ」として視界から外した。そして何より、クレメンス自身もまた、その「ノイズ」に気を取られ、彼の真の脅威度を見誤りかけていた。
だが、その事実に行き着いた瞬間、クレメンスの思考は致命的な矛盾に激突した。
(……待て。もし奴が、その『死角』に潜むことを目的とする密偵だとしたら、なぜわざわざその手口を教えた?)
暗躍する者の鉄則は『気づかれないこと』だ。自らの擬態のタネを、わざわざ警戒している相手に明かすなど、旧来諜報の常識からすればリスクしか存在しない自殺行為である。
(こいつは、僕を煽っているのか? それとも、ただ己の浅知恵を誇示したいだけの俗物なのか? いや……そもそも、こいつの『目的』は何だ?)
身を隠したいのか、目立ちたいのか。騙したいのか、試しているのか。
クレメンスは、目の前の男が「言い訳のうまい阿呆」なのか、「常識の枠外で踊る怪物」なのか判断できず──彼が何を為そうとしているのかすら完全に見失い、苛立たしげに息を吐いて視線を前列へ戻した。
(……ウィルソン。お前のその支離滅裂な振る舞い……どうにも理と噛み合わん)
隣で思考の迷路に陥っている少年を横目に、ヴェクターはへらへらと人の良さそうな笑みを貼り付けたまま、内心で愉快そうに舌を巻いていた。
(……惜しいね。いい線まで来ているが、まだ古い常識に縛られている。
論理で世界を正しく測ろうとする秀才ほど、盤面そのものが歪んでいる事態に脆い。その若さと鋭さは見事だが……僕の狙いに辿り着くには、まだ少しばかり『悪意の経験』が足りないかな)
それは、歴戦の盤面操作者が、将来有望な未完成の才を見つめるような、嗜虐と期待が入り混じった評価だった。
(……だが、悪くない。あの目は確実に育つ。無自覚なまま敵に回して潰すより、隣に置いて『こちらの常識』に染め上げた方が、よほど面白いことになりそうだ)
内心の冷徹な値踏みと愉悦を微塵も顔には出さず、ヴェクターはあくまで軽薄な商人として、軽口だけを残す。
「次からは、もう少し品位ってやつを学びますよ。アルタイル寮の名に泥を塗らない程度にはね」
(……やはり道化……なのか?あれほど叱られて、まだ軽口を叩く)
──そう断じた、その一歩奥で、違和感だけが消えなかった。
その時だった。
ルーカスが静かに着席した。
彼の手元の針の先ほどの青白い光は、物理的なスイッチを切ったかのように──完全に消えた。
「なっ……!?」
エリザベートが目を剥き、クレメンスが呻く。
「……化物じみた制御力だな」
その驚愕の余韻の中で、別の「些細な限界」が起きていた。
エリザベートの手の中で、レセプター・ストーンが小さく、乾いた音を立てる。
ピシッ。
石の表面に走ったひびが、次の瞬間、指先から欠け落ちた。
「……くそ」
吐き捨てるように呟いて、エリザベートは欠片を掌の端に避けた。
爆ぜもしない。火花も散らない。
ただ、器が耐えられる出力を越えた──それだけの破損だ。
クレメンスが一度だけ横目でそれを見て、今度は鼻で笑った。
「……出力の化け物も、隣にいたか。加減を知らないのか?」
「……壊れた。抑えるのが性に合わん」
教授は気づかない。
いや、仮に視界に入っていたとしても、今の彼の注意は、前列の異端に縫い付けられている。
ヴェクターだけが、手元の石の光をわざと不安定に揺らし、
凡人の顔で肩をすくめた。
(まるで、合理性と傲慢さを煮詰めて固めたような方だ。何処であろうと、誰であろうと。変わらない)
彼は、手元の石に残っていた魔力を、わざと乱雑に霧散させた。
訓練場は静まり返り、誰もが二重の異常──完全制御と完全暴走の両極端に、言葉を失っていた。
(……いいね。学生として潜入を命じられた時には、どうなるかと思ったけど……)
それらを尻目に、ヴェクターは伸びをした。
(……本当に、閣下の側にいると、退屈とは無縁だ)
「……さて、次は『杖』の課題ですか。忙しくなりそうですね」
ヴェクターは肩をすくめ、わざとらしく周囲に聞こえる声でぼやく。
「いやぁ……難しすぎるって。魔力だのフィードバックだの、僕の商会の帳簿より頭が痛いよ」
その言葉に、近くの生徒が小さく笑う。
「ああ、こいつはそういう奴だ」という共通理解が広がっていく。
彼は、さっき口説いていた女生徒にも軽く手を振り、別の席列へふらふらと歩いていった。
ラスターバン寮の方へ──いや、あくまで「偶然」そちらへ流れたように。
「あいつはどこにでも湧く」──そう思わせるのが、一番安全だった。
「ねえねえ、杖の課題ってさ、付録のどこ?僕、規約集ってだけで眠くなるんだけど」
わざと無知を晒し、わざと手間取る。
凡人の商人子息の像を、周囲の記憶に焼き付ける。
彼等は、それぞれの形で、何かが決定的に変わったことだけは感じていた。
もはや、単なる学びの場では済まされない。
ルールを書き換える者と、それを利用する者だけが生き残る、新しい戦場──。
そう呼ぶべき場所に、変わってしまったのだと。