剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第百十三話

 

 第百十三話 光の下で踊る者、影の中で壊れゆく者。

 

 

中央大食堂──アルタイル寮エリア

 

 

「……不安定になった方が、僕らにもチャンスがあるってもんだ」

 

ヴェクターのそのあまりに俗悪な言葉に、クラリーベルは深い疲労を感じ、もはや彼を直視する気力さえ失ったようだった。彼女は無言でグラスを傾け、彼との会話を拒絶する姿勢を示した。

 

(……よし。引き際かな。これ以上は『毒』が過ぎる)

 

相手が呆れ果てて興味を失い、思考の対象から外した瞬間こそ、最も安全に姿を消せるタイミングだ。

ヴェクターは、相手の不快感に気づかない「空気を読めない凡人」を演じ、大げさに伸びをした。

 

「おっと、難しい話をしていたら、せっかくの料理が冷めてしまう。僕のような凡人は、もう少し気楽なテーブルで馬鹿話でもすることにしますよ。……フィアット子息、アウレリア嬢、お邪魔しましたね」

 

「……ああ、気にするな」

 

ゼオンは、まだルーカスへの怒りが燻っているものの、ヴェクターに対しては「理解者」としての緩んだ視線を向け、軽く頷いた。クラリーベルは一瞥もくれなかった。

 

完璧だ。

ヴェクターはトレイを持ち上げ、二人のテーブルを離れた。

背を向けた瞬間、彼の顔からへらへらとした笑みが消え、冷徹な観察者の瞳に戻る。

 

(ゼオンは単純な正義感で動く手駒として固定した。クラリーベルは論理に固執するあまり、俗な感情論を見下して足元を掬われるだろう。……さて)

 

彼は、食堂の少し離れた位置──喧騒を一歩引いた場所にある、アルタイル寮の「溜まり場」へと視線を移した。

そこには、眉間に皺を寄せたクレメンスと、肉料理に食らいつくエリザベートがいる。

 

(次は、あっちの『観測所』に戻るとするか。……メインディッシュの周りで、別の面白そうなサイドディッシュが腐り始めているようだしな)

 

ヴェクターは再び「お調子者」の仮面を貼り直し、クレメンスたちのテーブルへと滑り込んだ。

 

「やぁやぁ、お二人さん。こっちは随分と景気のいい顔をしてるじゃないか」

 

ヴェクターが、何食わぬ顔でトレイを持って戻ってきた。

クレメンスは、げんなりとした顔で彼を見上げた。

 

「……また戻ってきたのか、お前は。あっちのフィアット子息のテーブルで、高尚な議論に付いていけずに追い出されたか?」

 

ヴェクターは、悪びれもせずに肩をすくめた。

 

「人聞きが悪いなぁ、クレメンス様。さっきの『正義感君』の様子を見てきただけですよ。ほら、授業中にトレンス侯爵に食ってかかって、相手にされなかったでしょう? あまりにカリカリしていたから、ガス抜きが必要かなと思いましてね」

 

「……お前、意外と世話焼きだな」

 

「商売人は顔が命ですから。将来の顧客(カモ)は大事にしませんと」

 

ヴェクターは軽口を叩きながら席に着くと、わざとらしく視線を中央へ向けた。

 

「それにしても……あちらは随分と『激戦区』だ」

 

彼らの視線の先──中央大食堂のど真ん中では、ルーカスのテーブルが異常な熱気を帯びていた。

冷徹な論理で包囲網を敷くアイリスと、それを「退屈」の一言で正面突破しようとするアンジェリカ。

二人の公爵令嬢による波状攻撃を受けながら、ルーカスは眉一つ動かさず、ただ冷めたスープを啜っている。

 

「……見事な防御陣形だ」

 

エリザベートが、パンを齧りながら感心したように唸った。

 

「両翼から公爵家という重騎兵に挟撃されているというのに、トレンス侯爵は『無視』という名の塹壕に籠もって微動だにしない。

普通ならパニックで指揮系統が崩壊する局面だぞ。あの胆力、やはり只者ではない……!」

 

「……バルフォア嬢。あれは胆力じゃない。『諦め』だ」

 

クレメンスは、胃薬を欲するかのように眉間を揉んだ。 

 

「あの目は、戦場を見ている目じゃない。『早く部屋に帰って書類仕事がしたい』と訴えている労働者の目だ。……同情するよ、本当に」

 

二人がルーカスの「派手な醜聞」に釘付けになる中、ヴェクターだけが、ふと声を落とした。

 

「……光が強ければ、影も濃くなる。お二人さん、あちらも見てごらんなさい」

 

ヴェクターがフォークの先で示したのは、喧騒から隔離されたレグルス寮のエリア──窓際の一角だった。

 

「……あ? なんだ、ベルンハルトか?」

 

エリザベートが怪訝そうに見る。

そこには、ルーカスとは対照的に、静まり返ったテーブルがあった。

しかし、その静寂は平和なものではない。

完璧な淑女であるオリビアが、感情を殺したような目で席を立ち、去っていく瞬間だった。

残されたフォルカルトは、それを追おうともせず、男爵令嬢シスリーの手を取り、陶酔したような笑みを浮かべている。

 

「……おい、嘘だろう」

クレメンスが絶句した。

 

「婚約者が席を立ったのに、追わないのか? 公衆の面前だぞ。あれじゃあ、『ベルンハルト家はエーデルライト家と決裂しました』と宣言しているようなものだ」

 

「その通りですよ」

ヴェクターが、冷ややかな声で解説を加える。

 

「中央のトレンス侯爵は、二大派閥の令嬢を相手にしながらも、ギリギリのラインで『均衡』を保っている。誰も切り捨てず、誰にも媚びず、綱渡りを続けている。

……ですが、あちらの『王子様』は違ったようだ」

 

ヴェクターの瞳が、面白がるように細められた。 

 

「トレンス侯爵という強烈な光に焼かれたせいで、目が眩んだんでしょうね。

『自分を認めてくれる心地よい幻影』に逃げ込んで、一番守らなきゃいけない『現実』を切り捨てた……」

 

エリザベートは、鼻を鳴らして興味を失ったように視線を外した。

 

「……くだらん。戦場で地図を捨てて、『俺の道が正しい』と喚く無能な指揮官と同じだ。見る価値もない。……それに比べて、やはりトレンス侯爵だ! 見ろ、あの絶妙なスルー技術! まさに鉄壁!」

 

「……お前、本当にブレないな」

 

クレメンスは呆れつつも、最後に一度だけ、窓際のフォルカルトを見た。

彼とシスリーの周りだけ、世界から切り離されたように、甘く、腐った空気が漂っているように見えた。

 

「……行こう。胸焼けがしてきた」

 

クレメンスたちは席を立つ。

大食堂の生徒たちの9割は、ルーカスの修羅場に夢中だ。

フォルカルトの静かな自滅に気づいたのは、この「観測者たち」と、当事者であるオリビアだけだった。

ヴェクターは、去り際に一度だけ振り返り、誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「……さて。腐り落ちた果実は、誰が拾うことになるやら」

 

ヴェクターは、フォルカルトとシスリーの周りに漂う「甘ったるい空気」を、まるで不良在庫の山でも見るような目で見つめた。

 

 

中央では、ルーカスが二大公爵令嬢に挟まれながらも、風を読んで立っている。視線を集め、騒ぎを拡大させながら、決して足場は崩さない。矢面に立っているようで、実際は射線を制御している側だ。

 

対して窓際の王子様はどうだ。

背を伸ばし、勝利者の顔をしている。だが周囲の地形を見ていない。遮蔽物も、退路も、味方の位置も確認せずに、平原へ歩み出た。

 

(……風向きも測らずに胸を張るとはな)

 

エーデルライト家という防波堤を、自ら決壊させた。その代わりに手に入れたのは、甘い幻想と、拍手ひとつ。

 

代償の計算が、まるで出来ていない。

 

明日になれば、婚姻の打診が増えるだろう。派閥の次席は動く。資金の流れも変わる。噂は一夜で値を上げ、三日で形を持つ。

狙うのは剣を持った騎士だけではない。帳簿を持った連中もいる。

 

(……いい的だ)

 

狙撃手として見れば、これ以上ない位置だ。風も読めず、遮蔽物もない。撃てと言わんばかりに立っている。

 

だが、撃つ必要はない。

勝手に値が落ちる。

 

中央で主君が時間を稼いでいるあいだに、こちらは値崩れを待てばいい。腐り始めた果実は、急がずとも拾える。磨けば使い道はいくらでもある。

それが商人の仕事であり、影を歩く者の役目だ。

ヴェクターは胸ポケットの手帳の端をなぞった。速記で刻んだ観測結果は、今が最も高値だ。時間が経てば鮮度は落ちる。

 

 中央の喧騒。

 

 窓際の亀裂。

 

光は派手に燃え、影は静かに侵食する。

 

その全てを飲み込みながら、王立総合学園の昼下がりは、残酷なほど穏やかに過ぎていく。

 

どちらが長く残るかは、まだ分からない。

ヴェクターは小さく息を吐き、仲間たちの背を追った。

王立アカデミーの昼下がりは、何事もなかったかのように、穏やかに流れている。

その穏やかさが、いちばん高く売れる商品であることを、彼だけが知っていた。

 

食堂を満たす喧騒は、やがて来る嵐の前の静けさに過ぎない。

ヴェクターは静かに目を細めると、今度こそ未練なく、仲間たちの背を追って歩き出した。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

中央大食堂の喧騒から離れた窓際──レグルス寮のエリア。

 

そこには、磨き上げられた銀食器がカチリと鳴る音さえ「不作法」に聞こえるほどの、張り詰めた静寂があった。

 

「フォルカルト様。午後からは魔導幾何学の演習がございますわ。昨日のことは……ええ、一度忘れてしまいましょう」

 

オリビアの声は、まるで上質な絹を滑らせるように淀みがない。彼女は、フォルカルトの震える指先がナプキンを強く握りしめているのを見ても、それを指摘するような無粋な真似はしなかった。ただ、彼の傷ついた自尊心を「正しい作法」という包帯で、優しく、しかし有無を言わさぬ強さで巻き上げている。

 

(分かっている……分かっているんだ)

 

フォルカルトは、彼女の透き通るような青い瞳を直視できず、トレイの上の冷めたローストビーフに視線を落とした。オリビアの献身は完璧だ。だが、その完璧さが、今の彼には「敗北者の介護」のように感じられ、胃の奥が焼けるような不快感に襲われる。

その時、中央の喧騒が一段と高まった。

 

ルーカス・フォン・トレンス。

 

彼は、二大公爵家の令嬢に挟まれながら、まるで嵐の中心に立つ石像のように無関心な顔で座っていた。公爵令嬢たちが感情を露わにし、優雅な食堂の空気をかき乱しているというのに、周囲の視線はそれを「醜聞」ではなく「伝説の一幕」として、熱を帯びて追っている。 

 

「……不愉快だな」

フォルカルトの口端が僅かに歪んだ。握りしめたナイフの先が、白い陶器の皿を小さく削る。

 

「なぜ、あのような無秩序が許されている? ……あいつは、規律を嘲笑っているだけだ」

 

「フォルカルト様」

 

オリビアが、静かに、けれど明確な重みを持って彼の腕に指を添えた。その指先の冷たさが、彼の逆立った神経を刺す。

 

「目を向けるべきは、あちらではありません。私たちは、私たちの足元を──」

 

その瞬間、レグルス寮の結界を土足で踏み荒らすような、「浮いた音」が響いた。

 

「あ、やっと見つけましたわ……!」

軽い。あまりにも軽い、重力も序列も知らない声。

シュタイン男爵令嬢、シスリー。彼女は、高位貴族たちが纏う「空気の重圧」を全く感じていないかのように、弾むような足取りで近づいてくる。

「フォルカルト様! やっとお会いできましたわ!」

 

「……っ、君は、シュタイン男爵令嬢……だったか」

 

フォルカルトは弾かれたように立ち上がった。彼の背後で椅子が僅かに音を立てて後ろに下がる。反射的に「紳士としての制止」のポーズを取るが、シスリーはそれを「自分を迎え入れる仕草」だと解釈したかのように、さらに距離を詰めた。

彼女は安物の香油の匂いを漂わせ、胸元に抱えた恋愛小説の角が、フォルカルトのトレイの縁をかすめる。

 

「ああ、そんなに冷たくしないでくださいませ……! 分かりますの。貴方様が、あの眩しすぎる偽りの光に傷ついていること……。この孤独こそ、真実の物語の始まりなんですわ……っ」

 

シスリーの瞳には、現実のフォルカルトではなく、彼女の脳内で加工された「悲劇の王子」が映っている。その異常なまでの熱に、フォルカルトは一瞬、眩暈に似た感覚を覚えた。

「……何を、言っている」

 

戸惑う彼の視界を遮るように、オリビアが音もなく立ち上がった。

シルクのドレスが擦れる微かな音。彼女は扇を閉じ、その先端をピタリとシスリーの胸元に向けた。物理的な距離は開いているが、そこには不可視の剃刀が突きつけられているような緊張感が走る。

「シュタイン男爵令嬢。礼節を弁えなさい」

オリビアの声から、先ほどまでの温もりが完全に消えた。

それは、感情を排した「制度そのもの」の響き。

 

「ここはレグルス寮の席です。許可なく名を呼び、断りもなく立ち入る行為は、家門の教育を疑わせるもの。速やかにお引き取りを。……これは『忠告』ではなく、寮の秩序を守るための『排除』です」

 

オリビアの瞳は、シスリーを人間として見ていなかった。それは、「絨毯に落ちた糸屑」を見つめる、冷徹な清掃者の目だった。

シスリーは、その視線の重圧に息を呑み、僅かに後ずさる。だが、彼女はすぐにフォルカルトへ縋るような視線を向けた。

 

「……なんて冷たい。フォルカルト様、貴方様はいつも、こうした『形式』に囲まれて……心が枯れてしまわないのかしら……!」

 

「いい加減になさい」

 

オリビアが一歩踏み出す。その一歩は、数百年続く貴族の血筋が築き上げた、絶対的な拒絶。

 

「感情を盾に無作法を正当化するなど、浅ましい。フォルカルト様、お相手をする必要は──」

 

その言葉が、フォルカルトの耳の中で「管理」という名の鎖となって鳴り響いた。 

 

(……あの男なら)

 

視界の端で、面倒そうにスープを啜るルーカスの姿が重なる。

あいつなら、こんな「ルール」の押し問答などしない。自分自身で変数を捻じ伏せ、周囲に文句を言わせない。

フォルカルトは、自分の腕を掴んでいたオリビアの手を、ゆっくりと、しかし明確な拒絶を込めて振り払った。

 

「……いや、いい」

 

オリビアの指が、空中で止まった。

彼女の眉が、ほんの数ミリメートルだけ、驚愕に跳ね上がる。それはフォルカルトと過ごしてきた年月の中で、一度も見せたことのない「揺らぎ」だった。

フォルカルトは、オリビアを見ずに、目の前のシスリーを射貫くように見据えた。それは支配者としての威圧を装った、破滅への強がり。

 

「話は短くしろ。席を汚すな。名を呼ぶな」

 

彼は一度、喉を鳴らし、自分を縛る「正しさ」から飛び降りるための言葉を口にした。

 

「……君の話は、後で聞く。……今は、そこに座れ」

 

それは許可であり、例外の承認。

レグルス寮に集う貴族たちの視線が、「あいつ、本気か?」という驚きと冷笑に変わる。

シスリーの顔が、狂信的な喜びで輝いた。

 

「はい……! ありがとうございます、フォルカルト様!」

 

彼女は、勝利の凱歌をあげるように椅子を引き、腰を下ろした。

カタリ、と。

安っぽい木製の音が、レグルス寮の静謐な格式を粉々に砕いた。

オリビアは、その音を、まるで自分の家門の看板が折れる音であるかのように聞いた。

彼女は、振り払われた自分の手のひらを見つめ、そして、ゆっくりとそれを下ろす。

 

彼女の表情から色彩が消えた。

それは失われたのではない。彼女自身が、切り捨てたのだ。

いや、正確には「色彩」を消し、「透明な観測機」へと変貌した。

 

「……承知しました。貴方の判断として、受け止めます」

 

彼女の声は、もはや澄んですらいなかった。

ただ、どこまでも「平坦」だった。

 

「ですが、本日以降、貴方の言葉と行動は『感情』ではなく『政治』として観測されます。その責任は、貴方ご自身が負うことになります」

 

オリビアは、これまで一度も乱したことのない完璧な所作で、フォルカルトへ一礼した。

それは婚約者への会釈ではなく、破綻が決まった契約書にサインをした直後の、事務的な挨拶。

 

「それでは、失礼いたします」

 

彼女は、トレイを残したまま、一度も振り返らずに去っていった。

廊下へ消えていく彼女の足音は、正確なメトロノームのように、この場にいる誰よりも「正しく」響いていた。

 

その背中を見送るフォルカルトの背筋を、氷を這わせたような悪寒が走り抜ける。

自分が今、何を失ったのか。

オリビアが「政治」と言った言葉が、どれほどの重みで自分を圧し潰すのか。

彼はそれを無視するために、無理やり口角を上げ、シスリーへと向き直った。

 

「……相変わらず、理屈ばかりだ。……さて、シュタイン嬢。君の言う『物語』とやらを、聞かせてもらおうか」

 

震える手でグラスを掴み、彼は「自滅の晩餐」を続けた。

 

呟きながら、シスリーの話に耳を傾ける。

 

その奥で、何かが確実に軋み始めていることに、気づかないふりをして。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

「……あっち、なんか始まったな」

 

トレイを片付け、出口へと歩き出しながら、クレメンスが窓際をちらりと見た。

 

「ベルンハルトだろ?」

 

エリザベートは興味なさそうに鼻を鳴らす。

 

「婚約者がいるのに、ああいう不純物を放置するのは悪手だな。戦場なら背中から撃たれるぞ」

 

「中央は中央で修羅場、窓際は窓際で自滅。今日は随分と賑やかですね」

 

ヴェクターが、他人事のように、淡々と言葉を添えた。

 

「どっちが致命傷だ?」

 

クレメンスの問いに、ヴェクターは歩調を緩めることなく肩をすくめる。

 

「さあ。……ただ、派手なのは真ん中ですが、腐り落ちるのはあのように静かな場所からでしょうよ」

 

クレメンスはもう一度だけ窓際を見て、吐き捨てるように視線を逸らした。

 

「……行こう。胸焼けがしてきた」

 

三人が食堂の重厚な扉を抜けようとした、その時だ。

 

扉が閉まる直前、ヴェクターだけが、ふと視線を真横に流した。

 

柱の陰──。

そこには、定規で引いたように真っ直ぐな背筋で立つオリビアがいた。

顔はうつむき、表情は窺い知れない。

だが、白手袋に包まれた彼女の指先が、扇の骨が折れんばかりに強く握りしめられ、微かに震えているのを、ヴェクターの瞳だけが捉えた。

 

ヴェクターは、彼女が顔を上げる前に、音もなく視線を正面に戻した。

重厚な扉が、重い音を立てて完全に閉じる。

 

「……ヴェクター? どうした、行かないのか」

 

先行していたクレメンスが振り返り、怪訝そうに声をかけた。

ヴェクターは、いつもの食えない笑みを顔に貼り付け、軽く肩をすくめて歩き出す。

 

「いえいえ。少し胸焼けがしましてね。……あちらも、こちらも」

 

彼は、独り言のように、あるいは祈りのように、低く呟いた。

「……若いな。全く」

 

光の届かない廊下の先へ、三人の足音が遠ざかっていく。

 

その場に残ったのは、まだ誰のものでもない沈黙だけだった。

 

 

 

 

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