第百十四話:観測者達の夜会
昼休みの「二大公爵令嬢による修羅場」と「ベルンハルト家の静かなる崩壊」という二つの劇薬を飲み下したばかりのクレメンスたちは、胃の重さを感じながら、レグルス寮に併設された音楽堂の硬い椅子に腰を下ろしていた。
その日の午後は、誰もがどこか落ち着かなかった。
「……音楽、か。戦場には軍楽隊がいれば十分だ。優雅なワルツなど、足がもつれるだけだろう」
エリザベートは、ふんぞり返って退屈そうに天井を仰いだ。彼女にとって、音とは「突撃の合図」か「敵の悲鳴」以外に価値を持たない。
「そう言わずに。聞きましたか? トレンス侯爵領から『音の出ない楽器』が持ち込まれたとか。……不良品を掴まされたのか、あるいは、精神を侵食する新種の『触媒』か」
ヴェクターは面白そうに、壇上のミューズ教授と、その脇に置かれた奇妙な楽器——漆黒のエレキベースとアコースティックギターを眺めている。
授業が始まり、案の定、ルーカス・フォン・トレンスが壇上に呼ばれた。
彼が淡々と「音の不在」と「
「……また始まったな」
クレメンスはこめかみを押さえた。
「感性の授業まで論理で塗りつぶす気か。あの男には『情緒』という回路が焼き切れているんじゃないか?」
「いや、クレメンス様。あれは『情緒』がない……というよりは」
ヴェクターが、珍しく真剣な目でルーカスの手元——アンプに繋がれたベースを見つめた。
「『情緒』すらも『工業製品』のように扱いたいんでしょうね。……才能に頼らず、誰でも同じ音圧が出せる。商人の目から見れば、これは『感情の規格化』……まるで硬貨を鋳造するように、熱狂を型抜きして量産する気ですよ」
そして、ルーカスがギターを手に取り、ピックを振り下ろした瞬間。
ズン! ギャァァン!!
「……ッ!?」
エリザベートが、弾かれたように身を乗り出した。
優雅な音楽堂の空気が、物理的な振動によって叩き割られた。
それは、貴族たちが愛好する繊細なリュートの音色ではない。もっと暴力的で、粗野で、それでいて心臓の鼓動を直接鷲掴みにするような、圧倒的な音圧の塊。
「……なんだ、今の音は」
エリザベートの瞳孔が開く。
ルーカスが刻む、チョーキングを含んだ荒々しいリフ。その
「まるで……
エリザベートは、無意識に自分の膝を強く握りしめていた。
彼女には「和声」も「旋律」も分からない。だが、この音が持つ「闘争本能を沸騰させる熱量」だけは、肌で理解できた。
「いいぞ……。これなら、死地へ向かう足も軽くなる。これは『優雅』などではない。魂の咆哮だ!」
「音の『大量生産』……工房の秩序が根底から覆るぞ」
ヴェクターは、耳を塞ぐふりをしながら、その実、講堂内の生徒たちの反応を観察していた。
「これじゃあ、優雅なワルツを踊りたい貴族たちはパニックですよ。……論理で武装しているくせに、引き出すのは『原始的な衝動』か。質の悪い扇動者に見えますね、今の彼は」
その時、クレメンスの視界に、異様な光景が飛び込んできた。
「……おい、見ろ。あっちのフィアット子息」
彼が顎で示した先。
ゼオン・ド・フィアットが、まるで魂を抜かれたような顔で、ふらりと立ち上がりかけていた。彼の瞳は、ルーカスの奏でる激情の音に釘付けになり、何かに憑かれたように熱っぽい。
だが、その腰が浮いた瞬間。
ガッ。
隣に座るクラリーベルの手が、ゼオンの腕を万力のように掴み、物理的に座席へと縫い止めた。彼女の顔は能面のように無表情だが、その指先はゼオンの制服に食い込むほど白い。
「……うわぁ。アウレリア嬢のあの握力、骨が軋む音が聞こえてきそうだ。『お座りなさい』という無言の圧力が凄まじいな」
「あれで三度目ですよ」
ヴェクターがクスクスと笑う。
「フィアット子息の『純粋な魂』は、どうもあの音と相性が良すぎる。アウレリア嬢という『鎖』がなければ、今頃ステージに駆け上がって踊り出していたかもしれませんよ」
演奏が終わり、静まり返った講堂に、ミューズ教授が「増幅器」の購入交渉を切り出すという、異例の事態が続いた。そして、その余韻をぶち壊すように、真っ先に声を上げたのは——やはり、あの公爵令嬢だった。
「ルーカス! 最高よ! やっぱり、あのロックンロールは!」
アンジェリカ・ド・ハートフィリアが、周囲の目も憚らず立ち上がり、目を輝かせて叫んだ。
ステージ上のルーカス——今まで完璧な論理と演奏で場を支配していた男の顔に、初めて人間らしい「疲労困憊」の色が浮かぶのを、観測者たちは見逃さなかった。
「……論理で教授は倒せても、あのお姫様だけは制御不能みたいだな。トレンス侯爵の『鉄壁』も、彼女の前では泥壁同然か」
「そこが、あの完璧な怪物の唯一の『可愛げ』かもしれませんね」
ヴェクターは、楽しそうにルーカスの苦りきった顔を眺めた。
・・・・・
・・・
夜 アルタイル寮、男子棟の談話室の一角。
暖炉の火がパチパチとはぜる音だけが響く深夜。いつもの三人が、重厚な革張りのソファに沈み込んでいた。
「……長い一日だった」
クレメンスが、心底疲れ切った声で呻き、琥珀色の液体が揺れるグラスを置いた。
「ええ。本当に、入学初日からこれほど濃密な日は、商会の記録にもないでしょうね」
ヴェクターがボトルを傾ける。その横で、エリザベートだけは酒も飲まず、愛剣の手入れをしていた。布で刀身を拭う音が、シュッ、シュッ、と不穏なリズムを刻む。
「……おい。夜中に剣を研ぐな。……あの『音』が、まだ耳から離れんのか?」
「静かにしろ。……ズン、という腹に響く振動。あれは、戦場で脳が沸騰する瞬間の感覚だ。トレンス侯爵は、それを『論理』で再現したと言ったな」
「再現可能な激情、でしたか」
ヴェクターがグラスを回しながら、天井を仰いだ。
「恐ろしい話ですよ。一日で彼は、学園の『政治』『技術』『芸術』の三分野を、自分の色に塗り替えてしまった……ように見えます」
「……色を塗り替えた、か。ヴェクター、お前の目は節穴か?」
クレメンスは、自嘲気味に笑い、手元のメモを指先で弾いた。
「あの方は、色などという表面的なものを変えたんじゃない。……今日一日、あの方を見ていて感じた最大の違和感は、もっと根源的な……『立ち位置』のズレだ」
「立ち位置、ですか?」
ヴェクターが、面白そうに首を傾げる。
「ああ。……見てみろ、この滅茶苦茶な記録を」
クレメンスは、今日一日のルーカスの行動を振り返り、呻くように言った。
「あの方は、冷徹な領主として振る舞いながら、同時に扇動者のように熱狂を作り出した。市場を混乱させ、権利を当然のように行使し、何処か貴族離れした発想で動いている。……普通なら支離滅裂で破綻するはずだ。だが、あの方の中では、それらが矛盾せずに同居している」
クレメンスは、グラスの中の氷を見つめ呟いた。
「僕はずっと考えていた。なぜ、あの方はあんなにも堂々と、既存の秩序を踏み荒らせるのか。……そして、一つの仮説に行き着いた」
彼は顔を上げ、二人を見据えた。
「あの方は、『貴族として振る舞っている』のではない。あの方は、『貴族という制度を、利用可能な枠組み』として扱っているだけだ」
エリザベートの手が止まる。
「……道具扱い、ということか?」
「そうだ。……あの方は貴族ではない。魂の形が違う。だが、我々の誰よりも、貴族という役割を冷徹に使いこなしている。……それが許される根拠が、どこにあるのか分からないんだ」
クレメンスは、焦燥に駆られたように早口になった。
「あの方の権利行使には、『道徳的な逡巡』が一切ない。我々は、権利を行使する時、家格や体面、周囲との調和を気にして躊躇う。だが、あの方は違う。まるで、『権利とは主張するものではなく、実行するものだ』と信じているようだ。呼吸をするように権利を行使し、そして恐ろしいことに……他人の権利も同じ基準で扱う」
「他人の権利、ですか」
ヴェクターが相槌を打つ。
「ああ。学生だろうが平民だろうが、条件を満たせば対等に契約を結び、権利を認める。……そこには慈悲も差別もない。あるのは機械的なまでの『平等な執行』だ」
クレメンスは、頭を抱えた。
「我々は、『王国という前提』の上で思考している。王がいて、貴族がいて、民がいるという構造の中で、どう振る舞うかを考えている。だが、あの方は……前提そのものを疑っているのか? いや、そもそも最初から『そんな前提は存在しない』場所から見ているのか?」
彼は、知識人としての敗北を認めるように、深く息を吐いた。
「……価値観の出発点が、決定的に違う。あの方は、我々と同じ言葉を話し、同じ服を着ているが……見ている景色は、我々の想像もつかない『別の理』で動く世界なんだろう」
談話室に、重苦しい沈黙が降りる。
クレメンスの分析は、ルーカスが単なる「異端児」ではなく、この世界の構造そのものを否定しうる「異物」であることを浮き彫りにしていた。
「……おやおや。そんな深淵を覗き込んでいたら、明日には胃に穴が開いてしまいますよ」
その重苦しい空気を、ヴェクターの軽薄な声が切り裂いた。
「……だが、一番胃が痛くなったのは、やはり昼食のあの光景だ」
クレメンスの言葉に、話題はベルンハルト侯爵令息へと移る。
「オリビア嬢は、賢明だったな。あの撤退は見事だった」
武人としての評価を下すエリザベートに対し、ヴェクターは冷ややかな笑みを浮かべた。
「ええ。彼女はもう、実家に書簡を送っている頃でしょう。『損切り』の報告をね。ベルンハルト家は、明日から針の筵ですよ。トレンス侯爵という『太陽』に対抗しようとして、自ら日陰に逃げ込んだ結果、凍え死ぬことになる……かもしれません」
「……残酷な話だ。フォルカルト殿も、優秀な男だったはずだ。だが、相手が悪すぎた」
クレメンスは、疲れたように眉間を揉んだ。
「……それにしても、展開が速すぎる。たった一日だぞ?
……あの方は、何かを『教えて』いるんじゃない。この学園の、いや、王国の
クレメンスは、手元のスレートに書き留めた今日の出来事の羅列を見つめる。
「何が起きているのかは分かる。だが、『なぜこれほどの速度で、何の影響も恐れずにできるのか』が、まるで分からない。……この得体の知れない重圧は、まるで嵐が来る直前の気圧の変化と同じだ」
クレメンスの顔色は、暖炉の火に照らされてなお蒼白だった。彼のような論理的な人間ほど、ルーカスの「規格外の速度」に対する恐怖が深い。
彼は、手元のグラスを回しながら、ふと思い出したように言った。
「……ああ、それに、あの規約もだ。昔からあったはずの条文が、今日になって急に牙を剥いた。財で殴ってきた連中の足元が、音もなく崩れる」
「直接は禁止。間接は美徳。寄付は歓迎……。実に上手くできていますよ、あの規約は」
ヴェクターが鼻で笑う。
「表門を閉ざして、自分だけが知る裏口を作る。金は止め、影響力は流す。……商売のルールを書き換える時の常套手段ですが、あれをこの学園でやってのける度胸には恐れ入ります」
「金の抜け道か。好きにしろ」
エリザベートは興味なさげに刀身を鞘に滑らせた。カチン、と冷たい音が響く。
「私は剣を振るう許可さえあればいい。……トレンス侯爵は、実力以外の不純物を削ぎ落そうとしている。私には好都合だ」
「……二人とも。そんなに顔を突き合わせていると、本当に胃が持ちませんよ。さぁ、そこでこれの出番です」
ヴェクターは苦笑しながら、鞄の中から小さな木箱を取り出した。中には、トレンス領の紋章が入った、洗練された硝子瓶が並んでいる。
「これ、実家の商会がトレンス領の薬問屋から独占販売権を買い叩いた……失礼、融通してもらった『新型の胃薬』です。効きますよ、これは。あそこの領地の職人は、計算が合わないとすぐ腹を壊すそうでね、実戦で鍛えられた代物です」
「……トレンス領の薬だと? 露骨な宣伝だな、ウィルソン」
「商売人は機会を逃しません。それに……」
ヴェクターは、木箱の裏に貼られた「規約」の写しを、クレメンスに指し示した。
「見てください。学園の規約第十二条。『生徒間の物品売買は禁ずるが、健康維持を目的とした救護資材の融通、およびその実費の補填は、自治の範疇として推奨される』。……つまり、私がこれを『高値で売る』のは違反ですが、お二人が『僕の心労への見舞金』として金貨を置いていくのは、美徳にかなう行為なんです」
「……屁理屈だな。だが、今の僕にはその屁理屈が救いだ」
クレメンスは迷わず瓶を手に取り、中身を煽った。そして、苦い粉薬を飲み下した後、自嘲気味に笑った。
「トレンス侯爵は、規律という壁をどう乗り越えるかなんて考えていない。彼は、壁そのものを無意味にする『新しい平原』を勝手に作り出している。……この胃薬一つ取ってもそうだ。あの方は規約という部品を使って、自分に有利な市場をその場で作ってしまう」
クレメンスの瞳には、もはや「世界すべてがトレンス侯爵の盤上に見える」という、一種の強迫観念が宿っていた。
ヴェクターは、表面上は同情的な苦笑を浮かべながら、内心で面白そうに目を細めた。
「ええ。僕らはその平原で、大人しく彼から薬を買うしかないわけです」
ヴェクターは、クレメンスの誤認をあえて訂正せず、商人の顔で肩をすくめてみせた。
薬が効き始めたのか、あるいは絶望的な情報を整理する覚悟ができたのか。
クレメンスは、空になった瓶をテーブルに置くと、手元のスレートを今度は、震えを帯びた手で強く叩いた。
「……だがヴェクター。あの方が単に『壁を無視して平原を作る』だけの規格外な商人なら、まだ理解できた。僕が本当に戦慄しているのは、あの方の『属性の異常な乱立』だ」
「属性、ですか?」
ヴェクターは、顔を青ざめさせるクレメンスを見て、首を傾げる。
「ああ。……今日一日で、あの方が見せた顔を思い返してみろ。四つある」
クレメンスは、指を一つずつ折りながら、ひねり出すように語り始めた。
「一つ。あの方は、法と契約の『
午前の算術の授業を思い出せ。我々貴族が『優雅な裁量』という名目で温存してきた曖昧な解釈……領民を都合よく搾取するための暗黙のルールだ。それをあの方は、数学的な厳密性をもって『貴族の無能の証明』と切り捨てた。特権階級の
「二つ。あの方は、『
魔導学の才能主義を否定し、新しい技術と論理で、あらゆる産業と市場の土台を根底から塗り替えようとしている。古い権威を焼き払う、苛烈な破壊者だ」
「三つ。あの方は、『
音楽堂でのあの熱狂を思い出せ。法と技術で世界を冷徹に縛るはずの男が、最も非論理的な『感性』すらも支配下に置いた。あのアウレリア嬢の鎖がなければ、あの方を最も敵視していた、フィアット子息ですら、あの音の渦に飲み込まれ、魂を取り込まれていたはずだ。群衆の情動を完璧に制御する、恐るべきカリスマだ」
クレメンスの息が荒くなる。
「だが、四つ目だ。……法を説く支配者や、大衆を操る革命家なら、普通は『暴君』になる。力で他者をねじ伏せ、全ての権利を奪い取るはずだ。だというのに、あの方は……『狡猾な
彼は、両手で頭を抱えた。
「法による支配。技術の革命。大衆の扇動。そして狡猾な政治力。……普通なら、これらは一人の人間の中で絶対に同居しない。水と油だ。支離滅裂に破綻するはずなんだ。だが、トレンス侯爵の中では、それらが『寸分の矛盾もなく、完璧な一つの歯車』として噛み合っている。……なぜだか分かるか?」
エリザベートが、息を呑んでクレメンスを見つめる。ヴェクターは黙って先を促した。
「あの方が、我々とは全く違う価値基準で動いているからだ。……考えてもみろ。あれほど市場を混乱させ、人の心を操り、権利を振りかざしているというのに……あの方の行動には、『私利私欲』の気配が微塵もない」
クレメンスの声は、もはや恐怖に震えていた。
「金が欲しいわけじゃない。女が欲しいわけでも、名誉が欲しいわけでもない。我々が知る『人間の欲望』の匂いが全くしないんだ。……まるで、感情を持たない巨大な機械が、ただ『世界を最適化する』という目的のためだけに稼働しているような……」
彼は、知識人としての完全な敗北を認めるように、深く、長く息を吐いた。
「……あの方は、貴族として振る舞っているのではない。
支配者、革命家、扇動者、大貴族……それらすべてを、ただの『利用可能な道具』として着替えているだけだ。
我々は『王国という前提』の上で、どう生きるかを考えている。だが、あの方は最初から……この世界そのものを『設計し直す』という、神のような、あるいは悪魔のような前提で動いている」
クレメンスは、テーブルの上の空の胃薬の瓶を、自嘲気味に指で弾いた。
チリン、と冷たい音が響く。
「……価値観の出発点が、根本から違う。
あの方が本当に恐ろしいのは、その圧倒的な力じゃない。その力が、我々の理解できない『別の理』によって、完璧に統率されていることだ。
……笑えるな。その怪物が僕たちの胃を痛めつけ、あの方の領地で作った薬で僕たちが癒やされる。……毒も薬も、僕たちはもう、トレンス侯爵の設計図の中に組み込まれているというわけか」
「ええ。壁がないなら、走るしかない」
エリザベートは、研ぎ澄まされた刃を火に透かし、その瞳に狂気じみた期待を宿した。
「……今夜は眠れそうにない。体が、あの音を覚えている」
彼女は立ち上がり、剣を鞘に納めた。カチン、という音が、静寂に鋭く響く。
「明日の朝は、いつもより早く訓練に出る。……この高ぶりを鎮めるには、剣を振るうしかない」
エリザベートは、明日何が起こるかなど知る由もない。ただ、今日一日のルーカスが見せた圧倒的な「個」の証明が、彼女の闘争本能を沸騰させ、じっとしていられなくさせていた。
「……お手柔らかに頼みますよ。僕ら凡人は、明日も生き残るだけで精一杯なんですから」
ヴェクターは、空になったグラスをテーブルに置いた。
(……いいね。光の下では閣下がロックで魂を揺さぶり、影の中では一族が静かに首を括る準備を始めた。そして、この『観測者』たちは、トレンス製の胃薬を飲み下しながら、新しい時代の毒を自ら摂取し始めている)
「……胃薬の備蓄、実家に追加発注しておいた方が良さそうですね。……明日からの学園生活は、さらに『消化に悪い』ものになりそうですから」
ヴェクターの独白が、暖炉の火に消えていく。
王立総合学園の最初の一日は、こうして静かに、しかし決定的に幕を閉じた。
彼らはまだ知らない。この静寂の地下で、すでに「物理的な変革」が始まっていることを。
・・・・・
・・・
夜は更け、やがて空が白み始める。
だが、エリザベート・ド・バルフォアにとって、その夜はあまりにも短く、そして熱かった。
ベッドの中で目を閉じても、瞼の裏には昨日の「音」が焼き付いて離れない。
ズン、という腹の底を蹴り上げる重低音。
ギャァン、という空間を切り裂く歪んだ旋律。
それは、優雅なワルツしか知らなかった彼女の鼓動を、強制的に戦場のリズムへと書き換えてしまっていた。
(……眠れん。体が、熱を覚えすぎている)
エリザベートは、まだ薄暗い部屋で乱暴に毛布を跳ね除けた。
ドレスという檻を脱ぎ捨て、簡素な稽古着に袖を通す。帯を締め上げると、ようやく呼吸が楽になった気がした。
手には、使い慣れた訓練用の剣を掴む。
「……振るうしかない。この訳の分からない熱を叩き出すには」 彼女は音もなく部屋を抜け出し、寮の裏手へと向かった。
外気は冷たく、朝霧が視界を白く染めている。
アルタイル寮の訓練場には、まだ誰の姿もない。当然だ。太陽すら顔を出していないこの時間に、剣を振るう酔狂な貴族など、自分以外にいるはずがない。
シッ、ハッ……!
鋭い呼気と共に、剣を振るう。
筋肉が軋み、汗が滲む。その感覚だけが、彼女を正気に繋ぎ止めていた。
百、二百……。
無心に振るううちに、東の空が明るくなり始める。
霧が晴れ、視界が開けていく。
ふと、彼女は剣を止め、息を整えた。
満足感と共に、顔を上げたその時だ。
隣接する敷地──魔導専攻の「ラスターバン寮」の裏庭から、微かな水音が聞こえたのは。
(……私よりも早い? しかも、あの男は……)
視界に捉えたのは、井戸の傍で冷水を浴びていた男の姿だ。
東の空から差し込む強烈な朝日が、彼の背後でハレーションを起こし、その表情を黒い影に沈めている。
彼が纏っているのは、王都の貴族が好むような優雅なローブではなく、使い古された訓練着。
井戸水を浴びて濡れそぼった髪が顔を覆い、普段の教室で見かける「貴族然とした生徒たち」とはあまりに掛け離れた、野性的な「武」の匂いが満ちていた。
そして何より、エリザベートの目を釘付けにしたのは、彼の傍らに置かれた異形の剣。
(……誰だ? 寮生か? いや、あの立ち姿……ただの学生ではない)
教室で見た理屈屋の顔など、脳裏から霧散していた。
自分と同じ、あるいはそれ以上に研ぎ澄まされた「正体不明の強者」。
エリザベートは、昨夜ヴェクターに指摘された「女性だから」という檻への不満を抱えていた。
その鬱屈した魂が、目の前の「正体不明の影」を、最高の獲物だと誤認させた。
「名乗りなど後だ! まずはその剣を合わせろ!」
思考よりも先に、本能が体を突き動かす。
彼女は、剣を手に、アルタイル寮の庭とラスターバン寮の庭を分ける目に見えない境界線を、躊躇なく踏み越えた。
次の瞬間、世界は剣戟と泥と衝撃に塗り潰された。