第百十五話:共振する生理 — 揺らぎの予兆
アルタイル寮の朝は早い。
クレメンスは、ひどく不機嫌な顔で、しかし手放せない救いのようにコーヒーカップを啜っていた。
「……ヴェクター。昨夜、君が『朝のコーヒーは脳を、あるいは胃を、新しい時代に強制的に適応させる』などと言わなければ、僕はまだベッドの中で昨日の分析を反芻していたはずなんだがな」
「おや、お口に合いましたか? 昨夜の薬の後にこの深煎りを流し込めば、トレンス侯爵が見せつける『消化に悪い現実』も少しは喉を通りやすくなると思いまして」
向かいに座るヴェクターは、相変わらずの食えない笑みで自分のカップを揺らしている。
クレメンスは、昨夜から続く情報の過密に頭を抱えた。
法を絶対とする支配者、情動を操る扇動者。その矛盾を、彼はようやく「制度を道具とする異物」という定義で、なんとか自分の中に落とし込もうとしていた。
だが、その努力は、食堂に現れた第三の刺客によって一瞬で粉砕された。
「……おはよう、諸君!」
食堂に現れたエリザベートの声は、朝の光よりも眩しく、そして異様に弾んでいた。
クレメンスは、コーヒーカップを口に運ぶ手を止めた。彼の目の前に座ったエリザベートの姿が、あまりに衝撃的だったからだ。
「……おい、バルフォア嬢」
クレメンスが引きつった顔で指差す。
「その顔、どうした? 鼻が少し腫れているぞ。それに、訓練着が泥だらけじゃないか」
エリザベートは、鼻の頭を無造作に擦った。
「ああ、これか? 名誉の負傷だ。……いや、勲章と言ってもいい」
彼女は、痛がるどころか、うっとりとその痛みを反芻するように笑った。その笑顔は、昨夜、退屈そうに剣を研いでいた姿とは別人のように、野性的な輝きを帯びていた。
「勲章? 朝の素振りで地面と喧嘩でもしたんですか?」
ヴェクターが横から口を挟む。彼の目は、エリザベートの服に付着した泥の種類と、鼻の打撲痕を瞬時に分析していた。
「地面ではない。……『本物』と遭ったのだ」
エリザベートは、水を一気に飲み干すと、熱っぽく語り出した。
「凄かったぞ。躊躇いなく柄で殴り、転がりながら魔力弾を撃ち、最後は泥ごと私を殴り飛ばした! 『軍人』だと言っていた。騎士のような優雅な挨拶など欠片もない。生き残るためなら何でも使う、純粋な殺意の塊だった!」
「……待て待て」
クレメンスが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「柄で殴る? 泥ごと? ……この学園に、そんな野蛮な戦い方をする生徒がいるのか?」
「いましたね、一人だけ」
ヴェクターが、可笑しそうに肩を震わせた。
「優雅さを『非効率』と断じ、勝利のためなら手段を選ばない男が」
クレメンスは、ハッとしてエリザベートを見た。
「まさか……トレンス侯爵か?」
エリザベートは、その名を聞いただけで破顔した。
「そうだ! あの男だ! いやぁ、昨夜の『ロックンロール』も良かったが、やはり肌で感じる暴力は格別だ。私の剣を弾き、最後は不意打ちで鼻を折りに来た……あんなに面白い男、戦場以外で初めて見たぞ!」
クレメンスの中で、昨夜から積み上げていた「ルーカス・フォン・トレンス像」が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
(……支配者? 扇動者? 違う、そんな高尚な話じゃない)
クレメンスは、震える手で冷めかけたコーヒーを啜った。
(淑女を泥まみれにし、鼻を折り、不意打ちで魔力を叩き込む、ただの野蛮な『軍人』だと? 昨日までの論理的な弁舌や、あの熱狂的な旋律はどこへ行った? ……支離滅裂だ。要素が多すぎて、もはや一人の人間としての整合性が取れない……!)
「……お前、鼻を折られかけて『面白い』で済ませるのか」
クレメンスは深い溜息をついた。
「普通なら『淑女への暴行』で大問題だぞ」
「何を言う! あれこそが敬意だ!」
エリザベートは拳を握りしめた。
「手加減なしの不意打ちこそ、私を『対等な敵』と認めてくれた証拠だろう! ……ああ、早くまた殺り合いたい。次はどうやってあの卑怯な手を防ぐか……」
彼女はブツブツと戦術シミュレーションを始め、猛獣のような食欲で朝食の肉料理に食らいつき始めた。
クレメンスは、疲れ切った目でヴェクターを見た。
「……おい。ヴェクター。昨夜の僕の分析は、もうゴミ箱に捨ててくれ。あの男は、僕らの知るどのカテゴリーにも当てはまらない。……ただの『災害』だ」
「ハハハ、それは手厳しい。ですが、あの方が『壁を無視して平原を作る』と言ったでしょう? その平原で最初に殴られたのは、どうやら彼女だったようですね」
ヴェクターは、楽しげにエリザベートの泥だらけの背中を眺めた。
「『着火』してしまったようですね。トレンス侯爵にとっては『迷惑なノイズ』でしょうが、彼女にとっては『運命の出会い』だ。……ご愁傷様です、閣下。貴方の周り、本当にろくな人間が集まりませんね」
朝の光の中で、エリザベートだけが異質な熱を放っている。
それは、ルーカス・フォン・トレンスという劇薬が、彼女の
「武人としての本能」を完全に覚醒させてしまった証だった。
(負けた、とは思っていない。だが、勝ったとも言えない。騎士の剣ではない。武人の礼儀でもない。あれは――生き残るための戦いだ)
彼女の瞳に宿る、狂気じみた期待。
クレメンスは、せっかくヴェクターに勧められたコーヒーが、泥のように苦く感じられ、今日一日の更なる混乱を予感して頭を抱えた。
・・・・・
・・・
放課後。夕闇が迫るアルタイル寮への渡り廊下。
クレメンスは、朝よりもひどく疲弊した足取りで歩いていた。その手にあるスレートには、今日一日のルーカスの行動が、まるで解けない暗号のように羅列されている。
「……意味が分からない。一貫性が、欠片もないんだ」
隣を歩くヴェクターは、相変わらず飄々とした顔で、手元のメモに何かを書き込んでいる。
「何がです? 今日のシュシュ……失礼、シュタイナー教授の『伝統の連続性』、素晴らしい精神論でしたね。僕は三回ほど意識が飛びかけましたが」
「皮肉を言うな。……トレンス侯爵のことだ」
クレメンスは立ち止まり、苛立ちをぶつけるようにスレートを指先で叩いた。
「昨日のあの方は、算術や魔導学といった『普遍的な理』が関わる分野では、容赦なく既存の定義を焼き払った。……だが、今日の『沈黙』は何だ? 歴史学だけじゃない。午前の『紋章学』もだ。教授が滔々と語る『伝統ある血筋の正当性』に対し、あの方は一言も発さなかった。……算術で見せた、あの定義の不備を抉り出すような鋭さは、どこへ消えた?」
「……血筋や婚姻による継承権。貴族にとっては生命線ですが、侯爵にとっては『終わった記録』に過ぎない、とか?」
「そうとしか思えん。……さらに午後の『神学』もだ。算術で『定義の厳密さ』を求めた男が、最も定義の曖昧な『神の慈悲』という言葉を完全にスルーしている。興味がないのか、あるいは神すら『計算外』のノイズだとしているのか……。極めつけは『古典文学』だ」
クレメンスは、天を仰いで深く息を吐いた。
「あの方は、過去の英雄譚や美しい詩の解釈を求める教授に対し、死んだ魚のような目で窓の外を見ていた。……ヴェクター、思い出してみろ。昨夜、あの方はあれほど豊かな感性で、魂を揺さぶるような音楽を奏でたんだぞ? なぜ言葉の芸術には、これほどまでに冷淡なんだ?」
「……あの方にとって、音楽は『今この瞬間を支配する出力』ですが、古典文学は『過去の誰かの感想』に過ぎない……。そんなところでしょうか」
「……現実に干渉できない知識には価値がない、か。なんという傲慢だ」
クレメンスは自嘲気味に笑った。彼が必死に積み上げてきた「教養」という名の城壁が、ルーカスの無関心という猛火によって、音もなく崩れ落ちていく感覚。
「昨日のあの方は『支配者』であり『扇動者』だった。だが、今日のあの方は……ただの『冷徹な計算機』だ。効率に寄与しない情報を、組織的に、徹底的に切り捨てている。……定義が、一分ごとに瓦解していくよ」
そこへ、訓練を終えたエリザベートが、どこか満足げな顔で合流する。
「……おい、バルフォア嬢。君は、今日のあの地鳴りのような騒音をどう聞いた?」
「あ? あれか。いい音だったぞ。地下で巨大な工兵隊が城壁でも崩しているような、実戦的な響きだ。……それに、トレンス侯爵のあの『耐える顔』。あれはいい。アンジェリカ姫という攪乱部隊をやり過ごしながら、本隊を確実に進めている……そんな風に見えたな」
エリザベートの直感的な軍事的評価に、クレメンスは一瞬、言葉を失った。
「……攪乱部隊、か。君のその脳筋的な解釈の方が、案外真実に近いのかもしれんな。僕らが『歴史』や『教養』に耳を傾けている間に、あの方は最初から、この学園を『攻略対象の陣地』として物理的に作り替えていた……」
クレメンスは、ヴェクターが指差した廊下の角、設置されたばかりの場違いなほど洗練された陶器の設備を見つめた。
「……紋章も、神も、詩も、あの方にとっては『平原』を作る邪魔な石ころでしかないわけか」
クレメンスは、空になった頭を振るようにして、新しい設備から漂う石鹸の匂いを嗅いだ。それは、古臭いインクと羊皮紙の匂いに満ちた学園を、強制的に上書きしようとする「新しい理」の匂いだった。
「……ヴェクター。あの方は、僕らの想像もつかない場所で、この学園の『前提』を書き換えているのかもしれない。……騒音に顔をしかめる僕らや、熱狂するアンジェリカ嬢すらも、その工程の一部に過ぎないのだとしたら……」
「ふふ。深淵の覗きすぎは体に毒ですよ。……それより、見てください」
ヴェクターが、廊下の角を曲がった先、共同の手洗い場を指差した。
そこには、朝まではなかった、奇妙に洗練された陶器の設備が、まだ微かに工事の匂いを漂わせながら設置されていた。
「……今度は、これですか」
クレメンスは、そのあまりに場違いな『清潔感』を放つ物体を前に、また一つ、自らの知性が敗北する音を聞いた。
・・・・・
・・・
夕刻。アルタイル寮の食堂は、いつもより僅かにざわついていた。
地下から響く鈍い振動は、昼間よりもはっきりと腹の底に残る。規則的な衝撃音が石造りの床を伝い、銀食器の先を微かに、しかし絶え間なく震わせていた。
ゴン。
エリザベートは眉一つ動かさず、分厚い肉の塊を力任せに切り分ける。
「基礎工事なのだろう?城壁でも崩しているのではないか? 地面が締まって良いことだ」
「……城壁は崩さないでほしいものだな。学園が崩壊しては元も子もない」
クレメンスはスープを一口飲み、波立つ水面を苦々しく見つめた。
「昨日承認された『環境基盤再構築プロジェクト』だそうですよ。既存の配管の腐食を放置すれば、数年以内に地下道は浸水する、との事です」
「……理解は出来る。必要な事ではある。だが、この速度は何だ」
ゴン。
今度はグラスの中のワインが同心円状の波紋を描いた。
「昨日の今日、ですからね。あの御方は、必要だと判断した瞬間に、世界が準備を整えるのを待たずに鍬を入れるらしい」
ヴェクターがそれを見つめ、どこか楽しげに肩をすくめる。
「学園側は『老朽化に伴う緊急措置』と説明している。だが、我々が知る学園の事務方が、一晩でこれほどの大規模な資材と人員、そして設計図を用意できるはずがない」
クレメンスは、設置されたばかりの陶器の洗面台を苦々しく思い出した。
「手続き、予算、合議……それらを全て飛び越えて、物理的な事実だけが先行している。このあまりに無機質な手際は、どうにもあの男の影がちらついて見えてしかたがない。……まるで、我々の時間を奪い取られているようだ」
「ははは、邪推ですよ。もしあれが侯爵様の私物なら、今頃紋章でも刻んで誇示しているでしょう」
ヴェクターが適当に受け流す。
誰もが「学園の決定」の裏にトレンスの意図を感じながらも、確証がない。その「否定しきれない不気味なノイズ」に、名門の矜持がさざ波を立てている。
エリザベートは、目の前の肉を断ち切る感触を楽しみながら、地下から響く振動を数えていた。
ゴン。
悪くない。地面から伝わるこの規則的な衝撃は、戦場での重工兵の槌音を思い出させ、彼女の神経を心地よく研ぎ澄ませてくれる。
だがその時、その「心地よい規則性」を汚すような、異質な湿り気を帯びた声が鼓膜を打った。
「……あの……」
見上げれば、そこにいたのは男爵令嬢だった。名は確か、シスリー。
エリザベートの直感が、即座に不快感の毛を逆立てた。
(……何だ? この間合いの詰め方は)
高位貴族の、それもバルフォア侯爵家のテーブルに、下位貴族が挨拶もなく、音もなく割り込んでくる。礼節を欠いているというより、まるでそこに「壁」があること自体に気づいていないような、薄気味悪い無垢さ。
「聞こえますよね? この音」
シスリーは、困惑したように指を組み、クレメンスを見つめた。
「……衛生設備刷新の工事だ。聞いてるだろう?」
エリザベートの隣で、クレメンスが微かに眉を寄せるのが分かった。彼の理性が「なぜ僕に?」「この距離で?」と問いかけている。だが、シスリーは構わずに言葉をこぼした。
「そうなんですけど……。でも、なんか……嫌じゃないですか?」
「嫌、だと?」
クレメンスは、無意識にスプーンを止めた。
「 壊してる音みたいで。……なんだか、ずっと続いてきた大事な物語まで、一緒に揺らされているみたいで」
その瞬間、エリザベートは見た。
隣に座るクレメンスの瞳から、鋭い知性の光がふっと消え、代わりに奇妙に柔らかな、甘ったるい光が宿るのを。
(……弛んでいる)
エリザベートには、シスリーの言葉がただの「弱音」にしか聞こえなかった。だが、クレメンスの目の奥で何かが緩むのが分かった。
理屈を探す顔ではない。理解された者の顔だ。
この場に満ちていた戦士の静謐な空気が、一瞬にして、泥濘のような、あるいは腐りかけた蜜のような、粘りつく質感に変わる。
「わはは! 違いありません!」
その粘りつく空気を力任せに引き剥がしたのは、ヴェクターの軽薄な笑いだった。
「分かりますよシュタイン嬢! 石鹸の匂いがきつすぎて、僕も鼻がムズムズしてたまらない。最近流行りのあのお菓子みたいに、甘すぎるものは僕らみたいな凡人には刺激が強すぎますね!」
ハッとして、クレメンスの意識が現実に戻る。
「……え、あ……そう、かもしれません」
だが、ヴェクターは彼女に思考の隙を与えない。
「古い羊皮紙とインクの匂いに慣れた貴族様方の鼻には、あの『清潔』は刺激が強い。単なる拒絶反応ですよ、シュタイン嬢。体が、新しすぎる空気を毒だと思い込んでいるだけだ」
ヴェクターは、シスリーの「情緒の網」を、商人の俗な解釈という剃刀で容赦なく切り裂いた。
「……そう…なの…。匂いの、せい……?」
シスリーは、自分の「切実な物語」を鼻のムズムズという俗な話にすり替えられ、戸惑ったように瞳を揺らした。
その、守ってやりたくなるような危うい沈黙を、力強い足音が踏みにじる。
「おい、シスリー。こんなところで何を油断しているんだ」
背後から現れたのは、上級生だった。取り立てて高位ではないが、育ちの良さを傲慢さで塗り固めたような顔立ち。彼はシスリーの肩を抱き寄せるように引き寄せると、彼女を「保護」する構図を露骨に作り上げ、ヴェクターを射抜くような鋭い視線を向けた。
「……ウィルソン。お前のような商人の倅が、彼女に随分と無礼な物言いをするじゃないか。彼女がこの不快な騒音に心を痛めているというのに、それを『鼻の不慣れ』だと?」
ヴェクターは、相手の剥き出しの敵意を柳に風と受け流し、いつものへらへらとした笑みを深くした。
「やぁ、これは手厳しい。僕はただ、新しい空気に馴染むには少し時間がかかるだろうと、親切心で申し上げただけですよ」
「親切だと? 卑しい帳簿の匂いが染み付いた口で、物語を語る彼女を嘲笑うな。……行こう、シスリー。こんな、伝統の欠片も理解できない連中と一緒にいては、君の心が汚れてしまう」
男子生徒は、ヴェクターを路傍の石でも見るような目で一瞥し、シスリーを伴って去っていく。
シスリーは去り際に、一度だけ困惑したような、だが「自分を理解してくれた」男子生徒への縋るような会釈を残した。
(……どいつもこいつも)
エリザベートは、その光景を見て、ますます口の中が苦くなるのを感じた。
あの男子生徒も、シスリーが発した「湿った風」に当てられた一人なのだろう。しかし、本人はそれを「気高い騎士としての救済」だと思い込んでいる。
「……気が散ったな」
エリザベートは、低く、吐き捨てるように言った。
その声に宿る冷徹な響きに、ようやく正気に戻ったクレメンスが問い返す。
「……何の話だ、バルフォア嬢。彼も少し過敏になっているだけだろう。トレンス侯爵の……いや、学園のこの強引な工事には、誰もが不満を抱いている」
クレメンスは、憑き物が落ちたような顔をしながらも、まだどこか弛んだ声で問い返す。その「弛み」が、エリザベートには我慢ならなかった。
「戦場で、ああいう湿った空気が漂うと、必ず足を取られる。……お前もだ、クレメンス。さっきから面が弛んでいるぞ。今のお前なら、誰でも背中を刺せる」
「……そうか? 僕はただ、彼女が意外にも伝統の連続性について——」
「理由など聞いていない!」
エリザベートは銀食器を置き、立ち上がった。怒っているのではない。ただ、この場に染み付いた「甘い毒」を、自分の体から追い出したかった。
「食後、修練場だ。理由は聞くな。……泥に塗れて体を動かせば、その変な『重さ』も取れるだろう」
猛然と歩き出す彼女の背中を、ヴェクターがいつもの食えない笑みで見送っている。
「……やれやれ。エリザベート様は鼻が利きますからねぇ。閣下、あの方の『渋い拳』は、甘い菓子の毒消しには最適ですよ?」
ヴェクターの言葉を、クレメンスは「訓練への急かし」としか受け取らなかった。
エリザベートは、廊下を進みながら、自分の拳を強く握りしめる。
シスリーが放ったあの空気。あれは、敵意でも悪意でもなかった。
だからこそ、厄介なのだ。
(……ただの、湿った風だ。だが、あれに吹かれ続ければ、どんな頑丈な城壁もいつかは内側から腐り落ちる)
彼女は一度だけ、窓から見える地下工事の地響きを振り返った。
地下の無機質な破壊。そして、あの女の無自覚な侵食。
王立総合学園という巨大な器に、二つの異なる「穴」が開き始めたことを、彼女の野性だけが、ぼんやりと感じ取っていた。
残されたテーブルで、ヴェクターは残りのパンをスープに浸しながら、世間話でもするように口を開いた。
「……そういえばクレメンス様。新しい商品の中に、ひどく売れ行きのいい菓子がありましてね」
「……何だ、唐突に」
まだ少し、シスリーが残していった空気の残響に意識を割かれているクレメンスが、怪訝そうに顔を上げる。
「砂糖をたっぷり使った生地を、さらに甘い蜜で煮詰めたような代物です。あまりに甘すぎて、一口食べると、しばらく他のものの味が分からなくなる。……最近の淑女たちは、それを『本物の味』だと信じ込んで、食事代わりにしているそうですよ」
ヴェクターは、どこか楽しげに自分の指先を見つめながら続けた。
「あんなもの、一度喉を通せば最後、普通のパンが砂を噛むように感じられる。……クレメンス様のような、規律正しい食事を好む方には、お勧めしませんがね」
「……フン、相変わらず極論だな、お前は」
クレメンスは、ヴェクターの言葉を「シスリーへの皮肉」ではなく、暗に「僕が彼女の話に耳を貸して、時間を無駄にした」ことへの遠回しな批判だと受け取った。あるいは、単にルーカスが持ち込む新しい文化への、ヴェクターなりの嫌味か。
「トレンス侯爵の商売は、常に極端だ。……だが、たまには口直しの甘いものも必要だろう。それを毒のように言うのは、お前の悪い癖だぞ」
「ははは、これは失礼。商売人なもので、つい原価と中毒性を計算してしまうんです」
ヴェクターはわざとらしく肩をすくめて笑った。
彼が語ったのは、あくまで新商品の菓子の話だ。しかし、その「甘さ」という言葉が、先ほどまでこの場にいたシスリーの、あの実体のない情緒の甘さと重なっていることに、クレメンスは気づかない。
「ただ……流行り物は、冷めるのも早い。熱いうちは皆、味見をしたがるだけです。……おっと、エリザベート様がお待ちですよ。早く行かないと、今度はあの方の『渋い拳』を喰らうことになります」
「……言われなくても分かっている」
クレメンスは、ヴェクターの言葉を「食事の手を止めて話し込むな」という、彼なりの不器用な急かしだと解釈して席を立った。
(ヴェクターの奴、トレンス侯爵のやり口が相当気に入らないらしい。……何でも商売の損得で語るのは、彼の悪い癖だな)
そう一人ごちて、クレメンスは修練場へと向かう。
その後ろ姿を見送りながら、ヴェクターは空になった皿に残った、わずかなスープの滴を眺めていた。
「……さて。お口に合うといいんですがね、閣下」
呟きは、独り言のように溶ける。歩き出したクレメンスにはもう届かなかった。
そこにあるのは、新秩序がもたらした「甘い不純物」への、ただの揶揄いに見えた。
ヴェクターは、空になった皿を指で弾いた。
「甘い物は、腹が減っているときほど効きますからねぇ。……空腹に流し込めば、何でも御馳走に感じる。もっとも、あとで胃がもたれるのは自分ですが」
ヴェクターは最後の一口を啜り、席をたった。
顔には笑顔が作られるが、その目は笑っていなかった。
……夜の冷気に吹かれながら、クレメンスは自分の内に残る「生理的な恐怖」の正体を反芻していた。
ヴェクターの軽口がシスリーの湿り気を削ぎ落としたことで、逆に残ったものの硬さだけが、嫌でも浮き上がってくる。
トレンス侯爵は、思想を戦わせているのではない。
地下の配管を入れ替え、石鹸の香りを広めることで、彼らが千年以上積み上げてきた「生活の感触」そのものを、生理的なレベルで強制的に書き換えている。
「……揺れているのは、僕たちの世界そのものだ」
食堂を満たす喧騒は、やがて来る嵐の前の静けさに過ぎない。
地下から響くその音は、もはや工事の音ではなく、古い王国の心臓が、強制的に機械へと置き換えられていく、手術の音のように響いていた。