剣と魔術とライフルと   作:あききし

147 / 163
第百十六話

 

第百十六話:不確かに差し出す秤

 

 

 アルタイル寮の中庭は、まだ朝靄の残る時間だというのに落ち着かなかった。

 

だが、その喧騒は、ルードヴィッヒ・ド・バルフォアが知る「工事現場」のそれとは異質なものだった。

 

石畳を軋ませる荷車。だが、車輪の軸には丁寧に油が差され、不快な悲鳴は聞こえない。積み上げられた鉄材は、種類ごとに厳密に色分けされた布で覆われ、まるで行軍前の軍需物資のように整然と並んでいた。

 

地下から響く破砕音でさえ、苛烈ではあるが、一定の拍子を刻んでいる。

 

「……何事だ」

 

ルードヴィッヒは立て札の前で足を止めた。

 

『環境基盤刷新プロジェクト 本日より地下全域再構築を開始』

 学園長の名がある。だが、その背後にある「意志」の輪郭が、あまりに鋭利だった。

 

「合議もなく、か」

 

低く吐き捨てたその背後から、やや慌ただしい、それでいて計算された足音が近づいた。

 

「おや、バルフォア卿。お早い。この騒音では、武門の鋭い耳は休まりませんか」

 

ヴェクター・ウィルソンだった。手に分厚い台帳を抱え、困惑を演じながらも、その瞳は中庭の物流を数えている。

 

「貴様も関わっているのか、この騒ぎに。商会が朝からこれほど組織的に動くとは、準備が良すぎるのではないか」

 

「いえいえ。商会としては、呼ばれたから荷を運んでいるだけでして。……ですが、少々気になることが。この荷、届く先から消えていくのですよ。まるで、あらかじめそこにあるべき場所が決まっていたかのように」

 

ヴェクターは視線だけで、地下へと吸い込まれていく資材の列を示した。滞留がない。混乱がない。それは、現場での試行錯誤を一切排除した「設計」の証明だった。

「気になることだと?」

 

「井戸と排水を握る者が、城を握る。そういう言い回しがありまして。……見てください、あの配管の輝きを。あれは、ただの修繕ではありません。『入れ替え』です。学園の血管を、根こそぎ作り変える気ですよ」

 

軽い口調だったが、ルードヴィッヒは黙った。

 

 地下で鳴る槌音が、低く響く。

 

「今回の工事、規格が一新されるようです。配管の径も、接続も。……学園の誰がそれを把握しているのか、私のような外部の者には分かりませんが」

 

「学園長の承認がある」

 

「ええ。だからこそです」

 

 ヴェクターは肩をすくめた。

 

「承認がある以上、止められない。ならば、立ち会う者が必要でしょう。地下は、目に見えませんから」

 

 ルードヴィッヒの視線が、立て札から地下へと向く。

 

「……学園の土台だ。放置はできん」

 

「騎士の家は、城壁だけでなく、基礎にも目を光らせるものでは?」

 

 ヴェクターはそれ以上踏み込まない。

 

 沈黙。

 

 破砕音。

 

 ルードヴィッヒの思考は、ゆっくりと形を成していく。

 

 トレンスの名が浮かぶ。あの少年の冷ややかな視線。学園長の決断。

 

 止められないなら──監督する。

 

「……検分役を立てる」

 

 自分の声が、思いのほか静かだった。

 

「バルフォア家が、公式に立ち会う。安全と規律の名の下に」

 

 ヴェクターは小さく瞬きをした。

 

「それは、学園長も歓迎なさるでしょう」

 

「歓迎でなくとも構わん。学園の秩序を守るのは、我々の務めだ」

 

ルードヴィッヒは中庭を見渡した。

地下で何が行われているか、知らぬままでいるわけにはいかない。

 

 そして──

 

「現場には、抑止力がいる」

 

 その言葉は、自然に出た。

 

 ヴェクターは何も言わない。

 

 ただ、わずかに首を傾げる。

 

 ルードヴィッヒの胸に、かすかな苛立ちが走る。

 

 言ってから、息を飲む。

 

戦場。地下。泥と鉄と喧騒。

守るとは、遠ざけることか。

 

 それとも──

 

 言葉が固まる。

 

「……いや、今はまだいい」

 

ルードヴィッヒは思考を振り払うように首を振った。

 

「バルフォア家として、公式な抗議の準備を進める。ウィルソン、貴様は引き続き数字を洗え」

 

それならば。トレンスの独走は抑えられる。学園長への忠誠も示せる。泥の中にあっても、檻の外へ放り出すわけではない。

自分の管理の範囲内だ。

 

「……悪くない」

 

 ルードヴィッヒは頷いた。

 

「承知いたしました。私は商人ですので、数字の揺れには敏感でして」

 

ルードヴィッヒは背筋を伸ばし、中庭を後にした。

その歩みは迷いなく、重い。

 

 

残されたヴェクターは、台帳を軽く叩いた。

地下からまた、鈍い衝撃音が響く。

 

「……基礎が固まる音ですかね」

 

誰にともなく呟く。

 

商人の顔に戻った彼は、荷車の列へと歩き出す。

 

 

井戸を握る者が城を握る。

 

だが、井戸を守ると決めた者もまた、城の一部になる。

 

地下で進む工事と同じように、盤面もまた静かに組み替えられていく。

 

誰もが、自分の秤で量り、自分の意思で動いている。

 

 少なくとも、そう信じながら。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

 昼下がり。アルタイル寮の談話サロンは、芳醇な紅茶の香りと、薄い磁器が上品に触れ合う音で満たされていた。

 

ルードヴィッヒは、第二王子派閥に連なる上位貴族の令息たちとテーブルを囲んでいた。朝の中庭で決意した「公式な抗議」の賛同者を集めるための、優雅な政治工作の場である。

 

「まったく、野蛮なことこの上ない。学園の地下を掘り返すなど、トレンスの若造は歴史と伝統を何だと心得ているのか」

 

ノイシュタット伯爵の嫡男が、眉をひそめてティーカップを置いた。

 

「同感ですな。あの耳障りな槌音のせいで、午後の詩作の講義が台無しでした。学園長も、あのような成金趣味の工事をなぜお許しになったのか……」

 

別の令息が、扇の陰で嘲笑するように同意する。サロンのあちこちで、ルーカス・フォン・トレンスへの非難と冷笑が、美しい言葉で飾られて交わされていた。

だが、ルードヴィッヒの胸中に渦巻くのは、安堵ではなく、冷ややかな苛立ちだった。

 

「……卿らのお考えはもっともだ。ならば、我々上位貴族の連名で、学園長に工事の差し止め、あるいは現場の監査委員の設置を求める嘆願書を提出すべきだと考えるが、いかがか」

 

ルードヴィッヒが本題を切り出した途端、サロンの空気が微かに、だが確実に濁った。

 

「嘆願書……ですか」

 

「いや、バルフォア卿の憂慮はごもっともですが、まだ我々に直接の実害が出たわけではありませんし……」

 

「ええ、我が家は今、領地の税収の件で財務局と折衝中でしてな。あまり事を荒立てて、あちらに無用な敵意を持たれるのは得策ではないかと……」

 

言葉を濁し、視線を逸らす令息たち。

彼らは「トレンスを嘲笑すること」で貴族としての優越感に浸りたいだけで、「実際にトレンスと戦うこと」など毛頭考えていないのだ。痛みを伴う実力行使は誰かに押し付け、自分たちは安全な圏内から茶を啜り、高みの見物を決め込もうとしている。

 

(……臆病者どもめ)

 

 ルードヴィッヒは、冷めかけた紅茶の液面を見つめながら、奥歯を噛み締めた。

 彼らがこの安全なサロンで、実体のない「伝統」や「格式」を並べ立てて自己満足に浸っている今この瞬間にも、地下ではトレンスの鉄とコンクリートが、軍隊のような正確さで学園の基盤を塗り替えているというのに。

 

旧来の貴族のやり方──派閥の連帯、嘆願、噂による牽制──そんなものは、あの冷徹な「工程」の前では、紙切れほどの役にも立たない。言葉で城は守れない。

 

「……有意義なご意見、感謝する。以後の対応は、バルフォアが預かろう」

 

ルードヴィッヒは静かに席を立った。

 

周囲の令息たちは「さすがはバルフォア卿」「頼りにしておりますぞ」と、泥を被らずに済んだ安堵の笑みを浮かべて彼を見送った。

 

サロンの扉を閉めた瞬間、ルードヴィッヒは深い疲労と共に、致命的な「孤独」を悟った。口先だけの味方は、何の重石にもならない。

 

 ならば、どうする。

 

中途半端な数の力で押し切れないのなら、圧倒的な『上からの大義名分』で現場を物理的に制圧するしかない。

ルードヴィッヒの視線は、学園のさらに奥、第二王子レオナルドの私室がある方角へと向けられた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 宵の口。

 

 第二王子レオナルドのサロンを辞したルードヴィッヒの足取りには、確かな力強さが戻っていた。

 

(……『優秀な番犬を用意しろ』、か)

 

 王子の言葉を脳内で反芻する。

 

王子やその側近たちは、地下から響く重い振動音を単なる「無作法な騒音」程度にしか捉えていなかった。だが、ルードヴィッヒにとってはそれで十分だった。「王子への不敬と無秩序を取り締まる」という、これ以上ない大義名分(カード)を手に入れたのだ。

 

これで、学園長の承認を盾にするトレンスにも、正面から「王室の威光」という楔を打ち込める。現場にバルフォアの監査役を置き、少しでも工程に不備や旧来の規律に反する動きがあれば、即座に工事を差し止める権限を得た。

 

(勝ったな。いかにトレンスの小倅が小賢しい真似をしようと、王国の秩序という土台そのものは揺るがせん)

 

ルードヴィッヒは、ようやく訪れた政治的勝利の予感に、小さく息を吐いた。

あとは、現場の物流に潜む「アラ」を叩き出すだけだ。

彼は自室へ戻ると、あらかじめ待機させていた男を呼び入れた。

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

 夜半。

 

 アルタイル寮の奥に位置する、重厚な調度品に囲まれた応接室。

 

分厚い絨毯が足音を吸い込み、窓は固く閉ざされている。昼間に学園を揺るがしたあの地盤を打つ鈍音は、今はもう聞こえない。だが、ルードヴィッヒ・ド・バルフォアの耳の奥には、確かな「地殻変動」の余韻が残っていた。

扉が静かに開閉し、廊下の足音が完全に遠ざかるのを確認してから、ヴェクター・ウィルソンは深く一礼した。

 

「夜分遅くに、お呼びと伺いまして」

 

ルードヴィッヒは執務椅子に腰を下ろしたまま、視線だけを鋭く向けた。蝋燭の炎が、彼の精悍な顔に深い陰影を作っている。

 

「工事の資材。学園に出入りする全ての流れを把握しているな」

 

「商人でございますので。埃の舞う場所には、必ず金と数字が落ちております」

 

ヴェクターは、いつものように人当たりの良い、だが本心の読めない軽い笑みを浮かべた。

 

「数字を出せ」

 

前置きのない、短い命令だった。

ヴェクターの眉がわずかに動く。彼は、この武門の嫡男が、剣ではなく『帳簿』を求めたことの重みを即座に量った。

 

「……どの範囲までをご所望で?」

「全てだ」

 

沈黙が下りた。

 

蝋燭の火が微かに揺れ、二人の間に横たわる緊張感を炙り出す。

 

やがてヴェクターは小さく肩をすくめ、提げていた革鞄から分厚い帳面を取り出した。

 

「原材料の調達経路、運搬の荷馬車の数、投入された人件費、そして資材の回転率。未決済分の見込み額も含めております。現在、王都で動いている『トレンスの数字』の全てです」

 

 トン、と。

 

机の上に置かれた帳面の音は、その内容の重さに反してひどく軽かった。

ルードヴィッヒは自らそれに手を伸ばし、表紙を開いた。

ページをめくるその目は、速い。武人として敵の剣筋を見切る目ではない。次期領主として、広大な領地の税収と物流を管理するための、冷徹な為政者の視線だった。

 

数ページ、数十行の数字の羅列を追うだけで、彼は『異常』を探り当てようとしていた。

 

突発的な深夜工事、強引な人員確保、資材の緊急搬入。通常であれば、これほどの強行軍には必ず『歪み』が生じる。割増金による利益率の低下、納期の前倒しによる混乱、現場の余剰在庫や欠品。

 

 だが。

 

利益率は、適正。

納期の乱れは、なし。

現場の余剰在庫も、なし。

全てが、恐ろしいまでに『平坦』だった。

 

「……拙速ではないな」

 

ルードヴィッヒの口から、独り言のように低い声が落ちた。

 

これほど大規模な工事を、前触れもなく開始したというのに、数字には一切の無理がない。つまり、この工事は突発的な思いつきでも、誰かに認められたいという焦りでもなく、はるか以前から緻密に計算され、準備されていた『既定路線』だったのだ。

 

ヴェクターは答えない。肯定も否定もせず、ただ静かに待っている。

 

「第二王子殿下は、あの工事を『焦りによる暴走』と評された。だが、急いではいても、内実は全く乱れていない」

 

「侯爵は、『工程』が崩れることを何よりも嫌います」

 

ヴェクターが初めて言葉を挟んだ。その声からは先ほどの軽さが消え、純粋な『分析者』としての響きを帯びていた。

ルードヴィッヒは帳面から視線を上げ、商人を見据えた。

 

「焦っているのではないのだな」

 

「焦りは必ず数字に濁りとして出ます。過剰な支払い、無駄な経費、帳尻合わせ。……今回は、それが一切出ておりません。恐ろしいほどに澄み切った数字です」

 

ヴェクターの淡々とした言葉が、ルードヴィッヒの矜持を削り取る。

トレンスは暴走などしていない。最初からこの規模の混乱を引き起こし、自分たちを組み伏せることを前提に、全てを組み上げていた。

 

 沈黙。

 

ルードヴィッヒは、バタンと音を立てて帳面を閉じた。

指先に残る冷たい感触が、そのまま背筋へと這い上がってくる。

 

「ウィルソン」

「はい」

 

「貴様の家は、かつてトレンス領の市場改革の煽りを受け、傾きかけたはずだな」

 

一瞬、室内の空気が張り詰めた。貴族が商人の過去の痛い腹を探る、鋭い一突き。

だが、ヴェクターの顔に浮かんだのは、自嘲でも怒りでもなく、清々しいほどの合理的な笑みだった。

 

「事実です。時代の流れと、相手の才覚を読み違えました。我が家は一度、死にかけております」

 

「そして、彼らに倣った」

「商人に誇りなど不要です。勝つ側に、ただ学んだだけでございます」

 

そこに私怨はない。トレンスへの過剰な恩義も語らない。あるのはただ、冷酷な現実を受け入れ、次へ適応したという『合理』だけだった。

ルードヴィッヒは、その商人の姿勢を高く評価した。感情で目が曇っていない者の言葉は、信に足る。

 

「……つまり、トレンス侯爵は暴走などしていない。最初からこの規模の混乱を引き起こすことを前提に、全てを組み上げていたということだ」

 

「少なくとも、商売と数字の観点から見れば、その通りでございます」

 

彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、窓際へと歩み寄った。

学園の地下で広がる、見えない配管。そして、自らがそこに公式の監察として、妹のエリザベートを送り込むという『最悪の一手』。

 

(……トレンス侯爵。貴様は、私が『秩序』を乱すまいと動き出し、現場に監督を置くことすらも、最初から計算に入れていたのではないか?)

 

反対派の不満を封じるため、第二王子派閥の重鎮であるバルフォア家の名を利用された。その可能性に気づいた瞬間、ルードヴィッヒの胸に苦いものが広がる。

盤面を完全に支配されている。自分は、あの年下の侯爵が描いた設計図の一部に組み込まれた安全装置に過ぎないのかもしれない。

ヴェクターは沈黙している。彼もまた、ルードヴィッヒが悟った事実に気づいているはずだ。

 

宵の口に感じた「勝利の確信」が、音を立てて崩れ去っていく。

 

レオナルド殿下に直訴し、現場の監督権限を得ること。それすらも、トレンス侯爵は最初から計算に入れていたのか。反対派の筆頭であるバルフォアが「自ら進んで」現場の治安維持を引き受けてくれれば、これほど都合の良い防波堤はない。

 

利用されている。その屈辱に奥歯を噛み締める。

だが、利用されると分かっていてなお、動かざるを得ない。それがバルフォアという家門の宿命だ。

 

何か、トレンスの「理」を物理的に、かつ強引に堰き止める楔が必要だ。それも、トレンスの規格には決して染まらず、バルフォアの古臭いほどに頑迷な秩序を体現できる者が。

 

「誰の思惑であれ、学園に無秩序が蔓延することは許されん。秩序は必要だ。現場には監督を立てる。我がバルフォアの名において、この混沌を枠に嵌める」

 

彼は、自らが『最強の盾』として利用されると分かった上で、それでもなお、己の矜持と責務のために盤面へ上がることを選んだ。逃げて安全圏から吠えるのは、彼の性分ではない。

 

ルードヴィッヒはヴェクターの目を真っ直ぐに射抜いた。脳裏に、夜会で見せた妹の、あの渇いた瞳が浮かぶ。

 

「……現場には、抑止力がいる」

 

その言葉は、暗い部屋の中で、自分自身を追い詰めるように出た。

 

ヴェクターは何も言わない。ただ、影の中でわずかに首を傾げる。

 

「妹君は……ああいう場所を嫌いますかね」

 

問いというより、独り言に近い調子だった。

ルードヴィッヒの胸に、かすかな苛立ちが走る。ヴェクターの言葉は、まるで

 

「箱入りの令嬢に、この完璧な工程を止められるのか」と試しているようにも聞こえた。

 

「嫌う? あれは戦場を求めている」

 

言ってから、ルードヴィッヒは短く息を吐いた。

 

 戦場。地下。泥と鉄と喧騒。

 

守るとは、遠ざけることか。

それとも、自分の管理する「檻」をそこまで拡張することか。

 

「……エリザベートを、現場監察官に据える」

 

一度口にすると、それは唯一の正解であるかのように彼の中で膨れ上がった。

 

「学園長直属の監察としてだ。騎士の名で、工事の安全と規律を守らせる」 

 

 それならば。

 

トレンスの独走は抑えられる。学園長への忠誠も示せる。

そして何より、妹をバルフォアの名という鎖に繋いだまま、彼女の有り余る力を「学園内」という閉ざされた系で消費させることができる。

泥の中にあっても、檻の外へ放り出すわけではない。

 

あいつが求めているのが「戦場」だというなら、私が用意してやったこの檻の中で、泥に塗れて満足していればいい。それならば、いつか自分自身の意志で、本当の破滅(トレンスの毒)へと飛び出していくこともないだろう。

 

「……悪くない。いや、これしかないのだ」

 

自分を納得させるルードヴィッヒの声は、為政者の冷徹さと、妹を犠牲にする兄の決意で濁っていた。

 

「ウィルソン。その代わり、貴様には商機をやろう。我が家の名の下に、この学園における流通の一部を公式に任せる。裏からではなく、表から堂々と数字を拾え」

 

「……光栄でございます」

 

「だが、数字は全て私の前に出せ。トレンスの動き、資材の偏り、少しでも誤魔化せば、次はないと思え」

 

それは、ヴェクターという有能な商人を、自らの手駒として取り込むための明確な取引だった。

 

ヴェクターは胸に手を当て、この夜で最も深い一礼をした。

 

「商人は、自らの命綱である『秤』を決して隠しはいたしません」

 

ルードヴィッヒは静かに頷いた。

 

レオナルドは自らの威光に酔い、アイリスは深淵を覗き込んで狂喜している。

 

だが、ルードヴィッヒは違う。彼は泥に塗れると分かっていて、自ら井戸の縁に立つことを決めた。

 

利用されているかもしれない。

だが、決して盤面から降りはしない。

この王立学園という巨大な城の秩序を、自らの意志で護り抜くために。

 

ヴェクターは淡く笑う。

 

「卿のご決断、学園のためにもなりましょう」

 

自らの意志で動き出したと信じている「盾」が、トレンスの描いた設計図の隙間に、寸分違わず嵌まり込んだ音。

ルードヴィッヒは背筋を伸ばし、窓の外、闇に沈む工事現場を見つめた。

 

自らの手で妹を「現場」という名の泥沼へ突き落とす決断。それを「救済」と呼び替え、彼の瞳には迷いはないが、その底には拭いきれない苦いものが広がっていた。

 

「……ウィルソン、下がれ。私はこれより、学園長の下へ向かう」

 

ルードヴィッヒは、第二王子から得た大義名分と、商人が残した帳簿を手に取った。

 

夜は深い。だが、この熱病のような狂気を檻に閉じ込めるためならば、躊躇う時間など彼にはなかった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。