幕間 凍てつく学園長室、あるいは「騎士」の定義
学園長室に続く重厚な回廊を歩くルードヴィッヒ・ド・バルフォアの足取りは、深夜であるにも関わらず、妙な熱と力強さを帯びていた。
第ニ王子からの「威光」という大義名分。
ヴェクターの帳簿が示した、冷徹な事実への絶望。
そして何より、妹・エリザベートを「現場という名の泥沼」へ放り込むという、兄としての非情な決断。
すべてのカードは揃い、己の腹は決まった。
これより自分は、学園の秩序を脅かすトレンス侯爵の暴走に対し、公式に「バルフォアの楔」を打ち込む。武門の嫡子として、最も困難で、最も誇り高い一手を指すのだという、ある種の悲壮な高揚感が彼の胸を満たしていた。
だが、その熱気は、
「……バルフォア卿。申し訳ございませんが、学園長は現在、先客と面会中でございます。こちらでお掛けになってお待ちください」
初老の侍従長が、一切の感情を排した声で、分厚い扉の前を塞いだのだ。
ルードヴィッヒは軽く眉を寄せたが、貴族の矜持として頷き、用意された革張りの椅子に腰を下ろした。
──そこからが、長かった。
壁の振り子時計が、規則的で無機質な音を刻む。
十分、三十分。やがて一時間が経過した。
ルードヴィッヒの胸の内で燃えていた高揚感は、徐々にじりじりとした焦燥へと変わっていく。分厚い防音扉の向こうからは、怒声はおろか、話し声一つ漏れてこない。ただ、沈黙だけが奇妙な重さを持って前室に圧しかかっていた。
「……侍従長」
ついにルードヴィッヒは、抑えきれぬ苛立ちを声の端に滲ませて尋ねた。
「夜分遅くに急を要する事態だと伝えてあるはずだ。まだ先客との話は終わらないのか?」
身分を傘に着た威圧。並の生徒や教師であれば萎縮する声色だったが、侍従長は静かに一礼しただけで、表情一つ変えなかった。
「恐れ入ります、卿。ですが、学園長閣下より『何人たりとも、私から呼ぶまではこの扉を開けてはならない』と、厳命を受けております。……今宵の面会は、それほどまでに『重い』ものとお察しください」
「……ッ」
ルードヴィッヒは舌打ちを堪え、再び背もたれに体を預けた。
この学園で、バルフォアの子息をこれほど待たせ、かつアメリア学園長にそれほどの厳命を下させる「先客」など、一人しかいない。
(ルーカス・フォン・トレンス……!)
ルードヴィッヒが内心でその名を呪った、まさにその時だった。
重厚な扉が、音もなく開いた。
ルードヴィッヒは弾かれたように立ち上がった。
扉の奥から姿を現したのは、予想通り、ルーカス・フォン・トレンスだった。
だが、ルードヴィッヒを戦慄させたのは、その姿ではない。ルーカスが纏う空気だ。
これほど長時間の、それも学園長との密室での対話を経たというのに、少年の顔には疲労も、安堵も、あるいは論破したという傲慢さすら欠片もなかった。まるで、ただの日常業務の書類にサインをしてきただけのような、完璧なまでに平坦な「虚無」。
ルーカスは、前室に立つルードヴィッヒを一瞥した。
その瞳は、邪魔者を睨むわけでも、政敵を嘲笑うわけでもなく──ただ、路傍の石ころの配置を確認しただけのような、およそ温度のない視線だった。
ルーカスは無言のまま完璧な礼を一つ残し、夜の回廊へと消えていく。
「……侍従長。トレンス侯爵は帰ったな。これで入れるはずだ」
ルードヴィッヒが扉へ向かおうとした瞬間、侍従長が再びその前に立ち塞がった。
「お待ちください、卿。まだ『お呼び』がかかっておりません」
「何だと? 部屋にはもう誰も──」
「学園長閣下が、御一人で『お考え』をまとめるお時間でございます」
それは、有無を言わさぬ拒絶だった。
ルードヴィッヒは膝の上で拳を固く握った。
壁の振り子時計が刻む音が、やけに耳につく。
カチ、カチ、カチ。
その単調な音さえ、彼にはトレンスが持ち込んだ不気味な算術のリズムのように聞こえた。
(……政治的な駆け引きなど、私には向いていない)
分かっている。
自分はあの少年のように、世界を数字で組み替える人間ではない。
だが──秩序はある。
バルフォアが守ってきた『型』がある。
それさえ守らせればいい。
それさえ守らせれば、エリザベートは──
安全なはずだ。
ヴェクターが示した「美しすぎる帳簿」の正体など、彼には分からない。
ただ、その数字の整いすぎた並びが、自分たちの知らない何かの規則のようで──まるで、誰かにあらかじめ用意された「正解」を見せられているような、得体の知れない不気味さがあった。
どうにも、落ち着かなかった。
さらに数十分ほどの、永遠とも思える沈黙が続いた。
たかが一部屋の向こう側。だが、扉の向こうからは、先ほどまでとは違う、何か異質な「気配」が漏れ出し始めていた。
怒りではない。静かで、重く、皮膚を粟立たせるような……研ぎ澄まされた刃気。
やがて、部屋の中から、澄んだ呼び鈴の音が鳴った。
チリリン、と。
「……お入りください、バルフォア卿」
侍従長が扉を開け放つ。
ルードヴィッヒは、己の胸に宿った高揚と覚悟を再び拾い上げ、胸を張って室内へと足を踏み入れた。己がこの盤面を動かす「騎士」なのだと信じて疑わぬまま。
だが、入室した瞬間に、彼は己の判断を根本から疑うことになった。
学園長室は、真夏の夜の熱気など欠片も残っていなかった。
冷たい。ただ温度が低いのではない。巨大な質量を持った魔力が、空間そのものを凍てつかせているのだ。そして微かに鼻を突くのは、紅茶の香りでも、羊皮紙の匂いでもない。
──雷が落ちた直後のような、焦げた大気の匂い。
重厚な石造りの空間を支配しているのは、皮膚を裂くような、静謐で、かつ荒れ狂う「戦意」の残滓だ。
アメリア・フォン・グロースハイムは、窓辺に立っていた。
その背筋は、王国の峻烈な盾そのもの。彼女の瞳には、教育者としての柔和さは微塵もなく、そこにあるのは、領土を侵そうとする敵軍を睨み据える「指揮官」の鋭利な光だった。
「……バルフォア卿。夜分に、何の用かしら」
その声は、低く、硬く、そして完璧に研ぎ澄まされていた。
ルードヴィッヒは、己の胸の奥で、かつてないほどの威圧感にさらされているのを自覚した。彼は十数年、彼女を「美徳を重んじる、平時の、あるいは錆びた剣」だと思っていた。だが、今目の前にいるのは、かつて空を裂き、王国の敵を蹂躙した、あの「伝説の竜騎士」そのものだ。
「学園長閣下。……地下の工事、およびトレンス侯爵の独走について、監察役を申し出に参りました」
ルードヴィッヒは、自らの声を無理やり腹の底から絞り出した。空気が、まるで氷の刃を含んでいるかのように重い。彼が語る「秩序」や「手続き」といった言葉が、今のアメリアの前では、まるで子供の遊びの規約のように軽く、無意味に響く。
アメリアはゆっくりと振り返った。その視線がルードヴィッヒを射抜いた瞬間、彼は自分の心臓が、巨大な何かに握りつぶされるような錯覚に陥った。
「……侵略。独走。卿は、そんな瑣末な言葉で、あの深淵を量ろうというのね」
アメリアの口元に、同情と嘲笑が混ざったような、残酷な笑みが浮かんだ。
だが、ルードヴィッヒはその「深淵」という言葉の真意を掴めない。彼にとってのトレンスは、あくまで「規律を乱す不気味な成金」であり、地下の工事は「秩序を惑わす不吉な騒音」に過ぎないのだ。
「深淵など、私には分かりかねます。私が知るのは、工事という名の物理的な無秩序と、そこに巻き込まれようとしている学園の危うさだけです」
「卿は妹を遠ざけたいだけでしょう」
「……ッ、何故、それを」
「分からないとでも?貴公らの家門の不器用さなど、何年も見ていればね」
アメリアは、まるで最前線で敵将の喉元に槍を突きつけるかのような、一切の慈悲を排した一歩を詰め寄った。
「貴公は、自分が政治に暗いことを知っている。あのトレンス侯爵の『狂気』に、論理で勝てないことも知っている。だからこそ、自分の目の届く『地下』という泥沼に、あの溢れんばかりの才能を持った妹を放り込むことで、家門の体面を保ち、同時に彼女を『本当の戦場』から遠ざけようという魂胆でしょう」
「……!」
「自分は泥を被らず、血を分けた妹を泥沼に突き落とし、それを『守護』と呼ぶ。……バルフォア卿。それは盾ではない。ただの卑怯な『檻』だ」
ルードヴィッヒの顔から血の気が引く。己の歪んだ正当化が、伝説の竜騎士によって一刀両断にされた瞬間だった。
図星を突かれた恥辱で、全身の血が沸騰しそうだ。
だが、それは同時に、自らの内に秘めた「醜い愛情」を正確に言い当てられたことに、驚きと、そして逆説的な開き直りを得た。
(……そうだ。私は──…)
「バルフォア卿。貴公が今、守ろうとしている『秩序』とやらは、あの少年にとって、履き古した靴の泥を落とすマットほどの価値もない。あの子は、自分自身さえも『資源』として使い捨て、千年先の未来に、鋼鉄の墓標を立てようとしている」
ルードヴィッヒの奥歯が、ギリリと鳴った。
天才ではない。自分は、トレンスの小倅のように世界を書き換える頭脳も、妹のように空を裂く剣才も持っていない。ただ「嫡子」という血の鎖に縛られた、凡庸なスペアに過ぎないのだ。
隣国からは「雷鳴」が迫り、足元からは「合理」という名の毒が湧き上がってくる。この狂った時代の中で、政治に弱いバルフォアが生き残るには、泥を被ってでも誰かに「役目」を押し付けるしかない。
それが、最愛の妹の翼を折る行為だとしても。自分しか、泥を被る決断を下せる者はいないのだから。
彼はその脆く、痛ましい絶望を、高位貴族としての「傲慢な仮面」で強引に覆い隠した。
「……なんとでも仰っていただいて構いません、学園長閣下」
ルードヴィッヒは、自らの剣帯に触れるかのように、胸を張った。震える膝を、武門の意地だけで縫い留める。
「卑怯と呼ばれようと、檻と蔑まれようと、バルフォアは王国の『支柱』です。現場の無秩序は、我が家門の剣──エリザベートが必ずや統制してみせましょう」
アメリアは更に一歩、ルードヴィッヒに歩み寄った。
一歩。それだけで、ルードヴィッヒの足が、無意識に後ろへ退こうとするのを、彼は己のプライドだけで繋ぎ止めた。
「卿に問います。貴公に、その『深淵』を覗き込む覚悟はあるかしら」
「……!」
「トレンス侯爵は、契約という名の『枷』を自らに嵌めてみせた。法を遵守し、礼節を尽くし、そして冷徹に、我々の足元の土壌を、すべて自身の規格で上書きしようとしている。……それは、剣で領土を奪うよりも、遥かに苛烈で、逃れようのない『変質』だ」
アメリアは、ルードヴィッヒの首筋に冷たい刃を押し当てるかのような、感情を削ぎ落とした声で続けた。
「貴公が現場に立つということは、単なる『監督』ではない。あの少年の『狂気』に、バルフォアという名の鉄塊を投げ込み、その摩擦で貴公自身が焼き切れるか、あるいは彼の歯車を狂わせるか……その賭けに加わるということよ。……卿に、その身を投じる準備ができているのか、と聞いているの」
ルードヴィッヒは、喉の乾きを感じながらも、アメリアの鋭い眼差しを真正面から受け止めた。
空間を満たす濃密な魔圧に焼かれているのか、指先がチリチリと炙られるかのような痛みが走る。あまりの威圧感に、今立っている足の感覚すらもはや定かではない。
(……ッ)
圧倒されていた。絶望的な戦力差に。抜き身の権威に。
所詮は錆びた剣と嘲っていた自分を呪いたかった。
膝を折り、ひれ伏したい衝動が渦巻いている。騎士としての生存本能が、絶対強者の前に平伏せと激しい警鐘を鳴らしているのだ。
だが、それでも目は逸らさない。逸らすわけにはいかない。
彼は、感覚の消えかけた足を、己の意地という杭で床に打ち付けた。
押し潰されそうになりながらも、彼は一つの事実に気づいていた。
(……ああ、そうか。この方も、戦っていらっしゃるのだ)
学園長という地位に安住し、錆びついていたはずのこの女性が、今、少年一人の出現によって、十数年ぶりにその「剣」を研ぎ直したのだ。ならば、武門の嫡子である自分が、ここで退くわけにはいかない。
これは――
バルフォアの役目だ。
「……覚悟の上です。学園長閣下。たとえ、我が身がその摩擦で消え失せようとも、バルフォアは、学園の、そして王国の『支柱』であることをやめはしません」
ルードヴィッヒは、目を合わせ姿勢を正した。
アメリアは、その答えを、しばらくの間、無言で吟味した。
軽蔑するでもなく、称賛するでもない。ただ、巨大な歴史のうねりの中で、押し潰されまいと必死に虚勢を張る凡庸な青年の姿を、静かに検分していた。
「……よろしい」
アメリアは、手元の分厚い羊皮紙を引き寄せた。そして、羽ペンを走らせ、迷いなくバルフォア家を『公式環境監察官』に任命する一筆を書き殴る。
ダンッ!
最後に押された学園長の承認印が、まるで断頭台の刃が落ちたかのように、重く、非情な音を立てて机を叩いた。
「これが、貴公が妹君の首に巻きつけた『公式な鎖』だ。卿の意味を、その目で、現場の泥の中で見つけなさい」
アメリアは、インクの乾ききっていないその許可証を、ルードヴィッヒの胸元へ滑らせた。カサリ、と乾いた、非情な音が響く。
「……行きなさい、卿。貴公が守ろうとするその古き良き『檻』が、ルーカス・フォン・トレンスの『合理』の前に、どれほどの強度を持つのか。……楽しみにしておくわ」
ルードヴィッヒは、手の中の羊皮紙を強く握りしめた。
(……エリザベート。これでいい。
お前を戦場という死地から遠ざけ、私の目の届く檻の中で生かしてやれる)
彼はそう確信したまま深く一礼し、部屋を辞した。
廊下に出た瞬間、真夏の夜の蒸し暑い空気が、奇妙に生温かく、そして優しく感じられた。
(……怪物だ。あの男も、そして学園長も)
ルードヴィッヒは、自分の手が震えているのを見つめた。
恐怖ではない。
武人として、これほどまでに巨大な「壁」と「剣」の間に立たされることへの、逃れようのない高揚だった。
逃げ場はない。
それでも退く気はなかった。
彼は己の意地を胸に、暗い回廊の奥へと歩み去っていく。
一方、残されたアメリアは、暗い窓辺からその背中を見送っていた。
(……哀れな番犬)
貴公が鎖で繋ぎ止めたつもりでいる妹は――
今この瞬間にも、貴公の知らない言語で書かれた「戦場」へ、自ら飛び込もうとしている。
アメリアは静かに目を細めた。
ルードヴィッヒの背中は、自分が差し出したその「救済」が、どれほど残酷な免罪符になるのか――まだ知らない。
彼女は再び窓の外へと視線を戻した。
その背中はすでに凡庸な青年との対話を終え、はるか遠く、トレンス領の暗闇を見据えていた。