第百十七話 番犬の鎖と狂戦士の剣、あるいは秤の行方
翌朝
アルタイル寮、談話室。
エリザベートは、重厚なマホガニーのテーブルに愛剣を叩きつけた。
「……番犬、だと」
低い唸り声。
先ほどの兄ルードヴィッヒからの言葉が、胃の奥で泥のように渦巻いている。
──地下の環境基盤工事の監察を命じる。バルフォアの名において、現場の安全と規律を維持せよ──
聞こえはいい。
だが、実態はトレンス侯爵が起こした泥騒ぎの後始末だ。誇り高き騎士の剣を、下水管の護衛に振るえというのか。
「……バルフォアの責務。秩序の維持。馬鹿馬鹿しい。あの男の無機質な工事に、我が家の家紋を貼り付けて安心したいだけではないか……!」
兄は間違っていない。貴族としては正しい。
だからこそ、反吐が出る。
自分が求められているのは「戦士」としての力ではない。バルフォアという「看板」だ。
ギリ、と柄を握りしめたその時。
「おや、ご機嫌斜めで。朝食の肉が硬すぎましたか?」
へらへらとした笑みを浮かべ、ヴェクター・ウィルソンが顔を出した。
エリザベートは一瞥もくれずに鼻を鳴らす。
「失せろ、商人。貴様らの帳簿の都合で、私が地下の番犬にされたんだ。八つ裂きにされたくなければ視界から消えろ」
「それはご愁傷様で」
ヴェクターは怯えるそぶりも見せず、向かいのソファに腰を下ろした。
「ルードヴィッヒ卿も堅物だ。あんな泥まみれの現場の『見張り役』など、ご令嬢に任せる仕事ではないのに」
「見張り役だと?」
エリザベートの目が細まる。殺気が漏れた。
「ええ。何せトレンス侯爵は、『無能な旧弊どもなど放っておけ、勝手に病気になって死ぬ』と言わんばかりに、警備一つ置かずに完全に現場を放置していますからね」
「……放置、している?」
予想外の言葉に、エリザベートの眉が動く。
「はい。そして、困ったことに……昨日の食堂で、シュタイン嬢が発したあの『伝統を守れ』という湿った空気に当てられた一部の生徒たちが、実力行使で工事を止めようと地下に押し掛ける準備をしているらしくて」
「……あいつ、防衛線を放棄しているのか?」
ヴェクターは、わざとらしく困ったように肩をすくめた。
「ええ。今の地下には『騎士様方』が安心して見下ろせる防衛線など見当たりません。侯爵は最初から、暴徒など意に介していない。……いや、正確にはこう言うところでしょうか」
ヴェクターの瞳の奥で、商人の笑みが冷ややかに細められた。
「『騎士道など、下水管の詰まりを前にして何の役にも立たない。ましてや、暴徒を鎮圧するような泥仕事に、優雅な騎士様方はお呼びじゃない』……と」
ピタリ、と。
エリザベートの指が、剣の柄の上で止まった。
『優雅な騎士様方はお呼びじゃない』
その言葉が、彼女の脳内で起爆した。
兄から押し付けられた「監察」という退屈な命令が、一瞬にしてその形を変え、燃え上がる。
これは、見張りではない。
あの傲慢な男が投げ捨てた「戦場」だ。
そしてそこには、昨日から自分を苛立たせていた「甘ったるい暴徒ども」が、自ら飛び込んでくる。
「……騎士の剣が役に立たない、だと?」
エリザベートはゆっくりと立ち上がった。
唇の端が、凶暴な弧を描いて吊り上がる。それは高貴な令嬢のものではない。檻の鍵を壊された肉食獣の、獰猛で純粋な歓喜だった。
「あいつが『役に立たない』と抜かした剣が、あの薄暗い肥溜めの中でどれほど『実用的』に暴れ回れるか……。あの傲慢な軍人に、物理的に証明してやるだけの話だ」
彼女が握る剣は、もう「バルフォアの看板」ではない。
自らの闘争と、生理的嫌悪を叩き潰すための、剥き出しの「牙」だ。
「……ヴェクター。その暴徒どもの数は?」
「さぁ、数十人は下らないかと。……おや? まさかバルフォア嬢、お一人で制圧に向かわれるおつもりですか? ルードヴィッヒ卿の命令は、あくまで『安全の監察』では……」
ヴェクターは白々しく驚いてみせた。
「兄の命令など知ったことか」
バサリ、とエリザベートは外套を翻した。
「これは『監察』ではない。害虫駆除だ。……昨日のあの『甘い毒気』を、実力で叩き潰せるなら安いものだ」
弾かれたように談話室の扉へ向かう。
だが、部屋を飛び出す直前、彼女は足を止めずに肩越しに言い放った。
「……商人。私を煽ったツケだ。あとで訓練場に来い」
バタン、と重厚な扉が閉まる。
静寂が戻った談話室で、ヴェクターは空になったソファを見つめ、思わず引きつった笑いを浮かべて小さく肩をすくめた。
「……やれやれ。ルードヴィッヒ卿がせっかく用意した『鎖』も、首輪をつける犬を間違えれば、ただの『噛みつく理由』に過ぎない」
彼は冷徹な狙撃手の目を取り戻し、窓の外へ視線を向ける。
ルードヴィッヒは「秩序」を求めて盤面に立った。
エリザベートは「戦場」を求めて地下へ駆けた。
だが、その盤面も戦場も、最初からあの男が用意した『汚物処理の設計図』の上に過ぎない。
「……おまけに、こっちまで噛まれる羽目になるとは……」
ヴェクターの呟きは、地下から響く無機質な破砕音に、静かに吸い込まれていった。
昼──羊皮紙の死と、冷たい数字
アルタイル寮、図書室。
クレメンス・ド・ノイマンは、うず高く積まれた歴史書と法学の写本の中で、血走った目をこすっていた。
インクと古い紙の匂い。
彼がこれまで信じてきた、世界を読み解くための「正解」の匂いだ。
だが、いくらページをめくっても、あの男——ルーカス・フォン・トレンスの行動を説明する定義は見つからない。
「……違う。暴君でもない。扇動者でもない。だが、ただの無教養な軍人でもない」
ぶつぶつと呟く。
昨日のシスリーの言葉が、まだ耳の奥にこびりついている。
──続いてきた大事な物語が、揺らされている──
その甘い恐怖に、彼は確かに共鳴しかけた。古い歴史が壊されることへの、本能的な恐怖。
「……お悩みで? クレメンス様」
声が落ちた。
見上げれば、ヴェクター・ウィルソンが立っていた。その手には、図書室には似つかわしくない、真新しい、分厚い紙の束がある。
「ウィルソン。……悪いが、商人の世間話に付き合っている暇はない。僕は今、あの男の行動原理を……この学園の『連続性』をどう解釈すべきか、探している」
「死んだ人間の
ヴェクターは、薄く笑った。
「古い地図は捨てろと申し上げたはずです。……侯爵様が今、この学園を、いや、この国をどうやって支配しようとしているか。その『本当の陣形図』を、僕の商会の伝手で手に入れてきました」
ドサリ、と。
ヴェクターが机の中央に放り投げた束が、クレメンスの積み上げた歴史書を無造作に押し退けた。
クレメンスは眉をひそめ、その束を手にとる。
それは、思想書でも法典でもなかった。
「……なんだ、これは。配管の設計図? いや、この膨大な数字の羅列は……」
「王都の各区画、および周辺諸国における過去数十年の感染症の流行規模。それに伴う人口動態と、税収低下の相関データです」
ヴェクターは、クレメンスの顔を覗き込むように身を乗り出した。
「そして次項にあるのが、それを『最新の衛生規格』で改善した場合の、労働力の損失回避と国家基盤の安定化の予測値。……ご丁寧に、すでに改革を終えているトレンス領の、異常なまでの生存率と人口増加の確証データまで添えられています」
クレメンスの息が止まった。
視線が、紙の数字を走る。
そこには、貴族たちが「瘴気」や「神の試練」と呼んで諦めてきた大陸規模の死と病が、ただの『物理的なエラー』として無機質に計算され、処理されていた。
「……馬鹿な」
クレメンスの声が震える。
「侯爵は、思想や伝統で学園を支配する気など毛頭ないんですよ、閣下」
ヴェクターの囁きが、図書室の静寂に響く。
「彼は、この学園を足掛かりにして、国家の『生存環境』という最も根源的なインフラを独占しようとしている。……思想などという曖昧なものではなく、自分が設備と技術を止めれば、王都は数日で麻痺するという『物理的な生殺与奪』を握るためにね」
クレメンスの脳内で、すべての矛盾が、完璧な一つの定義へと収束していく。
歴史への無関心。算術への執着。泥にまみれた暴力。強引な下水工事。
そうだ。
ルーカス・フォン・トレンスは政治家ではない。
王国を支配しようとしているのでもない。
彼はただ——国家という仕組みの『生存条件』を握ろうとしている。
貴族の血筋も、格式も、致死性の細菌の前では平等に無価値だ。
ルーカスは、その「死の平等」を盾に取り、清潔という名の新しい階級を創り出そうとしている。
「……ハッ」
クレメンスの口から、乾いた笑いが漏れた。
「ハハハッ……! そういうことか……! 我々が『権力』だと思っていたものは、彼にとってはただの『飾り』に過ぎない。彼が見ているのは、もっと下だ。我々の足元……生命の基盤そのもの……!」
クレメンスは、震える手で設計図を強く握りしめた。
昨日の、シスリーがもたらした「甘い物語」の残滓が、この冷徹で大陸規模の「数字」の前に、見る影もなく消え去っていく。
物語など、下水管が詰まり都市が疫病に沈めば悪臭に掻き消される、ただの娯楽に過ぎないのだ。
「……どうやら、視界が開けたようですね」
ヴェクターが、満足げに目を細める。
「ああ。ありがとう、ウィルソン。……僕は、とんでもない思い上がりをしていた。あの男の底知れなさを、古い物差しで測ろうとしていた」
クレメンスは、机の上の歴史書を、迷いなく脇へと追いやった。
そして、青白い顔に、知的な興奮と、恐怖の入り混じった笑みを浮かべる。
「僕は、この数字を検証する。彼が持ち込んだこの『新しい理』が、本当に王都の致死率をコントロールできるのか……。もしそれが真実なら、我々貴族の存在意義そのものが、根本から書き換えられることになる」
「それは重畳。学問の徒として、正しい姿かと」
ヴェクターは深く一礼し、踵を返した。
図書室の扉を開ける直前、彼は背中越しにポツリとこぼす。
「……お気をつけて、閣下。地下では今頃、古い物語に縋る『甘ったるい暴徒』たちが、バルフォア嬢の剣によって物理的に書き換えられている最中でしょうから」
扉が閉まる。
クレメンスはその言葉に一瞬だけ目を伏せたが、すぐに目の前の「数字」へと没頭した。
眼下で流れるであろう同級生たちの血よりも、紙の上の致死率の推移の方が、今の彼にとっては遥かに重大な『真実』だった。
外から微かに聞こえる破砕音は、もはや恐怖の対象ではなかった。
それは、古い世界が解体され、新しい秩序が産声を上げる「確かな鼓動」として、彼の知性を激しく刺激し続けていた。
・・・・・
・・・
ヴェクターは、自室の暗がりに沈んでいた。
机の上には、使い古された小さな秤が置かれている。彼はその一方の皿に、騎士の矜持を象徴するような精巧な銀のボタンを載せ、もう一方には、ただの歪な鉄屑を載せた。
指先で軽く弾くと、秤はどちらに傾くべきか迷うように、細かく、執拗に震え続ける。
「……やはり、商売に秤は欠かせない。これほど精確で、これほど素直に傾くのだから」
独り言ちるその声は、談話室で見せていた軽薄な響きを削ぎ落とした、平坦で冷たいものだった。
ふと脳裏を過ったのは、年齢を偽ってまで海兵隊に志願したあの日の、剥き出しの好奇心だった。あの頃の自分にとって、ルーカス・トレンスは「世界を最高に面白くしてくれる大将」だった。
退屈な商家の次男坊という椅子を捨て、仮面を被り、未知の戦場を駆け抜ける。それは彼にとって、人生で初めて「自分がまともに機能している」という全能感に満ちた、極上の娯楽だった。
だが。
──あまり自分を偽りすぎると、本質を見失うぞ。
ルーカスが放ったその言葉が、耳の奥で冷たく反響する。
ヴェクターは、自分の口元を指でなぞった。
「……飲み込まれる、か。皮肉が効きすぎている」
ヴェクターは、自嘲気味に口角を上げた。
自分は「潜入」という役割のために、いくつもの仮面を着替えてきた。それはあくまで、中身のある自分が「演じている」自覚があったからだ。
今、笑っているだろうか。それとも、無表情だろうか。
鏡を見ずとも、「どのパッケージ」を装着しているか、自分でも判別がつかなくなっているのではないか。
「……ですが。閣下」
彼は秤の皿を、指先で乱暴に押し潰した。
ガシャリ、と不快な金属音が響く。
銀のボタンも鉄屑も、無理やり水平に固定される。
「本質など、この泥沼の学園で何の役に立つ。……偽り続けて、欺き通して、最後に『勝利』という数字だけが残れば、中身が空っぽでも
そう呟きながら、彼は無意識に、自分の顔を剥ぎ取ろうとするかのように頬を強く掻いた。
ルーカスの指摘は、彼が最も触れられたくない「綻び」を正確に射抜いていた。
道化を演じ、狙撃手の目で世界を測り、商人の口先で人を動かす。その多重構造の果てに、ヴェクター・ウィルソンという「個」の輪郭が、霧のように薄れている。
「……あの日、あなたが鳴らしたドラムの音だけが、今の僕の心拍数だ」
彼は机の引き出しから、一発の錆びた弾丸を取り出し、秤の真ん中に置いた。
針は、どちらの価値にも与せず、狂ったように左右へ振れる。
窓の外、地下から響く無機質な破砕音が、彼の耳には「自分を形作る部品が削れる音」のように聞こえていた。
「…………秩序とは、時に牙を伴うものだ。そして、牙を剥き出しにするには、まず自分を殺さなきゃならない」
ヴェクターの呟きは、暗い部屋の隅に溜まった澱みの中へ、音もなく溶けて消えた。