第百十八話 余白:鼓膜に刻まれた不協和音
真夜中。
アルタイル寮の自室で、ゼオンは暗闇の中、ベッドの上で彫像のように座り込んでいた。
……ようやく、止まった。
昼間、講堂の床を震わせ、マルチネス教授の言葉を文字通り粉砕したあの野蛮な重低音。消灯時間を過ぎてもなお、遠くで地鳴りのように響き続けていたあの不快な振動が、今は嘘のように消え去っている。
だが、静寂が訪れたはずの部屋で、ゼオンの耳の奥には依然として「それ」が居座っていた。
(……まだ、揺れている)
目を閉じれば、地下で巨大な鋼鉄の爪が石を削り、泥を噛み砕く、あの規則性のない「ガリガリ」という不快な高音が蘇る。それは、彼が何年もかけて心の中に築き上げてきた「高潔な貴族の学び舎」という理想の壁に、無遠慮なひび割れを作っていく音だった。
ゼオンは、自分の拳をシーツの上で強く握りしめた。
(なぜだ。なぜ、誰も止めなかった? 教授も、学園の管理責任者も。あのような無秩序を『補修』という言葉一つで飲み込み、精神論で誤魔化した……)
彼の脳裏には、今日の講義での自分の姿が浮かぶ。
『認めません』
そう叫んだ時の自分の声。あの時、確かに自分は正しいことを言ったはずだ。規律は、平穏な時だけでなく、混乱の時にこそ厳格に運用されなければならない。理由も明かされぬ振動が、知性を研鑽する場を侵食することを許してはならない。
だが。
耳に残るこの残響は、そんな彼の正論を冷笑しているように聞こえた。
『理由が分からぬからと叫ぶのは、無知な平民の仕草だ』
教授の放った言葉が、不快な高音とともに鼓膜を打つ。
さらに、先日のパーティーでの、あの男――ルーカス・フォン・トレンスの冷淡な声が、異音の隙間に割り込んでくる。
『君の正義とやらは……』
「……違う」
ゼオンは、暗闇の中で小さく呟いた。
自分の正義は、決して自己満足ではない。リナを救いたいという願いも、学園の静謐を守りたいという憤りも、すべては「正しい場所を、正しく保つ」という、純粋な義務感から来ている。
だが、今日の騒音は、彼のその「正しさ」を物理的に揺さぶった。
工事の音は、ゼオンが最も信頼していた「学園のルール」が、トレンスという異物の介入によって、いとも容易く歪められてしまう現実を、不快な振動として骨にまで刻みつけたのだ。
(クララは……クラリーベルは、これを『現実』だと言うのだろうか)
夕食の席で彼女が見せた、あの冷静な眼差しを思い出す。
彼女は、この異音の「発生源」と「論理の穴」を探ろうとしていた。感情的に憤るゼオンとは対照的に、彼女はこの不快なノイズさえも、攻略すべき「盤上の駒」として処理しようとしていた。
ゼオンは、ベッドから足を下ろし、冷たい石の床に足をつけた。
微かな振動すら残っていないはずの床が、まだどこか波打っているように感じられる。
(私は、認めない。たとえどれほど強力な力が背景にあろうとも、理由なき破壊が『正義』としてまかり通るなど、あってはならないことだ)
耳の奥で鳴り続ける幻聴のような金属音を、彼は自身の「闘志」へと無理やり変換しようとした。
この不快な残響が消える頃には、自分はさらに強く、揺るぎない規範を身につけていなければならない。そうでなければ、あの不規則な重機の音に、自分の心まで粉々に砕かれてしまう。
「……トレンス。君が何を企んでいようと、私はこの学園のルールという盾を持って、君の無秩序を押し返す」
窓の外、静まり返った学園の闇を見つめながら、ゼオンは誓った。
耳に残る嫌な感触は、彼にとって、忘れてはならない「悪の予兆」として、深く、重く、その魂に沈殿していった。
・・・・・
・・・
アルタイル寮の食堂に差し込む朝の光は、いつも通り神聖で、規律正しい一日の始まりを告げていた。しかし、向かい合わせに座るゼオンの顔を見て、クラリーベルは持っていたティーカップを静かに置いた。
「……ゼオン。鏡を見たかしら? 目の下に、立派な隈ができているわよ」
ゼオンは、目の前の簡素な全粒粉パンを凝視したまま、力なく答えた。
「……おはよう、クララ。見たつもりだ。だが、身だしなみは整えたはずだ」
「整えたのは襟元だけよ。顔色が最悪だわ。まさか、昨夜の工事の音で眠れなかったの?」
ゼオンはパンを千切る手を止め、小さく、だが重々しく頷いた。
「……止んだ後も、ずっと耳の奥で鳴り続けていたんだ。あの、石を削り、伝統を土足で踏み荒らすような野蛮な音が。目を閉じると、講堂の床がまだ揺れているような錯覚に陥って……」
ゼオンの声は、睡眠不足による疲労でいつもより低く、掠れていた。彼にとってあの騒音は、単なる物理的な現象ではなく、自らが信じる「平穏な秩序」が、何者かの勝手な論理で侵食されたという精神的な傷痕となっていた。
「真面目すぎるのも考えものね。あれはただの施設改修。そう割り切って、耳栓でもすればよかったのよ」
「そんな欺瞞ができるか! 理由なき混乱を耳栓で塞ぐのは、不正を前に目を閉じるのと同じだ」
ゼオンの瞳に、寝不足特有の鋭く、どこか危うい光が宿る。クラリーベルは内心で深いため息をついた。彼がこうなると、どれほど現実的なアドバイスをしても「正義のフィルター」で弾かれてしまう。
「……わかったわ。でも、その隈だらけの顔で『正義』を語っても、説得力が欠けるわよ。まずはしっかり食べなさい」
クラリーベルは、自分のプレートから、栄養価の高い温かなスープをゼオンの方へ押しやった。
「……すまない。君の配慮には感謝する」
ゼオンがゆっくりとスープを口に運んだ、その時だった。
隣のテーブルから、レガリア寮の男子生徒たちの、どこか浮き足立った話し声が聞こえてきた。
「……おい、聞いたか? 寮の裏手にある新しい洗面所。あんなに真っ白で滑らかな陶器、見たことがないぞ」
「こうきん…コーティングだそうだ。触れるだけで汚れが落ちる。まるで王宮の賓客用のようだぞ」
ゼオンの手が、ぴたりと止まった。
(新しい洗面所……? 昨夜のあの騒音の正体は、それなのか?)
「行ってみましょう、ゼオン」
クラリーベルが、冷徹なまでに理知的な瞳で彼を見つめた。
「耳に残るその音が、一体何を生み出したのか。あなたのその曇った目で、直接確かめるべきよ。……それが、トレンス侯爵の用意した『新しいルール』の正体かもしれないのだから」
ゼオンは、クラリーベルに促されるように立ち上がった。
寝不足でふらつく足取りを、自らの「正義」を杖にして支えながら、彼は不快な残響の「終着点」へと向かう決意を固めた。
石階段へと続く踊り場は、もはやゼオンの知る「学び舎」ではなかった。
黒く澱んだ人だかり。湿り気を帯びた囁き声。それは、規律ある学生の集いなどではなく、出口を失った不安が煮え詰まった、醜悪な群衆の塊にしか見えなかった。
「説明を求めるだけだ」
「工事は止まったと言っていたではないか」
「学園長の承認だと? 我々には何の説明もないぞ」
その不満を断ち切るように、地下の深淵から低い震動がせり上がってきた。
ゴン。
(……これが、王立学園の姿か?)
ゼオンは、クラリーベルの隣で、手すりを握りしめた。睡眠不足で熱を持った脳に、群衆の負の感情が泥のように流れ込んでくる。耳の奥では、昨夜からの残響が、今もなお神経を逆撫でしていた。
腹に響く鈍い衝撃。昨日のような暴力的な破砕音ではない。それは、硬い岩盤に巨大な楔を打ち込み、世界の構造を内側から組み替えていくような、傲慢で正確な律動だった。
その怒号の先、地下への入り口を塞ぐように、二人の歩哨が立っていた。
彼らの姿は、この場に集まった貴族生徒たちの常識を、根本から逆撫でするものだった。
完璧にプレスされたネイビーブルーのジャケットに、真っ白なズボン。汚れ一つない、一糸乱れぬ礼服。彼らは、詰め寄る群衆の怒号も、微かな地鳴りも、まるで存在しないかのように、石像のごとく微動だにせず、ただ前方を凝視していた。
「……どけ! 我々は学園の責任者を出せと言っている!」
学生の一人が、歩哨の胸元に掴みかかろうとする。その瞬間、歩哨の一人が、感情の欠片もない、冷徹な声を発した。
「――この先は立ち入り禁止区域です。危険ですので、お下がりください」
寸分違わぬ、マニュアル通りの宣告。その無機質な拒絶が、ゼオン・ド・フィアットを含む群衆の神経をさらに逆撫でした。ゼオンは、シスリーが漏らした「伝統への郷愁」を自らの騎士道的正義でコーティングし、最前列で拳を握りしめていた。
「ふざけるな! 理由も明かさぬ泥まみれの鉄塊で、我々の学びの場を踏みにじっておいて、何が危険だ! 維持管理部門の独断か? それとも学園の腐敗か? 説明責任を果たせ!」
ゼオンの叫びは、周囲の学生たちの不満を代弁する形となり、再び空気が加熱する。
彼らにとって、この工事は「学園側の不当な不手際」であり、この歩哨たちは、その「不当な権力」を体現する、言いやすい排斥対象に過ぎなかった。
だが、歩哨たちは取り合わなかった。掴みかかろうとするゼオンの手を、感情のない瞳で見つめ、再び同じ言葉を繰り返す。
「立ち入り禁止区域です。お下がりください」
その、論理的な対話を拒絶する「手順」だけの対応に、ゼオンが激昂し、拳を振り上げた、その時だった。
階段の上から硬質な金属音が響いた。
自然と人垣が、割れる。
エリザベート・ド・バルフォアが、重い足取りで降りてきた。黒い外套が翻るたび、腰に佩いた剣が石段に触れ、火花を散らすような鋭い音を立てる。
彼女は踊り場の中央で足を止めた。
仁王立ちになり、鋭利な刃物のような視線で群衆をなぞる。
「……何の集まりだ」
地這うような低い声。それだけで、湿ったざわめきが凍りついた。
学生の一人が、震える足で前へ出た。家紋入りの上質な外套を羽織った青年だ。
「バルフォア嬢。我々は抗議に来たわけではありません。ただ、地下で何が行われているのか説明を――」
「抗議ではない?」
エリザベートの眉が、嘲るように跳ね上がった。
「階段を塞ぎ、工事の入口を埋めておいてか。貴族の言う『対話』とは、随分と物理的な重みを伴うのだな」
「我々は秩序を守るために――」
「秩序?」
エリザベートの口元が、歪な弧を描いた。
「群れて押しかけ、数の暴力で要求を通すことが、貴公の守るべき秩序か」
彼女の手が、ゆっくりと、だが迷いなく剣の柄に掛けられた。
「学園長の承認がある工事だ。それを妨げるというなら、それは学園の意志への反逆と見なす。……退け」
石段の空気が、一気に沸点を超えて凍りついた。
剣はまだ鞘の中にある。だが、あと半歩踏み込めば、容赦のない「鉄の裁定」が下る。学生たちの背筋に、冷たい汗が伝った。
青年が、絞り出すように声を上げた。
「我々は……我々はただ、不当な不利益を――!」
「説明を求めるなら代表を立てろ。この人数で押しかけるのは、ただの恫喝だ」
エリザベートが、一歩前に出る。
「散れ。ここは監察対象だ。これ以上の滞留は、公務執行妨害と断ずる」
その地を這うような声を聞いた瞬間、ゼオンの背筋に冷たい震えが走った。彼女の纏う空気は、正義ではない。それは、圧倒的な「個」の暴力による「全」の圧殺だ。
抗議の声を上げようとした学生を、彼女は剣の柄に手をかけたまま、言葉の刃で切り捨てる。
(違う。そんな暴力で、彼らの真実を封じていいはずがない!)
ゼオンは一歩前に出ようとした。だが、その足は、エリザベートから放たれる剥き出しの殺気に縫い付けられたように動かない。正義を叫びたい口内は、異常に乾いていた。
エリザベートが放つのは、戦場の論理だ。そこには、ゼオンが理想とする「法による対話」の余地など、塵ほども存在しなかった。
そして、その暴力的な静寂を綺麗に塗りつぶすように、頭上から白磁のような声が降る。
「――随分と賑やかですこと」
アイリス・ド・アークランド。
紅の残像が通り抜けるたび、ゼオンの視界に映る世界が、歪に整えられていく。彼女の微笑み、彼女の扇子の動き、そのすべてが、ゼオンには「優雅という名の処刑」に見えた。
エリザベートは視線だけで背後を射抜く。
「……アークランド。貴様か」
アイリスは、扇子の隙間から微かに目を細めた。
「ご苦労さまですわ、バルフォア嬢。野蛮な声を鎮めるのは、さぞかし骨の折れる役目でしょう。……でも、貴女の剣をこんな泥に汚す必要はありませんわ」
皮肉も敵意も、極上の絹で包み込んだような余裕。
彼女は学生たちの前に立ち、ぱちりと扇子を閉じた。
「皆様。ここは学園です。市場の競り場ではありません」
学生たちのざわめきが、波打つように引いていく。
「説明を求めること自体は結構。ですが、その方法を誤れば、それは品性の欠如を露呈するだけですわ。学園長の名が掲げられた工事に、この人数で押しかける。……それを貴族社会では、『不調法』と呼びますの。お分かり?」
誰も、言葉を返せない。
彼女の微笑みは、反論すれば自らの血筋を汚すと突きつけていた。
「お帰りなさい、皆様。温かいお茶でも飲んで、落ち着きを取り戻すことですわ」
その宣告とともに、蜘蛛の子を散らすように去っていく学生たち。
ゼオンは、その光景を呆然と見送るしかなかった。
(……なぜだ。なぜ、誰も戦わない。なぜ、これほど不条理な事態を、たった一振りの剣と、たった一枚の扇子で、『なかったこと』にできるのだ)
彼らが守ったのは、秩序ではない。
地下から響く、あの不気味な震動――トレンスという巨悪が送り込んだ「変化」を、物理的・社交的な力で無理やり正当化し、守ったのだ。
ゴン。
腹の底を突く、傲慢な律動。
昨日のような破砕音ではない。それは、ゼオンが立っているこの「正しい世界」の足場を、一寸の狂いもなく、トレンスの設計図通りに組み替えていく死刑宣告の音だった。
「バルフォア嬢。貴女は、あの方をどう思っていらっしゃいます?」
アイリスの問いかけに、エリザベートが応える。
『妙に楽しそうだ』――その言葉が、ゼオンの心に最も深く、毒のように刺さった。
(楽しそうだと……? 私たちが、伝統が、この学園の静謐が、これほどまでに蹂躙されているというのに、あの男は、地下で笑っているというのか……!)
そこに、重い軍靴の音が、地下の闇から上がってきた。
現れたのは、泥の付いたマントを翻した一人の男。アレックスである。彼は手元のタブレット端末に記された数値を確認しながら、歩哨の前に立った。
その瞬間、彫像のように微動だにしなかった歩哨が、弾かれたように直立不動の姿勢をとった。そして、右の手刀を鋭くこめかみの横へ運ぶ。
アレックスもまた、端末から一瞬だけ顔を上げ、同じく鋭い軌道で手刀を返し、即座に視線を画面へと戻した。
「状況報告」
「はっ。状況問題なし」
「了解。任務続行せよ」
「Copy」
短い問答。それは、ゼオンが知る「騎士の礼」とはまるで違うものだった。
胸に手を当てて忠誠を誓うわけでもなく、優雅に一礼するわけでもない。ただの記号のやり取り。極限まで無駄を削ぎ落とした、血の通わない機械同士の信号のように見えた。
その、あまりに実務的で、自分たちを完全に「障害物」として扱う態度に、ゼオンの心臓が、ドクンと大きく脈打った。
「……貴様」
ゼオンの声は、怒りよりも先に、震えを帯びていた。
路地裏で、自分の拳を子供の手を扱うように受け止めた男。リナを連れ去り、自分の「善意」を軽薄だと切り捨てた男。
「……何をしている。学園の地下で、今度は何を奪おうとしているんだ!」
ゼオンは食ってかかった。あの路地裏での屈辱、リナを奪われた無力感がフラッシュバックする。
「リナさんの次は……この学園の伝統か? 貴様らトレンスの人間は、そうやって他人の大事なものを、いつも『契約』や『工程』という言葉で踏みにじらなければ気が済まないのか!」
その悲痛な問いかけに、残っていた数人の学生たちが息を呑む。
だが。
アレックスは端末から顔を上げ、一瞬だけゼオンを見た。その瞳には、再会の驚きも、嘲笑もない。ただ「そこにデータにない異音が存在する」ことを確認する、無機質な判別があるだけだった。
ゼオン・ド・フィアットという個人の感情など、一行のタスクとしてすら記録されていないのだ。
アレックスは、ゼオンの怒りを完全に無いものとして、傍らに控えていた歩哨に視線を向けた。
「監察官殿は?」
「上でお待ちです」
アイリスは、扇子の陰で微かに目を細め、ゼオンとアレックスの間に流れる「絶対的な断絶」を、愉悦に満ちた瞳で眺めていた。
アレックスは、周囲の貴族生徒の視線など存在しないかのように、淡々とエリザベートに向き合った。
「……監査役のバルフォア嬢ですね?」
アレックスの声は、事務員のように冷淡だった。
「……そうだ」
「本プロジェクトの現場監督、アレックス・フォン・プライム男爵です。第一工程は予定通り進行中。……ご案内致します」
アレックスは、身分の上下など眼中にないかのように、即座に背を向け、地下へと続く階段を指し示した。
「……まあ。まだ、その熱で世界が動くと信じていらしたのね。 昨日の淑女はいらっしゃいませんが、この方も、貴方のその『熱いノイズ』には、いささか冷淡なようですわよ」
アイリスはゼオンの絶望を一瞥し、微笑んだ。
「プライム男爵。今日はエレノア様はお忙しいのかしら?」
「……ハートン男爵は、別プロジェクトの要員手配により多忙です。本日は私が、現場責任者として一切の管理を行っております」
「そう。……残念ですわ」
アイリスは、アレックスの無機質な回答に、むしろ「あの御方」の冷徹な影を見て、悦楽さえ感じていた。
「では、バルフォア嬢。ご一緒に奈落の規律を拝見しましょうかしら」
アイリスとエリザベートは、ゼオンに二度と視線を向けることなく、アレックスの先導で地下へと消えていった。
後に残されたのは、礼服を着たまま微動だにしない歩哨と、置き去りにされたゼオンだけだった。
「待て! 理由を言え! 私は……私は認めないぞ、こんなことは!!」
ゴン。
ゼオンの叫びをかき消すように、地下から再び、巨大な杭が打ち込まれる音が響いた。世界が、彼の叫びなど聞こえないかのように、粛々と書き換えられていく。
ゼオンは、もはやその背中を追いかけることすらできなかった。
圧倒的な暴力が、権威が、そして冷徹な実務が、揃って地下の闇へと消えていく。
一人、踊り場に取り残された感覚の中で、ゼオンは自分の拳が血の気が引くほど白くなっていることに気づいた。
「……ゼオン」
隣で静かに見守っていたクラリーベルの声さえ、今の彼には遠く、膜を隔てたようにしか聞こえない。
耳の奥で鳴り続ける不快な音。
足元から突き上げる、確信に満ちた震動。
(完成する……世界が書き換わる……?)
アイリスの囁きが、呪いのように耳に残る。
ゼオンは、地下へと続く暗い階段の先を、血走った目で見つめた。
そこには、彼の信じる「白」をすべて黒く塗りつぶそうとする、奈落の王が潜んでいる。
「……私は、認めない」
震える声で、彼は繰り返した。
睡眠不足の混濁した意識の中で、憎悪だけが、かつてないほど純粋な光となって結晶化していく。
この不気味な音楽が止むとき。
自分は、この「書き換えられた世界」の主と、刺し違えてでも対峙しなければならない。
ゼオンは、崩壊しつつある秩序の残骸の中で、ただ一人、折れた剣を抱える騎士のような絶望と闘志を燃やしていた。