剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第百十九話

 

第百十九話:鋼鉄の洗礼と、美徳の死角

 

 

無人となった踊り場で、エリザベートが忌々しげに鼻を鳴らした。

 

「……見事なものだな。口先だけで人を動かす貴様のやり方は、いつ見ても吐き気がする」

 

アイリスは扇子を閉じ、その先端を自身の艶やかな唇に当てた。

 

「剣を抜く必要はありませんでしたわ、バルフォア嬢」

 

「最初から、そんなつもりはない」

「そうですの? 貴女の剣は、もう少し派手な血の海で踊る方がお似合いかと思いましたのに」

 

 一瞬の沈黙。

 

エリザベートは肩をすくめ、地下の暗闇を睨みつけた。

 

「……つまらん。あの男は、まだ出てこないのか」

「さあ。あの方は、表舞台よりも奈落の底を好まれるようですから」

 

アイリスの視線が、床の石畳を透かし見るように固定される。

足の裏から伝わるのは、もはやただの振動ではない。地下で何かが呼吸を始め、古い学園の心臓を、未知の動力源へと挿げ替えていくような感覚。

 

「バルフォア嬢。貴女は、あの方をどう思っていらっしゃいます?」

「……気に食わん」

 

 エリザベートは即答した。

 

「戦場を作らず、泥の中で城をひっくり返している。だが──妙に楽しそうだ。自分で描いた歪な未来を、無理やり現実に叩きつけている顔をしている……そんな気がする」

 

 アイリスは、小さく息を吐いた。

 

「……鋭い観察ですわ。確かにあの方は、既存の理そのものに喧嘩を売っていらっしゃる。土木という、ひどく静かなやり方で、既存の理を押し流していらっしゃる」

 

そこに、重い軍靴の音が地下から上がってきた。

 

現れたのは、泥の付いたマントを翻したアレックス・フォン・プライム男爵。

彼は歩哨と、あの奇妙で無機質な「手刀の礼」を交わすと、エリザベートたちに向き直った。

 

ゼオンを一瞥もせずに追い払った後、彼は手元のタブレット端末を操作しながら淡々と告げた。

 

「……監査役のバルフォア嬢ですね。本プロジェクトの現場監督、アレックス・フォン・プライムです。第一工程は予定通り進行中。ご案内致します」

 

 アレックスが身を翻そうとした瞬間、アイリスが優雅な足取りで前に出た。

 

「プライム男爵。今日はエレノア様はお忙しいのかしら?」

 

「……ハートン男爵は、別プロジェクトの要員手配により多忙です。本日は私が、現場責任者として一切の管理を行っております」

 

「そう。……残念ですわ。では、ご一緒に奈落の規律を拝見しましょうかしら」

 

アイリスが、極上の絹のような微笑みを浮かべ、エリザベートの隣に並び立とうとした。並の男であれば、その美貌とアークランド公爵家という威光の前に、道を譲る以外の選択肢を持たないはずだった。

 

 だが。

 

「お待ちください、アークランド嬢」

 

アレックスの声は、氷のように冷たく、一切の感情を欠いていた。

 

「入館承認リストに、貴女のID……お名前はありません。部外者の立ち入りは、現場安全規定違反となります。お引き取りを」

 

 アイリスの足が止まった。

 

扇子を持つ手が、ほんの僅かに硬直する。

 

「……規定違反? 男爵、私が誰だかご存知なくって?」

 

アイリスの瞳が、わずかに細まる。

 

「アークランド公爵家のご令嬢と認識しております。ですが、リストにない以上、王族であっても通すことはできません。お引き取りを」

 

(……『未来』すら、通行証にはならないのね)

 

彼女はそこでようやく、この現場が「今」だけで完結していないことを理解した。

 

アイリスの瞳の奥で、冷たい炎が揺れる。彼女の『女としての魅力』も『貴族としての権威』も、この男には通行証一枚分の価値すら持っていないのだ。

 

プライドをへし折られかけたアイリスを見て、エリザベートが鼻で笑う。

 

「堅物め。こいつは私の『監査補佐』だ。公式な監察官には、随員を一人連れる権限が認められているはずだが?」

 

アレックスは端末の画面に視線を落とした。指先が数回、無機質にガラス面を叩く。

 

「……規定第4項、監察官の随行員権限を確認。アークランド嬢を『一時監査補佐』として承認(Copy)。では、両名ともこちらを」

 

アレックスは、傍らの木箱から二つの物体を取り出し、彼女たちに差し出した。

 それは、黄色く塗られた、半球状の奇妙な硬質帽(ヘルメット)だった。

 

「入場規定第12項。頭上落下物警戒のため、全人員に保安帽の着用を義務付けます」

 

エリザベートとアイリスは、差し出されたそれを呆然と見つめた。

アイリスの顔から、ついに微笑みが消え失せた。

 

「……冗談でしょう? このような泥臭い鉢を、私の頭に被れと仰るの? 髪が……淑女の身だしなみがどうなるか、理解しておいでですか?」

 

それは不敬だ。貴族の令嬢に対し、公衆の面前で身だしなみを崩せと要求するなど、決闘を申し込まれても文句の言えない暴挙である。

だが、アレックスは眉一つ動かさない。

 

「重力と落下物は、身分や髪型を考慮しません。保安帽の未着用は、重大な安全規定違反です。着用を拒否される場合、監察官であっても入場をお断りします」

 

 冷徹な事実。

 

『ルールを守れないなら帰れ』という、身分制度を完全に無視した物理の法則。

アイリスの唇が微かに震え、エリザベートの頬が怒りで引きつった。彼女たちは、トレンスが持ち込んだこの「合理」という名の暴力の前に、自分たちの「美徳」がいかに無力であるかを、物理的に思い知らされたのだ。

 

「……ッ、貸せ!」

 

エリザベートがひったくるように保安帽を奪い、見事に結い上げられた自身の髪を無造作に押さえつけ、乱暴に被った。

 

アイリスもまた、屈辱に耐えるように目を伏せ、震える手でそれを受け取ると、静かに自身の頭へと載せた。極上のドレスに、不格好な黄色の保安帽。その滑稽な姿こそが、彼女たちが「ルーカスの土俵」に足を踏み入れた証だった。

 

「着用確認。ご案内します」

 

 アレックスは何の感慨も示さず、背を向けて階段を下り始めた。

 その無防備に見える背中を追って足を踏み出した瞬間、エリザベートの背筋に、微かな、だが確かな電流が走った。

 

(……隙が、全くない)

 

 泥に塗れたマント。片手には薄い板(タブレット端末)。どこからどう見てもただの無骨な現場監督だ。

 

だが、重い軍靴を履いているにもかかわらず、その足音には一切のブレがなく、重心は常に地の底を掴むように安定しきっている。筋肉の弛緩と緊張のバランスは、いつでも一瞬で致死の暴力を引き出せる状態に保たれていた。

 

もし今、背後から不意打ちで斬りかかれば──自分が返り討ちに遭う。

その直感が、狂戦士としてのエリザベートの血を熱く沸き立たせた。剣の柄に添えた指先に、じわりと汗が滲む。これほどの圧倒的な『本物』の武人を前にして、闘争心が高揚しない騎士などいない。

だが、その高揚と同時に、強烈な違和感が彼女の脳内を駆け巡った。

 

(トレンス家は、これほどの人材を飼殺しにするほど人手不足なのか?)

 

一騎当千とは言わずとも、戦場に出れば、間違いなく軍の要として名を馳せる器。それを、なぜこんな薄暗い地下の、泥まみれの配管工事の「見張り番」などに使っている?

 

騎士の誉れも、武功を立てる華々しい舞台も与えず、ただの作業員として消費するなど、貴族の軍事常識ではあり得ない愚行だ。

 

(……いや。違う)

 

エリザベートは、前を歩くアレックスの背中を睨みつけながら戦慄した。

人手不足なのではない。あのルーカスという男の頭の中には、そもそも「武人の誉れ」や「適材適所の戦場」という概念が存在しないのだ。

 

一騎当千の英雄であろうと、無学な農奴であろうと、彼にとっては等しく『工程』を処理するための『部品』に過ぎない。どんな名剣であろうと、必要とあらば平気で下水管の泥掻きに使う。それが、ルーカス・フォン・トレンスの異常な「合理」の正体。

 

「……狂っている」

 

エリザベートが低く呻いた声は、アイリスの耳にも届かないほど小さく、暗い階段の底へと吸い込まれていった。

 

 

そして地下に降り立った瞬間、二人の令嬢は言葉を失った。

そこは、彼女たちが想像していた「魔術的な儀式場」でも「恐るべき兵器工場」でもなかった。

 

 

 

 ──白く、暴力的なまでの「光」。

 

 

壁に等間隔で設置された不思議な照明(投光器)が、松明のような温かな揺らぎを一切持たず、影という影を無慈悲に掻き消している。それはまるで、隠し事を一切許さないルーカスの視線そのもののようだった。

 

 そして、耳を打つ作業音。

 ガキン、ガキン、という金属音。

 

「これは……一体何の魔術陣ですの?」

 

アイリスが、壁沿いに這う巨大な鉄の管と、その接続部を指差して尋ねた。そこでは、揃いの作業着を着た平民の男たちが、奇妙な長さの鉄の棒(トルクレンチ)を使い、管と管を繋ぎ合わせていた。

 

「魔術陣ではありません。ただのフランジ接続です」

 

アレックスが立ち止まり、淡々と解説する。

「規定トルク値に従い、ボルトとナットを均等に締め付けているだけです。魔法による溶接や結合は使用していません」

 

「魔法を……使っていない?」

 

エリザベートが驚愕に目を見開いた。

これほど巨大で、複雑な構造物を、ただの鉄の部品と「締め付ける」という物理的な力だけで構築しているというのか。

 

 カチッ

 

作業員の手元で、鉄の棒が小気味よい音を立てた。男はそれ以上力を込めることなく、次のボルトへと移っていく。

「あの音は?」

 

規定の力(トルク)に達した合図です。あの音が鳴れば、誰が締めても全く同じ強度になります。個人の筋力や、魔力の才覚は一切不要です」

 

その言葉が、二人の令嬢の胸に、巨大な氷の楔として打ち込まれた。

魔法がいらない。個人の才覚がいらない。

 

ただ、「マニュアル」という手順に従い、「規格化された部品」を使えば、無学な平民であっても、貴族の魔法を凌駕する巨大なインフラを構築できる。

 

それはすなわち──「血筋」と「魔力」を根拠に世界を支配してきた貴族という存在が、この巨大な配管の前に、完全に不要なものとして陳腐化することを意味していた。

 

アイリスは、頭上の不格好なヘルメットの重みを感じながら、震える息を吐き出した。

 

(……ああ。なんて恐ろしく、なんて残酷な『合理』)

 

彼女は、煌々と照らされる白い光の中で、自身の背筋に冷たい汗が伝うのを感じていた。

 

ここは戦場ではない。暴動の舞台でもない。

ただの、どこにでもある『配管工事の現場』だ。

 

だが、この沈黙の土木作業こそが、王国の数百年を支えてきた貴族社会の首を、誰にも気づかれぬまま、規定の力でゆっくりと締め上げているのだ。

 

 カチッ。

 

また一つ、古い世界を終わらせる音が、無機質に地下空間へ響き渡る。

 

その白く暴力的な光の中をしばらく進むと、やがてアレックスは歩みを止めた。

 

彼は脇の仮設デスクから分厚いバインダ──―金属の留め具で何十枚もの紙を束ねたもの──を手に取り、無表情のままエリザベートへ差し出した。

 

その手は、紙束を差し出しているだけのはずなのに、

いつでも首を刎ねられる距離と角度を、完璧に保っていた。

 

「本日の工程表、および資材の搬入・消費・歩留まり率を記録した台帳です。現場監察官殿、進捗の確認と承認サインを」

 

「……は?」

 

エリザベートは、押し付けられた重いバインダーを受け取り、顔をしかめた。

 

ページをめくる。そこには、彼女が知る領地の税収記録や、軍の兵站の帳簿などとは全く異なる「異質な言語」が羅列されていた。

 

『第4セクター配管接合:予定所要時間14分30秒。実測14分15秒』

『高圧用フランジ:搬入数400、消費数398、不良廃棄2。許容誤差範囲内(0.5%)』

 

『作業員B班の疲労度係数を考慮し、次工程のトルク締め作業へ人員を再配置』

 分単位、いや秒単位で刻まれた時間割。ミリ単位の誤差すら許さない部品の管理。

 

(……違う。こんなものではない。

私が来たのは、血の匂いがする場所のはずだ)

 

それは、人間の揺らぎや感情を一切排斥し、現場を巨大な「機械の内部」として定義づけた、冷酷なまでに緻密な数字の暴力だった。

 

「……何だ、この蟻の這い回ったような数字の羅列は」

 

エリザベートの眉間に深い皺が寄る。

彼女は暴徒を鎮圧し、剣で規律を守るためにここへ来たのだ。こんな紙切れの上の「誤差」や「歩留まり」などという小賢しい数字を読まされるために、不格好な保安帽を被ったわけではない。

 

「私は武官だ! 配管の数など、現場の職人に数えさせておけ!」

 

苛立ちとともにバインダーを突き返そうとしたエリザベートの手を、横からスッと、純白のレースの手袋が遮った。

 

「まあまあ。公式な『監察官』なのでしょう? 職務を放棄しては、ルードヴィッヒ卿の顔に泥を塗ることになりますわよ」

 

アイリスだった。

彼女はエリザベートの手からバインダーを優雅に引き抜くと、扇子を畳み、その数字の羅列に視線を落とした。

 

最初は、ただの好奇心だった。

だが、ページを一枚、また一枚とめくるうちに、アイリスの涼しげな瞳から、スッと体温が消え失せていった。

 

「……これは」

「どうした、アークランド。お前にはこの暗号が読めるのか?」

 

アイリスは答えず、ただ食い入るように数字の列を追っていた。

彼女には、分かったのだ。

この帳簿は、ただの資材管理ではない。

 

「……恐ろしい手回しですわ。作業員の休憩時間から、部品の欠陥率、さらにそれをカバーするための予備人員の待機時間まで……すべてが『あらかじめ決められた数式』に当てはめられていますの」

 

アイリスの声は、感嘆と、得体の知れない恐怖に微かに震えていた。

 

「この現場には『現場での臨機応変な判断』や『職人の勘』といったものが、一切存在しない。誰が休んでも、誰がミスをしても、全体が止まらないように完全に計算され尽くしている。……これは、ただの工事ではありませんわ。人間の『不確実性』を完全に排除した、完璧な軍隊の行軍記録です」

 

「軍隊の行軍だと? 馬鹿な、兵などどこにも──」

 

「ええ、剣を持った兵士はいません。ですが、この数字が示しているのは、そうした『個人の力』など全く必要としない、圧倒的で無機質な群れの力ですわ」

 

アイリスはバインダーを閉じ、アレックスを見つめた。

この冷徹な男すらも、結局はこの完璧な「数字の譜面」をなぞるための一つの指揮棒に過ぎないのだと理解したからだ。

 

「トレンス侯爵は、剣も魔法も使わずに……ただの『算術』と『紙切れ』で、この学園の地下を完全に制圧してしまったのね」

 

アイリスの解説を聞き、エリザベートはギリ、と奥歯を噛み締めた。

 

自分が求めていた「戦場」はここにはない。

切り捨てるべき暴徒も、叩き斬るべき悪意もない。

そこにあるのは、剣などでは決して切ることのできない、冷たくて分厚い『工程表』という名の、新しい世界のルールだった。

 

「……サインをいただけますか、監察官殿」

 

アレックスが、全く感情のない声で、事務的にペンを差し出す。

 

エリザベートは、震える手でそのペンを見つめた。

 

それは戦闘ではなく、既に決着のついた戦場での、事後処理の要求に過ぎない。

 

 カチッ。

 

作業員の手元で、また一つ、トルクレンチが規定値に達した音が鳴る。

無機質なその金属音が、エリザベートの騎士道を内側から軋ませていた。

 

 

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