第百二十一話:不純な接触、あるいは湿った不協和音
地下階段から逃れるようにして地上へ戻り、次なる講義へと急ぐ渡り廊下。ゼオンの視界は、寝不足による熱と、耳の奥で鳴り止まない「ゴン」という残響で、ひどく不安定に揺れていた。
「……ゼオン、前を見て。足元が疎かになっているわよ」
隣を歩くクラリーベルの、氷の礫のような冷静な指摘。ゼオンは「分かっている」と短く返そうとしたが、その瞬間、曲がり角から飛び出してきた「何か」を避けきれなかった。
「あ……っ!」
「うわっ!?」
鈍い衝突音。ゼオンの胸板に、柔らかく、しかし異様に熱を持った重みがぶつかる。反射的に相手の肩を支えたゼオンの鼻腔を、学園特有のインクの匂いではない、春の泥濘のような、甘ったるく湿った花の香りが突いた。
「……申し訳ありません。お怪我は?」
ゼオンは、自身の「騎士としての反射」に従い、即座に相手を気遣う言葉を吐いた。だが、腕の中にいた少女──男爵令嬢シスリー・ド・シュタインが顔を上げた瞬間、ゼオンの思考回路は奇妙なエラー音を立てて停止した。
彼女の瞳は潤んでいた。それは恐怖でも痛みでもなく、まるで世界そのものの不条理を嘆いているような、実体のない深い憂い。
「……ひどい音……ですよね」
シスリーは、ゼオンの胸元に手を添えたまま、縋るような吐息を漏らした。
「聞こえますか? 地下で、何かが壊されている音。……私、怖くて。私たちが信じてきた、この静かな時間が、あの冷たい響きに全部塗りつぶされていくみたいで……」
ゼオンの心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
それは、先ほどまで彼が一人で抱えていた「正義への焦燥」と、彼女の言葉が、最悪な形で共鳴してしまったからだ。
(……この人も、私と同じなのか? この暴力的な変化に、魂を削られているのか?)
「君も……あの音が、伝統を汚す不浄な響きだと、そう思うのか?」
ゼオンの声が、無意識に熱を帯びる。自分の孤独な戦いを理解してくれる存在を、飢えた獣のように見出してしまった者の危うい光。
だが、その熱狂の予兆を、背後からの冷徹な「物理的干渉」が断ち切った。
「──そこまでになさい、ゼオン」
クラリーベルが、ゼオンの腕を掴み、シスリーから力任せに引き剥がした。彼女の顔は、呆れを通り越して、道端の不潔な水溜りを見るような軽蔑の色を浮かべていた。
「シュタイン男爵令嬢。廊下の角での不注意は、貴族の淑女としての嗜みを疑われますわよ。それに、今のその態度は……まるで道端で拾った同情を、見ず知らずの殿方に押し付けているようにしか見えませんわ」
「……あ、……ごめんなさい……」
シスリーは、クラリーベルの正論という名の氷水を浴びせられ、怯えた小鳥のように身を縮めた。その弱々しさが、逆にゼオンの「守らねばならぬ」という歪な正義感を刺激する。
「クララ! 言い方が酷すぎる。彼女はただ、不安なだけで……」
「不安なら、寮の自室でお茶でも飲んでいればいいわ。……行きましょう、ゼオン。今の貴方の顔、トレンス侯爵に論破された時よりずっと『馬鹿げた顔』をしているわよ」
クラリーベルはシスリーを無視し、ゼオンの腕を引き寄せて歩き出した。
ゼオンは振り返り、渡り廊下に取り残されたシスリーの、今にも消え入りそうな背中を見つめた。
(……彼女の言葉は、正しかった。あの音は、私たちの物語を壊している)
耳の奥で、また音が響く。
ゴン。
その衝撃は、先ほどシスリーが胸に触れた瞬間の、甘ったるい熱と混じり合い、ゼオンの内に「トレンスへの憎悪」とは別の、もっと粘りつくような「何か」を芽生えさせていた。
「……ゼオン、忠告しておくわ」
横を歩くクラリーベルが、前を向いたまま、吐き捨てるように言った。
「トレンス侯爵の暴力的な破壊よりも、今のような『理由のない甘い感傷』の方が、よほど貴方の喉を詰まらせる毒になるわ。……二度と、あんな目をした女に当てられないことね」
ゼオンは、クラリーベルの言葉の意味を理解できなかった。
ただ、自分の制服に残った、あの湿った花の残り香が、いつまでも消えないことに、生理的な苛立ちと──抗いがたい安らぎの両方を感じていた。
・・・・・
・・・
ゴン。
ゼオンが甘い感傷に浸りながら聞いたのと同じ、地下からの低い震動。
だが、王立学園の最も奥まった場所にある特別図書室では、その音はまったく別の響きをもって受け止められていた。
ボキッ!
「……ええい、クソッ! また折れたぞ!」
静寂を重んじるはずの図書室に、エリザベート・ド・バルフォアの苛立たしげな声が響いた。
彼女の右手には、真っ二つにへし折られた高価な羽ペン。机の上には、インクの染みが無惨に散った羊皮紙と、先ほどアレックスから押し付けられた分厚いバインダーが山積みにされている。
「アークランド! 答えろ、この『歩留まり率』とは何だ! 敵の生存率か!? 許容誤差0.5パーセントとは、残敵を逃がしたという意味か!?」
その怒鳴り声に対し、向かいの席に座るアイリス・ド・アークランドは、ただ静かに、優雅な所作で自身の羽ペンをインク壺に浸した。
完璧に結い上げられた銀糸の髪も、極上のレースの手袋も、一分の乱れも汚染もない。彼女の顔には、社交界で常に見せる「完璧な淑女の微笑み」が、薄氷のように張り付いていた。
「……まあ。誇り高きバルフォアの剣は、帳簿の数字の中にまで見えざる敵の影を見出されるのね。本当に、武門の方の想像力というものは……『野性味』にあふれていて羨ましいですわ」
アイリスは、扇子を持たない代わりに、美しい指先でそっと口元を覆い、コロコロと銀の鈴を転がすように笑った。
「それは高圧用フランジの不良品発生率。逃がしたのではなく、最初から使い物にならなかった鉄屑の割合ですの。……ええ、まるで、書類仕事の席に座らされた剣士のように、ね」
極上の絹で包み込んだ、純度百パーセントの猛毒。
だが、エリザベートはその言葉の後半に込められた皮肉を完全に素通りし、鼻を鳴らした。
「鉄屑だと? フン。最初から使い物にならないなら、さっさと廃棄すればいい。分かったなら早くその綺麗な字で書き写せ。私は次のページの『B班の疲労度係数』とやらを読み上げるぞ」
「…………ええ、そうですわね。お願いいたしますわ」
アイリスの微笑みが、ピキリと微かな音を立てて凍りついた。
(……本当に、調教の行き届かない獣ですわ。知的な含みというものが一切通じませんのね)
どんな嫌味も皮肉も、鋼の装甲に当たった小石のように弾き返される。アイリスは内心で深い溜息をつきながら、手元の計算尺を優雅に、しかし普段よりわずかに強い力で弾いた。
だが、その計算尺の目盛りを追ううちに、アイリスの瞳の奥から、エリザベートに対する苛立ちとは全く別の、冷たい戦慄が這い上がってきた。
「……バルフォア嬢」
「なんだ。もう手が止まったのか」
「あの工事の告知があったのは、いつですの?」
「昨日の中庭だろう。学園長が承認したという立て札が──」
そこまで言って、エリザベートも不審に思い、口を閉ざした。
「……ええ、昨日ですわ」
アイリスは、バインダーに記された数字の海を、信じられないものを見るような目で見つめた。
「資材の調達経路、馬車の運行スケジュール、作業員の疲労を計算したシフト表、地下の湿度による金属の劣化予測……。これほどの規模の工事を、一分一秒の誤差もなく回すための『数式』が、ここに完全に揃っていますの」
アイリスの声から、淑女の余裕が消え、純粋な恐怖と知的な興奮が混ざり合った、ひりつくような響きが漏れた。
「これを『昨日思いついて、今日実行した』? ……あり得ませんわ。これほど緻密な、王都の物流そのものを掌握するような兵站を組むには……何年も前から、この学園の構造を調べ上げ、王都の資材を計算し、水面下で途方もない準備を進めていなければ不可能です」
「何年だと……?」
エリザベートの顔から、すっと血の気が引いた。
それは、剣を交えるのとは違う、為政者としての「包囲」の恐怖だ。
「あの男は、昨日今日でこの騒ぎを起こしたわけではないのか?」
「ええ。あの方は恐らく、この学園に入学するずっと前から……いえ、もしかすると何年も前から、この古い学園を自身の『理』で解体し、組み直すための完璧な設計図を引き終えていたのですわ」
アイリスは、恐ろしい怪物の寝顔を覗き込んでしまったような、恍惚とした絶望の笑みを浮かべた。
「トレンス侯爵は、人間が起こすミスすらも、すべて『計算済みの資源』として処理しています。そして……」
アイリスの冷ややかな視線が、自身の手にあるペンと、インクまみれのエリザベートの手元へと向けられた。
「あの方の数年間にも及ぶ完璧な計画の、最後の仕上げ。……それが、既存の権力者である『わたくしたち』を、現場の安全規定という罠に嵌め、ただの事務員としてこの報告書を完成させること。……わたくしたちは今、あの方の長年の盤の上で、無給の文官としてタスクを処理させられているのですわ」
図書室の空気が、かつてないほどの濃密な殺気に包まれた。
だがそれは、二人の間の争いではない。己のプライド、家門の威信、そして労働力さえも、あの冷徹な青年の手の上で完全に搾取されていたという、生々しい純粋な怒りだった。
ゴン。
足元から、またしても無機質な振動が響く。
その音はもはや、ただの工事の音ではない。自分たちの背後で、あの男が数年がかりで編み上げた巨大な歯車が、ゆっくりと回る音に聞こえた。
「……あの男、次に会ったら絶対に叩き斬る」
エリザベートが、獣のような低い声で呻いた。
「あら、野蛮なこと。……でも、その前に」
アイリスは、微笑を崩さぬまま、インクの染みた羊皮紙をエリザベートの前に優雅に差し出した。
「今夜、貴女がこれ以上ペンをへし折るようなら……残りの書類は、貴女ご自身の血でサインしていただきますわよ。……バルフォア家の『誉れ』にかけて、一文字のミスも許しませんからね」
二人は、互いに極上の殺意とプライドを火花のように散らしながらも、再びバインダーへと向き直った。
王立学園の深い夜。
甘い毒に侵されゆく騎士と、数字の泥沼で怪物の影に戦慄する二人の令嬢。
それぞれが異なる戦場で、ルーカス・フォン・トレンスの理に呑み込まれようとしていた。
・・・・・
・・・
昼休憩のあの一件から二日。
放課後の陽光が射し込むテラスサロンは、貴族の令嬢や子息たちの穏やかな談笑に包まれていた。微風が運ぶ紅茶の香りと、柔らかな午後の光。その中にあって、彼らのテーブルだけが異質なほどに静まり返っていた。
カチャリ、と硬質な音が鳴る。
オリビアが白磁のティーカップをソーサーに置く音だった。背筋を伸ばし、優雅に茶器を扱うその所作には、寸分の乱れもない。だが、完璧すぎるがゆえに、そこに血の通った「温度」が決定的に欠落していることが浮き彫りになっていた。
時折、周囲から好奇と探りの入り混じった視線が向けられる。スキャンダルの火消し、あるいは体裁を取り繕うための、義務的な茶会。二人は周囲の視線に気づかぬふりをして、完璧な「婚約者同士」の型枠に己をはめ込んでいた。
外から見れば、いかなる崩れもない。
だが、かつてこのテーブルにあったはずの柔らかな空気は、もう欠片も残っていなかった。テーブルを隔てるのは、見えない氷壁のような絶対的な静寂だ。
「……午後の魔導幾何学ですが」
先に口を開いたのはオリビアだった。
絹のように滑らかで、聞き心地の良い声。しかし、その響きはひどく冷たい。
「前回の演習に誤差が見られました。復習をなさった方がよろしいかと」
まっすぐにフォルカルトへ向けられた双眸に、親愛の情は微塵もなかった。そこにあるのは、ただ数値を測るだけの、観測対象を見る静謐な光だけだ。
「……分かっている」
フォルカルトは短く吐き捨て、手元のティースプーンを置いてカップに手を伸ばした。本来なら、ここで他愛のない軽口の応酬があったはずだ。それが彼らの心地よい距離感だった。だが、今は違う。
「必要であれば、要点をまとめた資料をお持ちしますわ」
「必要ない」
苛立ちを含んだ即答に、オリビアの指先がほんの僅かに止まる。
「……承知いたしました」
だが、彼女はただ静かに伏し目がちに頷くだけで、それ以上は一切踏み込んでこない。その『踏み込まない』という選択こそが、今の彼女が引いた明確な境界線だった。
(……何だ、その態度は)
責め立てられるわけでも、直接的に否定されるわけでもない。だが、はっきりと『見限られている』かのような距離感が、フォルカルトの胸の奥でどす黒い感情を燻らせる。
「……随分と、事務的だな」
耐えきれず、毒を吐くように零した言葉に、オリビアは静かに顔を上げた。
「何か問題が?」
「問題というほどではない」
フォルカルトはわざとらしく肩をすくめてみせる。
「ただ、妙に冷たいと感じただけだ」
一瞬の沈黙。オリビアの瞳の奥がわずかに揺らいだが、瞬きを一つした直後には、元の精巧な硝子細工のような表情へと戻っていた。
「……必要以上の干渉は、控えるべきと判断いたしました。貴方のご判断を尊重するために」
淡々と告げられた平坦な声が、薄く鋭い刃となってフォルカルトの胸を深く抉る。
(……違うだろう)
反論が喉元までせり上がったが、すんでのところで強引に飲み込んだ。違うのは分かっている。だが、それを口にしてしまえば、自分が彼女の庇護に縋る形になってしまう。次期当主としての矮小なプライドが、それを許さなかった。
「……余計な気遣いだ」
潰れかけた本音の代わりに出たのは、紙切れのように薄っぺらい虚勢だった。
「私は、そこまで無能ではない」
その言葉に、オリビアはゆっくりと瞬きをする。
「ええ、存じております」
肯定。だが、それは徹底して感情を排した、虚無の肯定だった。
「ですから、余計な補助は不要かと」
「……そうか」
それ以上、言葉は続かなかった。これ以上踏み込めば、足元の薄氷が決定的に割れる。その予感が、二人をさらなる重い沈黙へと縛り付けた。
(……何をしている)
フォルカルトは内心で毒づいた。こんなはずではなかった。もっと、まともに会話ができたはずだ。
原因は分かっている。二日前、自分が彼女の手を荒々しく振り払った、あの瞬間。
(……謝ればいいだけだ)
簡単なことだ。だが、その「だけ」がどうしてもできない。謝罪は己の非を認めることであり、それは明確な敗北を意味する。少なくとも、肥大しきった今の彼の自尊心には、そうとしか思えなかった。
「……他に、何か?」
現実に引き戻すオリビアの声。彼女はすでに、席を立つ準備を終えていた。
「なければ、これで失礼いたします」
立ち上がろうとするその動きに、フォルカルトの胸が大きく跳ねる。
(……待て)
声帯が震えかけた。だが──。
「……好きにしろ」
口を突いて出たのは、致命的なまでに突き放す言葉だった。
一瞬だけ、オリビアの白い指先が止まる。
だが彼女は何も言わず、完璧な淑女の所作で一礼すると、一切の乱れがない足取りで背を向けた。大理石の床を叩く正確で迷いのない靴音が遠ざかるたび、フォルカルトの自尊心が内側からゴリゴリと削り取られていく。
(……今なら、まだ)
テーブルの下で靴底が床を擦り、ほんの僅かに踏み出しかけた足は、しかしそこから先へは進まなかった。「待て」の一言で彼女は止まるだろう。だが、脳内で『彼女に背中を向けて許しを請う自分』を想像した瞬間、乾ききった喉が無様に引きつり、肺の奥が鉛を呑み込んだように重くなった。
固く握りしめた拳のなかで、あの日に彼女の手を振り払った時の感触が、火傷のように熱を持って疼いている。
(……許しを請うのか、俺が?)
正しいのは彼女だ。理解している。分かっている。だからこそ、自分が折れる形になることが耐えられない。フォルカルトの顎がギリッと強張った。
(違う……。俺は間違っていない)
グラグラと揺れる思考を即座に押し潰し、無理やりに顔を上げる。
すでにオリビアの姿はどこにもない。華やかで温かなサロンの中で、自分だけが絶対零度の静寂に取り残されていた。
「……勝手なことを」
誰にともなく吐き捨てた言葉は、自分でも嫌になるほど軽く、空虚だった。胸の奥にこびりついて離れないのは、致命的な喪失感と、冷たい違和感。
(……くだらない)
その感覚ごと無理やり切り捨てようとした、その時だった。
「あの……」
背後の飾り柱の陰から、輪郭の曖昧な柔らかな声が割り込んできた。
弾かれたように振り返ると、そこに立っていたのはシスリー・ド・シュタインだった。以前と同じように、数歩の距離を置いて佇んでいる。だが今回は、怯えて逃げるような気配がない。
「……聞こえてしまって、ごめんなさい」
小さく頭を下げる。だが、その声にはどこか、彼の内側に踏み込むような奇妙な覚悟が滲んでいた。
「でも……」
シスリーが、ほんのわずかに一歩、近づく。
たったそれだけで、フォルカルトを包んでいた凍てつく空気がふわりと弛緩し、温度が変わった。まるで、ギリギリまで張り詰めていた心の糸が、理由もなく『許された』かのような、不自然なほどの安堵感。
「……あんなふうに言われると、苦しくなりますよね」
フォルカルトの視線が縫い付けられる。
シスリーは彼をまっすぐに見ず、少しだけ視線を逸らしている。だが、その憂いを帯びた甘い吐息が、不思議なほど直接的に、彼の胸の奥の痛ましい部分へ触れてくる気がした。言葉ではなく、彼女から滲み出す『感情』そのものが、彼の心の隙間に流れ込んでくるような感覚。
それが逆に「彼の痛みを深く理解している」という錯覚を引き起こしていた。
「正しいことだって分かっていても……逃げたくなる時、ありますもの」
静かに落ちる言葉。
そこには一切の否定も、責めもなかった。ただ、彼の抱える醜く矮小な弱さを、そのまま全肯定する響き。
その声は、オリビアの研ぎ澄まされた氷の刃とは対極にある、理屈では捉え切れない真綿のような甘さを持っていた。フォルカルトの胸の奥で、なんとか形を保っていた自制の糸が、音を立ててちぎれ飛ぶ。
(……そうだ)
それだ。オリビアのあの態度は──。
いつからそう思っていたのか、あるいは、今この瞬間に『そう思わされた』のか。境界線が曖昧に溶けていく中で、無意識に言葉が零れ落ちた。
「……正しすぎる」
シスリーは、愁いを帯びた瞳で微かに頷いた。
「はい……だから、息ができなくなるんです」
その一言が、決定打だった。
フォルカルトの内で張り詰めていた何かが、完全に、そして無惨にほどけ落ちる。
オリビアは正しい。だが、目の前のこの少女が差し出す空気は──あまりにも「楽」だった。
己の非と向き合う痛みを麻痺させ、強張った思考を温かい泥のように溶かしていく。考えなくていい。否定されない。裁かれない。ただ、今の無様で間違った自分のままで、そこにいられる。
(……少しだけだ)
ひどく陳腐な言い訳で自分を納得させ、フォルカルトは口を開いた。
「……少し、話を聞こう」
自らの口から出たその声は、予想以上に自然で、熱を帯びていた。
「……はい」
静かに瞳を揺らすシスリー。その声は柔らかく、そして今のフォルカルトにとって、二度と這い上がれない逃避の泥沼のように、底知れず甘く響いた。