幕間 同期しない者たち
夜は静かだった。
だがそれは、決して安らぎなどではない。
ただ、それぞれの内側で、誰にも聞こえない不穏な音が鳴り始めているだけの──遅れてやってくる決定的な不協和音の、前触れに過ぎなかった。
・・・・・
・・・
レグルス寮・個室
豪奢な特室の窓は、半分だけ開け放たれていた。
外から流れ込むぬるい夜気が、室内に淀む熱をゆっくりと押し流していく。だが、どれほど風が吹き込もうとも、決して消えきらないものがある。
鼻腔に粘りつくような、安っぽい花の甘い香り。
主のいなくなったソファに残る、不自然なくぼみ。
床に落ちたままの、誰かの安っぽいリボン。
マホガニーのテーブルの上に無造作に置かれた、飲みかけの赤ワインのグラスが二つ。
緩められたクラヴァットに、無造作に外された胸元のボタン。その崩れた装いのまま、フォルカルト・ド・ベルンハルトは、窓際に立ったまま外の暗闇を見下ろしていた。
遠くから、低く鈍い音が響く。
ゴン。
──まただ。
(……耳障りだな)
苛立たしげに舌打ちをする。
王立学園の夜の静謐を汚す、あの無機質な破砕音。それは、あの男そのものだ。
ルーカス・フォン・トレンス。
フォルカルトの視界が、嫉妬と屈辱でわずかに歪む。
貴族としての礼節を知らず、伝統の形式を無視し、泥にまみれた土木作業で学園を蹂躙している。だが、誰一人としてそれを否定させない。昼の食堂で、二大公爵家の令嬢に囲まれながら、あの男は完璧に盤面を支配していた。
あの場で、誰一人として逆らえなかった。
──自分も含めて。
ギリッと、フォルカルトの指先が無意識に窓枠を強く掴み、木が微かに軋む音を立てた。
(……見向きもしない)
思い出すだけで、胃の奥が焼け焦げそうになる。
あの男は、ただの一度もこちらを見なかった。敵としても、対抗馬としても認識していない。ただの視界に入れる価値もない対象外。
自分からエーデルライト家という絶対的な盾を剥ぎ取ったというのに、その事実すら、あの男にとっては道端の小石が転がった程度の意味しか持っていないのだ。
その事実が、名門の次期当主としての矮小なプライドを鈍く、深く抉る。
(……ふざけるな)
奥歯を噛み締める。
自分はベルンハルトだ。選ばれた側だ。それが──あんな得体の知れない辺境の小倅に、最初から相手にすらされていないだと?
ゴン。
再び、地下から傲慢な音が響く。
その現実の重さに耐えきれず、フォルカルトが目を閉じた瞬間。ふと、背後から別の感触が彼の思考に滑り込んできた。
自分を肯定してくれる、柔らかく甘い声。
一切の否定を持たない、潤んだ視線。
「貴方は悪くない、大丈夫です」と、涙ながらに縋り付いてきた存在。
(……あれでいい)
長く、濁った息を吐き出す。
オリビアの突きつけるような『正しさ』など、もうどうでもいい。理解され、崇拝される方が、男にとってはよほど価値がある。
ゆっくりと振り返る。
つい先ほどまで熱を帯びていたソファには、上着だけが投げ出されている。
夜の静寂の中、残された温もりと甘い残り香だけが、今の彼には妙に生々しい現実感を持っていた。
(……別に、問題はない)
これはただの選択だ。あの男が口にする『合理的な選択』というやつだ。
息苦しい現実を切り捨て、自分が呼吸できる楽な方を選んだだけだ。
そう、あの辺境の小倅が、伝統や気品を無視して己の理を押し通しているように、自分もまた、息の詰まる矜持よりも、確実な慰めを得るという『合理』を選んだだけのこと。
(……そうだ、それだけのことだ)
彼はそう、最も憎むべき敵の言葉を借りて、無理やりに己の堕落を正当化し、結論づけた。
──自分が今すがりついた「安易な逃避」が、最も忌み嫌うルーカスの「貴族らしからぬ振る舞い」と、ひどく醜い形で重なってしまっているという致命的な矛盾。
王都貴族としての気高さで彼を見下していたはずの自分が、今や最も気品から遠い場所にいる。その痛烈な事実に薄々気づきながらも。
気づかぬふりをして、心の奥底へ、自ら分厚い蓋をしたのだった。
・・・・・
・・・
アルタイル寮・談話室
絞られた魔力ランプの灯りが、静かな空間に淡い影を揺らしている。
ゼオン・ド・フィアットは、重厚な革張りの椅子に深く腰掛けたまま、目の前の空間をただ呆然と見つめていた。視線は焦点が合っておらず、彼の思考だけが、ここではないどこか遠く──昼間の渡り廊下へと逸れている。
「……ゼオン」
向かいに座るクラリーベルが、冷ややかな紅茶のカップを置きながら静かに呼んだ。
返事はない。
彼女は小さく、だが明確な呆れを含んだため息をついた。
「聞いているのかしら」
「……ああ」
数秒遅れて返ってきた声は、明らかに上の空の、中身のない響きだった。
クラリーベルは、冷徹な観察者の目で、幼なじみの横顔を数秒だけ見つめる。そして、容赦のないメスを入れるように淡々と言った。
「貴方、今の自分の状態を正確に理解している?」
「……どういう意味だ」
「簡単なことよ。貴方の思考が、完全に『他人の言葉』に引きずり回されている」
ゼオンの眉が、不快げにわずかに動いた。
「……そんなことはない」
「あるわ」
一刀両断の即答だった。
「しかも質が悪いわね。貴方は今、論理ではなく、ただの『感情』で内側から侵食されているのよ」
ゼオンは口を閉ざした。
反論しようとして──言葉が喉に引っかかった。
あの感触が、まだ残っている。胸にぶつかった時の、驚くほど柔らかく熱を持った重み。そして、すがるように見上げてきた潤んだ瞳と、春の泥濘のような甘い香り。
『私たちが信じてきた、この静かな時間が、あの冷たい響きに全部塗りつぶされていくみたいで……』
その弱々しい悲鳴が、彼の鼓膜の奥で何度もリフレインしている。
胸の奥が、わずかにざわつく。
(……違う)
あれは侵食などではない。ただの純粋な共感だ。同じ痛みを抱える者への、騎士としての正しい理解だ。間違っているはずがない。
「……彼女は、ただ不安だっただけだ。伝統が壊されることに」
自分に言い聞かせるように、絞り出すように言う。
クラリーベルは、無言で彼を見据えた。その射抜くような視線には、一切の同情も温度も存在しない。
「そうね。彼女が不安なのは事実でしょう。では聞くけれど」
一拍の間。
「なぜ貴方が、見ず知らずの彼女のその不安を、背負い込もうとしているのか──合理的に説明できる?」
「……それは」
言葉が、完全に止まった。
理由はある。あるはずだ。正義感、騎士道、弱者への庇護。だが、それをクラリーベルの冷徹な論理の前に引きずり出して言語化しようとすると、すべてが妙に曖昧で、卑小な言い訳に聞こえてしまう。
「……できないのね」
クラリーベルは、哀れむように静かに結論づけた。
「それが最大の問題よ。貴方のその『正義』は、今、ひどく不純なものにすり替わっている」
ゼオンは反論できず、ただ苦々しく視線を逸らした。
重苦しい沈黙が落ちる。
やがて、クラリーベルがふっと肩の力を抜き、息を吐いた。
「……まあ、いいわ」
少しだけ、声から氷のような硬さが抜ける。
「その濁った頭でこれ以上考え込んでも、まともな結論は出ないでしょうね」
彼女は優雅に立ち上がり、窓の方へと歩み寄った。
「明日、街に出ましょう」
「……は?」
「気分転換よ。外の空気を吸って、脳に酸素を送り込みなさい。頭の中の泥水が淀んだ状態で思考しても、ろくなことにならないわ」
彼女は振り返り、ゼオンを見下ろした。
「それとも、このまま自分が何に酔っているのかも分からないまま、破滅に向かって突き進むつもり?」
ゼオンは、組んだ両手に視線を落とし、少しだけ考えた。
そして──
「……いや。君の言う通りにする」
短く、だが素直に答えた。
クラリーベルは小さく頷く。
「なら決まりね。……ただし、一つだけ条件があるわ」
彼女の視線が、一瞬だけ鋭く、凄絶な光を帯びた。
「明日は、余計なものを一切持ち込まないこと。特に、ああいう湿ったものはね」
ゼオンは何も答えなかった。
ただ、胸の奥にこびりついた花の残り香と、得体の知れない甘い違和感だけが、どうしても消えずに残っていた。
・・・・・
・・・
特別図書室
深夜の特別図書室には、羊皮紙が擦れる乾いた音と、計算尺が弾かれる硬質な音だけが、異様な速度で交差していた。
「……バルフォア嬢」
「なんだ」
インクで汚れきった手でペンを走らせていたエリザベートが、顔を上げずに応じる。
向かいに座るアイリス・ド・アークランドは、美しく整った数字の列からふと視線を外し、扇子の代わりに手にしたペン先で、トントンと机を軽く叩いた。
「一つ、確認させていただきたいのですが」
「簡潔に言え。計算が狂う」
「もし、この状況が『戦場』だと仮定した場合──」
アイリスは、一拍置いて、真正面からエリザベートを見据えた。
「貴女は、どう動きますの?」
エリザベートの手が、ピタリと止まった。
彼女は顔を上げ、アイリスの意図を探るように目を細める。だが、その答えを口にするのに、迷いは一秒たりともなかった。
「決まっている」
獰猛なまでの即答。
「敵の
そのあまりに直截的な言葉に、アイリスは一瞬だけ呆れたように沈黙した。
そして、ふっと、心からの称賛と諦めが混ざったような笑みをこぼす。
「……ええ。本当に、期待を裏切らない『野性味』にあふれていらっしゃる」
「貴様、喧嘩を売っているのか」
「いいえ。わたくしなりの、最大限の評価ですわ」
アイリスはくすりと笑い、手元の分厚いバインダ──―ルーカスが残した絶望的な工程表へと視線を落とした。
「ですが今回は、貴女のその素晴らしい剣術を封印して、少しだけわたくしの『頭脳戦』にお付き合いくださいませ」
白魚のような指先が、数字の羅列が書かれたページを一枚めくる。
「すでに、盤は動いております」
その声は、ひどく静かで、だからこそ恐ろしいほどの覚悟を秘めていた。
「あの方は、わたくしたちが気づく何年も前から、この巨大な罠を仕掛けていた。わたくしたちがここを『戦場』だと認識した時点で、すでに致命的なまでに半歩遅れているのですわ」
エリザベートが、不快げに鼻を鳴らす。
「……なら、どうする。負けを認めて、この泥沼に沈むか?」
アイリスの指先が止まる。
彼女は顔を上げ、極上のプライドと、不屈の闘志をその瞳に燃え上がらせた。
「追いつくしかありませんわ」
そこに、公爵令嬢としての驕りはない。ただ、未知の理に立ち向かう、一人の戦士としての顔があった。
「あの男が書いたこの狂った暗号を──完全に理解しきることで」
同じ夜。
同じ学園の敷地内。
だが、彼らは誰一人として、同じ場所にはいなかった。
甘い幻に逃げる者。
無自覚な感情に傾く者。
理不尽な理の正体を見抜く者。
そのすべてを知らぬまま、別の場所では、すでに誰も止めることのできない「現実」が、暴力的な速度で動き始めている。
それぞれの音は、まだ重ならない。
だが確実に、彼らの旋律は致命的にズレ始めていた。