剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第百二十二話 白磁の侵略――騒音と汚れの境界線

 

第百二十二話:鋼鉄の揺籠と実用の審美眼

 

 

夜明け前の青白い闇が、王立学園の重厚な外壁を包み込んでいた。

学園の正門前。本来であれば、静寂だけが支配しているはずのその場所に、異質な熱気と「鉄」の匂いが漂っていた。

門の外には、二台の大型馬車と、それを守護するように整列した一団があった。

サラマンダー大隊の精鋭たち。彼らの纏う最新の迷彩装甲強化服は、学園を包む深い霧に溶け込み、まるで夜の闇そのものが実体化したかのような錯覚を抱かせる。

その先頭に立つアレックス・フォン・プライム少佐は、手元の時計を確認し、わずかに眉を寄せた。

 

「……そろそろ、か」

 

その呟きが霧に消える間もなく、門の内側から複数の足音が近づいてきた。

アレックスは反射的に姿勢を正し、門が開くのを待った。現れたのは、淡々と歩を進める主、ルーカス・トレンス。そして、その背後に続く「異様」な一団だった。

アレックスの眼光が、ルーカスの背後で台車を押し、あるいは王立学園の紋章が刻まれた重厚な木箱を抱えてよろめく面々に固定された。

 

「……状況報告。サラマンダー大隊、機材収容のために待機完了しております。……が、閣下」

 

アレックスは、敬礼を解くことも忘れ、ルーカスの数歩後ろにいる「雑用係」の一人を凝視した。資材の煤や埃に汚れ、屈辱に顔を歪めながらも必死に資材を抱えているのは、まぎれもなく王国の至宝、エドワード・ブラン・ホーネリア王子だった。

 

「私の見間違いでなければ……そちらにいらっしゃるのは殿下、ではありませんか?」

 

アレックスの声には、軍人としての驚愕と、隠しきれない困惑が滲んでいた。彼はかつて傭兵として地獄を見てきたが、王族を「運搬作業員」として使う光景だけは、どの戦場でもお目にかかったことがない。

 

「まさか。連絡通りだ、アレックス」

ルーカスは、まるで道端の石でも数えるかのような無機質な声で答えた。

 

「連絡には『使える雑用係三匹と、お飾り(ご令嬢)御一行』を連れていくと書いたはずだ。何も問題はないだろう?」

 

「……大いに問題がありますな、閣下」

 

アレックスは、こめかみを指で押さえ、天を仰いだ。

 

「私は、閣下の学友、あるいは物好きな同級生が数名、現場の実働として同乗すると伺っておりました。それが……あろうことか、この国の王子殿下を『雑用の一匹』としてカウントするなど、我々の存続に関わる不敬罪では?」

 

「アレックス。効率の話をしよう」

 

ルーカスは冷淡に、しかし絶対的な確信を持ってアレックスを見据えた。

 

「彼は、自ら現場での検証を志願した。ならば、現場の最小単位である『雑用』から経験させるのが、このプロジェクトにおける最短ルートだ。……違いますかな、殿下」

 

「…………黙れ、トレンス」

 

エドワードは、重い機材の角を肩に食い込ませながら、アレックスを睨み返した。

 

「……アレックスと言ったか。構うな。私は……今の私は、こいつの言う『非効率な一号』だ。……さっさと運べ」

 

その王子の「汚れた覚悟」を目の当たりにし、アレックスは完全に言葉を失った。この学園は、一体どんな魔力であの矜持高い王子をここまで叩き折ったというのか。 

 

「……承知いたしました。……これ以上の進言は『非効率』のようですな」

 

アレックスは諦めたように肩を落とし、苦笑を漏らした。彼は懐から通信魔導具を取り出すと、別邸の防衛網を統括するエレノアへのホットラインを開いた。

 

「ハングマン。こちらサラマンダー・アクチュアル。……聞こえるか。ああ、搬入を開始する。……ああ、予定通りだ。ただ、一つだけ修正がある。……別邸の客間に『最高級の茶葉』と『最高級の茶菓子』を用意しておけ。……ああ、それと……王家に対する事後報告の草案を、最大級に婉曲な表現で作成し始めてくれ。……何があったかって? ……いや、我らが司令官が、王国の太陽を『荷物持ち』に変えて連れて帰る、それだけのことだ」

 

アレックスは、通信の向こうでエレノアが息を呑む気配を感じながら、通信を切った。

 

「……総員、作業開始! ただし、そこの『高貴な雑用係』に指一本触れるな。万が一、殿下に傷一つでも付ければ、貴様ら全員、ダリルの輸送艇の底に括り付けて大陸一周させるからな。……分かったか!」

 

「Yes sir!」

兵士たちの困惑混じりの怒号が、夜明けの冷気の中に響き渡った。

アレックスは、ルーカスの隣に並び、別邸へと動き出す隊列を見つめながら、小声で囁いた。

 

「……閣下。貴方は本当に、この国を根底から掻き混ぜるつもりのようだ。ヴァルデシアの惨劇すら、これに比べれば『静かな出来事』に見えてきますよ」

 

「そのうち、これすら些末になるさ」

 

ルーカスの不敵な笑みと共に、王族を巻き込んだ前代未聞の「搬入」という名の軍事行動が、加速していった。

 

 

 

学園の正門を抜けた先に待機していたのは、艶消しの暗緑色に塗装された、異様なほど車高の高い二台の大型馬車だった。

 

金細工の装飾も、高家を誇示する派手な家紋もない。ただ、厚手の装甲板を繋ぎ合わせたような無機質な車体には、機能美という名の威圧感が宿っている。

 

それを引くのは、脚の太さが通常の快速種の倍はある重種馬――軍用に品種改良された「アイアン・フーフ(鉄脚馬)」の四頭立てだ。優雅なギャロップではなく、地響きを立てて泥を蹴散らすその姿は、生き物というよりは「動力源」に近い。

 

「……なんだこの馬車は。貴族の乗り物に、なぜ森の泥水のような色を塗る必要がある?」

 

エドワードは、光沢の一切ない異質な車体を見上げて顔をしかめた。

 

「艶消しのオリーブドラブです。夜間や森林地帯での視認性を下げるための、最も論理的なカモフラージュですが」

 

「……トレンス家はこれほど困窮しているのか? それとも、私への当てつけか?」

 

「わざわざ当てつけに、こんな手の込んだ事はしません。馬は走ればそれでいい。違いますか?」

 

「それに、この馬は何だ。……高位のユニコーンとまでは言わんが、侯爵家ほどの財力があれば、せめて風を纏うシルフ種くらいは揃えられるだろう? 貴族が好むしなやかさが微塵もない。あれではまるで、岩山を引きずる荷役牛か攻城獣ではないか。そこまで見栄えを捨てて力を求めるなら、いっそ『突撃角犀』や『剛毛猪』の魔獣にでも引かせればいいものを」

 

視線の先、馬車を引く馬たちの太く逞しい脚が、学園の石畳を暴力的なまでの力強さで踏み締めている。

スレイプニルのような魔力によるグライドでも、ユニコーンの放つ優雅な光跡でもない。ひたすらに泥にまみれ、美しさよりも物理的な質量を乗せて「止まらないこと」を最優先したその選択。

 

エドワードが、その鋼鉄のような、暴力的なまでの太い脚をなじるように指差した、その時だった。

 

「まあ!見て! このお馬さん、蹄がミリーの頭より大きいわ!」

 

エドワードとルーカスの緊迫したやり取りを遮るように、アンジェリカが歓声を上げながら鉄脚馬の一頭へと駆け寄った。彼女にとって『鉄脚馬』は、騎士団のパレードや歴史書で知るだけの存在。まさか、令嬢である自分が、目の前で、しかもこれから乗る馬車を引く姿を見られるとは思っていなかった。

 

「ミリー、ミリー! この子、脚がミリーのお腹より太いんじゃないかしら! すごーい!」

 

アンジェリカは、鉄脚馬の脚に顔を近づけ、その圧倒的な質量に子供のように目を輝かせている。彼女にとって、この無骨さは「醜悪」ではなく「珍奇で刺激的」な見世物だった。

 

「アンジェリカ様、はしゃぎすぎですわ。馬に近づくのは危険です」

 

ミリアリアが慌ててアンジェリカの腕を引こうとするが、アンジェリカは「大丈夫よ、ルーカスの用意した馬だもの!」と、恐怖心よりも好奇心を爆発させている。

 

ルーカスは、アンジェリカの様子を一瞥しながら続けた。

 

「装甲と突進力だけなら評価できますがね。だが、ライノは市街地での旋回性能と燃費に欠け、ホグは気性が荒くコントロールに無駄なリソースを割かれます」

 

ルーカスは、王子が口にした大仰な魔獣の名を、まるで軍用車両のコードネームか何かのように短いスラングで切り捨てた。朝焼けの中、網膜に映し出す別邸の機材リストを確認しながら淡々と続ける。

 

「馬の骨格に鋼のような筋力を掛け合わせたこの『鉄脚馬』が、現時点での最適解(オプティマム)です。……馬に求めるのは『虚飾』ではなく『トルク』です」

 

「……っ、常にそれか! 貴様は、世界を数値と効率でしか見ていないのか!」

 

「殿下、これから別邸で積み込む機材群の総重量を計算したことはおありですか? 華奢なシルフ種では、最初の坂道でサスペンション……いや、脚を折るのが関の山です。効率こそが、殿下の命を繋いでいる現実だと、いい加減理解したらどうです」

 

言い捨てると同時に、ルーカスは馬車へ乗り込む。

 

アレックスの部下たちが手際よく資材を荷台へ収容していく中、「指一本触れるな」と命じられたエドワードだけは、己の分の資材を膝に抱えたまま、屈辱とともに車内へ乗り込む羽目になっていた。

馬車の分厚い扉が閉まると、外の霧と喧騒が嘘のような静寂が訪れた。

だが、その車内はエドワード王子が期待していた「王族への配慮」に満ちた空間とは程遠いものだった。

 

「……トレンス。この馬車、内装という概念を忘れたのか?」

 

車内に足を踏み入れたエドワードは、愕然として声を漏らした。

 

床にはフカフカの絨毯ではなく、滑り止めの溝が刻まれたゴム状の魔導素材が敷かれ、座席は衝撃吸収に特化したバケット形状の硬い革張りだ。

 

エドワードは、座った瞬間に尻に伝わった無機質な硬さに顔を歪めた。絹のクッションも、衝撃を吸収するはずの毛皮もない。座面は耐久性に優れた厚手の革張りで、身体を固定するためのベルトまで備え付けられている。

 

「まさか。これがコンテナに見えるので?」

 

ルーカスは、手元の端末で別邸の在庫リストを確認しながら、事も無げに答えた。

 

「座席があり、マットがある。そして、外を見るための窓もあるでしょう。A地点からB地点へ、人員を損耗なく届けるための機能としては十二分に揃っていますが」

 

「そういう問題ではない! これではただの鉄の箱、いや、護送車ではないか!」

 

「馬車は『動くサロン』ではありませんので。……床の泥汚れを気にするなら、あとで水でも被ればいい。機能には一切支障はない」

 

ルーカスにとって、下水の不備を見落としたのは「致命的な計算ミス」だが、馬車の床に泥がつくのは「想定内の物理事象」でしかない。

その時、外からアレックスの短い号令が響き、馬車が発進の大きな揺れを見せた。

だが、エドワードの身体は、その不気味なほど「実用的」な座席に完璧にホールドされ、衝撃を逃がしていく。

 

(……癪だが、確かに揺れが少ない。……いや、違う。この馬車そのものが、一つの『機械』として完成されているのか……?)

 

エドワードは、車内で隣に座る少年の横顔を見た。

豪華な内装で権威を誇示するのではなく、見えない部分の「機能」を極限まで高める。その徹底した実利主義は、かつて自分が信じていた「貴族の正解」を、足元から静かに、しかし確実に侵食し始めていた。

 

「……。もう、驚くのにも疲れましたわ、エドワード殿下」

 

向かい側に座ったミリアリアが、深いため息をつきながら、指定された「硬い座席」に身体を預けた。彼女もまた、昨夜の事務地獄を経て、貴族としての感性が「実務モード」に強制換装されつつあった。

 

「でも見てミリー! この馬車、全然揺れないわ! 窓の外の景色が、まるで魔法みたいに滑っていくんですもの!」

 

隣でアンジェリカが、子供のように窓に張り付いて歓声を上げる。

アイアン・フーフ(鉄脚馬)の暴力的なトルクと、ルーカスが独自に組み込んだ、振動相殺回路(サスペンション)が、石畳の衝撃を無機質に中和していた。

 

「いやぁ、これは驚きだ。トレンス侯爵、この車両……一介の商人としては、喉から手が出るほど興味があります。少し前方の御者台にお邪魔して、護衛の方に構造や『運用コスト』の探りを入れてきても?」

 

ヴェクターが、いかにも「商人の息子」らしい、商機を見つけて興奮したような愛想笑いを浮かべた。

ルーカスが微かに顎を引いて許可を出すと、ヴェクターは車内前方の仕切り扉を開け、外の御者台へと身を躍らせた。

冷たい夜明けの風が吹き抜ける御者台。そこでアイアン・フーフの手綱を握り、周囲を警戒していたアレックスは、隣に座り込んできた「学生」に横目を向けた。アレックスは、この胡散臭い商人の倅が、海兵隊の特殊作戦要員『ヴァイス』であることを知る数少ない人物だ。

 

「……相変わらず、食えない男だ。外は冷えるぞ、色男」

 

アレックスが前方を向いたまま静かに呟くと、ヴェクターは商人らしい笑顔を周囲に振りまきながら、唇の動きを最小限にして答えた。

 

「勘弁してくださいよ、旦那。あの『高価で面倒な荷物』たちと密室にいると、息が詰まって仕方ない。……それにしても、見事な『パッケージ』だ。これなら、どんな悪路でも対象を無傷で運べますね」

 

「大将の趣味だからな。……おっと」

 

その時、アレックスの耳元で、後方警戒用の通信回路が短く鳴った。

 

Check six. (後方確認)Unidentified bogies(敵味方不明) closing in from the rear.(急速に接近中)

 

アレックスはいつもの癖で海兵隊の公用語を漏らし、すぐさま車内のルーカスへと通信を繋いだ。

 

「閣下。後方より追跡者です」

 

通信を受けたルーカスが、車内の座席脇にある「後部確認用モニター」へ視線を向けると、そこには夜明けの霧の中、必死に馬を飛ばして馬車を追いかける、数騎の影が映し出されていた。

 

「……例の案山子たちか。忠誠心だけは無駄に高いようだな」

 

「……ちょっと、ルーカス。これ以上の面倒事は御免よ」

 

モニターの映像を横から覗き込んだミリアリアが、心底うんざりしたように非難がましい視線を向けた。

その棘のある忠告に、ルーカスはわずかに肩をすくめ、スピーカー越しに御者台のアレックスへ向かって淡々と告げた。

 

「どうしますか、閣下。振り払いますか?」

 

「放置しろ。この馬車に追いつくのは、彼らの身軽な快速種なら容易だろうが……せいぜい、横に張り付いて装甲板を虚しく叩きながら並走するのが関の山だ。物理的に何も出来やしない」

 

ルーカスは、画面の中で迫りくる黒服たちを、路傍の石でも見るような冷徹な目で見つめた。

 

「なにより、彼らが実力行使に出る根拠は存在し得ない。それは、家門間の越境行為だからな。向こうから手を出せば、それは公爵家から侯爵家への明確な敵対行動(アクト・オブ・ウォー)になる」

 

「……はぁ、本当にあんたって人は。言っておくけど、あの公爵閣下が『家門間のルール』なんて理屈で大人しくしているのは、明日までよ」

 

ミリアリアは呆れとともに、額を押さえた。彼が政治的リスクすら「不可視の装甲」として計算し尽くしていることは理解できるが、相手が悪い。

 

「閣下は政務においては極めて妥当で冷静な方だけど、アンジェリカ様のこととなれば平気で権力を暴走させる子煩悩よ。明日の朝までに、閣下を納得させる完璧な言い訳を考えておきなさいよね。……だいたい、閣下が筆頭として推戴している第一王子殿下を、こんな風に雑用係として連れ回しているなんて知られたら……」

 

ミリアリアの非難に対し、ルーカスは全く悪びれることなく、隣で顔を引きつらせているエドワードへと視線を向けた。

 

「言い訳など不要だ。公爵が殿下の筆頭派閥であるなら、話はむしろ簡単だろう」

 

「……何?」

 

「ハートフィリア嬢は今、殿下の『特別視察』に同行している。……次期国王候補たる殿下の輝かしい実務研修に対し、公爵自らが私兵を差し向けて横槍を入れる理屈はない。違いますか?」

 

ルーカスの言葉に、エドワードは息を呑んだ。

自分を雑用係としてこき使っているだけでなく、ハートフィリア公爵の暴走を止めるための『政治的な肉の盾(シールド)』として、既にシステムの中に完璧に組み込まれていたのだ。

 

「……あとは、一定の速度で踏破し続けるだけだ。……どのみち、正式な書状もなく、我が家の門をくぐる事など出来やしない」

 

追いつかれることすら「計算内」であり、何もしないことこそが最も残酷な対処法。

悲鳴を上げることもなく、ただひたすらに事務的な被害予測をするミリアリアと、「物理的な装甲」と「政治的ルール」の両面から黒服たちを完全にシャットアウトし、あまつさえ王族を盾にするルーカス。

 

エドワードは、モニターに映る無力な護衛たちの姿と、一切の感情を読ませないルーカスの横顔、そしてため息をつきながら手帳に「公爵への事後報告書」と書き込み始めたミリアリアを見比べ、重く息を吐き出した。

 

「……一つ、聞いておきたいことがある、トレンス」

 

エドワードは、泥が跳ね、鉄脚馬の荒い鼻息が窓を曇らせる光景を忌々しげに一瞥し、隣の少年に視線を向けた。

 

「貴様は、昨夜まであの学園を地鳴りのような騒音で揺らし、淑女たちの平穏を物理的に粉砕していた。……そのくせ、自分の馬車がこうして泥にまみれ、最高級であるはずの内装が土足で汚されることには、眉一つ動かさないのか。貴様の言う『秩序』の基準が、私には到底理解できん」

 

エドワードの言葉には、自分たちが「雑用」として扱われ、泥に汚れながら機材を運ばされていることへの、精一杯の意趣返しが込められていた。

ルーカスは、網膜に表示していた「搬入路の警備状況」を閉じると、ゆっくりとエドワードを見据えた。その瞳には、嘲笑すらなく、ただ透明な「事実」だけが宿っている。

 

「殿下。……貴殿は、情報の優先順位を混同しているな」

 

「……何だと?」

 

「学園の騒音は、私の『設計ミス』に対する、修復の代償だ。下水の不備という致命的な脆弱性を放置したまま、その上に建物を維持し続けるのは、不発弾の上でダンスを踊るようなものだ。私は、その『致命的な非効率』を正すために、音という名のノイズを許容したに過ぎない」

 

ルーカスは、馬車の床に落ちた泥の塊を、無造作に靴の先で踏み潰した。

 

「だが、この馬車の汚れはどうだ。……これはただの物理的な付着物だ。掃けば落ち、洗えば消える。システムの根幹を腐らせる病原菌とは次元が違う。……私が気にしているのは『元に戻せない損壊』と『防げたはずの失敗』だけだ。殿下が仰る『汚れ』など、些末な事象に過ぎない」

 

エドワードは言葉を失った。

 

自分にとっての「屈辱(汚れ)」は、ルーカスにとっては「洗浄可能なデータ」でしかなく、自分が「騒音」だと思っていたものは、ルーカスにとっては「緊急のシステム復旧作業」だった。

 

「……つまり、貴様にとって私は。……拭えば済む、些末な存在だと言いたいのか」

 

「……別邸に着いたら、早くその箱を下ろして手を洗うことです。殿下が『ただの土木作業の雑用』だと思って抱えているその学園指定の空箱。……そこにこれから収められるものこそが、ご自身の『常識』という名の汚れを根底から洗い流す、最大の劇薬になるのだからな」

 

「……おい、ウィル。本当に、俺たちはとんでもねぇ所へ足を踏み入れちまったみたいだな」

 

ダモンが、硬い座席の隅に巨体を縮こまらせ、震える声で囁いた。

隣に座るウィルフレッドは、手に持った清掃用具のリストを握りしめたまま、窓の外で地響きを立てて走るアイアン・フーフの蹄を見つめ、幽霊のように頷いた。

 

「ああ……。この効率、この速度。……王国のどの騎士団の行軍よりも、論理的で、そして恐ろしい」

 

 

エドワードは、怯える彼らの姿と、対照的に一切の感情を読ませないルーカスの横顔を見比べ、こめかみを強く押さえた。

 

「……アンジェリカ嬢。君は、怖くないのか。この男が、王国のすべてを……我々の『常識』という心地よい夢を、こうして塗り替えていくことが」

 

エドワードの問いに、アンジェリカは刺繍の施された旗をぎゅっと抱きしめ、太陽のような笑顔を向けた。

 

「怖い? まさか! 私は、ルーカスが見せようとしている『次の景色』にワクワクしているだけよ。お兄様だって、あの音を、もっと近くで聞きたいんでしょう? それに、止まっている方が退屈でしょう?」

 

「…………」

 

エドワードは言葉を失い、窓の外を流れる夜明けの街並みを見つめた。

 

 

やがて、馬車はトレンス別邸の厳門へと滑り込む。

門が重厚な音を立てて閉まり、追跡者たちの蹄の音は、遥か彼方で霧に消えていった。

 

馬車が中庭の石畳に停車すると、外の冷気と共に、待ち構えていたかのような静寂が車内を包み込んだ。

ルーカスが扉を開け、朝靄の立ち込める別邸の敷地へと降り立つ。

 

エドワードは、埃と脂汗にまみれた自身の制服と、酷使した腕の痛みに顔をしかめながら、それに続いた。王国の第一王子が、侯爵家の裏口で雑用係として荷物を降ろす。その屈辱的な事実を噛み締めながら顔を上げたエドワードの視界に、整然と並んだ一団が映り込んだ。

 

それは、主人の帰還を待つトレンス家別邸の使用人たちだった。

その先頭に立ち、背筋を凍りつくほど真っ直ぐに伸ばしているのは、メイド長のヒルダ。

彼女の視線が、主であるルーカスの背後に続く「泥だらけの荷物持ちたち」——とりわけ、王国の至宝であるエドワード王子の無残な姿を捉え、その眼差しが微かに、だが決定的に揺れるのを、エドワードは見逃さなかった。

 

(……そうだ。見ろ、この男が王国の秩序に泥を塗っている様を。貴様たちトレンス家の人間にとっても、これは許されざる異常事態のはずだ)

 

エドワードは、ヒルダのその「動揺」に、貴族社会の常識がまだこの別邸に残っていることの証明を見出し、わずかな安堵を覚えた。彼女が声を上げれば、この狂った行軍にも何らかの「まともな歯止め」がかかるかもしれない、と。

 

だが、ルーカスはその使用人たちの動揺など、路傍の石ころほどにも気にする素振りを見せず、ただ淡々と、そして無慈悲な号令を響かせた。

 

「……ようこそ、トレンス家へ。総員、車両から離脱しろ。これより、検品および『荷解き』フェーズへ移行する」

 

それは、破壊ではなく——新しい世界を育てるための、鋼鉄の揺籠。

そして同時に、エドワードたちがこれから直面する、物理的な疲労よりも遥かに恐ろしい「精神と礼節の調律」という名の、果てしない一日の始まりを告げる鐘の音だった。

 

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