剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第百二十三話

 

第百二十三話:礼節の装甲、白磁の洗礼 ―あるいは、拭い去れぬ不条理―

 

 

大型馬車が別邸の勝手口に滑り込み、重々しい音を立てて停車した。

門前には、整列した使用人たちの先頭で、凍りつくような表情で、痛いほど背筋を真っ直ぐに伸ばしたヒルダが立っていた。

馬車から降り立ったのは、冷徹な仮面を崩さないルーカス。そして、その後方から現れた「荷物持ち」たちの無様な姿に、ヒルダの視界がわずかに揺れた。

 

王国の第一王子、エドワード・ブラン・ホーネリア。

埃と脂汗に汚れ、屈辱に顔を歪めながらも、重い資材を抱えてよろめくその姿。だが、今のヒルダの目に映るそれは、単なる「王族の辱め」ではない。ルーカスがこの王都で新たな秩序を築くために必要な、ある種の『不可避なプロセス』なのだと、彼女は冷静に分析していた。

 

「ルーカス様、お帰りなさいませ」

 

ヒルダは深く頭を下げた。片手には、エレノアの指導で操作に習熟した『タブレット端末』がしっかりと握られている。

 

「ヒルダ。機材の搬入を急がせろ。そこにいる『運営補助員』三名には、裏口の倉庫に荷解きのスペースを用意し、終わるまで一切の休息を与えるな。彼らは志願兵だ。甘やかす必要はない」

 

その言葉に、エドワードの側近たちが絶望の表情を浮かべる。 

 

ヒルダは一瞬、喉まで出かかった言葉を飲み込もうとした。

 

しかし、彼女の中にある「トレンス侯爵家のメイド長」としての新たな忠誠心が、それを許さなかった。

 

「……ルーカス様。恐れながら、申し上げます」

 

ルーカスの足が止まる。

 

「……ヒルダ、今私に『意見具申』をしようとしているのか?」

 

「はい。これは……わたくしの職務としての進言でございます」

 

ヒルダはルーカスの視線を真っ向から受け止めた。

ルーカスの合理性を理解した今の彼女にとって、伝統や礼節はただの『飾り』ではない。主君を政治的リスクから守るための『防御装甲』なのだ。

 

「そちらにいらっしゃるのは、この国の太陽たる第一王子殿下。殿下を『補助員』として酷使されるのであれば、せめてその背後で、わたくしたち使用人が『完璧な歓待』の体裁を整えるべきです。殿下には極上の茶と休息を、そして此度の『実習』が如何に高潔なものであるかを王都に知らしめるための、一分の隙もない事務処理を。……それが、トレンス侯爵家の名代たる貴方様を守る、わたくしの戦い方にございます」

 

ルーカスは無言でヒルダを見つめた。

 

(……Hmph。面白い。あの旧弊だったメイド長が、伝統を防御陣地(セーフハウス)の装甲として利用する思考に至ったか)

 

ルーカスの唇が、わずかに弧を描いた。

 

「……よかろう、ヒルダ。貴様の『戦い方』を証明してみせろ。殿下をどう料理しようと勝手だが、機材の搬入スケジュールを一秒でも遅らせることは許さん」

 

「……謹んで、拝命いたします。ルーカス様」

 

ヒルダは手元のタブレットを素早く操作し、無線通信を通じて別邸内の全使用人に雷鳴のような指示を飛ばした。

 

「セリーヌ! ハートフィリア公爵令嬢とオルスタイン伯爵令嬢を東翼のスイートへ! 殿下は最上階の貴賓室へご案内し、即座に湯浴みの準備を! 従者の方々は西翼の控室へ! ……さあ、皆様。夜明け前の行軍、誠にご苦労様でございました。まずは埃と疲れを洗い流し、ささやかな朝餐をお召し上がりくださいませ」

 

ヒルダの「慇懃無礼なまでの完璧な歓待」が発動した。

 

「……お待ちください! 殿下を我々から引き離すおつもりですか!」

 

ダモンが血相を変えてエドワードを追おうとしたが、その前にルーカスが顎でしゃくった大柄な男──海兵隊の曹長が、無言で立ち塞がった。

 

「お坊ちゃん方。貴様らの任務は『荷解き』だ。殿下はメイド長が責任を持って『保護』する。……それとも、殿下にこの先の埃まみれの土方作業を続けさせるのが、貴様らの忠誠心か?」

 

「くっ……!」

 

エドワードは、曹長に睨み据えられて立ちすくむ側近たちと、恭しく頭を下げるヒルダを交互に見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。

自分がここで騒いでも無意味だ。そもそも、この屈辱的な「雑用係」の立場は、彼自身が現場での検証を志願した結果であり、いわば「身から出た錆」。文句を言う権利すら、すでに自分が手放してしまっているのだ。

 

「……ダモン、ウィル。お前たちは指示に従え。……行くぞ、案内しろ」

 

王族としての最低限の意地を張りながら歩き出したエドワードと、それを恭しく先導するヒルダの背中を見送りながら、ルーカスはふっと口元を緩めた。

 

「……あの堅物も、どうして中々。分からんものだな」

 

それは皮肉ではなく、部下の思いがけない「戦術的成長」を素直に評価する、指揮官としての静かな感嘆だった。隣に立つアレックスが、苦笑混じりに応じる。

 

「閣下に付き合っていくならば、誰であれ変わらざるを得ませんよ。さもなくば、貴方の振り回す『合理』から振り落とされるだけですからな」

 

「…Heh.私は『環境』を用意しただけだ。 彼女が自分で生き残るための『最適解』を導き出したに過ぎん」

 

ルーカスは短く切り捨てると、いつもの冷徹な表情に戻り、アレックスに命じた。

 

「さて、私は数日分の泥を落としてくる。ヒルダが『盾』を構えている間に、お前は持ち場に戻れ。……あの荷物持ちたちの教育は、副官に任せろ」

 

「了解しました」

 

ルーカスが足早に背を向けて奥へ消えると、アレックスは今まで張り詰めていた肩の力を少しだけ抜き、フーッと重い息を吐き出した。

 

その背中に、後ろに控えていた大柄な先任曹長──ウォーレンが、ニヤリと笑いながら近づいてくる。

 

「いやはや。閣下直々のご指名による、王族の護衛兼、御者という誉れ高き任務。あのピリピリした密室空間を平然とこなせるのは、少佐殿くらいのものでしょうな」

 

ウォーレンは、海兵隊の階級で呼びながらも、かつての傭兵時代の名残を感じさせるくだけた口調で肩をすくめた。

 

「流石は、我らが『火竜の剣(サラマンダー)』が団長殿でありますな」

 

「……軽口を叩くな、ウォーレン。腹を探り合う貴族の坊っちゃんお嬢さん相手の道中は、戦場で矢玉を潜り抜けるより何倍も疲れるんだ」

 

アレックスは、首の骨をポキリと鳴らしながら忌々しげに愚痴をこぼした。

 

「おまけに、大将はあの通り、相手が第一王子だろうが容赦がないからな。寿命が縮む思いだ。……いいか、ウォーレン。あの『血の気の多い若犬』二匹の教育はお前に任せるぞ」

 

アレックスが疲労混じりの真顔で告げると、ウォーレンは姿勢を正し、下士官特有の獰猛な笑みを浮かべた。

 

「あの坊っちゃん騎士たちですか。適度にガス抜きさせつつ、我らがブートキャンプの『歓迎の挨拶』を叩き込んでやればよろしいので?」

 

「ああ。だが、間違っても機材は壊すなよ」

 

「Copy.……ところで、もう一人の『商人の坊っちゃん』はどうします?」

 

ウォーレンは、その言葉にだけわざとらしいイントネーションを混ぜて尋ねた。

アレックスは呆れたように苦笑し、首を振る。

 

「他の二匹と同じように、不自然にならない程度に扱き使ってやれ。どうせあの『色男』なら、多少の無理など屁でもないだろう。むしろ、良いカモフラージュになる」

 

「Wilco.王都の温室育ち共に、確実な『荷解き』を仕込んでやりますよ」

 

ウォーレンがゴキリと太い拳を鳴らすのを確認すると、アレックスは「頼んだぞ」とだけ言い残し、元来た道へと歩き出した。

 

 

一方、何も知らないダモンとウィルフレッドは、西翼の控室で冷たい汗を流すことになる。別邸は今、嵐の前の、奇妙に優雅な休息時間へと入っていった。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

別邸の貴賓室。エドワードは、煤と脂汗にまみれた制服を脱ぎ捨て、ヒルダが用意した最高級のバスローブに身を包んでいた。

 

部屋には、王宮ですら滅多に使われないような、高価な香木が焚かれている。

 

「殿下、お加減はいかがでしょうか。……お労しいことに、手のひらに肉刺ができておりますね」

 

ヒルダは跪き、エドワードの赤く腫れた手に、慣れた手つきで薬を塗っていく。その瞳には、ルーカスが向けるような冷たい観察の色はない。そこにあるのは、自分たちの大切な王子が、このような屈辱的な労働を強いられていることへの、心からの「同情」と「痛み」であった。

 

「……メイド長。貴様は、トレンス侯爵のやり方をどう思っている」

 

エドワードは、震える声で問いかけた。ヒルダの向けた「まともな」優しさに、彼の頑なな心がわずかに解けかけたからだ。だが、ヒルダの答えは、彼をさらに深い絶望へと突き落とした。

 

「……殿下。わたくしも、最初はトレンス様のやり方に、それこそ命を懸けて抗おうといたしました。ですが……」

 

ヒルダは、薬を塗り終えると、そっとエドワードの手を包み込んだ。その手の温もりは本物だった。

 

「ルーカス様は、この世界の『次の形』を見ておられます。わたくしたち使用人の仕事すら、魔導具によって塗り替えられていく。それは恐ろしいことですが、それ以上に、ルーカス様が示される『未来』は、わたくしたちのような弱い人間が、この乱世で生き残る唯一の道なのです」

 

「……殿下が、これほどまでの辱めに耐え、検証に志願されたこと。わたくしは、伝統ある侯爵家のメイド長として、その高潔なご決断を生涯忘れません。このお覚悟が王都の貴族たちに伝われば、どれほど彼らの胸を打つことでしょう」

 

(違う……。俺は、あいつに弱みを握られ、無理やり……!)

 

エドワードは叫びたかった。しかし、ヒルダの瞳があまりにも「善意」と「敬意」に満ちていたため、その言葉を飲み込まざるを得なかった。

 

(これは……選択ではない。だが──誰も、それをそう見ていない)

 

ヒルダは、エドワードを「ルーカスに従う共犯者」としてではなく、「未来のために自らを犠牲にする高貴な先駆者」として、完璧な礼節をもって扱い、その逃げ場を塞いでいたのだ。

 

 

もしヒルダが冷たければ、エドワードは彼女を「主君に染まった狂人」として憎み、反抗心を燃やせただろう。だが、彼女が「王子への配慮」を最大限に行えば行うほど、エドワードは「トレンス家のシステム」の中に、賓客として、あるいは部品として、優雅に取り込まれていく。

 

「……ルーカス・トレンス。貴様は、人の『心』すら、こうも無慈悲に効率化に組み込むのか……」

 

立ち込める香木の香りは、甘く、そして息苦しいほどに彼を包み込んでいた。

それは決して王族の肉体を害する毒ではない。だが、エドワードから「怒り」と「反抗」という最後の武器を奪い去るには、これ以上ないほど緻密に計算された『猛毒』であった。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

 東翼のスイートの扉が開かれた瞬間、ミリアリアは微かな戸惑いを覚えた。

 

王族や高位貴族を迎え入れる部屋といえば、過剰な金糸や重厚な絨毯で権威を示すのが常識だ。しかし、この部屋にはそうした「虚飾」が一切削ぎ落とされ、代わりに異常なまでの「機能美」と「清潔感」が支配していた。

 

「わあ……! ねぇミリー、このお部屋、ちっとも埃っぽくないわ! このソファ、座ると身体に吸い付くみたい!」

 

好奇心旺盛なアンジェリカが、中央の流線型のソファに腰を下ろし、子供のようにはしゃいでいる。ミリアリアは、主君の無邪気な振る舞いを微笑ましく見守りながらも、この部屋に漂う「違和感」の正体を探っていた。

 

「失礼いたします。お部屋の案内をさせていただきます、セリーヌと申します」

 

現れたのは、若いメイドのセリーヌだった。彼女は緊張で指先を震わせながらも、教わったマニュアルを必死に守るように、淀みなく口を動かした。

 

「当室は、トレンス侯爵閣下が設計された魔導具により、常に適温に保たれております。壁のこちらのツマミを回せば、お好みの音量で……その、音楽をお楽しみいただけます」

 

セリーヌは懸命だった。ルーカスの「効率」を損なわず、かつゲストの品位を汚さないよう、丸暗記した説明を必死に紡いでいく。

 

だが、その丁寧な説明の合間に、ミリアリアは自身の身だしなみに僅かな「重さ」を感じていた。長旅の煤、そして夜明け前の冷気。淑女として、一度身を清めたいという静かな欲求。それを察したかのように、背後から柔らかな声が届いた。

 

「セリーヌ、そこまででよろしいわ。──アンジェリカ様、ミリアリア様。まずは、旅の煤を落とす『浄化の私室』へご案内いたします。説明よりも、まずは『体験』を。それが当主の流儀でございますので」

 

エレノアだった。彼女の瞳は、ゲストが言葉にする前にその必要性を「処理」していた。エレノアはまずセリーヌに目配せし、最高位の客であるアンジェリカを優先して案内させた。

 

「アンジェリカ様、こちらへ」

「ええ、楽しみだわ!」

 

アンジェリカがセリーヌに導かれ、扉の向こうへ消える。前室には、エレノアとミリアリアの二人だけが残された。

ミリアリアは、エレノアの淀みない立ち居振る舞いに、ある種の圧倒を感じていた。

 

「……ミリアリア様も、どうぞ。こちらは、他家のどのお部屋よりも、貴女様を『一人の人間』として安らがせてくれるはずです」

 

エレノアが隣の扉を指し示す。

 

(……浄化の私室?)

 

ミリアリアは、その聞き慣れない言葉に疑問を抱きながらも、促されるまま隣の扉の奥へと足を踏み入れた。

 

 

貴族が想像する「それ」は、部屋の片隅に隠された衝立の裏か、暗くて狭く、どうしても微かな臭気が漂う不浄の空間だ。

しかし、目の前に広がるのは、大理石と白磁で設えられた、煌々と明るく、高価な香油の香りが漂う神聖な空間だった。そこには、不潔さの欠片もない。

 

エレノアは直接的な言葉を一切使わず、まるで最新の美容魔導具でも紹介するように、淡々と、しかし恭しく機能を説明し始めた。

 

「こちらの白磁の座席は、冷気を感じさせぬよう、常に人肌の温度に保たれております。お身体を預け、『浄化』をお済ませになりましたら、こちらの銀のレバーをお引きください」

 

エレノアの白魚のような指が、白磁のタンクの横にあるレバーを指し示す。

 

「水導の機構が、あらゆる『肉体の制約』を音もなく彼方へ消し去り、同時に清冽な術式が室内を清めます。貴女様のお手を煩わせることも、わたくしどもが『隠されるべき名残』を目にすることも、永遠にございません」

 

その言葉の意味を理解した瞬間、ミリアリアの脳天を雷が打ち抜いた。

 

(……まさか……)

 

だが、目の前の白磁の構造と、銀のレバーが示す仕組みが、否応なく答えを突きつける。

これまで「高貴さ」という名の免罪符で、誰かの手に委ね続けてきたその行為を、この冷徹な機械は『存在しなかったこと』にしてしまうというのか。

 

(……私の恥を、誰の目にも触れさせず、匂いすら残さずに、完全に隠滅してくれるというの……?)

 

貴族の女性にとって、「それ」をメイドに片付けさせることは、言葉には出さずとも、常に申し訳なさと強烈な羞恥心を伴う時間だった。「それ」を他人に晒さなければならないという構造的欠陥。

 

だが、目の前のこの白磁の箱は、その「屈辱」を根本から消し去っている。あまりにも清潔すぎて、既存の「不浄」というタブーすら適用できないのだ。

 

「……下がってちょうだい。少し、一人になりたいわ」

 

ミリアリアは、震える声を必死に抑え込みながらエレノアを退出させた。

 

 

その時になってようやく、彼女の理解は一拍遅れて追いついた。ミリアリアは、これまで、自分が学園の地下で耳にした「下水工事という野蛮なノイズ」が、これほどの『絶対的な清潔』を構築するための代償であったことを、自身の肉体で理解することになったのだ。

 

扉を閉めた空間に広がる、完璧な静寂。

 

恐る恐る腰を下ろした瞬間、期待を裏切る柔らかな温もりが、身体を包み込んだ。それは魔法の火照りとも違う、生命に寄り添うような「適温」。

 

(……ああ。これが、あの男が敷設した『秩序』の結末なのね)

 

一息つき、彼女は手元の銀の操作盤に目を落とす。説明された通りに操作すれば、すべては最初から無かったかのように「忘却」の彼方へ消えるはずだ。

 

 カチリ、と小さな機械音が鼓膜を叩いた。

──直後。

 

予期せぬ位置から──聖域とも呼ぶべき無防備な領域へ、寸分の狂いもなく温かい水流が撃ち込まれ、ミリアリアは「ひぅっ」と短い悲鳴を漏らして息を呑んだ。

 

……洗い流されるのは、単なる付着物ではない。これまで高貴な身分という鎧の裏側で、淑女が独り耐え忍んできた『拭い去れぬ不条理』そのものだった。

 

……ふと横に目をやれば、そこには絹よりも柔らかく、雪のように白い紙の積層が備え付けられていた。

指先が触れたそれを、たった一度きりで使い捨てにするという。王族ですら成し得ぬ贅を尽くした『合理』に、彼女は眩暈を覚えた。

 

そうして、余分な重みから解き放たれ、背後で音もなく吸い込まれる水の調べを聞きながら、重厚な扉を押し開け、外界へと戻る。

 

 

扉の向こう側──そこは、さらに残酷なまでの清潔が支配する空間だった。

 

ミリアリアは、吸い寄せられるように白磁の洗面台へと向かう。蛇口に触れる必要すらなかった。ただ手を差し出すだけで、まるで意思を持つ精霊が囁くように、適温に温められた清冽な水がこぼれ落ちたのだ。

 

「……信じられない」

 

召使が銀の水差しを捧げ持つ必要もなく、彼女の指先は清められていく。

 

そして、ふと顔を上げた瞬間──。

 

視線の先には、魔法の光に縁取られた、恐ろしいほど鮮明な鏡があった。

鏡の中にいたのは、見慣れたはずのぼんやりとした影ではなかった。

金属鏡のようなくすみも、安価なガラスの歪みも一切ない。

そこには、「現実よりも鮮明に」自分を暴き立てる、無慈悲なまでの真実が映し出されていた。

頬を染める赤らみ、潤んだ瞳の細かな震え、そして安楽に屈した己の卑しい表情──。

 

これまで、暗い鏡の中で「理想の淑女」として自分を騙し続けてきたミリアリアにとって、その鮮明さは刃よりも鋭く彼女の自尊心を切り裂いた。

 

(……私、今、こんな顔をしているの……?)

 

あの男が用意したこの鏡は、清められた後の自分が、どんな顔で屈していたのかまで、容赦なく見せつけてくる。

 

 戻れない。

 

冷たくて暗い場所で、一刻も早く済ませることを祈り、他人にその「不浄」を委ねるしかなかった、あの古い生活には。

 

(ルーカス・トレンス。貴方は本当に……恐ろしい人だわ……)

 

洗面台の縁を握りしめ、ミリアリアは戦慄した。

彼は剣も魔法も使わずに、ただ「快適さ」という逃げ場のない檻で、彼女たちの日常を塗り替えてしまった。

 

入れ替わりで出てきたアンジェリカが、満面の笑みで言った。

 

「ミリー、不思議ね! ここにいると、自分が女神様にでもなったみたいな気分よ! だって、嫌なものが全部、お水と一緒に魔法みたいに消えてしまうんですもの。ちっとも恥ずかしくないわ!」

 

無邪気に核心を突くアンジェリカの言葉に、ミリアリアは心底からの敗北感に満たされた。

だが、それは終わりではない。

白磁の清潔に迎え入れられた者へ、トレンスという「新世界」は、なおも優雅に、なおも残酷に、その内側まで手を伸ばしてくる。

 

そして一度触れた者は、二度とその外側には戻れない。

 

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