第百二十四話『鋼の規律と砂糖水 ―あるいは、不可逆の
一方、西翼の控室──いや、事実上の「兵舎」の奥に設けられた殺風景なタイル張りの区画では、ウォーレン最先任曹長の獰猛な怒号が響き渡っていた。
「立ち止まるな若犬ども! 貴様らは今、コンベアに乗った泥付きの芋だ! 流れるように進め!」
そこは、個室で優雅に湯を浴びる空間ではなかった。
入口から出口まで一方通行の「ライン」が形成されており、歩を進めるごとに強制的な工程が待ち受けているのだ。
第一工程。天井の管から叩きつけられる高圧の冷水シャワーが、ダモンとウィルフレッドの身体から物理的に泥を弾き飛ばす。
「ひ、ひぃぃっ! 水圧が! 水圧が痛い! 肌が削れる!」
天井の金属管から叩きつけられるのは、息が詰まるほど冷たく、そして暴力的なまでに高圧な水流だった。陪臣家系である彼らは、平時の冷水摩擦や水浴びには慣れている。だが、この「泥を物理的に弾き飛ばす」ことのみに特化した容赦のない放水は、彼らの知る行水とは根本的に次元が違った。
「そ、曹長殿! 侯爵家ほどの財力があれば、せめて湯を沸かす魔導具くらい……っ!」
「阿呆が! 我らが大将が構築した地下の『魔力炉』を舐めるな! この屋敷の配管には、湖一つ沸騰させるほどの無限の温水が駆け巡っているわ!」
「な、ならなぜ冷水を……!」
「決まっているだろう! 温水など浴びれば筋肉が弛緩し、眠気を誘うだけだ! 今の貴様らに必要なのは、食堂を汚さないための『除染』と、神経を叩き起こすための『刺激』だ! 極楽の温水シャワーが欲しければ、朝餐の後に待っている『地獄の荷解き』を完璧に終わらせてからにしろ!」
その理不尽だが一切の隙もない『合理』に、ダモンたちは反論する気力すら削がれ、ただ高水圧の冷水に耐えるしかなかった。
その隣で、「ひゃあ、冷たい! でも商人の倅にまでこんな立派な水浴び場を貸していただけるなんて、ありがたいですねぇ!」
と、大仰な小芝居を打っているヴェクターの手際は、恐ろしいほど洗練されていた。
彼は悲鳴を上げる二人の横で、海兵隊員として骨の髄まで染み込んだ『三分間完全除染ルーティン』を無意識かつ完璧にこなしながら、内心で苦笑を漏らしていた。
「これから本番の『荷解き』を控えた貴様らに使うリソースはない! 目を覚ませ!」
再びウォーレンの容赦ない怒号が飛ぶ。次は第二工程。壁から一定量だけ射出される謎の緑色の液体石鹸を身体にこすりつけられる。泡立てる時間などない。
「擦れ! 三秒で全身に塗りたくれ! 次! すすげ!」
続く第三工程で、再び高水圧の冷水が泡ごとすべての汚れを削り落としていく。
水滴を拭う間もなく、彼らは奥の『排泄区画』へと蹴り込まれた。
しかし、そこは貴族の館にあるべき密室ではなかった。ズラリと並んだステンレス製の便座。それを仕切る扉は……あろうことか「膝下から足首までが丸見えになる」という、信じがたい
足首の動きが止まれば滞留、動けば終了。外から一目で判断できる構造だった。
「そ、曹長殿! なぜ扉の下半分がないのですか! これでは用を足している姿が丸見え……!」
羞恥に顔を真っ赤にするウィルフレッドに対し、ストップウォッチを握ったウォーレンが扉をバン! と蹴り飛ばす。
「ここは読書室ではない! 『誰がいつまで粘っているか』を外から一目で確認するための極めて論理的な構造だ! 貴様らに与えられた排泄時間は三十秒! 出口からケツを拭いて出てくるまで、三十秒だ!」
騎士の矜持も、陪臣としての常識も、秒単位で管理されるベルトコンベアの前では無力だった。二人は半泣きになりながら、剥き出しの足首を震わせて便座に跨るしかなかった。
その隣の区画。
「いやぁ、風通しが良すぎて、僕にはちょっと刺激的すぎますねぇ!」
大仰に身をよじって小芝居を打つヴェクターだったが、その実、彼の排泄動作には一秒の無駄もなかった。パニックに陥る若犬二人を横目に、彼は心の中で(容赦ねぇな、あの親父殿は)と、古巣の『ブートキャンプ』に懐かしさすら覚えながら、きっちり十二秒残してズボンを引き上げていた。
・・・・・
・・・
ルーカスは、執務用に設えられた低い卓に足を投げ出し、マグカップの縁に口をつけた。
王都に流し込ませた黒い飲み物の、その最下級品。
未だに「本物の豆」が入らないこの世界で、成分と魔力を無理やり噛み合わせて作らせた代物だ。お世辞にも上品とは言えない。焦げた泥水みたいな、MREの粗悪なインスタントコーヒーを思わせるざらついた苦味が舌を刺す。
巷では成金や商人どもが、「トレンス産」の看板に釣られて香りを整えた高級品へ金を積んでいる。だが、そんな上品な一杯は今は不要だった。
この雑な苦味でいい。
乾いた朝にも、砂塵混じりの夜にも。
眠る間もなく次の任務へ追い立てられるたび、傍らにあったのはいつも、こういう味だった。
旨いと思ったことは一度もない。だが、これがあれば仕事が始まった。
舌に残るざらつき。胃を殴るような刺激。
生き延びるためだけに飲む、安物の黒い燃料。
一客で平民が一年暮らせる白磁のカップに、ラベルもない小袋から「C-1」の粉末をぶち込む。
ひどく不釣り合いで、だからこそ笑えた。
広すぎる空間と、過剰なまでに設えられた豪奢な調度品を眺めながら、ルーカスは鼻で笑った。
「……So, this is the 'home' I'm supposed to return to?」
ルーカスは、低い呟きと共に、深く溜息をつき、目を閉じた。
「笑わせる。スタンプスの埃まみれのバラックや、ハトロンのクソみたいな岩山が恋しくなるぜ」
ルーカスは、豪華すぎるソファの背もたれに頭を預け、天井の彫刻を忌々しげに眺めた。
「……Alpha、周囲の監視を強化。ヒルダの『歓待』に甘えて、鼻の下を伸ばしている間抜けがいないかチェックしろ」
『了解。現在、別邸内の生体反応をスキャン中。……ルーカス、扉の向こうで心拍数を急上昇させている個体が一名います』
ルーカスは、わざとらしく溜息をつき、カップを置いた。
「……許可する。C’mon... Private.」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、重厚な扉が僅かに開き、白い影が音もなく滑り込んできた。小型化したクインが、狂わんばかりに尻尾を振り、ルーカスの膝の上へと強引に割り込んでくる。
「おっと……。はしたないぞ、クイン。外には王国の太陽様がいるんだ。そんなに喉を鳴らして、奴らが嫉妬したらどうする」
ルーカスは、口では冷たく突き放しながらも、その大きな手は迷いなくクインの柔らかな首元を深く撫でていた。
クインの温もりと、ザラついたコーヒーの苦味。
「……Heh. このペントハウスで、まともなのはお前だけらしいな」
彼がわずかに緩めた口角を、見ている者は誰もいなかった。
“Too clean. No smell, no grit, no noise.”
ルーカスの口から、かつての言語が乾いた音となってこぼれ落ちた。
綺麗すぎる。臭いも、砂利も、そして硝煙の騒音すら、ここにはない。
“Comfortable, sure. But wrong.”
確かに、快適ではある。だが──何かが決定的に間違っている。血と泥にまみれて生きてきた己の魂が、この無菌室のようなペントハウスの空気を拒絶していた。
その静寂を破るように、控えめだが規則正しい二度のノックの音が響いた。
「入れ」
ルーカスが短く応じると、完璧な身だしなみを整えたエレノアが静かに入室してきた。彼女の視線は、ルーカスの膝の上で丸まり、至福の表情を浮かべているクインへと真っ直ぐに向けられた。
「……失礼いたします。東翼の案内をセリーヌに引き継ぎ、私は報告に戻りました。……どうやら、クイン二等兵の忍耐も限界だったようですね」
エレノアの口元に、微かな、しかし確かな微笑みが浮かんだ。
「扉の前で、声を出すこともなく、ただひたすらに尻尾を振って待機しておりました。私が近づいても見向きもせず……まるで、この世の終わりから救い出されるのを待つ迷子のような切実さでしたよ」
ルーカスは鼻で笑い、クインの耳の裏を掻いてやった。クインは気持ちよさそうに目を細め、喉を鳴らす。
「Hmph. 訓練兵から二等兵に昇格しても、中身はただの甘えん坊か。……で、各所の状況は?」
エレノアは即座に表情を引き締め、補佐官としての冷徹な顔に戻った。手元のタブレット端末に視線を落とす。
「ご報告いたします。まず西翼ですが……ウォーレン先任曹長による『強制除染ライン』を無事通過したとのこと。現在は待機室にて、これから荷解きする機材の価格と、『一つでも傷をつければ一族郎党が路頭に迷う』という内容の損害賠償誓約書を突きつけられ、九十分間の過酷な事前ブリーフィングを受けております。ダモン、ウィルフレッド両名は極度の緊張で胃痛を訴えているとのことですが、ヴェクターについては、小芝居を交えつつも完璧に図面を頭に入れているようです」
「上出来だ。あの陪臣の坊っちゃん共には、あれくらいの荒療治が必要だ」
「続いて、東翼および最上階の貴賓室について。……ミリアリア様、アンジェリカ様、そしてエドワード殿下は、それぞれ『浄化の私室』での洗礼を受け、完全に戦意を喪失された模様です」
エレノアの声には、確かな手応えが滲んでいた。
「ヒルダの用意した完璧な休息と、物理的な不快感を一切排除した圧倒的な清潔さが、彼らの警戒心を根底から解体しました。現在は、泥のように深い眠りについておられます」
「……あの堅物のメイド長が構えた『礼節の装甲』は、どうやら期待以上の防御力を発揮しているようだな」
ルーカスは、残っていた苦いコーヒーを飲み干した。
「はい。そして現在、ヒルダの指揮の下、厨房では朝餐の準備が最終段階に入っております。『クックメーカー』をはじめとする魔導具をフル稼働させ、王宮の晩餐にも引けを取らない品数を、完璧な温度とタイミングで提供する手筈です。彼らが目覚めた時、さらなる『圧倒的な技術と豊かさ』を見せつけることになります」
エレノアの報告を聞き終え、ルーカスは満足げに頷いた。この家の空気だけは最後まで肌に合わなかったが、仕掛けたラインはすべて予定通りに作動していた。
「ご苦労。……さあ、王国の太陽様が目を覚ます前に、こちらも『次の防衛線』の準備を整えるとしようか」
ルーカスは、膝の上のクインをそっと床に下ろすと、再び冷徹な司令官の顔で立ち上がった。
・・・・・
・・・
朝の光が、塵ひとつないサロンの床に鋭く差し込んでいる。
エドワードもミリアリアも、実質的な睡眠時間は一時間にも満たない。本来であれば、早朝移動の疲労と寝不足で顔色は失われ、目の下には隈が浮かんでいるはずだった。
だが──。
トレンス別邸のベッドに備え付けられた「生体リズム最適化魔導具」と、体圧を完全に分散する「高反発素材」は、彼らの肉体から疲労という概念そのものを剥ぎ取っていた。
鏡に映る自分たちの顔は、高級な美容液を使い、十時間の熟睡を得た後のように艶やかで、生気に満ちている。
……完璧だった。
あまりにも、完璧すぎた。
それが、かえって彼らの「敗北感」を、どこまでも鮮明にしていた。
「……ミリアリア嬢。一つ、聞いておきたいことがある」
エドワードの顔には、十分な睡眠をとったはずの艶やかな肌色とは裏腹に、深い苦渋の影が落ちていた。
「その、案内された自室で……その、『浄化の私室』とやらを、使用したか?」
その言葉に、ミリアリアの肩がビクッと跳ねた。彼女は持っていたティーカップをソーサーに置くと、顔を真っ赤にして俯き、震える声で答えた。
「……殿下も、あの……『白磁の罠』の洗礼を……?」
「……ああ。完全に不意を突かれた。まさか、あのような死角から、あのような正確無比な温度と水圧で……我々の『尊厳』を狙い撃ちにしてくるとは」
エドワードは、額に手を当てて深く嘆息した。
「恥を忍んで言おう。俺は最初、暗殺の罠かと思った。だが……終わってみれば、自分の中にあった『不浄』という概念そのものが、跡形もなく消え去っていた。使用人を呼ぶ必要すらない。己の恥を、誰の目にも触れさせず……完璧に処理されてしまった」
「わかりますわ、殿下……!」
ミリアリアは思わず身を乗り出した。同じトラウマを共有する戦友を見つけたような切実さがそこにあった。
「あれは悪魔の道具ですわ! 貴族としての矜持を保つ間もなく、強制的に……ッ! それにあの後、水差しもないのに適温の水が溢れる手洗い場と、真実を映しすぎる恐ろしい鏡! トレンス侯爵は、私たちが必死に纏ってきた『貴族の鎧』を、この屋敷の快適さだけで丸裸にしてしまったのです!」
二人は、誰にも聞かれないよう声を潜めながらも、その圧倒的なテクノロジーへの恐怖と、決して抗えない快適さへの敗北感を噛み締めていた。
もはや、彼らはルーカスの用意した「秩序」の外では生きられない身体にされつつあるのだ。
「まぁ、お二人とも何を深刻な顔でお話しされているの?」
そこへ、焼きたてのスコーンを片手に、アンジェリカが花が咲いたような笑顔でやってきた。彼女の肌はツヤツヤで、まるで新緑のように生気に満ち溢れている。
「このお屋敷、本当に素敵ね! ベッドは雲みたいにフカフカだし、壁のツマミを回したら綺麗な音楽まで流れてくるのよ! それに、お部屋についていたあの白いお椅子! ポカポカしてて、勝手に洗ってくれて、ミリー、私、もう王宮の冷たいおまるには絶対に戻れないわ!」
「ア、アンジェリカ様ッ!? 声が大きいですわ!」
ミリアリアは
血相を変えてアンジェリカの口を塞ごうとした。エドワードも、あからさまに「白い椅子」の感想を無邪気に語る彼女に、頭を抱えて視線を逸らす。
「どうして? 最高の発明じゃない! ルーカスってば、意地悪な顔をしているのに、私たちのことをこんなに考えてくれてるのね!」
アンジェリカの屈託のない笑顔の前に、エドワードとミリアリアは深く悟った。
ルーカスの「侵略」は、すでに自分たちの生活の最も深い部分まで完了しているのだと。
「……殿下。私たちは、とんでもない男を王都に招き入れてしまったのかもしれません」
「……同感だ、ミリアリア嬢。もはや、我々の知る『常識』は、あの白磁の箱の底に流されてしまったようだ」
そこへ、サロンの扉が開き、身支度を整えたルーカスが静かに入室してきた。その足元には、真っ白な毛並みを持つ小型のクインが、彼の影に寄り添うように優雅な足取りで続いている。
その姿を見た瞬間、エドワードとミリアリアの表情が強張った。
彼らの心には、昨夜の屈辱、敗北感、そしてあの「白磁の箱」で味わわされた抗いがたい快感への羞恥が渦巻いていた。
エドワードは、震える拳を膝の上で握り締め、意を決したように口を開いた。
「……トレンス。一つ、聞かせろ」
ルーカスは足を止め、無表情のままエドワードを見下ろした。クインもまた、主人の真似をするようにちょこんと座り、エドワードを静かに見つめている。
エドワードは、ルーカスの足元に侍る白い狼──クインを一瞥したが、何も言えなかった。
「我々が案内された部屋の……あの『浄化の私室』だ。貴様は、あの……異常なまでに過保護で、人間の尊厳を奪うような装置を……学園の改修工事でも導入するつもりか?」
エドワードの言葉には、怒りと羞恥が入り混じっていた。もしあんなものが学園中に設置されれば、王国の貴族たちは皆、あの「魔の快感」に屈服してしまう。それはある意味で、兵器よりも恐ろしい侵略だ。
ミリアリアもまた、顔を真っ赤にして息を呑み、ルーカスの返答を待った。
だが、ルーカスは呆れたように鼻で笑い、クインの頭を軽く撫でながら言い放った。
「まさか。何を勘違いしているのか知らないが、あれはトレンス家専用の『ハイエンドモデル』だ。あんな機能を学園に導入するわけがないだろう」
「……な、何?」
「学園に敷設するのは、あくまで衛生環境を改善するための『標準的な水洗機能』のみだ。生徒含めて数千人の人員が毎日使う便座を常に人肌に保温し、個別に適温の温水を射出するなど、リソースとメンテナンスコストの無駄遣いにもほどがある。……私は慈善事業でインフラを整備しているわけではない。最低限の『清潔』を提供するだけで十分だ」
ルーカスの冷徹なコスト計算による回答。
それは、エドワードとミリアリアにとって、全く予想外の、そして最も残酷な宣告だった。
「ひ、標準的な水洗のみ……ということは、あの……温かいお湯は……?」
ミリアリアが、淑女らしからぬ上擦った声で尋ねる。
「出ない。便座も冷たい陶器のままだ。自分で紙を使って拭き取れ。それが『一般の常識』だろう?」
ルーカスは事も無げに答えた。
その瞬間、エドワードとミリアリアは、得体の知れない絶望の淵に突き落とされた。
(ということは……俺たちは、あの極楽のような快適さを知ってしまった上で、学園の冷たい便座と、旧来の不便な作法に戻らなければならないというのか……!)
「えーっ! やだやだ! 私はあのポカポカの白いお椅子がいいわ! ルーカス、学園にも絶対にあれを付けてちょうだい!」
アンジェリカが不満げに頬を膨らませて抗議する。
「却下だ。どうしても使いたければ、この別邸にいる間だけ存分に堪能しておくことだな」
ルーカスは冷たく言い捨てると、サロンの奥へと歩を進めた。クインも「クゥン」と小さく鳴き、彼に続く。
後に残されたエドワードとミリアリアは、ルーカスの「合理性」がもたらした最大の残酷さを前に、完全に言葉を失い、ただ静かに絶望の紅茶をすするしかなかった。
「……っ」
エドワードは膝の上の拳を震わせていた。
喉まで出かかった言葉がある。だが、それを口にすれば、王族としての矜持が崩れ去る。憎きトレンスに、あろうことか『便座を王宮に導入してくれ』と乞うなど、絶対に……。
しかし、エドワードが葛藤の海で溺れかけていたその時。
隣でガタッ! と勢いよく立ち上がる音に、エドワードは目を丸くした。
「……おいくらですの」
立ち上がっていたのは、完璧な淑女であるはずのミリアリア・オルスタインだった。
彼女は顔を真っ赤に染め、しかしその瞳には「絶対に譲れない」という切実な悲壮感を漂わせて、ルーカスを真っ直ぐに睨みつけていた。
「ミ、ミリアリア嬢!?」
「おいくらと聞いておりますの、トレンス侯爵! あの『ハイエンドモデル』……オルスタイン伯爵家に導入するための、初期費用と月々のメンテナンス費用を提示なさい!」
エドワードの制止も耳に入らないのか、ミリアリアはテーブルに身を乗り出す勢いでルーカスに詰め寄った。
「……おいおい、冷静になれ、伯爵令嬢。アレはウチの特注品だ。量産ラインも整っていないし、貴族の屋敷に配管から通すとなれば、莫大な工事費と魔晶石のランニングコストがかかる。一介の伯爵家がポンと出せる額じゃないぞ」
ルーカスは、わざと面倒くさそうに溜息をつき、クインの背中を撫でながら突き放した。
だが、一度「極楽」を知ってしまったミリアリアは止まらない。
「払います! 私の……私の個人的なドレスの予算と、数年分の宝石の購入費を全額削ってでも払いますわ! だから……だから、あんな冷たくて惨めな生活には、もう二度と戻りたくないのです!」
ついに、高位貴族の令嬢が、美しいドレスや宝石よりも「温水洗浄便座」を優先するという、前代未聞の価値観の逆転現象が起きた。
「あーっ! ミリーばっかりズルい! 私も欲しい! お父様に言えば絶対買ってくれるもん! ねぇルーカス、家にも絶対に付けてね!」
アンジェリカまでが無邪気に便乗し、両手を挙げて賛同する。
二人の令嬢の凄まじい熱量(と財力によるゴリ押し)を前に、エドワードは完全に置いてけぼりを食らっていた。
「……Tsk。お前ら、少しは貴族としての体面というものを……」
ルーカスは呆れたように頭を掻いたが、その口元には、確実に「獲物が針を限界まで飲み込んだ」ことを確信する、冷徹な商人の笑みが浮かんでいた。
エドワードは、そのルーカスの笑みを見て、己の敗北を確信した。
(……負けた。トレンスは、剣も魔法も使わず……ただ『快適さ』という猛毒で、この国の貴族たちを内側から支配しようとしているのだ……!)
「……トレンス。俺……私からも……後日、王宮の予算枠を提示しよう。……まずは、私の私室からだ」
エドワードが、ついに消え入るような声で白旗を上げた。
ミリアリアの安堵の吐息と、アンジェリカの無邪気な歓声がサロンに響く。
「……
ルーカスはそう告げると、彼らに背を向け、サロンの壁際に設置された見慣れぬ銀色の箱——冷気を放つ備え付けの『ベンダー』へと歩み寄った。
無造作にボタンを押す。
ガコンッ、という重い機械音と共に、取り出し口に一本の分厚いガラス瓶が転がり出た。中には、漆黒の液体が満たされている。
エドワードたちは、その奇妙な光景を呆然と見つめていた。
ルーカスはガラス瓶を手に取ると、壁に備え付けられた金属製の小さな金具に、瓶の口を引っ掛けた。
体重を軽くかける。
プシュッ!
カラン……。
小気味良い破裂音と共に、王冠のフタが下の受け皿へ落ちる。
同時に、瓶の口から白い冷気と、シュワシュワと弾ける無数の細かな泡が溢れ出した。
「な……なんだ、その黒い水は……。毒でも入っているように泡立っているぞ……!?」
エドワードが、目を丸くして尋ねる。
「ただの『砂糖水』だ。お前たちの舌には刺激が強すぎるだろうがな」
ルーカスは振り返りもしないまま、瓶の口に直接口をつけ、喉を鳴らして黒い液体──『コーラ』を一気にあおった。
強烈な炭酸と、暴力的なまでの甘み、そしてカフェインが、喉を焼きながら胃の腑へと落ちていく。上品な紅茶では絶対に得られない、ジャンクな刺激。それこそが、彼にとっての勝利の味だった。
「……ぷはっ。全く、朝から騒々しい連中だ」
ルーカスは手の甲で口元を乱暴に拭うと、足元で尻尾を振るクインを見下ろし、口角をわずかに上げた。
エドワードとミリアリアは、優雅なティーカップを手にしたまま、未知の黒い飲み物を片手に立つルーカスの、あまりにも自由で野蛮な──しかし絶対的な強者の姿に、もはや完全に言葉を失っていた。