第百二十六話 兵站の地下室と、頭数の矜持
ルーカスは、空になったカップを卓上へ置くと、何事もなかったかのように踵を返した。
「では行くぞ。遊びの準備だ」
遊び──その言葉に、エドワードは眉をひそめた。
だが、こちらを振り返ったルーカスの視線は、もはや「学生」を見るものではない。作戦開始を前に、各員の役割と戦力を値踏みし、確定させる指揮官のそれだった。
「ここからは二手に分かれる。ハートフィリア嬢、オルスタイン嬢。君たちには、肉体労働よりも遥かに重要で、かつ繊細な任務を託す」
意外な言葉に、ミリアリアが少しだけ表情を和らげた。
高位の令嬢に泥仕事をさせないという、最低限の貴族らしさがこの男にも残っていたのかと。
「……力仕事ではない、ということかしら?」
「ああ。ハートフィリア嬢。君には、あの音に乗せる『心臓の言葉』を作ってもらう。理屈はいらない。君が今感じている熱、胸の奥で勝手に跳ねているものを、紙の上に逃がせ。……機材搬入中に君がチョロチョロ動き回ると事故率が跳ね上がる。だから、ここで書け」
ルーカスは、筆記用具をアンジェリカに手渡した。彼女の瞳が、与えられた使命感でパッと輝く。
「『心臓の言葉』……! 素敵ね、ルーカス! 私のこのドキドキを、全部言葉にして歌ってやるわ!」
「オルスタイン嬢。君は彼女の熱を、読める文字に変換しろ。詩として整える必要はない。まずは散らばる火花を拾い集めろ。そのついでに、この搬入機材の在庫との照合も頼む」
ミリアリアは、渡された分厚い在庫リストとバインダーを握りしめた。彼女の脳内で「令嬢の相手」と「事務処理」という、最も得意とする領域が完璧にリンクする。
「……承知いたしました。一つ残らず、完璧にしてみせます」
ルーカスは満足げに頷くと、既に死刑執行を待つ囚人のような顔をしているエドワード、ダモン、ウィルフレッドに向け、冷酷に告げた。
「さて、運営補助員。……『ヘヴィ・リフト』の時間だ。ドラムのベース筐体、真空管アンプから順に運ぶ。腰を壊したくなければ、フォームを崩すなよ。筋肉ではなく、論理で上げろ」
「待て。どこへ行く」
「地下だ」
それだけ答えると、ルーカスはさっさとダイニングを出ていく。
当然のように後を追うヴェクター。面倒くさそうに肩をすくめるダモン。青い顔のまま立ち上がるウィルフレッド。
エドワードだけが一拍遅れた。
「……なぜ、俺まで」
「人数に数えているからだろ」
振り返りもせず、ルーカスが言った。
その一言に、エドワードの王子としての矜持が、音を立てて軋んだ。
人数。
この男はいま、自分を王位継承者でも、政治的な取引相手でもなく、ただ『荷物を運ぶための、二本の腕と二本の脚』という、単なる
そこには、王族に対する嫌がらせの意図すら存在しない。ただ「手が空いているなら運べ」という、身も蓋もない物理的な要求だけがあった。
「お兄様、頑張ってね!」
アンジェリカが無邪気に手を振る。
「ご武運を」
ミリアリアまで、どこか同情を含んだ真顔で一礼した。
エドワードは何か言い返そうとして──しかし、自ら『検証』を志願した手前、ここで引けば己の言葉を違えることになると気づき、屈辱を奥歯で噛み殺して歩き出した。
別邸の地下へ降りる石階段は、驚くほど広く、そして乾いていた。
貴族の屋敷の地下といえば、通常はひんやりと湿ったワインの貯蔵庫か、カビ臭い古文書の保管庫だ。だが、ここは違う。
湿った匂いも、埃っぽさもない。壁には一定間隔で魔導灯が埋め込まれ、足元まで影が落ちないほど均一に明るい。
その時点で、エドワードは得体の知れない悪寒を覚えていた。
トレンス家の「地下」は、王都貴族のそれとは設計思想そのものが違う。
最後の重厚な扉が開く。
「……なに?」
思わず、エドワードの口から声が漏れた。
そこにあったのは、酒樽や保存食の棚ではない。
冷たい鉄骨で組まれた堅牢な棚が整然と並び、軍用の規格に揃えられた木箱、長大な筒、黒い強化ケース、巻かれた無数の線材、金具、そして用途すら見当もつかない異質な器具群が、厳密なナンバリングと共に積載されている。
温度と湿度が徹底的に管理されたその空間は、もはや「地下室」などではない。
まるで前線基地の兵站倉庫だった。
「ドラムケース一式、ギター三、ベース二、予備アンプ四、メイン二。照明箱は後回しだ。消耗品ケースも持っていく」
ルーカスは棚の番号を確認することすらなく、次々と荷を割り振っていった。誰に何を持たせれば最短で搬出できるか、すでに頭の中で積載順まで組み上がっているらしい。
「ウィルソン、ケーブル類を仕分けろ。絡ませたら、お前を庭に埋める」
「えぇえぇ、随分と愛のあるお言葉で」
ルーカスは歩みを止めず、コンテナのロックを親指で弾くように外し、視線を一度落としただけで目的の束を抜き取ると、ヴェクターの足元へ放った。
「リドリー、お前はそれだ。腕力だけは使えるだろう」
「言い方が気に食わねぇ」
「口はいい。手を使え」
「……っチィ」
不満げなダモンを視界の端にも入れず、ルーカスは足元に突き出ていたパレットの角を軽く蹴り戻し、最短の動線を確保した。
「ハワード、その細長い薄型のケースだ。落とすなよ」
棚の隙間から黒いケースを引き抜くと、そのまま流れるようにウィルフレッドの腕の中へ押し付ける。
「も、もう少し持ちやすいものを……! ちなみに、これは……?」
「キーボードだ。中身の値段でお前の家が傾くぞ」
「ひぃっ」
その言葉に、エドワードは思わずウィルフレッドが抱えようとしている黒いケースを二度見した。
(鍵盤だと? 莫迦な)
王宮のチェンバロや、教会のパイプオルガン。鍵盤楽器とは、無数の弦を張るための巨大な共鳴箱や、空気を送る太い管があって初めて成立する巨大な装置だ。
だが、ウィルフレッドが持たされたケースは、せいぜい厚さが数インチしかない、細長い単なる「板」のような形状をしている。あんな薄っぺらい板切れに、弦や物理的な機構が収まるはずがない。
(こいつは、あんなガラクタのような板切れで音楽を奏でるつもりなのか? ……いや、所詮は素人の『遊び』ということか)
エドワードが内心で冷笑しかけた、その時だった。
ルーカスの視線がエドワードに向いた。
「殿下」
「……なんだ」
「それを持て」
示されたのは、巨大な長方形の木箱だった。
「待て。説明を求める。なぜ俺が」
「脚が四本ついているだろう」
「箱にだ!」
「テーブルだ。運べ」
エドワードは絶句した。
無垢材で組まれた頑丈なテーブル。王宮であれば、使用人が四人がかりで運ぶような代物である。
「……本気か」
「貴殿も両手はあるように見えるが? 使わないなら切り落としておけ」
ヴェクターが「ブッ」と吹き出し、慌てて顔を背けた。
エドワードはその笑い声に頬をカッと熱くしながら、無言で木箱の取っ手を掴み、引き上げようとした。
重い。
予想以上に、死んだように重い。
「っ……!」
剣を振るうための洗練された筋肉が、ただの「デッドウェイト」の前で悲鳴を上げる。重心の取り方もわからず、腕の力だけで持ち上げようとしたエドワードの顔が苦痛に歪んだ。
「腰ではなく脚で持ち上げろ。背を丸めるな。一生痛みが残るぞ」
ルーカスは、事も無げに言った。
見れば、彼はエドワードの持つテーブルよりもさらに巨大な、黒いアンプのメイン筐体の前に立っていた。
「見ろ」
ルーカスは腰を深く落とし、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、下半身のバネ──股関節と太腿の筋肉だけを使って、その巨大な質量を「スッ」と持ち上げた。
微かな気合の声すら漏れない。
その姿に、エドワードは一瞬言葉を失う。
誰より重い物を持ち、誰より姿勢が安定している。
腕力に頼らず、人体の骨格と筋肉の構造を最も論理的に使った、完璧な力学。息も全く乱れていない。
「……貴様」
「止まるな。動線が詰まる。さっさと歩け」
返答にすらならなかった。
地上へ続く階段を、エドワードは歯を食いしばって上った。
腕の筋肉が震え、木箱の取っ手が容赦なく手のひらの皮を削る。呼吸が荒くなり、視界の端が白く明滅する。
後ろではウィルフレッドが半泣きで神に祈りを唱え、前ではダモンが悪態をつきながら荷を運び、ヴェクターは妙に手慣れた足取りで息も切らさずに往復している。
そして先頭のルーカスだけが、まるで朝の散歩でもしているかのように、静かに、そして確実な足取りで階段を上っていく。
(……何なのだ、この男は)
侯爵の嫡男か。
商人のような計算高さか。
軍人のような冷徹さか。
あるいは、泥にまみれた労働者か。
どれにも見え、どれにも収まらない。
ただ一つ確かなのは──
この男の世界では、生まれ持った血筋や肩書きよりも先に、『その重さを持ち上げられるかどうか』という、あまりにも残酷な物理法則だけが問われるということだった。
・・・・・
・・・
地上へ這い出た瞬間、エドワードの視界を眩い朝の光が刺した。
肺に流れ込む冷たい空気が、焼けるような気管をなぞる。だが、安堵する暇などなかった。
「──止まるな。正面のキャリッジ・ポーチまで運べ。指定の番号順に並べろ」
ルーカスの仮借ない号令が飛ぶ。
エドワードは、千切れそうな指先で木箱の取っ手を握り直し、膝の震えを必死に抑えて最後の一歩を踏み出した。
石畳の上に、次々と「黒い塊」が置かれていく。
重厚な低音を立てて接地するアンプの筐体。
金属同士が触れ合う硬質な音を響かせるドラムのスタンド類。
そして、ウィルフレッドが今にも落としそうになりながら運び出した、例の『薄っぺらい板』。
エドワードは、ようやくその重いテーブルを地面に下ろした。
ドスン、という鈍い衝撃が腕を伝い、解放された筋肉が逆に激しく痙攣し始める。
「……っ、はぁ、はぁ……」
膝に手をつき、荒い呼吸を整えようとしたエドワードの視界に、整然と並べられていく機材の列が映った。
それは、かつて彼が見てきたどの「美しい楽器」の陳列とも違っていた。
装飾を削ぎ落とした黒い防振塗装。
無機質なシリアルナンバーが刻まれた金属プレート。
機能性のみを追求したその佇まいは、まるで出撃を待つ軍隊の兵器のようだった。
「……不気味な光景だな」
エドワードは、煤けた手で額の汗を拭った。手のひらには、取っ手の跡が赤黒く食い込んでいる。
「これを……あんな馬車に積み込んで、学園へ運ぶというのか」
「
ルーカスは、手元のタブレットでリストを弾きながら、並べられた機材の間を歩いた。
「……ゼェ、ゼェ……トレンス侯爵。恐れながら、一つだけ学術的な確認を……」
ウィルフレッドが、今にも倒れそうな青白い顔で、己が運んできた細長い黒いケースを指差した。
「目録にはこれが『鍵盤』とありましたが……この、厚さが数センチしかないただの板切れが、本当に『楽器』なのですか?」
その問いに、エドワードもハッとしてウィルフレッドの足元を見た。
エドワードの知る限り、チェンバロにせよパイプオルガンにせよ、鍵盤楽器とは「弦を張る巨大な共鳴箱」や「空気を送る太い管」があって初めて成立する巨大な装置であるはずだ。
「ウィルフレッドの言う通りだ、トレンス」
エドワードも、荒い息を吐きながら理知的な視線でルーカスを問い詰める。
「こんな薄っぺらい板切れに、弦や物理的な機構が収まるはずがない。あの夜に貴様が弾いていた弦楽器とも違う。本来あるべき共鳴箱が存在しない。……貴様は我々を騙して、ただのガラクタの板を運ばせているのではないか?」
そんなエドワードの疑念を、ルーカスは鼻で笑って一蹴した。
「箱の中で音を響かせる必要などない。それはただの『入力装置』だ」
「入力……?」
「弦の振動や鍵盤の打鍵は、その板の中でただの微弱な『電気信号』に変換されるだけだ。音を物理的に拡張し、空気を震わせるのは別の機械──そっちの巨大なアンプの仕事だ。私は、音の『発生』と『増幅』の機能を、完全に分離独立させている」
エドワードとウィルフレッドは息を呑んだ。
楽器という、一つの完成された神聖なシステム。それを解体し、まるで工場の生産ラインのように機能ごとに分業させるという、極めて工業的で冷酷な発想。
「……楽器という芸術の結晶を、機械の部品のように分割したというのか……」
「そうだ。だからこそ、個人の技量や環境に依存しない『普遍的感性制御』が可能になる。……学術的な疑問は解消したな? これがただのガラクタではないと証明されたはずだ」
「……ええ。お陰様で、貴方の頭の中の恐ろしさが、より学術的に理解できました」
ウィルフレッドは、引きつった笑いを浮かべた。
だが、ルーカスの表情は一切緩まない。彼は無機質な馬車の荷台を顎でしゃくった。
「ならば手を動かせ。箱の構造と論理が理解できたところで、こいつらの『デッドウェイト』が軽くなるわけじゃない……」
「……鬼か、あんたは」
ダモンが呻くように吐き捨てた。
ルーカスは、ダモンが乱暴に置いた箱の位置を数センチ単位で容赦なく修正させた。
「重量バランスを無視すれば、最初のカーブで馬車が横転する。そうなれば、君たちの苦労はすべてアスファルトの上のゴミに変わるが……。もう一往復、地下へ行く元気が残っているなら、雑に置いても構わんぞ、殿下」
「……誰が行くか」
エドワードは吐き捨てるように言い、再び重いコンテナの方へ歩き出した。
(認めん。……俺は、認めんぞ。こんな鉄と木と、薄っぺらい板の塊が……俺の愛した音楽を、あの夜の『音』を超えられるなどとは)
だが、その疑念を抱えながらも、彼の体は既にルーカスの「システム」の一部として駆動していた。
次はアンプの真空管ユニットだ。
それはエドワードが抱えたテーブルよりもさらに繊細で、しかし重厚な沈黙を守っている。
朝の冷気の中、並べられた「黒い兵器」たちが、静かに、しかし確実に王都の静謐を侵食し始めていた。
・・・・・
・・・
「事前展開フェーズは完了だ。これより小休止に入る」
その声に、エドワードたちはその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
汗だくで肩で息をするダモンは、膝に手をつきながら、傍らに立つルーカスを睨みつけた。彼の目には、泥と脂汗にまみれ、手のひらを擦り剥いてまで「荷物持ち」をさせられているエドワードの無残な姿が映っていた。
ダモンは苛立ちを隠さず、しかし騎士の出として、臣下としての最低限の礼を保とうと努めながら言い放った。
「……トレンス侯。荷運びは終わったぜ。だがな、いくら実習だか検証だか知らねえが、殿下をここまで泥塗れにするやり方は、俺にはどうしても納得がいかねえ。あんたのやり方は、騎士の流儀とは程遠いんだよ」
ダモンの言葉は粗野ではあったが、その根底には主君を案じる純粋な忠誠心があった。
だが、ルーカスはその言葉を、道の端に落ちているゴミを見るような、完璧に冷めた視線で切り捨てた。
「リドリー。君のその『口調』……致命的にノイズだな」
「……何だと?」
「君はエドワード殿下の盾を自称しているようだが、その粗野な言葉遣い一つが、殿下の『格』を削り取っていることに気づかないのか? 支配者が連れる猟犬が、主の前で野良犬のように吠えてみろ。周囲は主のしつけ、ひいては統治能力そのものを疑う」
ルーカスは一歩踏み込み、ダモンの目を射抜いた。
「粗野であることは、路地裏の喧嘩や最前線では『勇猛』と履き違えられることもある。だが、ここは王都であり、貴公が仕えるのは王位継承権を持つ者だ。貴公がその不快な喋り方を改めない限り、貴公の存在そのものが殿下の『政治的脆弱性』となる。……忠誠心があるというのなら、まずはその安っぽい舌を調律しろ。それとも、殿下の品位を貶めることこそが君の真の任務か?」
ダモンは言葉を失い、屈辱に顔をカッと赤くした。
彼は自分なりに騎士として、主君のために怒ったつもりだった。だがルーカスにしてみれば、それは「支配者の側近」として求められる最低限のプロフェッショナリズムにすら遠く及ばない、ただの甘えでしかなかったのだ。
「わ、悪気はねえよ……! つい口が滑っただけだ」
ダモンは頭を掻きながら、自身の無作法を軽く流そうとした。
──その瞬間だった。
ルーカスの瞳から、温度が完全に消えた。
廃礼拝堂でダモンの命を即席の凶器で刈り取ろうとした時と同じ、絶対零度の「排除」の目。
「君は『つい口が滑った』とか『悪気はなかった』と言うが、それは言い訳にすらならない」
ルーカスの一歩が、ダモンのパーソナルスペースを容赦なく侵食する。その威圧感に、屈強なダモンが思わず半歩後ずさった。
「思考の乱れは言葉の端に漏れ、言葉は無意識の態度となり、態度はやがて修復不能な行動となって表れる」
ルーカスの言葉は、物理的な質量を伴ってダモンの胸を突く。
それは高位貴族の嫌味ではない。何千という兵士の命を管理してきた軍隊の、冷酷なまでの
「そして、君のその思慮のない行動が、相手の中に拭い去れない『悪意』を植え付け、それが膨れ上がって組織や国を揺るがす争いへと発展する……。私の部隊では、その最初の一歩——『思考の甘さ』さえも、重大な軍紀違反と見なす」
「ぐっ……、たかが口の利き方一つで、そこまで……!」
「『たかが』だと? その『たかが』一つで、殿下が外交上の不利益を被り、あるいは暗殺の動機を与えたとしたら? 君のその品位を欠いた振る舞いが、どれほどの損失を招くか、今の君には想像もつかないだろうがな」
ルーカスは冷たく言い捨て、ダモンから視線を外した。
「想像力のない者に、支配者の盾を務める資格はない」
ダモンは、反論の言葉を完全に失っていた。
腕力でも、魔力でもない。ただの「理」と「プロ意識」の差で、騎士としての自分の存在意義を木っ端微塵に粉砕されたのだ。
そして傍らで聞いていたエドワードもまた、息を呑んでいた。自分を泥まみれの雑用として扱うこの男の方が、自分の忠臣よりも遥かに深く『王族の護衛が持つべき政治的リスク』を理解し、管理しているという事実に。
「……さあ、無駄口を叩く時間は終わった。これより──」
「待て、トレンス」
静かな、しかし確かな重量を持った声が、ルーカスの言葉を遮った。
エドワードだった。
彼は泥だらけの掌を強く握り込み、青ざめたダモンの前に一歩踏み出した。己の忠臣を庇うように、ルーカスと対峙する。
「……何か異論でも? 殿下」
ルーカスの冷たい視線がエドワードを射抜く。だが、エドワードはその視線から逃げなかった。肉体的な疲労の極致にありながら、その背筋だけは、第一王子としての矜持で真っ直ぐに伸びていた。
「貴様の言うことは、極めて論理的で、正しい。……ダモンの口の利き方は褒められたものではないし、それが外交上の脆弱性になり得るという指摘も、その通りだ」
エドワードは一度ダモンの非を認めた上で、ルーカスの目を真っ直ぐに見据えた。
「だが、貴様は一つだけ、重大な『計算ミス』をしている」
「ほう?」
「貴様は人を『部品』や『仕組み』としてしか見ていない。だから、ノイズを出し、効率の悪いダモンを『盾の資格がない』と切り捨てた。……だがな、トレンス。完璧な論理で動く『機械の盾』は、致死率が100%を超えた戦況では、主君を庇わない」
ルーカスの目が、わずかに細められた。
「合理的に計算すれば、確実に壊れると分かっている盾は、逃げるか、降伏するのが『最適解』だからだ。……だが、こいつらは違う」
エドワードは、背後のダモンとウィルフレッドを一瞥した。
「どれほど勝算のない絶望的な状況でも、どれほど非効率で無意味な死であろうとも、こいつらは絶対に俺の前に立ち、その身を挺して刃を受ける。……『主君を愛している』という、極めて非論理的で、計算不可能な感情の乱数によってな」
その言葉に、ダモンがハッとしてエドワードの背中を見た。
「貴様の組織論は完璧だ。だが、その冷たい仕組みの中には、人が最後の一線を越えるための『非合理な熱』が欠落している。……ダモンは俺の盾だ。その不格好な忠誠を、貴様の効率という物差しだけで測ることは、俺が許さん」
王位継承権を持つ者としての、確固たる統治の哲学。
それは、これまでルーカスの理に蹂躙され続けてきたエドワードが、初めて明確に突き返した「刃」だった。
「これこそが、王族の品格であり、民への慈悲だ」
張り詰めた沈黙が、ポーチを支配した。
ダモンは震える拳を握りしめ、主君の背中に深く頭を垂れた。
ルーカスは、エドワードのその目をじっと見つめ返していた。
やがて、ルーカスの唇がわずかに動いた。嘲笑ではない。ほんの微かな、しかし確かな「評価」の響きだった。
「品格? 慈悲? ……笑わせるな、エドワード」
ルーカスの声は低く、そして絶対的な重みを持って響いた。
「他者に迎合し、耳に心地よい言葉を並べ、民に媚びへつらう……そんなものは支配者のやることではない。それは単なる『人気取り』という名の保身だ。貴様の言う忠義とは、他人の目に映る自分の影を磨いているに過ぎない」
エドワードは言葉に詰まる。ルーカスは朝靄に沈む王都の遠景を冷ややかに見据えた。
「もう一度言う。自分の品位を保てるのは、自分だけだ。他人の評価という不確かな指標に、己の価値を委ねるな」
「だが、民がついてこなければ、支配は成り立たないだろう!」
「見当違いだ。……民を見下ろすな。かと言って、同じ高さまで降りていって手を取り合うような真似も必要ない」
ルーカスは振り返り、エドワードの喉元に言葉の刃を突きつける。
「見上げさせろ。それこそが、支配者の義務だ」
「……馬鹿な」
「彼らが、自分たちの理解の及ばぬ高みで、圧倒的な結果を出し続ける背中を見上げる。そこに『畏怖』と、言葉を超えた『信頼』が生まれる。その絶対的な格差こそが、混沌とした民衆を導く光となるのだ。形式に拘泥し、礼節という名の首輪を自ら嵌めている貴様に、その重圧を背負う覚悟があるのか?」
その言葉を聞いていたエドワードは、目を見開き、胸元で手を握りしめた。彼が感じていたルーカスの「無作法」の正体──それは不作法などではなく、「誰にも寄りかからず、ただ一人で未来を背負い、全責任を引き受ける者の孤独な誇り」であったのだと理解した。
「……貴様の言う『品位』が、いつか温室の平和を彩る日が来るといい。だが、今この瞬間、泥の中で死にゆく民が必要としているのは、美しい所作ではなく、自分たちを『生』へと引き上げる、圧倒的な覇者の背中だ」
ルーカスの声に、先ほどの冷徹な論理とは違う、重く、腹の底を震わせるような『熱』が宿った。
「……嘆く暇があるなら、立て、エドワード」
それは氷の怪物である彼が、極めて珍しく「感情的」になっている瞬間に他ならなかった。
「己の役割を見失い、期待と失望の重さに潰されて腐るくらいなら、最初から王冠など泥に捨てておけ。……だが、もしその玉座に少しでも未練があるなら、貴様の持てるものを嘆きで腐らせるな」
ルーカスの蒼い瞳が、エドワードの魂を直接鷲掴みにする。
「泥水をすすってでも這いずり回り、その『立場』を己の実力で定義し直せ。……私に論理で勝てないのなら、せめて手足を使って自分の存在価値を証明してみせろ」
エドワードは、心臓を直接素手で掴まれたかのような衝撃を受けた。
(……なぜだ?)
この男は、自分を罵倒しているのではない。論破して優越感に浸っているわけでもない。
エドワードは、ルーカスの凄絶なまでの迫力の奥に、ふと気づいた。
ルーカスは、自分を見ているようでいて、自分を見ていない。
この男の眼差しは、第一王子エドワードを通り越し、果てしなく遠い絶望的な泥濘の中で、決して折れることなく立ち上がり続けた「別の誰か」を見つめている。
(この男は……俺を通して、別の『誰か』と戦っているのか……?)
その真実に気づいた瞬間、エドワードの胸の奥で、長らく冷え切っていた何かが爆発的な熱を持って燃え上がった。
天才の弟に敗北し、酒に逃げ、腐りかけていた自分。
だが、目の前のこの怪物は、それを「くだらない」と一蹴しながらも、決して自分を見捨ててはいなかった。ただの一介の労働力としてでも、立ち上がることを強要している。
「……言われずとも」
エドワードは、煤に汚れた自身の掌を強く握り込み、顔を上げた。
その瞳から、迷いは完全に消え去っていた。
「俺の存在価値は、貴様などに定義されるものではない。……必ず、貴様のその冷たい論理の奥にあるものを暴き出し、俺の手でこの王国の土台として敷き直してやる」
エドワードの宣戦布告とも取れる強い眼差しを受け、ルーカスは鼻を鳴らした。
「口だけなら何とでも言える。……さぁ、休憩は終わりだ」