剣と魔術とライフルと   作:あききし

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幕間 最弱の『道具』が刻む、光への一歩

 

幕間 訓練開始:最弱の「道具」と小さな前進

 

 

 

ルーカスに連れられたリナが、アレックスに促されて執務室を後にした頃、王都別邸の奥庭は、すでに異様な熱気に包まれていた。

 

庭の一角は、ルーカスの指示によって、簡易的な訓練場へと変貌していた。中央には真新しい土嚢と、整然と並べられた障害物。地面には白線が引かれ、走路の距離が正確に測られている。そして、その周囲には、海兵隊の兵士たちが、まるで彫像のように不動の姿勢で直立していた。

リナが庭の端に立った時、すでに時計は訓練開始時刻の四十五分前を指していた。

庭の隅で、入念な柔軟体操を行っていたサントスがリナに気づき、動きをぴたりと止めた。彼女はリナに歩み寄ると、簡素な運動着と、布地の軽い靴を手渡した。

 

「これを着ろ、嬢ちゃん。お前の訓練は、まずここからだ」

「……はい」

 

リナは両手でそれを受け取った。布は柔らかく、路地裏で着ていた服とは比べ物にならないほど肌触りが良い。けれど、それは華やかな服ではなかった。飾りも、刺繍もない。ただ動くためだけに作られた服だった。

リナが戸惑いながら運動着を抱えていると、庭で待機していた兵士たちの中から、一人の分隊長が進み出た。

 

「準備!」

 

号令とともに、兵士たちは一斉に動き出した。

腕立て伏せ、腹筋、背筋。それはリナが知る「運動」とはまるで違っていた。彼らは苦しそうな顔を見せることなく、決められた動作を決められた速度で繰り返している。

 

彼らがこの場に揃ったのは、訓練開始の整列時刻の一時間前だ。海兵隊の鉄則『十五分前行動』を、それぞれの階級が忠実に守った結果だった。まず兵卒が、その十五分後に分隊長が、さらにその十五分後に小隊長が……と、上位の者が現れるたびに、庭の空気は目に見えて引き締まっていく。

 

「小隊長に敬礼!」

 

庭の入り口から数名の士官が現れた瞬間、分隊長の鋭い声が飛んだ。動いていた兵士たちが、まるで時が止まったかのように一瞬で直立不動の姿勢に移行する。その動作には一糸乱れぬ美しさがあり、地面を蹴る靴の音さえ一つに重なった。

 

「続けろ! 準備運動再開!」

 

再び動き出した彼らの運動は、さらに強度を増していた。誰に命じられるでもなく、上位者の視線に晒されることで、その動きはより深く、より速く、より鋭く研ぎ澄まされていく。

それは、リナが知る「運動」というよりは、ルーカスがこの海兵隊に植え付けた、徹底した規律と効率を具現化する儀式のように見えた。全員が別々に動いているようで、全体として一つの大きな機械のように機能している。

 

「あれが、お前がこれから目指す身体だ」

 

サントスの言葉に、リナは息を呑んだ。

目指す。あれを、自分が。

路地裏で逃げ回ることならできた。腹を空かせたまま、妹たちのために露店まで歩くこともできた。追い立てられれば、狭い路地を駆け抜けることもできた。

けれど、それは生き延びるための動きだった。

目の前の兵士たちの動きは違う。彼らは自分の身体を理解し、支配し、命令通りに動かしている。そこには、恐怖ではなく、規律があった。

 

「君の訓練は、まずここから始まる。いきなり無理をさせる気はない。まずは、自分の身体がどれほど動かないかを知れ」

 

サントスはそう言って、リナの肩に手を置いた。

 

「そして、そこから一つずつ増やす。昨日より一歩。昨日より一回。それでいい」

 

「……わたしが、これを……?」

 

「そうだ。文句を言っている暇はない。着替えてこい」

 

リナは小さく頷き、メイドに案内されて庭の脇に設けられた小さな更衣用の幕へ入った。

運動着に袖を通すと、自分の身体の細さがよく分かった。腕は頼りなく、脚も細い。鏡などなくても分かる。自分は弱い。あの路地裏で、奪われる側だった身体だ。

 

(でも……もう、弱いままではいられない)

 

リナは拳を握り、幕の外へ出た。

 

そして、訓練開始時刻のちょうど十五分前。

庭の空気が、それまでとは比較にならないほど鋭く凍り付いた。

アレックスが、副官を引き連れて庭に姿を現したのだ。

その瞬間、すでに整列していた士官たちが一斉に動き、完璧な直立不動の姿勢で彼を迎える。アレックスは、静止した兵士たちの前で一歩踏み出し、冷徹な視線でリナを一瞥した。

 

「休め!」

 

アレックスの響く声が、訓練場を支配した。兵士たちは一斉に足を払い、後ろ手に手を組む「休め」の姿勢を取る。その動作一つにさえ、一切の雑音がない。

 

「本日の訓練に、新しい参加者が加わる」

 

彼はリナを指し示した。兵士たちの無機質な視線が一斉にリナに集中する。

 

「彼女は、ルーカス様が新たに『投資』された、王都における文化戦略の最重要資産となる。その使命を果たすため、我々は彼女を再構築する。訓練は、基礎体力と精神力の向上に特化する。ただし、彼女は我々のような強靭な肉体を持たない。訓練は、本日付で三等軍曹へと昇進したサントスの厳格な指導のもと、個別に行われる」

 

アレックスは、サントスに鋭い視線を向けた。

 

「サントス軍曹。貴官の任務は、この『道具』を、一ヶ月で人並みの身体に戻すことだ。途中でへばらせるな。だが、壊すな。効率的に再構築しろ。……貴官の腕を見込んでの特命だ、失敗は許されん」

 

「Oohah! 閣下の命を完遂いたします!」

 

サントスが、新しく襟元に輝く三等軍曹の階級章と共に、力強く敬礼した。

アレックスは、最後にリナに視線を向けた。

 

「さあ、始めろ。リナ。お前がここで吐く汗と涙は、全てルーカス様の投資回収率に繋がる。お前の身体は、もはやお前の私物ではない。……道具としての自覚を持て」

 

「…………はい」

 

リナは、喉の奥から絞り出すように答えた。

その言葉に唇を噛み締め、支給された簡素な運動着の裾を握りしめる。

 

(私は、道具だ。もう、弱いままではいられない。……壊れることも、許されないんだ)

 

サントス軍曹の指示で、彼女は基本的な柔軟体操から始めた。

 

「無理に伸ばすな。息を止めるな。痛みと怪我は違う。痛みは聞け。怪我は避けろ」

 

「はい」

 

リナは見様見真似で身体を曲げた。しかし、長年の不摂生と過酷な裏路地の生活が、彼女の身体に深く染み付いていた。泥水を啜るようにして生きてきた生活は、彼女の筋肉を削ぎ落とし、関節を強張らせている。腕を回すだけで骨が軋むような音が聞こえる気がした。

それでも意外に脚は開き、力の抜き方を知らないだけだった。

サントスが片眉を上げる。

 

「ほう。柔軟は悪くないな」

「そ、そうですか?」

「ああ。子供の身体は戻りが早い。お前の場合、栄養不足で筋肉はないが、関節はまだ死んでいない。そこは使える」

 

使える。

その言葉に、リナは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。

ルーカスやアレックスが言った「道具」という言葉。怖くて、冷たくて、自分が物にされたように感じた言葉。けれど、サントスの口から出たそれは違って聞こえた。使えるということは、まだ可能性があるということだ。

 

「次。屈伸を十回」

「はい」

 

一回。二回。三回。

五回を過ぎたあたりで、太ももが震え始めた。七回目で息が乱れ、九回目で視界の端が白くチカチカと揺らぎ始めた。十回目を終えた瞬間、リナはその場に膝をついた。

 

「そこまでだ、リナ」

 

サントスが、すぐに異変に気づき鋭い制止の声をかけた。

 

「ハァ……ハァ……まだ、できます……」

 

「できる、ではない。今のお前がやるべき量は終わった」

「でも……」

 

「訓練は限界を超えさせることではない。限界を少しずつ広げていくことだ。壊れた道具は使えない。分かるな?」

 

リナは唇を噛み、悔しそうに頷いた。

 

「……はい」

 

その時、足元で「クゥン」という甲高い鳴き声がした。

小型化されたクインが、エレノアの傍からとことこと歩み寄ってきた。クインはリナの荒い息遣いと震える膝を見て、鼻先をそっと押し当てる。

 

そして、次の瞬間。

クインは兵士たちの動きを真似るように、小さな前足を交互に上げ下げし、身体を低く沈めた。

屈伸のつもりらしかった。

 

「……ふふっ」

 

リナは思わず笑ってしまった。昨日まで、自分が笑えるなど思っていなかった。胸の中は恐怖と不安でいっぱいだったはずなのに、小さな獣が真剣な顔で屈伸をしている姿は、どうしようもなく可笑しかった。

サントスは咎めなかった。むしろ、満足げに頷いた。

 

「どうやら、お前の同僚も、お前を一人にはしないらしいな」

 

クインが誇らしげに尻尾を振った。

 

「さあ、もう一度だ。今度はクインについていけ。あいつに負けるようじゃ、ルーカス様の道具にもなれねぇぞ」

 

「……はい!」

 

リナは立ち上がった。

膝はまだ震えている。息も苦しい。けれど、足元にはクインがいる。少し離れた場所には、エレノアが静かに見守っている。そして、周囲の海兵隊員たちは、誰一人として彼女を笑っていなかった。

 

一回。二回。三回。

 

今度は五回で止められた。

だが、リナは倒れなかった。

 

その日の午前中、彼女ができたことは多くなかった。庭の端から端まで歩くような速さで走っただけで息が切れ、腕立て伏せは一度も身体を支えきれず、腹筋はサントスに足を押さえてもらっても、半分も起き上がれなかった。

 

それでも、リナは最後まで逃げなかった。

サントスは、手元の訓練記録に短く書き込んだ。

 

──初日。柔軟性は良好。筋力、持久力、栄養状態、極めて低い。精神的粘り、予想以上。

 

午前の訓練が終わると、リナは汗でぐっしょりと濡れた運動着のまま、庭の端に座り込んだ。脚は鉛のように重い。腕は震えている。喉は焼けるように渇いていた。

そこへ、サントスが水の入った木杯を差し出した。

 

「飲め。ただし、ゆっくりだ。一気に飲むな」

「ありがとう……ございます」

 

リナは両手で杯を受け取り、少しずつ水を飲んだ。冷たい水が喉を通るたび、身体が自分のものに戻っていくようだった。

 

「泣いてもいいぞ」

サントスが言った。

リナは驚いて顔を上げた。

 

「え……?」

「泣いても、訓練は続く。泣かなくても、訓練は続く。なら、泣きたい時は泣け。だが、泣いた後は立て」

 

リナは何も言えなかった。

その言葉は優しいのか、厳しいのか、分からなかった。ただ、胸の奥に深く落ちた。

 

「……はい」

リナは、小さく答えた。

 

「……あの、サントスさん」

リナは、おずおずと尋ねた。

 

「さっきのアレックス様のお話……『さんとうぐんそう』に上がったっていうのは、そんなに凄いことなんですか?」

 

サントスは意外そうな顔をしてリナを見下ろした。

 

「ああ、そうか。お前には分からん話だったな。……海兵隊では、階級は力の証明であり、責任の重さだ。三等軍曹からは『士官』と『兵』を繋ぐ立場になる。より多くの命を預かり、より多くの成果を求められる。平たく言えば、偉くなったってことだ」

 

「……やっぱり」

 

リナは、木杯を握る手に力を込めた。

 

「わたしの……わたしの管理なんていう面倒な仕事を引き受けたから、そんな大変なことになったんですか? わたしのせいで、サントスさんに迷惑をかけてしまったんじゃ……」

 

路地裏では、誰かの面倒を見ることは、その分だけ自分の取り分が減る「損」でしかなかったからだ。

サントスは鼻で笑い、短く刈り込んだ髪を無造作にかき上げた。その動きは、路地裏で見かけるどの女とも違い、鍛え上げられた戦士の無駄のなさと不敵さが宿っていた。

 

「馬鹿を言え。軍隊は慈善事業じゃない。損をすると分かっている駒に、誰も大事な階級章は預けない。お前を育てるという任務は、それだけ価値があると、ルーカス様やアレックス閣下が判断した。それだけのことだ」

 

サントスはリナの頭に、ポンと無骨な手を置いた。

 

「……あの、サントスさん」

 

「訓練外では構わんと言ったが、一応教えておいてやる。私のフルネームはララティーナ・サントスだ」

 

ララティーナ。その響きにリナが目を丸くすると、彼女は自嘲気味に口角を上げた。

 

「似合わん名前だろう? だが、この国で女が『戦う力』として公に認められ、名前と階級を与えられるのがどれほど異常なことか、お前にはまだ分からんはずだ」

 

ララティーナは周囲で訓練を続ける男たちに顎を向けた。

 

「普通の軍隊ってのは、家柄の良い騎士様が指揮を執り、その下に血筋やコネで繋がった連中が並ぶ。女は後ろで飯を作るか傷の手当てをするのが関の山だ。階級なんて曖昧なもんさ。誰の家臣か、どこの村の組頭か……それが全てだ」

 

彼女は自分の腕に刻まれた古い火傷の跡を指し示した。

 

「だが、ルーカス様は違った。陸だの海だの、領主軍だのといった古い枠組みを全部取っ払って、私たちみたいな『実力はあるが居場所のない連中』をかき集めた。家柄も、性別も、過去も関係ねぇ。ただ『任務をこなせるか』。それだけで測る物差し──『階級』ってやつをこの国に持ち込んだんだ」

 

ララティーナの瞳に、強い自負の光が宿る。

 

「私は女だが、三等軍曹だ。この庭にいる男たちのうち、私より下の階級の奴らは、私の命令に絶対服従する。それがルーカス様の作った『海兵隊』という新しい秩序だ。あのお方はな、私たちにとって『新しい生き方を作った親』なんだよ」

 

リナは、喉を鳴らしてその言葉を聞いていた。「生き方を作った」──それは、自分がいま、まさにルーカスに与えられようとしているものだったからだ。

 

「だから、お前が『道具』だと言われたのは、モノ扱いされたんじゃねぇ。ルーカス様の計画に欠かせない、専門の役割を与えられたってことだ。誇りに思え。……迷惑だと思うなら、さっさと動ける身体になれ。お前が使い物にならないままだと、私の昇進が『間違いだった』と言われる。私に恥をかかせるなよ」

 

「……! はい……頑張ります! ララティーナさん!」

 

「さん、はいらねぇ。サントスでいい」

 

ララティーナはそう言って立ち上がると、まだ震える脚で立ち上がろうとするリナを、満足げに見下ろした。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

午後。

 

リナは別邸の一室へ連れて行かれた。そこには、背筋を伸ばし、柔らかな微笑みを浮かべたエレノアが立っていた。

 

机の上にはノート、インク壺、ペン、そして小さな木片が並べられている。木片には、大きく分かりやすい文字が刻まれていた。

 

「午前中はお疲れ様でした、リナ」

 

「はい……」

 

リナは椅子に座ろうとして、太ももの痛みに顔をしかめた。

 

エレノアはそれを見逃さず、少しだけ椅子を引き、座りやすい位置に整えた。

 

「無理に綺麗に座ろうとしなくても構いません。今日は、まず学ぶことに慣れましょう」

 

「……学ぶことに、慣れる?」

 

「ええ。学ぶことは、怖いことではありません。知らなかったものに名前をつけ、自分のものにしていくことです」

 

リナは、机の上のノートを見た。

そこに書かれた文字は、昨日までただの線の集まりだった。貴族や商人や役人だけが扱う、自分とは無縁の模様。

 

けれど、今は違う。

 

それを読めなければ、契約も分からない。金の計算もできない。誰かに騙されても気づけない。

文字を知らないということは、自分を守る武器を持たないということなのだと、リナは今、初めて知った。

 

「では、始めましょう」

 

エレノアはペンを取り、ノートに一つの文字を書いた。それは、この国の言葉の基本となる、簡素な造形の文字だった。

 

「『ア』と読みます。声に出して、形を覚えましょう」

 

「……あ」

 

リナはぎこちなく真似た。線は曲がり、インクは滲み、文字と呼ぶには頼りない形になった。

けれど、エレノアは微笑んだ。

 

「よくできました。最初の文字です」

 

「これで……できたんですか?」

 

「ええ。美しく書くのは、あとでよいのです。まずは、書いたということが大切です」

 

リナは、自分の書いた歪な文字を見つめた。

 

先日、契約書に書いた「L」。あれは自分の意志の証だった。

しかし、ルーカスから渡されたメモの端に書かれていた奇妙な線を、ただ見様見真似で、なぞっただけのものだった。自分にはそれが何の音を持ち、どんな意味を持つのかすら分かっていなかった。

けれど、これは違う。

これは自分にとって、意味を持たない記号ではない。自分が世界を読むための、最初の扉だった。

 

それからエレノアは、いくつかの文字を教えた。リナは何度も間違え、何度も書き直した。手がインクで汚れ、指先が震えた。それでも、彼女は投げ出さなかった。

 

やがて、エレノアは静かに言った。

 

「では、今日の最後に、一つだけ言葉を書いてみましょう。リナが一番大切にしているものは、何ですか?」

 

リナは迷わなかった。

 

「……家族、です」

 

エレノアは、ノートにいくつかの文字を連ねて書いた。

 

「家族、という言葉です。この国では、こう綴ります」

 

リナは、その文字列をじっと見つめた。

たった数個の文字の連なり。けれど、その中に、ルーナも、ココも、メイも、リリーも、自分の全てが入っている気がした。

リナは震える手でペンを持ち、ゆっくりと文字をなぞった。

 

一文字。

また一文字。

 

線は不格好だった。滲んで、少し潰れて、最後の文字は大きく傾いていた。

それでも、リナは書いた。

自分の手で、意味を理解して、初めて。

 

「……かぞく」

 

声に出した瞬間、涙がこぼれそうになった。

エレノアは何も言わず、ただ静かに頷いた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

夜、リナは医務室へ向かった。

 

リリーはまだベッドに横たわっていたが、顔色は昨日より明らかに良かった。額の汗も少なく、呼吸も穏やかだった。腕にはまだ管が繋がれているが、その手は以前より温かい。

リナが息を潜めて覗き込んでいると、微かな寝息が途切れ、ゆっくりと薄い眼瞼が開いた。

 

「リナ……?」

 

かすれた、けれど確かな意識を持った声がした。

 

「リリー!」

 

はっとしたリナは思わずベッドに駆け寄ろうとして、付き添っていたファリナに優しく制された。

 

「ゆっくり。まだ安静だよ」

「あ……はい」

 

はやる気持ちを抑え、リナはベッドサイドにそっと近づき、壊れ物に触れるようにリリーの手を握った。指の骨が浮き出るほど細い手。それでも、氷のようだった昨日とは違う、確かな命の熱がそこにはあった。

 

「熱、下がってきたって」

 

リナが囁くように言うと、リリーは目元を緩め、小さく笑った。

 

「リナ、顔が……変」

 

「変?」

 

「うん。疲れてる。でも、前より……怖い顔じゃない」

 

リナは言葉に詰まった。

路地裏で明日の食べ物を探し、妹たちを庇い、奪おうとする大人たちから逃げ回っていた時の自分。あの頃の自分は、きっと泥にまみれた獣のように、常に目を血走らせていたはずだ。

 

「訓練、してるの」

 

リナがぽつりと漏らした言葉は、どこか言い訳のようにも聞こえた。

 

「知ってる。ファリナさんが言ってた。リナが、すごく頑張ってるって」

「まだ全然できないよ。走るのも、腕立ても、ぜんぜん」

 

サントスに指摘された自分の弱さを思い出し、リナは恥じるように俯いた。だが、リリーは繋いでいた指先に、わずかに力を込めて握り返してきた。

 

「でも、やめてないんでしょ?」

 

真っ直ぐなリリーの言葉に、リナは弾かれたように顔を上げ、小さく頷いた。

 

「うん」

 

「じゃあ、すごい」

 

飾り気のない、心からの称賛だった。

リナは唇を強く噛んだ。涙腺が熱くなるのをごまかすためだった。

リリーは、いつもそうだ。自分が一番苦しいはずなのに、人の痛みを見つける。リナの強がりを見抜いて、それでも無理に暴かず、そっと支えてくれる。

 

(この笑顔を守るために、私はあの契約を結んだんだ)

 

「早く元気になって。今度は、一緒にご飯食べよう」

 

「うん。リナも、無理しないでね」

 

リリーの優しい気遣いに、リナはゆっくりと首を横に振った。

 

「……無理はする。でも、壊れないようにする」

 

それは、今日サントスから教わった言葉だった。『壊れた道具は使えない』──自分は、リリーたちを守るための盾であり、剣として研がれなければならないのだから。

リリーは思いがけない返答に少し驚いたように目を丸くしたあと、リナの瞳に宿る新しい「芯」の強さを見て、安心したようにふわりと笑った。

 

「それなら、いい」

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

二日目。

 

リナは、前日の筋肉痛でベッドから起き上がるだけでも声を漏らした。

 

「いた……っ」

 

その声に、隣で眠っていたメイが目を覚ました。

 

「リナ、大丈夫?」

 

「大丈夫。昨日、少し身体を動かしただけ」

 

「少しって顔じゃないよ」

 

メイは不安そうに眉を寄せた。リナは苦笑した。

 

「でも、昨日より強くなるためだから」

 

ルーナとココはまだ眠っている。リリーは医務室にいる。部屋は温かく、窓の外には朝日が差している。

リナは立ち上がり、昨日支給された運動着に袖を通した。

 

庭へ向かうと、サントス軍曹はすでに待っていた。

 

「歩き方がひどいな」

 

「……筋肉が…痛い、です」

 

「当然だ。昨日、初めて身体を起こしたようなもんだからな。今日は走る距離を少しだけ伸ばす」

 

「はい」

 

「ただし、昨日の倍は走らせない。昨日より十歩だ」

 

「十歩……?」

 

「そうだ。昨日より十歩進め。それで十分だ」

 

リナは驚いた。もっと厳しくされると思っていた。倒れるまで走れと言われると思っていた。

 

だが、サントスは真剣だった。

 

「覚えろ、リナ。成長は根性だけでは続かない。昨日より少し増やす。それを毎日続ける。そいつが一番きつい」

 

その日、リナは昨日より十歩長く走った。

 

途中で息が切れ、膝が笑い、最後はサントスに背中を支えられた。それでも、昨日より十歩進んだ。

 

クインは隣を小走りでついてきた。時々振り返り、まるで「遅いぞ」とでも言いたげに尻尾を揺らす。

 

「……負けない、から」

 

リナがそう呟くと、クインは嬉しそうに「クゥン」と鳴いた。

 

 

午後の授業では、数字を学んだ。

 

エレノアは銅貨を数枚、机の上に並べた。

 

「リナ。あなたが路地裏で売っていた細工物が、一つ銅貨二枚だったとします。三つ売れたら、いくらになりますか?」

 

リナは指を折った。

 

「二枚、二枚、二枚……六枚」

 

「正解です。では、そのうち二枚を食べ物に使ったら?」

 

「残り、四枚」

 

「よくできました」

 

リナは少しだけ誇らしくなった。

 

計算は、文字よりも怖くなかった。彼女はずっと、足りない銅貨を数えて生きてきた。食べ物を買えるか、薬を買えるか、妹たちに何を我慢させるか。その計算だけは、何度も何度もしてきた。

 

けれど、エレノアの計算は違った。

 

足りないものを数えるのではなく、増やすために数える計算だった。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

三日目。

 

 

リナは、朝食の席で目を丸くした。

目の前には、柔らかく煮込まれた白身魚と、よく蒸された野菜、そして小さく切られたパンが置かれていた。

 

「……固い食べ物?」

 

リナが呟くと、ヒルダが淡々と答えた。

 

 

「固形物でございます。昨日までのスープで、皆様の胃腸がきちんと動いていることが確認できました。ファリナ様の許可も出ております。本日は、よく噛んで、ゆっくり召し上がってください。状態を見ながら、少しずつ通常食に戻してまいります」

 

ルーナが嬉しそうに手を叩きかけたが、メイが慌てて止めた。

 

「静かにしなさいって、昨日教わったでしょ」

「だって、パンだよ……!」

 

ココは目を輝かせ、リナの袖を引いた。

 

「お姉ちゃん、これ、全部食べていいの?」

 

リナはココの頭を優しく撫でながら、ふと、自分たちの隣にある空席に目を落とした。

 

「うん。……ヒルダさん。リリーはまだ、これ、食べられないんですよね?」

 

リナの問いに、ヒルダは僅かに目元を和らげて答えた。

 

「はい。リリー様はまだ医務室で、お身体の負担にならない専用の流動食を召し上がっています。ですが、治療は順調です。体力が戻られれば、いずれ皆様と同じ食卓を囲めるようになりますよ」

 

「……そっか」

 

ほんの少し前まで、自分たちは石のように硬い黒パンの切れ端を、腐りかけた野菜のくずを煮た薄いスープでふやかして分け合っていた。商売が上手くいった日は、屋台で出所の知れない肉の欠片を買えたこともある。決して何も食べていなかったわけではない。

けれど、いま目の前にあるのは、柔らかく、温かく、身体を壊さないように計算され尽くした食事だ。

 

リリーはまだ、この甘いパンを食べられない。病と必死に戦っているあの子の分まで、自分がここで立ち止まるわけにはいかなかった。

彼女が元気に戻ってくるこの食卓を、絶対に守り抜かなければならないのだから。

 

「……いただきましょう。残さず、全部」

 

リナは妹たちにそう声をかけ、パンを口に運んだ。

ゆっくり噛む。甘い。小麦の味がする。魚は舌の上でほぐれ、野菜は驚くほど柔らかい。

食べられる。

自分の身体が、栄養を受け入れている。拾い食いや粗悪な食べ物で腹を下す恐怖に怯えることなく、少しずつ血肉に変わっていく。

強くなるために。壊れない道具になるために。リリーが戻ってくるこの食卓を、守るために。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

食後、わたしは期待と緊張が混ざった足取りで医務室へ向かった。

 

あの日、地獄のような緊張の中で、プライドも恐怖もすべてを投げ打って「L」という血の滲むような契約を刻みつけた。その対価が、今、目の前にある。

わたしは、震える手で、医務室の重い扉を開け放つ。

そこには、ベッドの上にちょこんと座る「奇跡」がいた。

顔を上げた、リリーがこちらを見ていた。ファリナさんに支えられながらゆっくりと立ち上がり、こちらへ歩いてくるリリーの姿に涙が溢れ落ちる。

 

「リリー……!」

 

自分の声が震えているのが分かる。

リリーは、まだ少し大きなサイズの寝間着の上に、支給されたばかりの柔らかなカーディガンを羽織っていた。自分の足で一歩ずつ、しっかりと床を踏みしめて歩いている。

 

「あ、リナ……!」

 

リリーの顔に、ぱあっと花が咲くような笑みが浮かんだ。

路地裏で最後に見た、死を待つだけの青白い顔ではない。頬にはかすかに赤みが差し、潤んだ瞳には、自分たちの未来を見据える光が宿っている。

 

「リリーっ!」

 

自分が今、どんな顔をしているか分からなかった。訓練でボロボロになった足が、もつれるようにリリーのもとへ向かう。

膝をつき、祈るようにリリーの手を握った。

 

温かい。

 

湿った布団の中で、氷のように冷たくなっていったあの指先が、今は確かな熱を持ってわたしの手を押し返している。

 

「リナ、見て。アタシ、歩けるよ。胸のところもスースーするの。もう、全然苦しくないよ」

 

リリーは、誇らしげに笑ってその細い腕でわたしに抱きついた。わたしもまた、壊れ物を扱うように、けれど力強くリリーを抱きしめ返した。

腕の中に伝わる、確かな体温。

規則正しい鼓動。

あんなに喉を焼くようだった喘ぎではなく、静かで穏やかな、生きている呼吸の音。

石鹸の清潔な香りと、薬の匂いが少しだけ混じった、愛おしい妹の気配。

 

わたしの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

訓練でどれほど筋肉が悲鳴を上げても、サントスさんに厳しく叱咤されても、腕が引き攣りそうになっても、足の爪が剥がれそうになっても、一度もこぼさなかった涙が、溢れて止まらない。

 

「よかった……本当によかった……」

 

わたしはリリーの肩に顔を埋め、声を殺して泣いた。

この温もりだ。

この、小さくて、けれど何よりも尊い鼓動を守るために、わたしはあの夜、魂を売ったのだ。

 

「リナ、痛いよ。そんなに強く握ったら」

 

「……ごめん。ごめんね、リリー。でも、もう離せないの。二度と、あんたをあんな寒い場所に返したりしない。絶対に」

 

わたしは涙を拭い、リリーを見上げた。その心には、安堵を上回る、凄まじいまでの「執着」が宿っていた。

リリーが助かったのは、神様が慈悲をくれたからじゃない。

自分が、あの冷徹な手を掴み、利用されることを引き受け、泥の中を這いずり回って勝ち取った「戦利品」なのだ。

 

「泣かないで、リナ。アタシが元気になったんだから、笑ってよ」

 

リリーはわたしの顔を見上げ、小さな手でわたしの涙を拭った。その指先は、数日前まで氷のように冷たかったのが嘘のように温かい。

 

「よく頑張ったわね、リリー。……おめでとう、リナ。数値はもう安定しているわ」

 

背後でファリナさんが穏やかに告げた。

 

「今日からはみんなと同じ部屋で過ごしていいわよ。この子が頑張ったの。リナが庭で泥だらけになって訓練してるのを窓からずっと見て、『自分も早くあそこに行くんだ』って、苦しい薬も全部飲み干したんだから」

 

胸が締め付けられる思いだった。リリーもまた、わたしと同じように、病魔と戦っていたのだ。

廊下の向こうから、メイに連れられたルーナとココが駆けてくる。

家族五人が、再び揃って歩き出す。

豪華な絨毯が敷かれた廊下は、路地裏のぬかるんだ道とはまるで違う。けれど、繋いだ手の強さは、あの頃よりもずっと強固なものになっていた。

 

(リリー。わたし、もっと強くなるよ)

 

わたしは歩きながら、窓の外の訓練場を一度だけ振り返った。

リリーが自分の足で歩けるようになったこの奇跡を、二度と手放さないために。

 

ルーカス。あの男はわたしを「金の卵を産むガチョウ」だと言った。

なら、産んでやる。

最高の卵でも、毒入りの卵でも、望むままに。

自分が「最良の道具」となって、この温かな生活を、死ぬ気で守り抜くために。

 

リリーのこの体温を維持するためなら、わたしは自分の喉が潰れるまで歌い、足が折れるまで踊ってやる。

胸の内に、これまで生きてきた中で最も熱く、最も冷酷な決意が、リリーの温もりを通じて完成した。

 

「さあ、リリー。帰ろう。みんなが待ってる。わたしたちの、新しい家に」

 

 

光の差す廊下を歩く妹の背中は、リナにとって、何物にも代えがたい勝利の証だった。

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

四日目。

 

リナは、膝をついた腕立て伏せを一回だけ成功させた。

 

たった一回。

 

けれど、彼女にとっては大事件だった。

 

腕が震え、肘が曲がり、胸が地面に近づき、そこから戻る。最後はほとんど倒れ込むようだったが、それでもサントスは頷いた。

 

「一回だ」

 

「……できた?」

 

「できた。汚い一回だが、一回は一回だ」

 

近くで見ていた海兵隊員の一人が、小さく拳を握った。別の兵士が口笛を吹きかけ、サントスに睨まれて黙った。

 

クインはその場でぴょんぴょん跳ねた。

リナは地面に伏したまま、息を切らしながら笑った。

 

「一回……」

 

昨日まで、自分の身体は何もできないと思っていた。

けれど、一回できた。

 

 

午後、エレノアはリナに姿勢を教えた。

 

「背筋を伸ばしなさい。ただし、胸を張りすぎてはいけません。威張るのではなく、自分の場所に立つのです」

 

「自分の場所……」

 

「ええ。レディとは、飾り立てた女性のことではありません。自分がどこに立ち、何を背負っているかを理解している女性のことです」

 

リナは鏡の前に立った。

 

髪は整えられ、清潔な服を着ている。それでも、鏡に映る自分はまだぎこちない。痩せていて、目ばかりが大きく、貴族令嬢のような華やかさはない。

 

けれど、背筋を伸ばすと、少しだけ違って見えた。

路地裏で、誰かに見つからないよう身を縮めていた自分ではない。

 

「……これで、いいですか?」

 

「ええ。とてもよろしいです」

 

エレノアは微笑んだ。

 

 

 

その日の夜。

 

 

自室へ戻る廊下を、リナは重い足取りで歩いていた。初めて成功させた腕立て伏せの代償で、腕も肩も鉛のように重く、熱を持っている。

ふと、角を曲がったところで、洗濯籠を抱えた若い下級メイドとすれ違った。

メイドはリナといくつかしか歳が離れていない、そばかすのある少女だった。彼女はリナとすれ違う瞬間、周囲を素早く見回し、誰もいないことを確認すると──サッとリナの手に、小さな陶器の小瓶を握らせた。

 

「え……?」

 

薬草(ハーブ)の軟膏。筋肉痛によく効くから、寝る前に塗って」

 

メイドは、すれ違いざまに小さな声で囁いた。

 

「でも、こんなの……私、お金……」

 

「いらないわよ。私が新人の頃、先輩にもらったお裾分け。……ヒルダ様に見つかったら怒られちゃうから、内緒ね」

 

メイドは悪戯っぽく片目を瞬かせた。

 

「あの……どうして?」

 

リナが戸惑いながら尋ねると、メイドは少しだけはにかんで答えた。

 

「庭で、何度も転んで、それでも立ち上がるの見てたから。……応援してる。負けないでね」

 

それだけ言うと、メイドはパタパタと足音を忍ばせて去っていった。

部屋に戻ったリナは、寝巻きに着替えると、さっそくベッドの端に座って小瓶の蓋を開けた。スーッとする薄荷(ハッカ)のような香りが広がる。

痛む二の腕に指で塗り込もうとした、その時だった。

 

「失礼いたします。明日の着替えを……」

 

ノックと共に扉が開き、ヒルダが静かに入ってきた。

リナは弾かれたように肩を揺らし、慌てて小瓶を背中に隠した。あの子が怒られてしまう。

だが、屋敷のすべてを管理するメイド長の誤魔化しなど、通じるはずがなかった。

ヒルダは部屋に漂う香りを一度だけ静かに嗅ぐと、ピタリと足を止めた。

 

「……アルニカと薄荷の香りですね」

「あ、あの、これは! 拾ったというか、その……!」

 

必死に庇おうとするリナを見て、ヒルダは小さく息を吐いた。怒りや呆れではなく、どこか「やれやれ」といった響きだった。

 

「あのそばかすのメイド……マリーですね。彼女はお節介焼きですが、詰めが甘い。リナ様、その小瓶をお貸しなさい」

 

「え……?」

「没収はいたしません。ですが、今のあなたの手のひらを見ただけで分かります。その塗り方では、表面がベタつくばかりで筋肉の奥まで浸透しません」

 

ヒルダは戸惑うリナの隣に腰を下ろすと、小瓶を受け取り、自らの指先に軟膏を適量取った。

 

「失礼します。少し、腕の力を抜いて」

「あ……痛っ」

「最初は痛みます。ですが、筋肉の繊維に沿って、心臓に向かって老廃物を流すように揉み込むのです。ただ擦りつけるだけでは、せっかくの薬効が半分も活きません」

 

ヒルダの指先は、冷徹な表情からは想像もつかないほど温かく、そして的確だった。凝り固まって悲鳴を上げていた筋肉が、彼女の鮮やかな手つきによって、じんわりと解れていくのが分かる。

 

「……すごいです。さっきより、ずっと腕が軽くなりました」

「当然です。私はこの屋敷のメイド長ですから」

 

ヒルダは淡々と答え、布で指先を拭いながら立ち上がった。

 

「本来、私物のやり取りは規律違反です。ですが……『道具』として鍛えられている身体を効率よく修繕しようとする行為を、咎める理由はありません」

 

ヒルダは、小瓶をリナの机の上にそっと置いた。

 

「明日の朝、あの新米メイドに伝えておきなさい。『薬を密輸するなら、正しい塗り方まで教えるのがメイドの仕事だ』と」

 

「……っ、はい!」

 

リナが顔をほころばせて頷くと、ヒルダは「おやすみなさいませ」とだけ言い残し、静かに部屋を後にした。

手の中に残された小瓶と、ほのかに温かい腕。

 

この屋敷は厳しい。ルーカスの言葉は冷たく、サントスの訓練は容赦がない。けれど、その厳しさの中には、痛んだ腕にそっと塗り込まれる軟膏のような、不器用な温かさもあった。

リナは、痛みの引いた腕をそっと握りしめ、明日の訓練へと思いを馳せた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

五日目。

 

クライスが、訓練場の端に現れた。

 

彼は両手に小さな箱を抱えており、なぜかひどく落ち着きがなかった。視線はリナの方へ向かうが、目が合いそうになるたびに逸らす。

 

サントスが訝しげに眉をひそめた。

 

「何の用だ、クライス殿」

 

「あ、いや、その……ルーカスに頼まれたわけじゃなくて、いや、別に頼まれてないわけでもないけど、訓練効率を上げるには装備の見直しが必要で……」

 

「要点を」

 

サントスの短い言葉に、クライスはびくりと肩を跳ねさせた。

 

「靴を、作った」

 

リナは目を丸くした。

 

「靴……ですか?」

 

クライスは箱を開けた。中には、軽く、柔らかそうな運動靴が入っていた。見た目は簡素だが、底には滑り止めの加工があり、足首を支えるように作られている。

 

「君の走り方を見て……いや、見てたって言っても変な意味じゃなくて、訓練場で偶然見えたというか、ええと……足首が不安定だったから。今の靴だと、膝と足首に負担がかかる。だから、軽量素材と衝撃吸収の魔術式を少しだけ入れてある」

 

リナは靴を見つめた。

こんなものを、自分のために。

 

「でも……私、お金……」

 

「いらない!」

 

クライスは勢いよく言ったあと、慌てて咳払いした。

 

「いや、その、試作品だから。データが取れれば十分というか。履き心地を教えてくれたら、それでいい」

 

サントスが横から言った。

 

「つまり、訓練装備の試験協力だ。受け取れ、リナ」

 

「……はい」

 

リナは靴を受け取った。軽い。今まで履いたどの靴よりも、足に馴染む。

 

履いて立つと、地面の感触が変わった。

 

「……すごい」

 

リナは思わず呟いた。

クライスの顔が赤くなった。

 

「そ、そう?痛くない?きつくない?もし違和感があったらすぐ直すから。あと、これは足首用の回復促進サポーターで、筋肉疲労を完全に消すわけじゃないけど、炎症を抑えて回復を助ける術式を──」

 

「クライス殿」

 

サントスが遮った。

 

「説明は後だ。まず走らせる」

 

「は、はい」

 

リナは新しい靴で、庭の走路に立った。

 

走り出す。

 

昨日より、足が軽い。地面を蹴った時の衝撃が柔らかく吸収される。足首がぐらつかない。怖くない。

 

リナは、昨日よりさらに遠くまで走った。

息は切れた。脚も震えた。それでも、途中で転ばなかった。

走り終えた時、クライスが遠くで両手を握りしめていた。

 

「……ありがとうございます、クライス様」

 

リナがそう言うと、クライスは耳まで真っ赤になった。

 

「べ、別に!訓練効率のためだから!」

 

サントスは小さく鼻で笑った。

クインはなぜか得意げに胸を張っていた。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

六日目の夜。

 

別邸の部屋は静まり返り、妹たちは心地よい寝息を立てていた。

リナはベッドの上で、サントスに教わった通り、クライスから贈られたサポーターをきつく締め直していた。節々の痛みは日々増している。けれど、それは自分が「道具」として形を変えようとしている証でもあった。

 

その時、隣のベッドからリリーがゆっくりと這い出してきた。

退院して三日。彼女の足取りはまだおぼつかない。骨が浮き出るほど痩せた脚は、自分の体重を支えるだけで細かく震えている。

 

「リナ……」

「リリー、どうしたの? 具合が悪いの?」

 

リナが慌てて支えようとすると、リリーは首を振った。彼女の手には、リナが昼間の授業で使っている、使い古されたノートの端切れとペンが握られていた。

 

「字、教えて」

 

リナは少し驚き、それからリリーを自分のベッドに招き入れた。

二人は毛布を肩にかけ、月明かりの下で身を寄せ合った。リナはリリーの背中に手を添える。リリーの身体は驚くほど軽く、少し力を入れれば折れてしまいそうだった。

 

「リリー、まだ無理しちゃダメだよ。身体、辛いでしょ」

「ううん。リナの方が、ずっと辛い顔してる」

 

リリーはリナの赤く腫れた手のひらを、そっと指先でなぞった。

 

「リナが頑張ってるの、知ってるよ。アタシが寝てる間も、リナはずっと起きて、難しいこといっぱい覚えてるんでしょ? アタシも……リナの助けになりたいの。ただ守られてるだけなのは、もう嫌」

 

リナは胸の奥が熱くなるのを感じた。

リリーは、かつて路地裏で「ごめんね」と謝るだけだった妹ではない。彼女もまた、この場所で、自分自身の足で立とうとしていた。

 

「分かった。じゃあ、まずはこれ」

 

リナは、エレノアが教えてくれたように、リリーの手に自分の手を重ねた。

ペンは、今のリリーには重すぎるようだった。リリーの指先は、慣れない筋肉の使い方に戸惑い、小刻みに震えている。

 

「無理に力を入れないで。こう、風をなぞるみたいに」

 

リナは、自分が教わったばかりの「力の抜き方」を、リリーに伝えていく。それは奇しくも、サントスが訓練で言っていたことと同じだった。

 

リナの導きで、リリーが初めて綴った文字。

 

「……か、ぞ、く」

 

リリーは、その歪な線を愛おしそうに見つめた。

 

「いい言葉……。ねえ、リナ。これ、アタシたちがここにいてもいいって、あの冷たい目をした人が許してくれた証拠なんだよね?」

 

「……うん。そうだよ」

 

リナは頷いた。

 

「一番、大事な言葉」

 

リナは、ルーカスの氷のような瞳を思い出した。彼はリナを道具と呼び、価値を証明しろと言った。リリーたちが今、温かな部屋で文字を学べるのは、リナが彼と「契約」したからだ。

 

「リリー、この字が書ければ、いつか誰かに騙されることもなくなる。自分の気持ちを、誰かに伝えることもできる。それは……自分を守る剣になるんだよ」

 

リリーは何度も頷き、震える指でもう一度、その文字をなぞった。

 

「アタシ、頑張る。リナの剣になる。リナが盾になってくれるなら、アタシがその隣で戦うよ」

 

リナは何も言えず、ただリリーを強く抱きしめた。

リリーの身体はまだ弱く、震えは止まらない。リナの腕も、筋肉痛で悲鳴を上げている。

けれど、二人の「弱さ」が重なった時、そこには路地裏で震えていた時とは違う、静かな、けれど決して折れない「芯」が生まれていた。

 

「……明日も、一緒に書こう」

「うん。約束だよ、リナ」

 

月明かりの下、リナは確信した。

自分の選んだ道は、ただリリーを救っただけではない。リリーの中に眠っていた、凛とした「意志」をも呼び覚ましたのだと。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

七日目。

 

リナは、庭の端から端まで、休まずに歩き切った。

 

走ったわけではない。海兵隊員たちから見れば、訓練にもならないような距離だったかもしれない。けれど、初日に屈伸十回で倒れかけたリナにとっては、確かな前進だった。

 

最後の一歩を踏み終えた時、サントスは短く言った。

 

「合格だ。今日の分はな」

 

リナは息を切らしながら、顔を上げた。

 

「明日は……?」

 

「明日は、今日より少し増やす」

 

リナは笑った。

怖くなかった。

 

 

リナが走路の脇に座り込み、支給された水筒でゆっくりと喉を潤していると、少し離れた給水樽のそばにいたサントスのもとへ、休憩中の海兵隊員たちが数人、ニヤニヤと笑いながら近づいていくのが見えた。

 

「よう、新米の三等軍曹殿。あの嬢ちゃん、今日も潰れなかったな」

 

給水樽のそばで、古参の海兵隊員がにやりと笑った。

 

「泣きそうな顔は何度もしてるが、止まらねぇ。いい目だ」

「泣く泣かねぇじゃねぇからな。泣いたあとに立つかどうかだ」

 

別の兵の言葉に、サントスは手拭いを肩にかけ、鼻で笑った。

 

「分かったような口を利くな。貴様らも十三週の最後で馬鹿みたいに泣いていただろうが」

 

「ありゃ汗です、軍曹殿」

 

「では、その汗まみれの頭をモップ代わりにして庭を磨かせてやろうか」

 

「Oohah! 遠慮しとくぜ!」

 

兵たちがどっと快活な笑い声を上げた。

昇進した下士官に対する敬礼は、時に人ではなく階級章へ向けられる。だからこそ孤立しやすい。だが、この気の置けない軽口だけは、間違いなくララティーナ個人へ向けられていた。

 

やがて彼らの視線が、木陰で休むリナへと向けられる。その眼差しは、初日のような無関心なものではなくなっていた。

 

「……だが、マジで大したもんだ。最初はすぐぶっ倒れて泣き喚くかと思ったが、あの嬢ちゃん、目は死んでねぇ。俺たちと同じ、泥水啜って立ち上がる仲間の匂いがするぜ」

 

「ああ。俺たちの小さな『妹分』が立派な道具(Marine)になれるよう、ビシッとしごいてやってくれや、サントス」

 

「言われるまでもない。お前らも油断してると、いつかあいつに背中を抜かれるぞ」

 

その笑い声は、決してリナを馬鹿にするものではなかった。むしろ、かつて自分たちも通った痛みの入口に、一人の小さな少女が足を踏み入れたことを認める、荒っぽい歓迎のように聞こえた。

リナは遠くから聞こえてくるやり取りに、少しだけ胸が温かくなるのを感じていた。

 

 

午後の授業では、リナが「かぞく」を前より少し綺麗に書けた。メイドの一人がそれを見て、小さく拍手した。別のメイドが、温かいお茶を置いてくれた。

 

「よく頑張りましたね、リナさん」

 

リナは照れたように俯いた。

 

「まだ……全然です」

「ええ。まだ全然です」

 

エレノアが穏やかに言った。

 

リナが顔を上げると、エレノアは微笑んでいた。

 

「だからこそ、明日も学ぶのです」

 

その言葉に、リナは静かに頷いた。

 

 

夜、妹たちが眠ったあと、リナは窓辺に立った。庭の向こう、離れた場所にある執務室──今では皆が、作戦司令室のように扱っているその窓には、煌々と灯りがともっている。

 

学園での生活が始まったルーカスは、今はここにはいない。だが、あの組織は眠らない。夜間の交代要員として当直の士官たちが詰め、主が残した膨大な計画や指示を、絶え間なく回しているのだろう。

 

彼は、自分を道具と呼んだ。

 

最初は怖かった。今も怖い。彼の言葉は冷たく、時に胸を抉る。けれど、リナは少しずつ分かり始めていた。

 

道具とは、捨てられるものではない。

手入れされ、鍛えられ、目的を持ち、誰かの手で使われるもの。

 

そして、いつか。

 

自分自身の意思で、自分の役割を果たすもの。

 

リナは、自分の手を見つめた。インクの染みは薄くなっていたが、まだ指先に残っている気がした。契約の証。最初の文字。選んだ道。

 

「私は、強くなる」

 

小さな声で、リナは呟いた。

 

「もう、誰にも奪わせない。妹たちも、私の未来も」

 

窓の外、庭の片隅で、クインがこちらに気づいたように顔を上げた。小さなフェンリルは、リナを見つけると尻尾を振り、静かに一声鳴いた。

 

「クゥン」

 

リナは思わず微笑んだ。

 

彼女の物語は、まだ始まったばかりだった。

 

それは、魔法の力で一夜にして灰被りが姫になる物語ではない。

血と汗、痛みと涙、学びと食事、そして人々の不器用な優しさによって、少しずつ紡がれていく、現実の物語だった。

 

 

 

・・・・・

・・・

・・

 

 

夜明け前の背中

 

 

次の朝。

 

リナは、誰に起こされるよりも早く目を覚ました。

筋肉痛はまだ残っている。けれど、昨日「歩き切った」という実感が、彼女の心に小さな火を灯していた。

 

(もっと、やらなきゃ。あんなに良くしてもらっているんだから、私がもっと頑張れば、サントスさんの負担も減るはずだ……)

 

彼女はそっとベッドを抜け出し、まだ寝静まっている妹たちを起こさないよう、慎重に運動着に着替えた。サントスが来る前に、昨日の「十歩」を自分の力で超えておきたかった。

夜明け前の庭は、肌を刺すような冷気に包まれていた。

リナは気合を入れるように自分の頬を叩き、訓練場へと足を踏み入れた。

だが、そこには先客がいた。

 

「…………っ」

 

リナは息を呑み、茂みの陰で足を止めた。

誰もいないはずの薄暗い広場で、一人の女が猛烈な勢いで地面を蹴っていた。

 

ララティーナ・サントスだ。

 

彼女はリナに見せている「教官」の顔ではなかった。髪を振り乱し、全身から湯気を立ち上らせ、海兵隊の現役兵士ですら音を上げるような高強度のメニューを、たった一人で、無言で、機械のように淡々とこなしていた。

 

リナを指導している間の彼女は、常にリナのペースに合わせていた。

リナが歩けば歩き、リナが止まれば止まった。

だが、その裏で彼女は、「リナの教官であること」を、自分自身の訓練を怠る言い訳にしていなかったのだ。

リナの面倒を見るために削られた「自分のための時間」を、彼女はこうして夜明け前の暗闇の中で、誰に誇るでもなく取り戻していた。

 

「48、49……50!」

 

最後の一回。サントスは岩のような重さの土嚢を背負ったまま、震える腕で地面を押し切り、腕立て伏せを終えた。そのまま荒い吐息と共に立ち上がる。

 

「……三巡目」

 

首筋を流れる汗が、夜明けの微かな光に濡れて光っている。

 

「……そこにいるのは誰だ」

 

鋭い声が飛んだ。隠れていたリナは、ビクリと肩を跳ねさせて姿を現した。

 

「あ……ご、ごめんなさい。サントスさん。私、その……」

「リナか。……少し早いな」

 

サントスは手拭いで顔の汗を乱暴に拭うと、いつもの「三等軍曹」の顔に戻った。先ほどの凄まじい気迫を、何事もなかったかのように仕舞い込んでいる。

 

「あの……サントスさん、いつもこうして、私との訓練の前にやってるんですか?」

 

「当たり前だ。私は三等軍曹だぞ。部下より動けない上官に、誰が敬礼する? ……お前を育てるのは私の任務だが、それでお前の後ろに隠れて自分の牙を鈍らせるほど、私はお人好しじゃない」

 

サントスは、リナの前にどっしりと立った。

 

「……見ていたなら覚えておけ。誰にも見られていない場所で自分を律せない奴は、戦場じゃ真っ先に死ぬ。……さて、いい準備運動になった。始めるぞ。今日は、昨日より十五歩だ」

 

「…………はい!」

 

リナの声は、今までで一番力強く響いた。

サントスの背中は、昨日よりもずっと大きく、高く見えた。

 

 

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