第百二十七話:資源の浪費、あるいは『不発弾』の再装填
「次はメインアンプだ。殿下、貴殿は右側を持て。リドリー、左。ハワードは後方確認。ウィルソン、荷台の固定具を準備しろ」
ルーカスは、何事もなかったかのように踵を返した。
そこにあるのは、いつもの冷たさ。人を重量と役割に分け、最短の手順で動かす、あの苛立たしいまでに正確な声だ。
だが、今のエドワードには分かった。
ルーカスの言葉の端に、わずかな乱れがある。それは、真正面から魂を抉られたばかりの者にしか見えない、小さな綻びだった。
(……この男は、怒っている)
それは自分に対してか、あるいは、もっと遠い「何か」に対してか。
「……トレンス」
「喋るな。呼吸を整えろ。持ち上げる瞬間に息を止めすぎるな、視野が狭くなる」
「貴様は、なぜそこまで俺に構う」
問いは、ほとんど無意識に漏れた。
ルーカスの手が、一瞬だけ止まった。本当に、瞬きの間ほどの空白。次の瞬間には、彼は何事もなかったかのように固定ベルトを引き締め直していた。
「構ってなどいない。使える『頭数』を、使える状態にしているだけだ」
「嘘をつけ」
口を突いたのは、思ったよりも低い声だった。
ダモンがぎょっとこちらを見る。ウィルフレッドが青ざめる。だがエドワードは、ルーカスの蒼い瞳から視線を外さなかった。
「貴様が本当に俺をただの頭数として見ているなら、ここまで言う必要はない。荷を運ばせ、失敗すれば切り捨てればいい。貴様なら、迷わずそうするはずだ」
「……」
「なのに貴様は、俺に『立て』と言った。俺の立場を使え、腐らせるなとまで言った。……それは、ただの『効率』では説明できない」
ルーカスは答えなかった。ただ、金具を締める乾いた音だけが、朝の静寂に響く。
「殿下」
ルーカスの声が、低く沈んだ。
「自分が特別に見られていると勘違いするな。そういう甘えが、貴殿をここまで腐らせた」
鋭い一撃だった。だが、もう怯まない。
「そうだな。甘えだったのだろう」
エドワードは、自分の掌を見下ろした。
赤く擦り剥け、泥と煤で汚れた手。王太子の手ではない。だが、不思議と、今までで一番「自分の手」であるように思えた。
「俺は、レオナルドに勝てないことを理由に、王太子であることから逃げていた。周囲の期待を言い訳にして、自分が何者かを決めることを放棄していた。……だからこそ、腹が立つのだろう? 貴様は」
「……」
「俺が、自分で自分を捨てようとしていることに」
沈黙が落ちた。
それは肯定ではなかった。だが、否定でもなかった。
ルーカスはゆっくりと立ち上がると、冷徹な目を向けた。
「貴殿の悲劇に興味はない。……人間はな、エドワード。自分が腐った理由を探すことだけは、驚くほど上手い。環境、血筋、家族、時代、神、才能。どれも都合のいい『墓標』になる。そこに自分の未来を埋めてしまえば、あとは被害者の顔をして座っていられるからな」
ルーカスは、荷台の上に積まれた黒い機材を軽く叩いた。
「だが、墓標は飯を運ばない。兵も動かさない。国も救わない。……そして、音も鳴らさない」
エドワードの喉が、かすかに鳴った。
「貴殿のその劣等感も、王宮への怒りも、本来ならば前へ進むための高価な『燃料』だったはずだ。だが貴殿はそれを活用せず、ただの不発弾として抱えたまま、己の腹の中で腐らせて毒に変えた。……資源の浪費だ。見ていて不愉快極まりない」
罵倒だった。
だが、エドワードは不思議と傷つかなかった。
ルーカスは、俺を無価値だとは言わなかった。
「浪費」だと言ったのだ。
つまり、使い道があると見ている。
腐らせるには惜しいものが、まだ俺の中に残っていると、この男は見なしている。
それが、腹立たしいほどに嬉しかった。
「……貴様は、本当に性格が悪いな」
「今さらか?」
「同情も慰めもせず、人の傷を資源扱いするか。……だが、そうか。使わなければ、ただ内臓を腐らせる毒になるだけか」
エドワードは膝を曲げ、背筋を伸ばした。先ほどルーカスが見せた「効率的なフォーム」をなぞるように。
「……トレンス。俺の存在価値は、貴様などに定義されるものではない。必ず、貴様のその冷たい論理の奥にあるものを暴き出し、俺の手でこの王国の土台として敷き直してやる」
エドワードの宣戦布告とも取れる強い眼差しを受け、ルーカスは鼻を鳴らした。
「口だけなら何とでも言える。……さぁ、休憩は終わりだ。右を持て。腕で引くな、膝を使え。返事は短く、息を合わせろ」
「……ああ」
「三で上げる。一、二――三」
凄まじい重さが、エドワードの全身を軋ませた。
だが今度は、ただ屈辱的な重さではなかった。
逃げれば誰かが代わりに持つ。だが、自分が持つと決めたなら、もう膝を折るわけにはいかない。
一歩を踏み出す。
ルーカスは隣で、何も言わずに同じ質量を支えている。
エドワードは、ルーカスの凄絶なまでの迫力の奥に、ふと気づいた。
ルーカスは、自分を見ているようでいて、見ていない。
この男の眼差しは、自分を通り越し、果てしなく遠い絶望的な泥濘の中で、決して折れることなく立ち上がり続けた「別の誰か」を見つめている。
(……この男は、俺を通して、過去のどこかに立ち尽くしたままの、別の自分を怒鳴りつけているのか?)
だとしたら。
俺がここで折れることは、この男の「過去」をも否定することになるのではないか。
ルーカスは手を差し伸べなかった。
泥の中にいる者に、優しい言葉をかけることもない。
ただ、立ち上がらないことだけを、一秒たりとも許さなかった。
「歩け。止まれば、また腐るぞ」
その不協和音のような声が、今のエドワードには、どんな賛美歌よりも正しく、世界を律する「音」に聞こえていた。
・・・・・
・・・
一方その頃、サロンでは、アンジェリカが白紙の上に羽根ペンを握りしめたまま、ぴたりと固まっていた。
「……お嬢様?」
ミリアリアが、在庫リストに目を落としたまま声をかける。
彼女の前には、ルーカスから渡された機材目録と、アンジェリカが書き散らした断片的な言葉が並んでいた。
“胸が跳ねる”
“扉を蹴る音”
“朝より先に走る”
“名前を呼ばれた気がした”
詩と呼ぶにはあまりに荒く、報告書と呼ぶにはあまりに熱い。
だが、そこには確かに、あの日の音に触れた者だけが持つ震えがあった。
「ミリー。駄目だわ」
「何がですの?」
「この子たち、まだ足がないの」
「……言葉に足、ですか」
ミリアリアは羽根ペンを持つアンジェリカの手元を見た。
紙の上には、走り出そうとして転んだような言葉たちが、あちこちに散らばっている。
「ええ。胸の中では走っているのに、紙の上だと転んでしまうの。きっと、音の相手をまだ見ていないからだわ」
「そもそも、歌とは旋律に詩を添えるものです。先に言葉だけを作るなど、わたくしも聞いたことがありませんわ」
「でも、ルーカスは先に心臓を出せって言ったわ」
「……そこが一番問題なのです」
ミリアリアは、軽い頭痛を覚えながら目録へ視線を落とした。
ルーカスの指示は、相変わらず意味が分からないくせに、妙に逃げ道がない。
アンジェリカの熱を紙に逃がせ。
詩として整える必要はない。
散らばる火花を拾い集めろ。
そう命じられた以上、ミリアリアはその火花を拾い集めていた。だが肝心のアンジェリカの手が止まった以上、作業はそこで滞る。
そして、ちょうど目録の下段には、搬出済み機材の照合欄が空白のまま残っていた。
「……キャリッジ・ポーチで、搬入前の確認が必要ですわ」
ミリアリアは、バインダーの端を指で軽く叩いた。
「品目と番号の照合だけなら、わたくしが行く理由はあります」
「じゃあ、私も行くわ!」
アンジェリカは、待ってましたとばかりに椅子から立ち上がった。
「お嬢様はここで――」
「だって、歌の言葉を書くのに、歌う子の顔を知らないなんて失礼でしょう?」
「歌う子……」
ミリアリアは、反射的に否定しかけて、言葉を飲み込んだ。
楽器に人格などない。そう言うのは簡単だ。
だが、ルーカスが扱うあの異質な音の群れを、果たして単なる道具と呼び切れるのか。少なくとも、あの日のアンジェリカを貫いたものは、ただの音色ではなかった。
ミリアリアは頭痛を堪えるように、そっと目を閉じる。
完全には否定できなかった。
ルーカスが言ったのは、アンジェリカの熱を紙に逃がせ、という命令だ。
ならば、その熱が止まっている以上、現物確認は作業の一部とも言える。
あくまで、極めて苦しい解釈ではあるが。
「……わたくしの側を離れないこと。機材には触れないこと。走らないこと。トレンス侯爵の指示には従うこと」
「ええ!」
「返事が早い時ほど信用できませんわね……」
ミリアリアは深く息を吐き、目録と未完成の言葉を抱えた。
そうして二人は、まだ朝の静けさが残る廊下を抜け、重苦しい空気の沈むキャリッジ・ポーチへと向かった。
・・・・・
・・・
トレンス家王都別邸、キャリッジ・ポーチ。
その空間は、重苦しい空気に包まれていた。
ダモンは黙り込み、ウィルフレッドは目録の文字を読むふりをし、エドワードは煤けた掌を見下ろしたまま動かなかった。
先ほど交わされた言葉の熱だけが、冷えた石畳の上にまだ残っている。
並べられた黒い機材の列は、楽器というより、出撃を待つ兵器の群れに近かった。
「さて、積み込む前に最終チェックだ」
ルーカスは、何事もなかったかのように口を開いた。
厳重に施錠された木箱の一つを開き、その中から細長いハードケースを取り出す。
他の機材とは、明らかに扱いが違った。
乱雑に見えるほど無駄のない彼の手つきが、そのケースに触れた瞬間だけ、ほんのわずかに精密さを増す。
表面にはトレンス家の紋章ではなく、無機質なシリアルナンバーだけが刻印されていた。
留め金が外れる。
「……っ」
横から、短い吸気音が漏れた。
ヴェクターだった。
「……トレンス侯爵。それ、まさか……GLP-90じゃないですか」
ヴェクターは役目も忘れ、吸い寄せられるようにケースの中身を覗き込んだ。
そこにあったのは、装飾を一切削ぎ落とした、無骨な一本の黒いギターだった。
艶やかな宮廷楽器のような彫刻も、貴族好みの象嵌もない。
ただ黒い木、鉄、弦、そして異様な存在感を放つ一つの部品だけが、無言で収まっている。
「じーえるぴー……ないんてぃ?」
重い機材の位置を直していたエドワードが、苛立たしげに眉をひそめた。
「何だ、その妙な符牒は」
「殿下、ご存じありませんか? 次世代型の魔導弦楽器ですよ」
ヴェクターは興奮を隠しきれない様子で、早口にまくし立てる。
「特にこの九十番台は、単一の大型シングル・コイルに特化した、市場流通前の試作系列です。見てください、このドッグ耳型の集音器。無駄がない。実に無駄がない」
ヴェクターの指が、ギターに搭載された、いわゆる「ドッグ耳」のピックアップを指し示す。
「シンプルですが、出力が凶暴なんです。アコースティックの繊細さなんて微塵もない。これは、ストリートの叫びをそのまま増幅するための狂犬ですよ。……まさか、実物にお目にかかるとは」
「能書きはいい。ウィルソン、お前の仕事は鑑定ではなく、搬入だ」
ルーカスは冷淡に告げ、そのGLP-90を無造作に手に取った。
その指先が、黒いボディの縁を撫でる。
楽器に触れるというより、古い武器の作動状態を確認している手つきだった。
弦はまだ鳴っていない。
にもかかわらず、エドワードたちが「ただの木と鉄の棒」としか見ていないものが、ヴェクターの目には国を揺るがす最新兵器に見えているようだった。
その温度差が、エドワードの焦燥をさらに煽った。
「……フン。相変わらず、トレンスは得体の知れないガラクタを揃えているようだな」
「ガラクタ、ですか」
ヴェクターは不敵に笑った。
「殿下。そのガラクタが一度咆哮を上げれば、王宮のオーケストラがどれだけ束になっても勝てないことを、後で思い知ることになりますよ」
「貴様……」
「ウィルソン」
ルーカスの一言で、ヴェクターは肩をすくめた。
「はいはい、搬入でしたね」
そう言いながら、彼は再び重い機材ケースに手をかける。
だが、その足取りは先ほどまでより明らかに軽かった。
その時、キャリッジ・ポーチの入口から、澄んだ声が響いた。
「トレンス侯爵。搬出済み機材の目録照合に参りました」
ミリアリアが、バインダーを胸に抱えて一礼する。
その背後から、金色の髪がひょこりと覗いた。
「ルーカス!」
ルーカスの目が、わずかに細くなる。
「……なぜ君まで来ている」
「歌の言葉が途中で転んだから、足を探しに来たの!」
「戻れ。君が動き回ると事故率が上がる」
「動き回らないわ。見るだけよ。あと、少しだけ聞くわ」
「聞く?」
「ええ。その子の声を」
アンジェリカは、ルーカスの腕の中にある黒いギターをまっすぐ見つめていた。
その目には、好奇心だけではない、妙な確信が宿っている。
「さっきから、黙っているのに呼んでいるもの」
「呼んでいない。これは楽器だ」
「でも、鳴りたがっているわ」
「……その子?」
エドワードが理解不能なものを見る目で、アンジェリカを見た。
だが、彼女は本気だった。
「ええ。起こしてあげて、ルーカス」
「これは寝ているわけではない」
「でも、今は黙っているわ。起こせるのは貴方でしょう?」
ルーカスの眉間に、わずかに皺が刻まれた。
その言い方が、妙に本質を突いていたからだ。
「待て、トレンス」
エドワードが反射的に口を挟む。
「ここで鳴らす気か? まだ運搬中だぞ」
「チューニング前だ。アンプも本番用ではない。鳴らす理由がない」
「……恐れながら、トレンス侯爵」
ミリアリアが、目録から顔を上げた。
「音を伴う機材である以上、搬入前の状態確認は記録として残すべきかと。現地で不備が判明すれば、設営工程全体に遅延が生じます」
ヴェクターが、すかさず笑みを深める。
「さすがオルスタイン嬢。実に美しい建前です」
「建前ではありません。記録業務です」
「では、私からも」
ヴェクターは、待ってましたとばかりに一歩出た。
「輸送前にピックアップとジャックの状態確認を行うのは、極めて合理的です。最低限の動作確認は必要かと」
「お前はそれを聞きたいだけだろう」
「否定はいたしかねますが、合理性は否定できません」
「……あ、あの。恐れながら、私からも」
思いがけない声に、一同の視線がウィルフレッドへ向いた。
彼は一瞬ひるんだ。
だが、胸の前で握った指先に力を込める。
「先ほど、侯爵は音の発生と増幅の機能を分離している、と仰いました。ですが、その……正直なところ、私はまだ、その理屈を完全には理解できておりません」
「なら黙って見ていろ」
「見ているだけでは、検証になりません」
言ってしまった。
言い終えた瞬間、ウィルフレッドは自分の発言に青ざめた。
余計なことを言った。
確実に、余計なことを言った。
だが、好奇心は恐怖より少しだけ強かった。
もう止まれなかった。
怖い。
この屋敷も、この侯爵も、この異様な機材も、全部怖い。
それでも、知りたかった。
「この薄い板と、箱と、一本の線。それだけで空気を震わせるというのなら……一音だけでも、学術的に確認する価値はあるかと」
ルーカスは、数秒だけウィルフレッドを見た。
「……怯えながらでも検証を求めるか」
「恐怖と知的関心は、必ずしも排他ではありませんので……」
「その点だけは評価する」
ウィルフレッドは、ほっとしたような、むしろ余計に青ざめたような、複雑な顔をした。
アンジェリカは勝ち誇ったように胸を張る。
「ほら! みんな聞きたいのよ!」
「君だけは一度も合理的な説明をしていない」
「でも、みんながしてくれたわ!」
「……お前たちは、合理性を都合よく使うな」
ルーカスは舌打ちし、ケースの横に置かれた小型のテストアンプへケーブルを差し込んだ。
それだけで、細い線がキャリッジ・ポーチの空気を変えた。
木と鉄と線材の塊が、一つの回路として閉じる。
アンジェリカが息を止めた。
ヴェクターの目が、商人のそれではなく、信徒のような熱を帯びる。
ミリアリアは無意識に目録を抱きしめ、ウィルフレッドは喉を鳴らした。
エドワードだけが、認めまいとするように顎を上げていた。
ルーカスの指が、弦に触れる。
ピックが、黒い狂犬の喉元を軽く掻いた。
たった一音。
だが、その音は響いたのではない。
噛みついた。
王宮の弦楽器なら、音は空気に溶ける。
磨かれた木肌の中で丸みを帯び、聴く者の耳へ礼儀正しく差し出される。
だが、これは違った。
空気を裂き、石壁を引っ掻き、胸骨の内側に爪を立てる。
美しいかどうかを判断する前に、身体が反応してしまう。
エドワードは、反射的に眉をしかめた。
汚い。
そう思った。
あの夜、焚き火のように優しく寄り添ってくれたアコースティックの響きとは、全くの別物だ。
礼節がない。品位がない。
王宮の音楽のように聴く者を正しい姿勢へ導く気など微塵もないし、路地裏の音楽のように傷ついた者を慰める優しさすらない。
ただ、剥き出しの電気と鉄が、力ずくで神経を制圧しにくる。
だが、その汚さから目を逸らせなかった。
腹の底に、何かが一瞬だけ火を噴いた。
「……今の、もっと!」
アンジェリカの瞳が、朝の光よりも強く輝いた。
「却下だ。これは動作確認だ」
「違うわ。今のは挨拶よ!」
「お嬢様、なかなか分かっていらっしゃる」
ヴェクターが肩を震わせて笑う。
「黙れ」
ルーカスは短く切り捨て、ケーブルを抜こうとした。
だが、エドワードが低く呟いた。
「……あれは、音楽なのか?」
誰に向けた問いでもなかった。
むしろ、自分自身への確認に近かった。
ルーカスは、黒いギターから視線を外さないまま答える。
「まだ違う」
「違う、だと?」
「ああ。ただの信号だ」
音楽ですらない。
ただの信号。
それなのに、その一音だけで、自分の胸の奥にある何かが乱された。
エドワードは、それを認めたくなかった。
アンジェリカは、そんな彼の動揺など気にも留めず、ルーカスだけを見ていた。
「じゃあ、音楽にして」
彼女は、未完成の言葉が挟まったノートを胸に抱き、まっすぐに笑った。
「お願い、ルーカス」
ルーカスは、数秒だけ彼女を見た。
それから、ひどく面倒なものを背負わされたように、静かに息を吐く。
「……運ぶのが先だ。音楽にするのは、その後と言ったはずだ」
ルーカスは冷たく言い放ち、ケーブルに手を伸ばした。
「片付けるぞ。ウィルソン、箱を――」
「じゃあ、今ここでちゅーにんぐすればいいじゃない」
アンジェリカは、何の迷いもなく言った。
「え?」と、ウィルフレッドが間抜けな声を漏らす。
ルーカスの動きがピタリと止まった。
アンジェリカが両手を打った。
「ねえ、せっかくだもの。みんなで聞きましょう!」
その一言で、キャリッジ・ポーチの空気が変わった。
たった一音の凶暴な残響が、屋敷の静寂を食い破り、それぞれの運命を予定外の軌道へと引きずり込んでいく。