幕間 小さな声は、まだ歌にならない
その夜、リナは部屋に戻るなり、ベッドへ倒れ込むように眠ってしまった。
午前の体力錬成。午後の読み書きと作法。さらに夕食後には、エレノアから言葉遣いの復習まで受けた。まだ痩せた身体には、どれも重すぎる負荷だったのだろう。眠る直前まで「明日は、今日より……」と呟いていたが、その続きを言う前に、彼女の意識は深く沈んでいった。
大きなベッドの端で、リナは丸くなって眠っている。
屋敷に来る前なら、妹たちの物音ひとつで目を覚ましていた。誰かが咳をすれば飛び起き、外で足音がすれば身体を強張らせ、リリーの熱が上がれば夜明けまで眠れなかった。
けれど今夜のリナは、動かなかった。
それほど疲れていた。
「……リナ、寝ちゃったね」
ルーナが、小さな声で言った。
部屋には、柔らかな灯りがともっている。
先週までの肌にまとわりつくような異常な熱気が嘘のように、今夜は急に空気が冷え込んでいた。
メイは、壁際に設えられた立派な暖炉へ視線を向けた。
その奥で、オレンジ色の小さな火が揺れているからだ。
路地裏で身を寄せ合った焚き火のように、煙で目が痛くなることも、爆ぜた灰が飛んでくることもない。薪が減る気配すらない。
ただ、見えない温かい息を吐き出すように、部屋の空気を温め続けている。
メイはその「火の形をした何か」の正体を知らない。自分たちが今、どれほど高度で異常な空間に保護されているのか、その真の意味を理解するには、彼女たちはまだ知識を持たなかった。
だからこそ、ただ与えられた清潔な寝具と温もりが、今は少しだけ恐ろしかった。
「当たり前でしょ。朝からずっと動いてたんだから」
それなのに、メイの表情は晴れなかった。
「でも……リナお姉ちゃん、夕ご飯の時も笑ってたよ」
ココが不安そうに言った。
メイは、リナの寝顔を見つめた。
リナは眠っているのに、眉間にわずかな皺を寄せていた。手は胸元で握られ、何かを失くさないように守っているようだった。
「笑ってたけど、あれは……本当に嬉しくて笑ってた顔じゃない」
静かな声がした。
寝台の反対側、医務室から戻されたばかりのリリーが、枕に背を預けていた。まだ頬は薄く、声もかすれている。だが、目だけははっきりと冴えていた。
「リリー、起きてたの?」
ルーナが慌てて身を寄せる。
「うん。少しだけ」
「寝てなきゃだめだよ。ファリナさんに怒られる」
「怒られるほど動いてないよ」
リリーは小さく笑った。けれど、その笑みはすぐに消えた。
「ねえ、みんな。リナ、毎日あんなふうに訓練してるの?」
メイは黙った。
ルーナもココも、互いの顔を見合わせる。
「……うん」
やがて、ココが小さく頷いた。
「朝、庭で走ってる。途中で苦しそうになるけど、サントスさんが止めるまでやめないの」
「お昼は、エレノアさんと字のお勉強してる」
ルーナが続けた。
「リナお姉ちゃん、昨日、『かぞく』って書けたんだよ。すごく、すごくゆっくりだけど」
「それから作法も」
メイが低く言った。
「食べ方、立ち方、話し方。全部。リナは、私たちが寝てる間にも復習してる」
リリーは、リナの手を見た。
指先には、薄くなったインクの跡が残っている。硬い床で細工物を作っていた頃の傷もまだ消えていない。その手が今は、文字を覚え、ナイフとフォークを持ち、訓練で地面を掴んでいる。
「……私たち、助かったんだよね」
リリーが言った。
誰も答えなかった。
「温かい部屋にいる。ご飯もある。薬もある。リナは、私たちのために契約した」
「リリー」
メイが少し強い声を出した。
「それは、リナが決めたことでしょ。私たちが勝手に何かしたら、リナの邪魔になるかもしれない」
「うん。そうかもしれない」
リリーは素直に頷いた。
「でも、このままでいいのかな」
その言葉は、部屋の空気を少しだけ冷たくした。
ルーナが、膝の上の毛布をぎゅっと握る。
「このままって?」
「リナが痛い思いをして、私たちは温かいご飯を食べて、寝て、元気になる。それで、リナが帰ってきたら『ありがとう』って言うだけ」
リリーは、眠るリナから視線を外さなかった。
「それって、リナがずっと一人で代金を払ってるみたい」
「代金……」
ココが不安そうに呟く。その言葉の重みに耐えかねたように、メイはぎゅっと唇を噛んだ。
暖炉の薪が爆ぜる音が、不自然なほど大きく部屋に響く。与えられた柔らかい毛布も、清潔な空気も、今はなぜか自分たちを責め立てるように感じられた。
「でも、私たちに何ができるの。リリーはまだ病み上がり。ルーナとココは小さい。私だって、文字もろくに読めない。勝手に動いて迷惑をかけたら、それこそリナが困る」
「うん。だから、ルーカス様に聞こうと思った」
リリーはそう言って、少しだけ身体を起こそうとした。メイが慌てて背中を支える。
「でも、ルーカス様、今夜はいないんでしょ?」
ルーナが言った。
「エレノアさんが言ってた。学園ていう、別の場所に行ってるって」
「うん。だから、今すぐは聞けない」
リリーは息を整えた。
「でも、聞く前に、私たちが何も考えてなかったらだめだと思う」
「何を?」
メイが問う。
リリーは少し黙ってから、答えた。
「私たちに、何ができないのか」
その言葉に、メイの眉がわずかに動いた。
「……できることじゃなくて?」
「うん。できることなんて、今はほとんどないよ」
リリーは苦笑した。
「私はまだ長く立てない。ルーナはすぐ泣いちゃう。ココは小さすぎる。メイは……」
「何よ」
「一番しっかりしてるけど、一番怖がり」
メイは言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。
リリーの言う通りだったからだ。
「だから、まず、できないことを知りたい。リナが毎日、自分の身体がどれだけ動かないか知ってるみたいに。私たちも、自分が何を知らないのか、何ができないのか、知るところから始めたい」
部屋に、深い静寂が降りた。
悲観しての言葉ではない。それは路地裏を生き抜いてきた彼女たちが持つ、ひどく現実的で、確かな決意だった。
ぱちり、と暖炉の火が小さな音を立て、揺れるオレンジ色の光が四人の顔を照らし出す。
沈黙を破るように、ルーナがおずおずと、けれど真っ直ぐに手を上げた。
「わたし……泣かない練習、する」
メイは思わず顔を上げた。
ルーナは目に涙をためていたが、懸命にこぼさないようにしていた。
「リナお姉ちゃんが痛そうな時、わたしが泣いたら、リナお姉ちゃん、きっと困るから。泣きそうになっても、ちゃんと息を吸う」
「……私は」
ココが小さな手を胸に当てた。
「字、覚える。リナお姉ちゃんが書いた『かぞく』、わたしも書きたい」
メイは黙っていた。
三人の視線が、彼女に集まる。
「……私は、数える」
やがて、メイは低く言った。
「回数とか、時間とか、食べたものとか。リナがどれだけ頑張ったか、ちゃんと覚えておく。誰かが間違えたら、直せるように」
リリーが微笑んだ。
「メイらしい」
「うるさい」
メイはそっぽを向いた。けれど、頬は少し赤かった。
「リリーは?」
ココが尋ねる。
リリーは自分の胸に手を当てた。まだ呼吸は浅い。少し話しただけで、身体の奥が熱くなる。
「私は……声を出す」
「声?」
「うん。まだ小さい声だけど。リナが歌うなら、私はリナの声を忘れないようにする。リナが苦しそうな時、ちゃんと気づけるようにする。……それから、いつか、一緒に歌えるようになりたい」
ルーナの目が輝いた。
「一緒に?」
「うん。リナだけじゃなくて、みんなで」
その瞬間、眠っていたリナが小さく身じろぎした。
妹たちは一斉に息を止めた。
リナは目を覚まさなかった。ただ、無意識に毛布を握り直し、小さく呟いた。
「……だいじょうぶ……だから……」
絞り出すようなその寝言に、ルーナの大きな瞳から、こらえきれずに涙がこぼれ落ちた。
メイも、ココも、リリーも、何も言わなかった。ただ、眠る長女の小さな背中を、祈るように見つめていた。
大丈夫。
リナはいつもそう言う。笑って、妹たちを安心させるために。
けれど、今夜だけは、その不器用な優しさが少しだけ痛かった。
「……明日」
リリーが囁いた。
「リナが発声の練習をするなら、私たちも見せてもらおう。できるなら、少しだけ真似してみよう」
「勝手に?」
メイが不安げに言う。
「勝手にはしない。サントスさんに聞く。だめなら、見るだけ。でも……何もしないでいるのは、もうやめたい」
ルーナとココが頷いた。
メイはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった。明日、私が回数を数える」
リリーは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、メイ」
「別に。リナのためだから」
「うん」
リリーは、眠るリナに視線を戻した。
「リナだけに、背負わせない」
その言葉は、あまりにも小さく、暖炉の音に溶けてしまいそうだった。
けれど、その夜、五人姉妹の間に初めて、リナ一人ではない未来の形が生まれた。
それはまだ契約でも、命令でも、訓練計画でもなかった。
ただの小さな話し合い。
けれど、彼女たちにとっては、自分たちの足でルーカスの重力圏に踏み込む、最初の一歩だった。
・・・・・
・・・
翌朝。
別邸は、いつもより慌ただしかった。
校外実習の一環として戻ってきた王族と貴族子女たちへの対応。西翼ではウォーレン先任曹長の怒号が響き、東翼ではヒルダの指揮の下、使用人たちが寸分の狂いもなく動いている。エレノアもセリーヌも、各所の調整に追われていた。
そのため、中庭の訓練区画にいたのは、サントス軍曹と数名の兵士、そして小型化したクインだけだった。
リナは、灰色の運動着に身を包み、裸足で土の上に立っていた。
「腹だ。喉だけで出すな」
サントスの声が飛ぶ。
「息を吸え。肩を上げるな。腹の底に落とせ。吐く時に音を乗せろ」
リナは大きく息を吸った。
「──ッ、あッ、アッ、aッ、ahッ、Ahッ!」
短く、鋭い声が空気を裂いた。
歌ではない。
祈りでもない。
ただ、声を身体の底から外へ叩き出すための訓練。
ルーカスはそれを「声を楽器にするための、土台の工事」と呼んだ。
リナはまだ、その意味を完全には分かっていない。だが、繰り返すたびに、自分の身体の奥に知らない場所があることだけは分かってきた。喉だけで叫べばすぐ痛む。腹から出せば、声は遠くまで飛ぶ。
「次。十回」
「はい!」
リナが再び息を吸おうとした時、中庭の端に四つの小さな影が現れた。
メイ、ルーナ、ココ。そして、メイに支えられたリリーだった。
「……リリー!?」
リナの顔色が変わる。
「何してるの。まだ寝てなきゃだめでしょ!」
「立ってるだけだよ」
リリーは少し息を切らしながらも、穏やかに笑った。
「ファリナさんには、少しなら歩いていいって言われた」
「でも……」
「リナ」
メイが一歩前に出た。
「サントスさんに聞きに来たの。私たちも、少しだけ見てもいいかって」
サントスは腕を組み、四人を見下ろした。
「見学だけなら構わん。だが、訓練の邪魔をするな。リリー、お前は椅子に座れ。立ったままの参加は許可しない」
近くの兵士がすぐに簡易椅子を運んできた。リリーは素直に腰を下ろす。
「ありがとうございます」
サントスは短く頷いた。
「それで? 見るだけか」
リリーはサントスを見上げた。
その瞳はまだ病み上がりの弱さを残していたが、奥には静かな意志が宿っていた。
「できるなら、少しだけ、真似をしてみたいです」
リナが息を呑んだ。
「リリー!」
「リナだけに、全部背負わせたくないの」
リリーの声は小さかった。
けれど、中庭の空気を確かに震わせた。
「私たちは、助けてもらいました。でも、助けてもらったまま、何も知らないままでいるのは嫌です。走ったりはできません。でも、声を出すことなら、少しだけできるかもしれない」
ルーナが続いた。
「わたしも、泣かない練習する。声、出す」
ココも両手を握った。
「わたしも『あ』って言う」
メイは少し照れたように視線を逸らしながら言った。
「私は、回数を数える。あと、水を渡す。誰かが無理したら止める」
リナは何も言えなかった。
嬉しい。
でも怖い。
自分が選んだ道に、妹たちを巻き込んでしまうようで。
「……だめだよ。これは、私の契約で」
「違う」
リリーが遮った。
珍しく、強い声だった。
「リナが契約したから、私たちは助かった。でも、私たちの未来も、その契約の中にあるんでしょ? だったら、私たちは何も知らないままじゃだめ」
リナの胸が詰まった。
リリーは、あの執務室でのやり取りを知らない。ルーカスがどんな言葉で自分を道具と呼び、どんな冷たい契約を突きつけたかも知らない。
それでも、本質だけは見抜いていた。
自分たちは、リナの荷物ではない。
家族なのだと。
サントスが、短く息を吐いた。
「よし。許可する。ただし条件がある」
四人が一斉に姿勢を正す。
「リリー。お前は椅子から立つな。息が乱れたら即終了。ルーナ、泣くなとは言わん。泣いても声は出せ。ココ、クインの唸り声は真似するな。喉を壊す。メイ、お前は回数を数えろ。全員の顔色を見ろ。異常があれば即座に報告しろ」
「はい!」
四人の声が、不揃いに重なった。
クインが「ワンッ」と鳴いた。
まるで、自分も監督の一員だと言わんばかりだった。
サントスはリナに向き直る。
「リナ。お前の訓練は続行だ。こいつらに気を取られすぎるな。ただし、見られていることは忘れるな」
「……はい」
リナは震える息を整えた。
妹たちが見ている。
それは重圧だった。
同時に、背中を支える手でもあった。
「腹からだ」
サントスが言う。
リナは大きく息を吸った。
「──Ahッ!」
空気が震える。
「一」
メイが数えた。
ルーナが続けて、少し遅れて声を出す。
「あ、あっ」
ココも真似る。
「あー!」
「短く。叫ぶな」
サントスが即座に修正する。
ココは慌てて口を押さえた。
リリーは椅子に座ったまま、ゆっくり息を吸った。
「……あ」
それは、風に消えそうなほど小さな声だった。
だが、リナには確かに聞こえた。
リナの目が揺れる。
「止まるな」
サントスの声が飛ぶ。
「はい!」
リナはもう一度、声を放った。
「Ahッ!」
「二」
メイが数える。
クインが低く「グルル」と拍子を取る。
「クイン、唸りすぎるな。ココが真似る」
サントスが言うと、クインは不満げに鼻を鳴らした。
その光景に、ルーナが笑いかけた。泣きそうだった顔が、少しだけ緩む。
リナはその笑顔を見て、胸の奥が熱くなった。
一人ではない。
今まで、自分が守る側で、妹たちは守られる側だと思っていた。
けれど違う。
この小さな声たちは、自分を支えている。
まだ弱く、ばらばらで、歌には程遠い。
それでも、確かに同じ方向を向いている。
「次。五人で一回だけ合わせろ」
サントスが言った。
「無理に大きくするな。息を合わせろ。声を揃えるのではない。呼吸を揃えろ」
リナは妹たちを見た。
メイが頷く。
ルーナが涙を拭く。
ココが背筋を伸ばす。
リリーが小さく笑う。
リナは息を吸った。
四人も、それに合わせて息を吸う。
「──あ」
五つの声が、朝の中庭に落ちた。
不格好だった。
音程も合っていない。大きさもばらばら。リリーの声はかすれ、ココの声は少し遅れ、ルーナは途中で震えた。
それでも、リナはその瞬間、なぜか泣きそうになった。
「……悪くない」
サントスが言った。
その短い言葉に、五人の顔が一斉に明るくなった。
クインが誇らしげに胸を張る。
「ただし、歌ではない。まだ声にもなっていない。今のは、声の前の呼吸だ」
サントスは容赦なく続けた。
「だが、呼吸が合わなければ、何も始まらない。もう一度」
「はい!」
今度の返事は、少しだけ揃っていた。
・・・・・
・・・
キャリッジ・ポーチでギターの凶暴な咆哮を浴び、興奮冷めやらぬままサロンへ戻ってきたアンジェリカだったが、再び机に向かうと、羽根ペンはまたしてもぴたりと止まってしまった。
「……だめね」
「アンジェリカ様?」
「さっきのあの子の音は、凄かったわ。でも、あれはまだ『叫び』の箱。私の言葉を乗せて走ってくれる『声』が、まだ足りないの」
彼女が溜息をついた、その時だった。
開け放たれたテラスの向こう、中庭の方から、不器用な声が届いた。
「──あ」
サロンの窓辺で、アンジェリカは羽根ペンを握りしめたまま、ぴたりと固まった。
「……何かしら、あの声」
彼女は身を乗り出す。
「歌……ではないわよね?」
ミリアリアが、機材目録から顔を上げた。
中庭から聞こえてくるのは、旋律ではなかった。
短く、鋭く、時にかすれ、時に跳ねる声。
ひとつではない。
いくつもの小さな声が、何とか同じ場所へ届こうとしている。
「……訓練の声、でしょうか」
「でも、なんだか……走っているみたい」
アンジェリカは呟いた。
紙の上で転んでいた自分の言葉たちが、今、窓の外の声に引っ張られるように動き出すのを感じた。
「見に行くわ!」
「アンジェリカ様、待ってくださいませ。勝手に中庭へ出るのは──」
「だって、あの声、今じゃなきゃ逃げちゃう!」
ミリアリアが止めるより早く、アンジェリカはスカートを持ち上げ、テラスへ飛び出していた。
「……本当に、どうしてこうも皆様、トレンス侯爵の屋敷では常識を脱ぎ捨てるのかしら」
ミリアリアは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
しかし、彼女もまた目録と羊皮紙を抱え、アンジェリカの後を追った。
中庭では、リナたち五人が、サントスの前で不格好な発声練習を続けていた。
リナは汗を浮かべ、顔を真っ赤にしている。メイは真剣に回数を数え、ルーナは泣きそうになりながらも声を出し、ココはクインに合わせて姿勢を直そうとしている。リリーは椅子に座ったまま、細い喉で小さな声を重ねていた。
アンジェリカは、その光景を見た瞬間、足を止めた。
「……五つ」
「アンジェリカ様?」
「五つの声だわ。まだばらばらなのに、同じところへ行こうとしてる」
彼女の瞳が、朝の光を受けて輝く。
「あなたたち!」
突然の明るい声に、リナたちが一斉に振り返った。
リナの顔から血の気が引く。
そこにいたのは、絵物語から抜け出してきたような高貴な令嬢だった。朝の光を弾く柔らかな髪、一切の汚れを知らない上質なドレス。泥まみれで汗を流す自分たちとは、明らかに生きる世界が違う存在だった。その曇りのない瞳が、熱を帯びてこちらを真っ直ぐに射抜いている。
畏れから、リナは反射的に土の上に膝を折ろうとした。
「ひ……っ。申し訳ありません、騒がしく──」
「ワンッ!」
クインが鋭く鳴いた。
ビクリと肩を跳ねさせ、リナの背筋が反射的に伸びる。クインはじっとリナを見ていた。まるで、姿勢を崩すな、訓練を止めるな、と言っているかのように。
サントスも腕を組んだまま言った。
「訓練中だ。許可なく跪くな」
「は、はい!」
アンジェリカは目を丸くした。
「まあ、クインってば厳しいのね」
ミリアリアが追いつき、息を整えながら状況を確認する。
「失礼。こちらは訓練中ですの?」
「発声訓練です。リナは正式訓練。妹たちは見学および軽度参加。監督下にあります」
「妹たち……」
ミリアリアの視線が、リリーたちへ向いた。
彼女はすぐに察した。
これは、予定された披露ではない。
完成された芸ではない。
まだ名もない、訓練の端で生まれた小さな芽だ。
アンジェリカは、そんな細かい事情など気にも留めず、リナの前へ駆け寄った。
「ねえ、あなた。さっきの声、何?」
リナは困惑した。
「声……ですか?」
「そう! 歌じゃないのに、胸の奥を叩くみたいだったわ」
「これは、その……ルーカス様から、『声を楽器にするための、土台の工事』だと。私はまだ、歌えるようなものではなくて……」
「声を楽器にする……土台の工事……」
アンジェリカはその言葉を口の中で転がした。
「素敵」
「え?」
「とても素敵だわ。楽器って、磨く前はただの木や金属でしょう? でも、磨いて、削って、張って、調律して、ようやく音が出る。あなたたちは今、自分たちを作っているのね」
リナは答えられなかった。
そんなふうに考えたことはなかった。
自分たちはまだ、何者でもない。ただ弱くて、必死で、ルーカスの命じた訓練をこなしているだけだ。
だが、アンジェリカの目には、そう見えていない。
「教えて」
アンジェリカは芝生の上に膝をついた。
ミリアリアが小さく悲鳴を上げる。
「アンジェリカ様! ドレスが!」
「後で洗えばいいわ。それより、教えて」
アンジェリカは、リナだけでなく、リリーたちも見た。
「あなたたちの心臓は、今、なんて言っているの?」
その問いに、五人は息を呑んで黙り込んだ。
朝の風が芝生を揺らす音だけが、不自然なほど大きく響く。
これまで路地裏で「何を盗んだか」「何を知っているか」と詰め寄られることはあっても、「心臓が何を言っているか」などと問われたことは一度もなかった。あまりにも唐突で、あまりにも真っ直ぐな問いだった。
メイが警戒するように、さっとリナの前へ半歩出る。
「……それを聞いて、どうするんですか」
「書くの」
アンジェリカは即答した。
「ルーカスが、心臓を出せって言ったの。さっきの楽器の音で、私の言葉は起き上がったわ。でも、まだ歩けないの。あなたたちの声には、その足がある気がするの」
「足……?」
ココが首を傾げた。
リリーが静かにアンジェリカを見つめた。
「……私たちの声は、まだ歌じゃありません」
「うん」
「とても小さくて、すぐ消えます」
「うん」
「それでも、いいんですか」
アンジェリカは、迷いなく頷いた。
「消える前の声だから、聞きたいの」
リリーは少しだけ目を伏せた。
リナは戸惑いながらも、胸の奥から言葉を探した。
一番に浮かぶもの。
嫌なことでも、嬉しいことでもいい。
心臓が言っていること。
「……お腹が、空いていた」
リナの声はかすれていた。
「ずっと。いつも。何をしてても、妹たちに何を食べさせるか考えてた。自分が食べたいより、妹たちが泣かないようにって」
アンジェリカの羽根ペンが、乾いた音を立てて羊皮紙の上を動いた。
「空腹」
リナは、ゆっくりと息を吐き出しながら続けた。
「でも、ここに来て、初めて……お腹がいっぱいだと、怖いことを考える力が少し減るって知りました」
ピタリと、ペンの音が止んだ。
アンジェリカの目が大きく見開かれ、吸いかけた息がその喉の奥で止まる。ミリアリアもまた、羊皮紙を抱きかかえたまま何も言えなかった。
彼女たちにとって「空腹」とは、辞書に載っている言葉か、施しを与える対象でしかなかった。「恐怖を減らすための条件」としての圧倒的な実感を伴うその言葉を、彼女たちは聞いたことがなかった。
リリーが、ゆっくりと言った。
「私は、リナが笑っていない時の笑顔が嫌です」
リナが振り返る。
「リリー……」
「リナが大丈夫って言う時ほど、大丈夫じゃないから。だから、私はリナが本当に笑う声を覚えたい」
アンジェリカのペンが再び走る。
メイは少し迷ったが、低く言った。
「私は、数えたい。なくなったものじゃなくて、増えたものを。今日できたことを。リナが昨日より進んだ分を」
ルーナは涙をこらえながら言った。
「私は、泣いても、声を出したい。泣いたら何もできなくなるの、もう嫌だから」
ココは小さな手を上げた。
「私は、みんなで『あ』って言った時、ちょっと楽しかった」
その言葉に、リナはつい笑ってしまった。
リリーも、メイも、ルーナも、少しだけ笑った。
アンジェリカは、その笑いを見て、胸を押さえた。
「……ミリー」
「はい」
「これよ」
アンジェリカの声は震えていた。
「綺麗なお歌に足りなかったのは、これだわ。飢えて、怖くて、泣きそうで、それでも誰かと息を合わせようとする声」
ミリアリアは、羊皮紙の上に走るアンジェリカの文字を見た。
荒い。
あまりにも荒い。
けれど、先ほどまでの言葉とは違う。
紙の上で、確かに走り始めていた。
「……確かに」
ミリアリアは静かに言った。
「これは、ただの練習ではありませんわね」
サントスが腕を組んだまま、短く告げる。
「訓練です。感傷ではありません」
「ええ、承知しております」
ミリアリアは微笑んだ。
「ですが、感傷を動かせる訓練は、強いですわ」
アンジェリカは勢いよく立ち上がった。
「リナ! もう一度、さっきの声を聞かせて。五人で!」
リナは戸惑いながらサントスを見た。
サントスは少しだけ考えた後、頷いた。
「一回だけだ。リリー、無理をするな。メイ、数えろ。ルーナ、泣いても息は止めるな。ココ、クインの真似はするな。リナ、軸を取れ」
「はい」
五人が並ぶ。
正確には、リリーは椅子に座ったままだ。ココは少し前に出すぎて、メイに袖を引かれた。ルーナはすでに泣きそうで、リナは緊張で肩が上がっている。
クインが、リナの足元で小さく鼻を鳴らした。
リナは息を吸う。
妹たちも、それに合わせる。
アンジェリカは羽根ペンを構えた。
ミリアリアは静かに見守る。
サントスは、訓練場の指導者として、ただ一言告げた。
「吐け」
サントスの声を引き金に、五人が一斉に腹の底の空気を押し出す。
「──あ」
五つの声が、朝の中庭の冷たい空気を震わせた。
まだ、歌ではない。
音程も、響きも、呼吸の深さも、何もかも未完成で不格好だった。
けれど、その声には、昨日までの飢えと、今日の温もりと、明日への恐怖と、家族を手放さないという小さな決意が、生々しく混ざり合って飛んでいた。
カリカリと、何かに憑かれたようにアンジェリカのペンが羊皮紙の上を走る。
ミリアリアは、荒々しく綴られていくその文字を見下ろしながら、静かに息を呑んだ。
ルーカスがこの少女たちを使って何を作ろうとしているのか、彼女にはまだ分からない。だが、今この瞬間、自分たちは間違いなく「何かの始まり」を目撃している。それだけは、理屈ではなく肌で感じられた。
クインが満足げに尻尾を振る。
リナは、息を切らしながら、妹たちを見た。
リリーが微笑む。
メイが小さく頷く。
ルーナが泣きながら笑う。
ココが、もう一度やりたそうに口を開きかけ、サントスに睨まれて慌てて閉じる。
リナは、胸の奥に初めて、訓練とは違う熱が灯るのを感じた。
自分だけではない。自分たちの声がある。まだ小さい。まだ弱い。まだ名もない。
けれど、確かにそこにある。
アンジェリカは、羊皮紙に最後の一行を書きつけた。
──空腹は、歌になる。
その言葉が、この五人姉妹の未来をどこへ連れていくのか。
その場にいた誰一人として、まだ知らなかった。