剣と魔術とライフルと   作:あききし

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幕間 小さな声は、まだ歌にならない

 

 

幕間 小さな声は、まだ歌にならない

 

 

その夜、リナは部屋に戻るなり、ベッドへ倒れ込むように眠ってしまった。

 

午前の体力錬成。午後の読み書きと作法。さらに夕食後には、エレノアから言葉遣いの復習まで受けた。まだ痩せた身体には、どれも重すぎる負荷だったのだろう。眠る直前まで「明日は、今日より……」と呟いていたが、その続きを言う前に、彼女の意識は深く沈んでいった。

 

大きなベッドの端で、リナは丸くなって眠っている。

 

屋敷に来る前なら、妹たちの物音ひとつで目を覚ましていた。誰かが咳をすれば飛び起き、外で足音がすれば身体を強張らせ、リリーの熱が上がれば夜明けまで眠れなかった。

 

けれど今夜のリナは、動かなかった。

それほど疲れていた。

 

「……リナ、寝ちゃったね」

 

ルーナが、小さな声で言った。

 

部屋には、柔らかな灯りがともっている。

先週までの肌にまとわりつくような異常な熱気が嘘のように、今夜は急に空気が冷え込んでいた。

 

メイは、壁際に設えられた立派な暖炉へ視線を向けた。

その奥で、オレンジ色の小さな火が揺れているからだ。

路地裏で身を寄せ合った焚き火のように、煙で目が痛くなることも、爆ぜた灰が飛んでくることもない。薪が減る気配すらない。

ただ、見えない温かい息を吐き出すように、部屋の空気を温め続けている。

メイはその「火の形をした何か」の正体を知らない。自分たちが今、どれほど高度で異常な空間に保護されているのか、その真の意味を理解するには、彼女たちはまだ知識を持たなかった。

だからこそ、ただ与えられた清潔な寝具と温もりが、今は少しだけ恐ろしかった。

 

「当たり前でしょ。朝からずっと動いてたんだから」

 

それなのに、メイの表情は晴れなかった。

 

「でも……リナお姉ちゃん、夕ご飯の時も笑ってたよ」

 

ココが不安そうに言った。

 

メイは、リナの寝顔を見つめた。

リナは眠っているのに、眉間にわずかな皺を寄せていた。手は胸元で握られ、何かを失くさないように守っているようだった。

 

「笑ってたけど、あれは……本当に嬉しくて笑ってた顔じゃない」

 

静かな声がした。

 

寝台の反対側、医務室から戻されたばかりのリリーが、枕に背を預けていた。まだ頬は薄く、声もかすれている。だが、目だけははっきりと冴えていた。

 

「リリー、起きてたの?」

 

ルーナが慌てて身を寄せる。

 

「うん。少しだけ」

 

「寝てなきゃだめだよ。ファリナさんに怒られる」

 

「怒られるほど動いてないよ」

 

リリーは小さく笑った。けれど、その笑みはすぐに消えた。

 

「ねえ、みんな。リナ、毎日あんなふうに訓練してるの?」

 

メイは黙った。

ルーナもココも、互いの顔を見合わせる。

 

「……うん」

 

やがて、ココが小さく頷いた。

 

「朝、庭で走ってる。途中で苦しそうになるけど、サントスさんが止めるまでやめないの」

 

「お昼は、エレノアさんと字のお勉強してる」

 

ルーナが続けた。

 

「リナお姉ちゃん、昨日、『かぞく』って書けたんだよ。すごく、すごくゆっくりだけど」

 

「それから作法も」

 

メイが低く言った。

 

「食べ方、立ち方、話し方。全部。リナは、私たちが寝てる間にも復習してる」

 

リリーは、リナの手を見た。

 

指先には、薄くなったインクの跡が残っている。硬い床で細工物を作っていた頃の傷もまだ消えていない。その手が今は、文字を覚え、ナイフとフォークを持ち、訓練で地面を掴んでいる。

 

「……私たち、助かったんだよね」

 

リリーが言った。

誰も答えなかった。

 

「温かい部屋にいる。ご飯もある。薬もある。リナは、私たちのために契約した」

 

「リリー」

 

メイが少し強い声を出した。

 

「それは、リナが決めたことでしょ。私たちが勝手に何かしたら、リナの邪魔になるかもしれない」

 

「うん。そうかもしれない」

 

リリーは素直に頷いた。

 

「でも、このままでいいのかな」

 

その言葉は、部屋の空気を少しだけ冷たくした。

 

ルーナが、膝の上の毛布をぎゅっと握る。

 

「このままって?」

 

「リナが痛い思いをして、私たちは温かいご飯を食べて、寝て、元気になる。それで、リナが帰ってきたら『ありがとう』って言うだけ」

 

リリーは、眠るリナから視線を外さなかった。

 

「それって、リナがずっと一人で代金を払ってるみたい」

 

「代金……」

 

ココが不安そうに呟く。その言葉の重みに耐えかねたように、メイはぎゅっと唇を噛んだ。

暖炉の薪が爆ぜる音が、不自然なほど大きく部屋に響く。与えられた柔らかい毛布も、清潔な空気も、今はなぜか自分たちを責め立てるように感じられた。

 

「でも、私たちに何ができるの。リリーはまだ病み上がり。ルーナとココは小さい。私だって、文字もろくに読めない。勝手に動いて迷惑をかけたら、それこそリナが困る」

 

「うん。だから、ルーカス様に聞こうと思った」

 

リリーはそう言って、少しだけ身体を起こそうとした。メイが慌てて背中を支える。

 

「でも、ルーカス様、今夜はいないんでしょ?」

 

ルーナが言った。

 

「エレノアさんが言ってた。学園ていう、別の場所に行ってるって」

 

「うん。だから、今すぐは聞けない」

 

リリーは息を整えた。

 

「でも、聞く前に、私たちが何も考えてなかったらだめだと思う」

 

「何を?」

 

メイが問う。

 

リリーは少し黙ってから、答えた。

 

「私たちに、何ができないのか」

 

その言葉に、メイの眉がわずかに動いた。

 

「……できることじゃなくて?」

 

「うん。できることなんて、今はほとんどないよ」

 

リリーは苦笑した。

 

「私はまだ長く立てない。ルーナはすぐ泣いちゃう。ココは小さすぎる。メイは……」

 

「何よ」

 

「一番しっかりしてるけど、一番怖がり」

 

メイは言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。

リリーの言う通りだったからだ。

 

「だから、まず、できないことを知りたい。リナが毎日、自分の身体がどれだけ動かないか知ってるみたいに。私たちも、自分が何を知らないのか、何ができないのか、知るところから始めたい」

 

部屋に、深い静寂が降りた。

悲観しての言葉ではない。それは路地裏を生き抜いてきた彼女たちが持つ、ひどく現実的で、確かな決意だった。

ぱちり、と暖炉の火が小さな音を立て、揺れるオレンジ色の光が四人の顔を照らし出す。

沈黙を破るように、ルーナがおずおずと、けれど真っ直ぐに手を上げた。

 

「わたし……泣かない練習、する」

 

メイは思わず顔を上げた。

ルーナは目に涙をためていたが、懸命にこぼさないようにしていた。

 

「リナお姉ちゃんが痛そうな時、わたしが泣いたら、リナお姉ちゃん、きっと困るから。泣きそうになっても、ちゃんと息を吸う」

 

「……私は」

 

ココが小さな手を胸に当てた。

 

「字、覚える。リナお姉ちゃんが書いた『かぞく』、わたしも書きたい」

 

メイは黙っていた。

三人の視線が、彼女に集まる。

 

「……私は、数える」

 

やがて、メイは低く言った。

 

「回数とか、時間とか、食べたものとか。リナがどれだけ頑張ったか、ちゃんと覚えておく。誰かが間違えたら、直せるように」

 

リリーが微笑んだ。

 

「メイらしい」

 

「うるさい」

 

メイはそっぽを向いた。けれど、頬は少し赤かった。

 

「リリーは?」

 

ココが尋ねる。

リリーは自分の胸に手を当てた。まだ呼吸は浅い。少し話しただけで、身体の奥が熱くなる。

 

「私は……声を出す」

 

「声?」

 

「うん。まだ小さい声だけど。リナが歌うなら、私はリナの声を忘れないようにする。リナが苦しそうな時、ちゃんと気づけるようにする。……それから、いつか、一緒に歌えるようになりたい」

 

ルーナの目が輝いた。

 

「一緒に?」

 

「うん。リナだけじゃなくて、みんなで」

 

その瞬間、眠っていたリナが小さく身じろぎした。

妹たちは一斉に息を止めた。

リナは目を覚まさなかった。ただ、無意識に毛布を握り直し、小さく呟いた。

 

「……だいじょうぶ……だから……」

 

絞り出すようなその寝言に、ルーナの大きな瞳から、こらえきれずに涙がこぼれ落ちた。

メイも、ココも、リリーも、何も言わなかった。ただ、眠る長女の小さな背中を、祈るように見つめていた。

 

大丈夫。

 

リナはいつもそう言う。笑って、妹たちを安心させるために。

けれど、今夜だけは、その不器用な優しさが少しだけ痛かった。

 

「……明日」

 

リリーが囁いた。

 

「リナが発声の練習をするなら、私たちも見せてもらおう。できるなら、少しだけ真似してみよう」

 

「勝手に?」

 

メイが不安げに言う。

 

「勝手にはしない。サントスさんに聞く。だめなら、見るだけ。でも……何もしないでいるのは、もうやめたい」

 

ルーナとココが頷いた。

 

メイはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「……分かった。明日、私が回数を数える」

 

リリーは嬉しそうに微笑んだ。

 

「ありがとう、メイ」

 

「別に。リナのためだから」

 

「うん」

 

リリーは、眠るリナに視線を戻した。

 

「リナだけに、背負わせない」

 

その言葉は、あまりにも小さく、暖炉の音に溶けてしまいそうだった。

けれど、その夜、五人姉妹の間に初めて、リナ一人ではない未来の形が生まれた。

それはまだ契約でも、命令でも、訓練計画でもなかった。

 

ただの小さな話し合い。

 

けれど、彼女たちにとっては、自分たちの足でルーカスの重力圏に踏み込む、最初の一歩だった。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

翌朝。

 

別邸は、いつもより慌ただしかった。

 

校外実習の一環として戻ってきた王族と貴族子女たちへの対応。西翼ではウォーレン先任曹長の怒号が響き、東翼ではヒルダの指揮の下、使用人たちが寸分の狂いもなく動いている。エレノアもセリーヌも、各所の調整に追われていた。

 

そのため、中庭の訓練区画にいたのは、サントス軍曹と数名の兵士、そして小型化したクインだけだった。

 

リナは、灰色の運動着に身を包み、裸足で土の上に立っていた。

 

「腹だ。喉だけで出すな」

 

サントスの声が飛ぶ。

 

「息を吸え。肩を上げるな。腹の底に落とせ。吐く時に音を乗せろ」

 

リナは大きく息を吸った。

 

「──ッ、あッ、アッ、aッ、ahッ、Ahッ!」

 

短く、鋭い声が空気を裂いた。

歌ではない。

祈りでもない。

ただ、声を身体の底から外へ叩き出すための訓練。

ルーカスはそれを「声を楽器にするための、土台の工事」と呼んだ。

 

リナはまだ、その意味を完全には分かっていない。だが、繰り返すたびに、自分の身体の奥に知らない場所があることだけは分かってきた。喉だけで叫べばすぐ痛む。腹から出せば、声は遠くまで飛ぶ。

 

「次。十回」

 

「はい!」

 

リナが再び息を吸おうとした時、中庭の端に四つの小さな影が現れた。

メイ、ルーナ、ココ。そして、メイに支えられたリリーだった。

 

「……リリー!?」

 

リナの顔色が変わる。

 

「何してるの。まだ寝てなきゃだめでしょ!」

 

「立ってるだけだよ」

 

リリーは少し息を切らしながらも、穏やかに笑った。

 

「ファリナさんには、少しなら歩いていいって言われた」

 

「でも……」

 

「リナ」

 

メイが一歩前に出た。

 

「サントスさんに聞きに来たの。私たちも、少しだけ見てもいいかって」

 

サントスは腕を組み、四人を見下ろした。

 

「見学だけなら構わん。だが、訓練の邪魔をするな。リリー、お前は椅子に座れ。立ったままの参加は許可しない」

 

近くの兵士がすぐに簡易椅子を運んできた。リリーは素直に腰を下ろす。

 

「ありがとうございます」

 

サントスは短く頷いた。

 

「それで? 見るだけか」

 

リリーはサントスを見上げた。

 

その瞳はまだ病み上がりの弱さを残していたが、奥には静かな意志が宿っていた。

 

「できるなら、少しだけ、真似をしてみたいです」

 

リナが息を呑んだ。

 

「リリー!」

 

「リナだけに、全部背負わせたくないの」

 

リリーの声は小さかった。

 

けれど、中庭の空気を確かに震わせた。

 

「私たちは、助けてもらいました。でも、助けてもらったまま、何も知らないままでいるのは嫌です。走ったりはできません。でも、声を出すことなら、少しだけできるかもしれない」

 

ルーナが続いた。

 

「わたしも、泣かない練習する。声、出す」

 

ココも両手を握った。

 

「わたしも『あ』って言う」

 

メイは少し照れたように視線を逸らしながら言った。

 

「私は、回数を数える。あと、水を渡す。誰かが無理したら止める」

 

リナは何も言えなかった。

嬉しい。

でも怖い。

自分が選んだ道に、妹たちを巻き込んでしまうようで。

 

「……だめだよ。これは、私の契約で」

 

「違う」

 

リリーが遮った。

珍しく、強い声だった。

 

「リナが契約したから、私たちは助かった。でも、私たちの未来も、その契約の中にあるんでしょ? だったら、私たちは何も知らないままじゃだめ」

 

リナの胸が詰まった。

 

リリーは、あの執務室でのやり取りを知らない。ルーカスがどんな言葉で自分を道具と呼び、どんな冷たい契約を突きつけたかも知らない。

 

それでも、本質だけは見抜いていた。

自分たちは、リナの荷物ではない。

家族なのだと。

 

サントスが、短く息を吐いた。

 

「よし。許可する。ただし条件がある」

 

四人が一斉に姿勢を正す。

 

「リリー。お前は椅子から立つな。息が乱れたら即終了。ルーナ、泣くなとは言わん。泣いても声は出せ。ココ、クインの唸り声は真似するな。喉を壊す。メイ、お前は回数を数えろ。全員の顔色を見ろ。異常があれば即座に報告しろ」

 

「はい!」

 

四人の声が、不揃いに重なった。

クインが「ワンッ」と鳴いた。

まるで、自分も監督の一員だと言わんばかりだった。

サントスはリナに向き直る。

 

「リナ。お前の訓練は続行だ。こいつらに気を取られすぎるな。ただし、見られていることは忘れるな」

 

「……はい」

 

リナは震える息を整えた。

妹たちが見ている。

それは重圧だった。

同時に、背中を支える手でもあった。

 

「腹からだ」

 

サントスが言う。

リナは大きく息を吸った。

 

「──Ahッ!」

 

空気が震える。

 

「一」

 

メイが数えた。

ルーナが続けて、少し遅れて声を出す。

 

「あ、あっ」

 

ココも真似る。

 

「あー!」

 

「短く。叫ぶな」

 

サントスが即座に修正する。

ココは慌てて口を押さえた。

リリーは椅子に座ったまま、ゆっくり息を吸った。

 

「……あ」

 

それは、風に消えそうなほど小さな声だった。

だが、リナには確かに聞こえた。

リナの目が揺れる。

 

「止まるな」

 

サントスの声が飛ぶ。

 

「はい!」

 

リナはもう一度、声を放った。

 

「Ahッ!」

 

「二」

 

メイが数える。

クインが低く「グルル」と拍子を取る。

 

「クイン、唸りすぎるな。ココが真似る」

 

サントスが言うと、クインは不満げに鼻を鳴らした。

その光景に、ルーナが笑いかけた。泣きそうだった顔が、少しだけ緩む。

リナはその笑顔を見て、胸の奥が熱くなった。

一人ではない。

今まで、自分が守る側で、妹たちは守られる側だと思っていた。

 

けれど違う。

この小さな声たちは、自分を支えている。

まだ弱く、ばらばらで、歌には程遠い。

それでも、確かに同じ方向を向いている。

 

「次。五人で一回だけ合わせろ」

 

サントスが言った。

 

「無理に大きくするな。息を合わせろ。声を揃えるのではない。呼吸を揃えろ」

 

リナは妹たちを見た。

メイが頷く。

ルーナが涙を拭く。

ココが背筋を伸ばす。

リリーが小さく笑う。

リナは息を吸った。

 

四人も、それに合わせて息を吸う。

 

「──あ」

 

五つの声が、朝の中庭に落ちた。

不格好だった。

音程も合っていない。大きさもばらばら。リリーの声はかすれ、ココの声は少し遅れ、ルーナは途中で震えた。

 

それでも、リナはその瞬間、なぜか泣きそうになった。

 

「……悪くない」

 

サントスが言った。

その短い言葉に、五人の顔が一斉に明るくなった。

クインが誇らしげに胸を張る。

 

「ただし、歌ではない。まだ声にもなっていない。今のは、声の前の呼吸だ」

 

サントスは容赦なく続けた。

 

「だが、呼吸が合わなければ、何も始まらない。もう一度」

 

「はい!」

 

今度の返事は、少しだけ揃っていた。

 

 

・・・・・

・・・

 

 

キャリッジ・ポーチでギターの凶暴な咆哮を浴び、興奮冷めやらぬままサロンへ戻ってきたアンジェリカだったが、再び机に向かうと、羽根ペンはまたしてもぴたりと止まってしまった。

 

「……だめね」

「アンジェリカ様?」

「さっきのあの子の音は、凄かったわ。でも、あれはまだ『叫び』の箱。私の言葉を乗せて走ってくれる『声』が、まだ足りないの」

 

彼女が溜息をついた、その時だった。

開け放たれたテラスの向こう、中庭の方から、不器用な声が届いた。

 

「──あ」

 

サロンの窓辺で、アンジェリカは羽根ペンを握りしめたまま、ぴたりと固まった。

 

「……何かしら、あの声」

 

彼女は身を乗り出す。

 

「歌……ではないわよね?」

 

ミリアリアが、機材目録から顔を上げた。

中庭から聞こえてくるのは、旋律ではなかった。

短く、鋭く、時にかすれ、時に跳ねる声。

 

ひとつではない。

いくつもの小さな声が、何とか同じ場所へ届こうとしている。

 

「……訓練の声、でしょうか」

 

「でも、なんだか……走っているみたい」

 

アンジェリカは呟いた。

紙の上で転んでいた自分の言葉たちが、今、窓の外の声に引っ張られるように動き出すのを感じた。

 

「見に行くわ!」

 

「アンジェリカ様、待ってくださいませ。勝手に中庭へ出るのは──」

 

「だって、あの声、今じゃなきゃ逃げちゃう!」

 

ミリアリアが止めるより早く、アンジェリカはスカートを持ち上げ、テラスへ飛び出していた。

 

「……本当に、どうしてこうも皆様、トレンス侯爵の屋敷では常識を脱ぎ捨てるのかしら」

 

ミリアリアは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

しかし、彼女もまた目録と羊皮紙を抱え、アンジェリカの後を追った。

中庭では、リナたち五人が、サントスの前で不格好な発声練習を続けていた。

 

リナは汗を浮かべ、顔を真っ赤にしている。メイは真剣に回数を数え、ルーナは泣きそうになりながらも声を出し、ココはクインに合わせて姿勢を直そうとしている。リリーは椅子に座ったまま、細い喉で小さな声を重ねていた。

 

アンジェリカは、その光景を見た瞬間、足を止めた。

 

「……五つ」

 

「アンジェリカ様?」

 

「五つの声だわ。まだばらばらなのに、同じところへ行こうとしてる」

 

彼女の瞳が、朝の光を受けて輝く。

 

「あなたたち!」

 

突然の明るい声に、リナたちが一斉に振り返った。

 

リナの顔から血の気が引く。

 

そこにいたのは、絵物語から抜け出してきたような高貴な令嬢だった。朝の光を弾く柔らかな髪、一切の汚れを知らない上質なドレス。泥まみれで汗を流す自分たちとは、明らかに生きる世界が違う存在だった。その曇りのない瞳が、熱を帯びてこちらを真っ直ぐに射抜いている。

 

畏れから、リナは反射的に土の上に膝を折ろうとした。

 

「ひ……っ。申し訳ありません、騒がしく──」

 

「ワンッ!」

 

クインが鋭く鳴いた。

ビクリと肩を跳ねさせ、リナの背筋が反射的に伸びる。クインはじっとリナを見ていた。まるで、姿勢を崩すな、訓練を止めるな、と言っているかのように。

 

サントスも腕を組んだまま言った。

 

「訓練中だ。許可なく跪くな」

 

「は、はい!」

 

アンジェリカは目を丸くした。

 

「まあ、クインってば厳しいのね」

 

ミリアリアが追いつき、息を整えながら状況を確認する。

 

「失礼。こちらは訓練中ですの?」

 

「発声訓練です。リナは正式訓練。妹たちは見学および軽度参加。監督下にあります」

 

「妹たち……」

 

ミリアリアの視線が、リリーたちへ向いた。

彼女はすぐに察した。

これは、予定された披露ではない。

完成された芸ではない。

まだ名もない、訓練の端で生まれた小さな芽だ。

 

アンジェリカは、そんな細かい事情など気にも留めず、リナの前へ駆け寄った。

 

「ねえ、あなた。さっきの声、何?」

 

リナは困惑した。

 

「声……ですか?」

 

「そう! 歌じゃないのに、胸の奥を叩くみたいだったわ」

 

「これは、その……ルーカス様から、『声を楽器にするための、土台の工事』だと。私はまだ、歌えるようなものではなくて……」

 

「声を楽器にする……土台の工事……」

 

アンジェリカはその言葉を口の中で転がした。

 

「素敵」

 

「え?」

 

「とても素敵だわ。楽器って、磨く前はただの木や金属でしょう? でも、磨いて、削って、張って、調律して、ようやく音が出る。あなたたちは今、自分たちを作っているのね」

 

リナは答えられなかった。

そんなふうに考えたことはなかった。

自分たちはまだ、何者でもない。ただ弱くて、必死で、ルーカスの命じた訓練をこなしているだけだ。

 

だが、アンジェリカの目には、そう見えていない。

 

「教えて」

 

アンジェリカは芝生の上に膝をついた。

ミリアリアが小さく悲鳴を上げる。

 

「アンジェリカ様! ドレスが!」

 

「後で洗えばいいわ。それより、教えて」

 

アンジェリカは、リナだけでなく、リリーたちも見た。

 

「あなたたちの心臓は、今、なんて言っているの?」

 

その問いに、五人は息を呑んで黙り込んだ。

朝の風が芝生を揺らす音だけが、不自然なほど大きく響く。

これまで路地裏で「何を盗んだか」「何を知っているか」と詰め寄られることはあっても、「心臓が何を言っているか」などと問われたことは一度もなかった。あまりにも唐突で、あまりにも真っ直ぐな問いだった。

メイが警戒するように、さっとリナの前へ半歩出る。

 

「……それを聞いて、どうするんですか」

 

「書くの」

 

アンジェリカは即答した。

 

「ルーカスが、心臓を出せって言ったの。さっきの楽器の音で、私の言葉は起き上がったわ。でも、まだ歩けないの。あなたたちの声には、その足がある気がするの」

 

「足……?」

 

ココが首を傾げた。

 

リリーが静かにアンジェリカを見つめた。

 

「……私たちの声は、まだ歌じゃありません」

 

「うん」

 

「とても小さくて、すぐ消えます」

 

「うん」

 

「それでも、いいんですか」

 

アンジェリカは、迷いなく頷いた。

 

「消える前の声だから、聞きたいの」

 

リリーは少しだけ目を伏せた。

リナは戸惑いながらも、胸の奥から言葉を探した。

一番に浮かぶもの。

嫌なことでも、嬉しいことでもいい。

心臓が言っていること。

 

「……お腹が、空いていた」

 

リナの声はかすれていた。

 

「ずっと。いつも。何をしてても、妹たちに何を食べさせるか考えてた。自分が食べたいより、妹たちが泣かないようにって」

 

アンジェリカの羽根ペンが、乾いた音を立てて羊皮紙の上を動いた。

 

「空腹」

 

リナは、ゆっくりと息を吐き出しながら続けた。

 

「でも、ここに来て、初めて……お腹がいっぱいだと、怖いことを考える力が少し減るって知りました」

 

ピタリと、ペンの音が止んだ。

アンジェリカの目が大きく見開かれ、吸いかけた息がその喉の奥で止まる。ミリアリアもまた、羊皮紙を抱きかかえたまま何も言えなかった。

彼女たちにとって「空腹」とは、辞書に載っている言葉か、施しを与える対象でしかなかった。「恐怖を減らすための条件」としての圧倒的な実感を伴うその言葉を、彼女たちは聞いたことがなかった。

リリーが、ゆっくりと言った。

 

「私は、リナが笑っていない時の笑顔が嫌です」

 

リナが振り返る。

 

「リリー……」

 

「リナが大丈夫って言う時ほど、大丈夫じゃないから。だから、私はリナが本当に笑う声を覚えたい」

 

アンジェリカのペンが再び走る。

メイは少し迷ったが、低く言った。

 

「私は、数えたい。なくなったものじゃなくて、増えたものを。今日できたことを。リナが昨日より進んだ分を」

 

ルーナは涙をこらえながら言った。

 

「私は、泣いても、声を出したい。泣いたら何もできなくなるの、もう嫌だから」

 

ココは小さな手を上げた。

 

「私は、みんなで『あ』って言った時、ちょっと楽しかった」

 

その言葉に、リナはつい笑ってしまった。

 

リリーも、メイも、ルーナも、少しだけ笑った。

 

アンジェリカは、その笑いを見て、胸を押さえた。

 

「……ミリー」

 

「はい」

 

「これよ」

 

アンジェリカの声は震えていた。

 

「綺麗なお歌に足りなかったのは、これだわ。飢えて、怖くて、泣きそうで、それでも誰かと息を合わせようとする声」

 

ミリアリアは、羊皮紙の上に走るアンジェリカの文字を見た。

 

荒い。

 

あまりにも荒い。

けれど、先ほどまでの言葉とは違う。

紙の上で、確かに走り始めていた。

 

「……確かに」

 

ミリアリアは静かに言った。

 

「これは、ただの練習ではありませんわね」

 

サントスが腕を組んだまま、短く告げる。

 

「訓練です。感傷ではありません」

 

「ええ、承知しております」

 

ミリアリアは微笑んだ。

 

「ですが、感傷を動かせる訓練は、強いですわ」

 

アンジェリカは勢いよく立ち上がった。

 

「リナ! もう一度、さっきの声を聞かせて。五人で!」

 

リナは戸惑いながらサントスを見た。

サントスは少しだけ考えた後、頷いた。

 

「一回だけだ。リリー、無理をするな。メイ、数えろ。ルーナ、泣いても息は止めるな。ココ、クインの真似はするな。リナ、軸を取れ」

 

「はい」

 

五人が並ぶ。

 

正確には、リリーは椅子に座ったままだ。ココは少し前に出すぎて、メイに袖を引かれた。ルーナはすでに泣きそうで、リナは緊張で肩が上がっている。

 

クインが、リナの足元で小さく鼻を鳴らした。

リナは息を吸う。

妹たちも、それに合わせる。

アンジェリカは羽根ペンを構えた。

ミリアリアは静かに見守る。

サントスは、訓練場の指導者として、ただ一言告げた。

 

「吐け」

 

サントスの声を引き金に、五人が一斉に腹の底の空気を押し出す。

 

「──あ」

 

五つの声が、朝の中庭の冷たい空気を震わせた。

まだ、歌ではない。

音程も、響きも、呼吸の深さも、何もかも未完成で不格好だった。

けれど、その声には、昨日までの飢えと、今日の温もりと、明日への恐怖と、家族を手放さないという小さな決意が、生々しく混ざり合って飛んでいた。

 

カリカリと、何かに憑かれたようにアンジェリカのペンが羊皮紙の上を走る。

 

ミリアリアは、荒々しく綴られていくその文字を見下ろしながら、静かに息を呑んだ。

ルーカスがこの少女たちを使って何を作ろうとしているのか、彼女にはまだ分からない。だが、今この瞬間、自分たちは間違いなく「何かの始まり」を目撃している。それだけは、理屈ではなく肌で感じられた。

 

クインが満足げに尻尾を振る。

リナは、息を切らしながら、妹たちを見た。

 

リリーが微笑む。

 

メイが小さく頷く。

 

ルーナが泣きながら笑う。

 

ココが、もう一度やりたそうに口を開きかけ、サントスに睨まれて慌てて閉じる。

 

リナは、胸の奥に初めて、訓練とは違う熱が灯るのを感じた。

自分だけではない。自分たちの声がある。まだ小さい。まだ弱い。まだ名もない。

 

けれど、確かにそこにある。

 

アンジェリカは、羊皮紙に最後の一行を書きつけた。

 

──空腹は、歌になる。

 

その言葉が、この五人姉妹の未来をどこへ連れていくのか。

 

その場にいた誰一人として、まだ知らなかった。

 

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