第百二十八話 泥のパンと、狂った弦の音
私が初めて「絶望」というものを知ったのは、七歳の冬だった。
借金取りに屋敷を追われ、両親と共に逃げ込んだ裏路地の木賃宿。そこで私は、薄い壁越しに、親が私を人買いに売る相談をしているのを聞いてしまった。
「まだ綺麗な顔をしているうちに、少しでも金に──」
父親のその言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが完全に冷え切った。貴族としての誇りも、親への未練も、すべてが氷のように砕け散った。
私は着の身着のままで、夜の街へ逃げ出した。
けれど、お嬢様育ちの子供が生き延びられるほど、王都の闇は甘くない。人買いの追手か、それともスラムのゴロツキか。汚れた路地裏のゴミ溜めの陰で、足音に怯えながら、ただ震えていた。
もう駄目だ。ここで死ぬんだ。
そう覚悟して目を閉じた時、泥だらけの小さな手が、私の腕を力強く掴んだ。
私と同い年くらいの、野生の獣のような目をした少女。彼女は無言で私を廃屋の奥へと引きずり込むと、自分がその日、必死の思いで手に入れたであろう、カチカチに硬く、泥で汚れたパンの欠片を私の口に押し込んだ。
「……泣いてたら、死ぬよ」
その少女──リナの声は、両親のどんな言葉よりも真っ直ぐに、私の命を叩き起こした。
私は泥まみれのパンを、涙と一緒に噛み砕いて飲み込んだ。あの時の、血と泥と麦の味が混ざった硬いパンの味を、私は一生忘れない。
あの日、貴族の娘だった私は死に、リナという少女の「半身」として生き直すことになったのだ。
だからこそ。
リナが私のために、どれほどの恐怖を押し殺してあの貴族に跪いたのか、私には痛いほど分かっていた。
あの泥のパンの借りを返せるのなら、私の命など惜しくはない。ただ守られ、温かいベッドで寝かされているだけなんて、もう絶対に嫌だった。
「リリー。本当に良いのですね?」
エレノア様の静かな声で、私は過去の記憶から引き戻された。
侯爵邸の別室の前。重厚な扉を前にして、私の足はわずかに震えていた。扉の向こうにいるのは、王都の裏表を支配しようとする、あの冷徹な茶髪の少年だ。
「はい。エレノア様、案内をお願いします」
私は震える両手を強く握りしめ、前を向いた。
かつて、暗闇の中でリナが私を引っ張り上げてくれたように。今度は私が、リナの重荷を背負う番なのだ。
エレノア様がゆっくりと扉を開ける。
・・・・・
・・・
別室の重い静寂の中、ギターのペグを回す硬い音だけが響いていた。
「……Shit.予定より十五分押してる」
ルーカスは低く毒づいた。視線は手元の弦に固定されたままだ。だが、ペグを回す指先は、先ほどポーチでエドワードにぶつけた思考の残滓のせいで、わずかに鈍い。
「荷下ろしに王太子を使うなど、本来なら非効率の極みだ。だが、腐った資源をそのまま放置する方がもっと非効率だ」
ルーカスは弦を押さえたまま、低く吐き捨てた。
「What a disaster. What am I even doing?」
傍らで魔導信号の測定器を覗き込んでいたクライスが、呆れたように肩をすくめる。
「また始まった。ルーカス、独り言が増えてる時って、大体怒ってるよね」
「怒ってなどいない」
「いや、怒ってる。しかも珍しく、自分に怒ってる時のやつだ」
「黙れ。ピックアップ出力が安定しない。お前の測定器が悪い」
「測定器のせいにしないでよ。今のは弾き方が荒いだけ。あと、チューニング中に人間の更生計画まで考えないでくれる? 普通は弦だけ合わせる時間なんだよ」
「……
ルーカスは吐き捨てるように言った。
「王太子の劣等感を再利用して、姫君の詩作に付き合い、ギターの機嫌まで取る。俺は託児所でも開いたのか」
「託児所って言うけどさ、だいたい君が拾ってくるんだよ」
「拾っていない。使える資源を回収しているだけだ」
「はいはい。じゃあ今度は資源にご飯と靴と勉強も付けるんだね」
「Save it」
二人の間に火花が散りかけたその時、扉が開いた。エレノアがリリーを連れて入ってくる。部屋の温度がわずかに、だが確実に変わった。
ルーカスは振り返りもせず、冷淡に告げる。
「今は忙しい。緊急でないなら後にしろ」
「緊急ではありません」
エレノアの声は静かだが、退かない意志を含んでいた。
「ですが、今でなければ言えなくなることかと」
ルーカスの指が止まる。
リリーは、部屋を支配するルーカスの不機嫌なオーラに一瞬怖じけ、肩を震わせた。だが、彼女はエレノアの後ろに隠れることはしなかった。覚悟を決めたように一歩前へ出る。
膝が笑っている。病み上がりの傷んだ身体は、まだ立つことにすら抗議していた。だが、ここでエレノアの陰に隠れれば、自分はまた「あの日の子供」に戻ってしまう。
売られる相談を、薄い壁越しに聞いていた七歳の冬。
泥のパンを口に押し込まれ、泣くなと叱られた夜。
リナがくれた命を、リナ一人の負債にしてはいけない。
リリーは淑女の礼を取ろうとして、膝が崩れかけた。エレノアの手が伸びるより先に、彼女は自分の足で踏み止まった。
それは美しい礼ではなかった。裏路地で覚えた、倒れないための姿勢だった。震えを止める力は、もう残っていない。だから彼女は、震えたまま立つことにした。
「……ルーカス様」
声は掠れた。けれど、リリーは頭を下げなかった。礼を欠くためではない。取引の場で、自分の顔を隠さないためだった。
「お時間を、少しだけください」
「三十秒だ」
「短すぎない?」
クライスの囁きを、ルーカスは一瞥もせずに切り捨てた。
「本来ならゼロだ」
リリーは唇を噛んだ。三十秒。たったそれだけ。
けれど、裏路地で生き延びるには、泣く時間より先に掴む手を選ばなければならなかった。
「助けてくださいとは言いません」
その言葉に、ルーカスの指が完全に止まった。
「……では、何を要求する」
「条件を教えてください。リナだけが、代金を払い続ける形を変えてください」
リリーの言葉は、鋭い礫となってルーカスの背中に突き刺さった。
ルーカスが初めて、椅子を回して正面から少女を見た。その眼光は、検品する査定人のように鋭い。
「……誰に教わった、その言い方」
「誰にも。リナを見て、そう思いました」
リリーはルーカスが怖かった。けれど、値踏みされること自体は、もう怖くなかった。怖いのは、値踏みされたあと、何も知らされずに運ばれていくことだ。
父母は娘に値段をつけ、見捨てた。この少年も値段をつけ、役割を決める。冷たく、容赦なく、逃げ道を塞ぐ。
それでも彼は、契約にないことを奪わない。使うと言い、壊すなとも言う。リナがそう言った。ならば、リリーはそれを信じる。
苛立ちの余熱が、ルーカスの思考を通常より加速させていた。普段なら子供の感傷と切り捨てたはずの言葉が、先ほどエドワードに投げつけた「資源の浪費」という自らの論理と噛み合ってしまう。
「お前は、自分が何を要求しているか分かっているのか」
「分かりません。だから、教えてもらいに来ました」
リリーの瞳は揺れていなかった。分かったふりをして縋るのではない、未知の恐怖を引き受ける覚悟。それがルーカスの「基準」を僅かに超えた。
「契約に加わるということは、保護されるだけの立場を捨てるということだ。体調、行動、学習、声、すべてが俺の管理対象になる。お前の自由は増えない。むしろ減る」
「でも、何も知らないまま守られるのは、もっと怖いです。守られるだけなら、また値段をつけられるのを待つだけだから」
リリーは真っ直ぐにルーカスの目を見返した。
「私はリナの荷物ではありません。これ以上、リナ一人の身体で払わせたくない。だから、私にも払わせてください」
沈黙が落ちた。
クライスが言葉を失い、エレノアも微かに目を見開く。
ルーカスの目が、わずかに冷えた。
「支払い、か。なら確認する。お前は自分の声と身体に値段をつけられる覚悟があるのか」
リリーの喉が小さく鳴った。
薄い壁越しに聞いた、父の声が一瞬だけ蘇る。
『まだ綺麗な顔をしているうちに、少しでも金に──』
けれど──今、自分はこの場に立っている。追い払われず、黙らされず、三十秒とはいえ言葉を許されている。それだけで、あの薄い壁の向こうにいた父とは違った。
「お前が差し出せるものを全部並べろ。声、時間、身体、睡眠、自由。価値のあるものから順に査定する」
リリーの顔からすっと血の気が引いた。震える膝が、ついに限界を迎えそうになる。
「ルーカス様」
その時、エレノアが小さく、しかし酷く冷ややかな咳払いをした。
「……I got it」
ルーカスが疎ましげに呟く。
「本当に分かっておいでですか」
彼女は主であるルーカスに対し、かつてなく厳しい視線を真っ直ぐに突き刺していた。
「……You got it」
ルーカスは鼻を鳴らすと、ようやくペグを巻く指を止めた。
エレノアの目がさらに細くなる。
「意図的に聞こえましたが」
エレノアの追及は止まらない。それは単なる感情的な非難ではない。過去の傷を抉ってまで弱者を追い詰める盤外戦術に対する、従者としての絶対的な「抗議」だった。
「試しただけだ」
「なお悪いです」
息の詰まるような主従の応酬に、クライスが横からぼそりと呟いた。
「ほら、また怒られる」
ルーカスは不機嫌そうに弦を弾き、舌打ちにも似た不協和音を鳴らす。
「……お前のような忠臣を持てて、俺は幸せだよ」
「お褒めにあずかり光栄でございます。では、訂正を」
その有無を言わさぬ視線の圧力に、ルーカスはわずかに眉間を寄せた。
「……Fine. 訂正する」
ルーカスは諦めたように短く息を吐くと、指先でギターの弦を押さえ直した。そして、顔を強張らせているリリーを真っ直ぐに見据える。
「リナ一人を主力とする計画は破棄する。複数運用に切り替える。お前たちは補助契約者だ」
冷徹な声色の中に、確かな論理を孕ませて彼は告げた。
「言い換えるなら、俺が買うのは『消耗』ではない。『継続運用』だ」
その言葉が落ちた瞬間、リリーの胸を締め付けていた冷たい恐怖が、ふっと解けた。
この少年は、父とは……否、他の大人達とも違う。自分をすり減らして使い潰すために値段をつけるわけではないのだと、蔑みも欲もない、その鋭い眼光が証明していた。
何にも縛られないことが自由なら、裏路地は自由だった。けれど、あそこには守ってくれる線が一本もなかった。
「……最悪だな。今日はどうにも、狂った弦ばかりだ」
ルーカスはわざとらしく不満げな息を吐き、ペグを乱暴に回す。
「それ、たぶん弦じゃなくて君の方……」
「Kreis. Be quiet, please」
冷え切った声でクライスを黙らせると、ルーカスは再びリリーを見据えた。今度は威圧するためではない。取引相手に対する、純粋な条件提示の眼差しだ。一語ずつ噛み砕くように、低く告げた。
「いいだろう。補助契約だ。主契約者はリナ。お前たちは補助契約者として登録する。報酬は姉妹共同の生活維持基金に積み立てる。役割は能力と健康状態に応じて割り振る。ローゼンシュタイン中尉……いや、ファリナの医療判断は俺の命令と同等。サントス三等軍曹の停止命令にも従え。──勝手な努力は評価しない。記録された前進だけを評価する」
無機質な命令の羅列だった。けれど、その一つ一つが、彼女たちが壊れないために引かれた線でもあった。リリーが小さく息を呑み、力強く頷いた。
「……はい」
「リリー。お前の初期任務は二つだ。リナの『大丈夫』が嘘かどうかを観測し、異常があればエレノアかサントスに報告しろ。もう一つは、自分の呼吸と声を記録すること。歌おうとするな。今のお前が歌えば、ただ壊れる」
「……壊れないように、声を出します」
「そうだ。壊れた道具は使えない」
その「道具」という言葉の冷たさに、リリーは唇を噛んだが、目を逸らさなかった。リナから聞いていた。この男にとって「使える」と言われることが、どれほどの安全保障を意味するかを。
「呼吸と声の記録なら、簡単な魔導計測具を作れるよ」
張り詰めていた空気を換気するように、クライスが朗らかな声で助け舟を出した。
「ほら、この辺りに着けて、喉に負担がかかったら光るやつ」
クライスが自分の首元を指差しながら得意げに言いかける。
「あ、名前は──」
「命名権は剥奪する」
ルーカスは食い気味に切り捨てた。
「まだ言ってない!」
「言う前から分かる。聞いたら熱が出る」
ルーカスは本当にうんざりしたように深く息を吐き、片手でこめかみを押さえた。
「名前がないと不便だろう!」
クライスが身を乗り出して不服そうに抗議する。
「『声帯負荷管理装置』で十分だ」
ルーカスは額を押さえたまま、無機質な単語を並べた。
「それは名前じゃなくて仕様書の見出しだよ」
「機能が分かれば十分だ」
「君のも大概だからね?」
クライスが呆れたように両手を挙げて降参のポーズを取る。
「……『
そして、誰に言うともなく、未練がましく呟いた。
「基盤ごと粉砕するぞ」
「分かった! 分かったからペグ回す指で魔力練らないで!」
毒気が抜けたようなやり取りに、エレノアがわずかに微笑み、リリーを促して部屋を後にした。
取り残された部屋には、微かな駆動音だけが残っていた。クライスは魔導信号の測定器から顔を上げ、横顔を見せたままの友人にぽつりと呟いた。
「ねえ、ルーカス。君、今日ちょっと変だよ」
ルーカスは手を止めず、再び手元のペグに指をかけた。
「予定外が多すぎる」
「君、予定外って嫌いだよね」
「嫌いじゃない。準備不足の言い訳にする奴が嫌いなだけだ」
「じゃあ、今のリリーのは?」
ルーカスは少しの間、無言で弦のテンションを確かめていた。
銀色の弦が、微かな振動を繰り返す。それは彼の内面で急速に組み上げ直されている、新たな計画のノイズのようでもあった。
「……不発弾の再装填だ。放っておけば、あの姉妹はリナ一人を燃料にして回り続ける。なら、爆発方向を制御した方がいい」
「本当に、言い方」
クライスは苦笑しながら肩をすくめる。相変わらず、救い方が悪役のそれだ。けれど、その理屈がどうであれ、彼が姉妹の両方を救済する形に着地させたのは紛れもない事実だった。
「事実だ」
「でも、悪くないと思ってるでしょ」
ルーカスが一音鳴らす。
先ほどまで酷く狂っていた音が、今度は空を真っ直ぐに切り裂くような、澄み切った響きとなって部屋の隅々まで満たしていった。
ルーカスはギターから視線を外さず、誰に言うでもなく小さく呟いた。
「……チューニングが合ってきただけだ」
ルーカスはそう言って、足元に並べた小さなペダルを一つずつ踏んだ。
カチッ、とスイッチの沈み込む音が響く。直後、乾いた低音が鳴り、遅れて金属の縁を叩くようなスネアの音が返る。さらに別の板を踏むと、先ほど彼が弾いたギターの一節が、魔法のように部屋の隅で規則的に繰り返し始めた。
クライスが目を丸くして瞬きをする。
「……なに、それ」
「足で叩くドラムだ。手は二本しかない」
「君、今から何をする気?」
「巻き返すんだよ」
ルーカスは短く答え、足先でエフェクターの魔導具を弾いた。
カチリ、と再びスイッチが切り替わる。ギターの音が太く歪み、次の瞬間、弦一本分の旋律がルーパーの音と重なり、二重、三重の分厚い音の壁となって空間を支配していく。
「予定外が多すぎた。なら、以後はこちらのフィールドに引きずり込む」
「音楽で?」
「音楽も戦場だ」
「……ねえ、ルーカス。ちょっと楽しんでる?」
「誤認だ」
「いや、楽しんでる時の準備量だよ、それ」
「戦場の構築に私情は不要だ」
「出た、捻くれ者」
ルーカスはクライスの軽口を流し、さらに手元の弦を弾き鳴らす。正確なリズムと重厚な旋律が、たった一人で奏でているとは思えないほどのうねりを生み出していく。
「ワンマンで足りる。人員は信用ならない」
「今、僕を見たよね?」
「Maybe. Maybe not」
ルーカスの指が、さらに複雑で熱を帯びたリズムを刻み始める。
「……予定外の戦力としては、数に入れてやってもいいがな」
わずかに上がった口角は、重なる旋律の中にひっそりと隠された。
クライスだけが、その不器用な返事の意味を苦笑いで受け取り──呆れたように息を吐きながらも、魔導信号の測定器のダイヤルを、どこか楽しげに調整し始めた。