第百二十九話 雑種の矜持、あるいは恒星に連れられた者達
リリーが別室の扉を叩く少し前。
ルーカスは、キャリッジ・ポーチで一つの失敗を犯していた。
すなわち、アンジェリカ・ハートフィリアの前で、黒い弦楽器に音を出させてしまったのである。
それは本来、輸送前の動作確認に過ぎなかった。
アンジェリカが両手を打った。
「ねえ、せっかくだもの。みんなで聞きましょう!」
その一言で、キャリッジ・ポーチの空気が変わった。
誰かが命じたわけではない。ルーカスが許可したわけでもない。だが、階段の上、玄関ホールの影、廊下の角にいた使用人たちの視線が、いっせいにアンジェリカへ吸い寄せられた。
まるで、空の中心がずれたようだった。
それまで、この場の重力はすべてルーカスにあった。彼が命じ、彼が拒み、彼が許し、彼が切り捨てる。機材も、人員も、時間も、すべて彼の冷たい軌道の上を回っていた。
だが今、その軌道に、別の恒星が割り込んだ。
アンジェリカは笑っているだけだ。命令もしていない。権威を振りかざしてもいない。
ただ、当然のように「聞きましょう」と言った。
それだけで、人が動き始めた。
ヒルダが、ほんのわずかに目を伏せた。
次の瞬間、彼女は何も言わずに片手を上げる。銀盆を持つ従僕が壁際へ下がる。廊下を塞いでいた侍女たちが左右へ分かれる。清掃具を持っていた下働きが、それを床に置かず、音を立てないよう胸に抱え直す。
命令はなかった。だが、場は整っていく。
キャリッジ・ポーチは、いつの間にか荷積みの場所ではなく、即席の演奏会場になっていた。
「じゃあ、今ここでちゅーにんぐすればいいじゃない」
「……ハートフィリア嬢。ここは搬入作業中だ」
ルーカスの顔には明確な不快が浮かんでいた。自分が組み上げた論理の隙間に、予想外のものを差し込まれた時の苛立ちだ。
「ええ。だから、学園に運ぶ前に整えるのでしょう?」
「音響環境が整っていない」
「でも、その子が今、鳴りたがっているわ」
「楽器は意志を持たない」
「持っているわ。少なくとも、ルーカスが持つと喋るもの」
ルーカスが言葉を止めた。
論理で返せない時。返すべき言葉を選んでいる時。あるいは、相手があまりにも無邪気に核心を踏み抜いた時。
「三十秒だ」
ルーカスは低く言った。
「三十秒だけ。チューニングと最低限の確認。曲ではない」
「ええ、分かったわ!」
アンジェリカの顔は、まったく分かっていない者の輝きに満ちていた。
ルーカスは舌打ちし、黒い弦楽器『GLP-90』にケーブルを差し込み、アンプへと繋いだ。
最初の音は、低かった。
石畳の下を、何かが歩き出すような響き。王宮の弦楽器のような礼儀正しさはない。音は空気に溶けず、空気の表面を爪で引っ掻いた。
「ねえ、こうしたらもっと楽しいわ」
アンジェリカが両手を打った。
ぱん。明るい音が、黒い弦の余韻に重なった。
「ほら。今の音、歩きたそうだったもの」
「歩くな。これは機材確認だ」
「じゃあ、歩けるかどうかも確認しなくちゃ」
下働きの少年が、恐る恐る手を合わせた。ぱん。
それに続いて、若い侍女が小さく手を打つ。ぱん。
ヒルダが視線だけで二人を制しようとしたが、アンジェリカが笑う。
「大丈夫よ。みんなで揃えれば、きっと綺麗になるわ」
ヒルダはわずかに息を吸い、叱責を飲み込んだ。ただ指先をほんの少し動かし、手拍子が広がらないよう人の位置を整える。
ぱん、ぱん。拍が揃い始める。
ルーカスは深く息を吐き──弾いた。
低い弦が、手拍子の間を縫う。
アンジェリカが花や風、朝の光といった意味のない言葉の欠片を歌に乗せると、ルーカスはそれを拾った。彼女の音域に合わせ、手拍子の間に小さな旋律を差し込む。使用人たちの不揃いな拍を支配するのではなく、倒れないように支える。アンジェリカが跳ねれば、音も跳ねる。
エドワードは息を呑んだ。
アンジェリカの即興、使用人たちの拙い手拍子、場の熱、偶然、逸脱。普段ならルーカスが切り捨てる無駄だらけのものを、彼は一つずつ拾い、音に変えている。この瞬間だけは、支配ではなかった。
三十秒は、あまりにも短かった。
音が唐突に消え、手拍子も止まる。
「ほら、やっぱり素敵だったわ!」
アンジェリカの声で魔法が解け、使用人たちは慌てて頭を下げ、元の持ち場へ散っていく。
ルーカスはケーブルを抜こうとした。
「満足か、ハートフィリア嬢」
「ええ!」
「なら、二度と搬入中に演奏会を開こうとするな」
「だって、ルーカスも少し楽しそうだったもの」
ルーカスの手が止まった。
「錯覚だ」
エドワードは黙って見ていた。ルーカスという巨大な重力の傍にある、金色の小さな恒星。その二つの重力が重なった時だけ、ルーカスは知らない顔を見せる。
だが、アンジェリカの声が、余韻を断ち切った。
「ねえ、ルーカス」
アンジェリカの笑顔が消えていた。
「それは、その子の声だけれど、まだルーカスの音じゃないわ」
キャリッジ・ポーチの空気が、すっと冷える。
エドワードは思わず彼女を見た。
「……ハートフィリア嬢。それ以上は、君の好奇心で踏み込む場所ではない」
「好奇心じゃないわ。聞きたいの。前に聞いた、あの音。怒っていて、寂しくて、でも絶対に消えない音」
ルーカスはアンジェリカを見ていた。
押し返すことも、切り捨てることもできたはずだ。なのに、彼はそうしなかった。
「……後悔するなよ」
静かに告げたその言葉は、演奏開始の合図ではなかった。
ルーカスが、搬入作業をただの搬入作業として終わらせることを諦めた合図だった。
ヒルダが無言で片手を上げる。
荷積みの動線だけを残し、人の流れが左右へ分かれた。従僕は銀盆を抱えたまま壁際へ下がり、侍女たちは音を立てないよう裾を押さえ、下働きたちは清掃具を胸に抱え直す。
誰も命じられてはいない。
だが、場は整っていく。
その頃、屋敷の奥では、エレノアが病み上がりの少女を一つの扉の前へ導いていた。
泥のパンを忘れられない少女が、リナだけに払わせないため、自分の声と身体を差し出す場所へ向かっていた。
二つの予定外が、同じ屋敷の中で同時に動いていた。
ルーカスはまだ、それを知らない。
知っていたとしても、予定表にないものは予定外でしかない。
・・・・・
・・・
整えられた空間の中心で、アンジェリカが最前に立った。
エドワード、ダモン、ヴェクター、ミリアリアがその後ろに控える。使用人たちは動線を塞がない距離で息を潜め、ルーカスだけがギターを構えていた。
その姿は楽師のものではなく、長い間埋めていた棺の蓋を、自らの手で開けるようだった。
彼が足元の小箱を踏む。低い唸りが立ち上がった。
最初の音は、地面の下にいる名もなき獣を思わせた。
誰も太鼓を叩いていないのに、隊列の足音が響く。
ルーカスが、マイク代わりに立てた魔導具へ向かって口を開いた。
その最初の一小節。放たれた声は、エドワードの知るいかなる「歌」とも違っていた。
教会の祈りを紡ぐ聖歌のような清らかさも、王宮の合唱が持つ豊かさもない。かといって、酒場の吟遊詩人が歌い上げる滑らかな調べでも、路地裏の子供たちが歌う無邪気な童謡でもなかった。
“バスの扉が開いた瞬間
肺を焼くのは 拒絶の熱気
西海岸の海風は
とうの昔に 砂に消えた“
それは、声帯を震わせるというより、喉の奥にこびりついた泥と砂を、無理やり吐き出すような響きだった。
決して透き通った綺麗な声ではない。低く、ざらつき、酷く掠れた独特の嗄れ声。だが、その声には、聴く者の臓腑を直接鷲掴みにするような、抗いがたい引力があった。
エドワードは息を呑んだ。言葉の意味を超えて、見知らぬ情景が文字通り胸に流し込まれたのだ。
どこか遠い乾いた土地、逃げ場のない熱、名前を捨てさせられる場所——。
その生々しさだけで、エドワードは喉の奥に血の味を覚えた
“名前を捨てて 並んだアスファルト
「民間人の残り香」を 砂漠が笑う
陽炎の向こうから 猛獣が来る
俺を「ゴミ」と呼ぶ 鉄の匂いの男“
その言葉は、詩というより、短い命令と罵倒の連なりだった。意味に直せば重く長い。だが音としては、二拍、三拍で吐き捨てられていく。
ダモンの拳が握り込まれた。
ゴミ。路地裏で何度も聞いた言葉だ。だがルーカスが歌うそれは、下から見上げる者の言葉ではない。踏み返す側の重さを知っている、鉄の首輪を噛み砕く犬の声だ。「こいつ……」と、ダモンは呻いた。
“数字は正確だ 人類の死を告げる
パンを求めて死ぬ 子供が何十万人もいる
それでも俺達は 欲望のトリガーを引き
「身内」と呼べる 泥水を啜る
顧みることは無い 俺達は振り返らない“
ヒルダは息を忘れた。
子供の死、泥水、欲望。侯爵家のサロンにはあまりにも汚れている。だが、使用人たちは誰も笑わず、むしろ一瞬だけ何かに背筋を伸ばされていた。何かを剥ぎ取り、その下にあるものを見せつける音だった。
“30キロの絶望を 背中に背負って
「重力」と喧嘩し 砂丘を這う
路地裏のステップは ここじゃ通じない
マニュアルは 誰かの死体で書かれている“
エドワードの手のひらが痛んだ。三十キロの重さ。それは理想や名誉ではなく、背中に乗り、膝を潰し、息を奪うものだ。王太子としての責務を重荷と呼んできた自分とは違う、本当に背負った者の重さ。
“現実逃避で 子供を作る国で
俺は鉄の棒を 唯一の家族と呼ぶ
哀れみの心は 砂漠の熱に蒸発した
俺は「雑種」だ どこにも帰れない犬だ
血筋も 誇りも 糞食らえだ“
言葉は長くない。だが、一つ一つが訳せば重かった。
“奪った玉座の影から 焼き尽くした渚まで
引きちぎられた 自尊心の破片
調教師の軍靴が 砂に埋めていく“
アンジェリカは胸の前で両手を握りしめていた。
彼女がルーカスの音を前にして、楽しそうにしていないのは初めてだった。鉄の棒を家族と呼ぶ者。どこにも帰れない犬。この男は、ずっと一人でどこかを歩いていたのだ。
歌が途切れ、息を呑むような沈黙を裂いて、彼は足元のスイッチを二度、鋭く踏みつけた。
低く沈んでいた音が、ざらついた歪みをまとって前へ出た。
弦が叫ぶ、というより、地面が呻いた。
中音域で、執拗に同じフレーズを繰り返す。弦を弾くたび、金属が擦れ合うような「軋み」がスピーカーから溢れ、聴き手の焦燥を煽る。
ソロが後半に差し掛かると、彼の指先は一気にハイフレットへと跳ね上がった。限界まで引き絞られた弦が、千切れる寸前の断末魔のような高音を放つ。その音は、一度重力に抗うように天へと伸び、次の瞬間には、見えない力で奈落へと引き戻されるように激しく波打った。
歪みきったその音色は、もはや楽器の音というより、喉を潰して叫ぶ、咆哮そのものだった。
エドワードはそこに、砂と鉄と熱の戦場を見た。英雄の名乗りもない中、歩くしかない者たちの影。ルーカスの一部は、まだその戦場に置き去りのままなのだ。
“嘘つきは数字を使う 見えないように蓋をして
汚水で泳いだ事も 木の根を噛んだ事もない連中
頭が変わっても謳い文句は変わらない
それでも俺達は 欲望のトリガーを引き
「身内」と呼べる 泥水を啜る“
歌詞として整っているのではない。
ただ、吐き捨てる速度と、反復される語尾だけが胸を叩いた。
エドワードは胸を抉られた。民の苦しみを数字にし、美辞麗句で包む王宮の会議。自分はそちら側の人間だ。
“奪い取った血の記憶から 永遠に続く行軍まで
顧みることは無い 俺達は振り返らない“
古い軍歌のようでありながら、栄光の皮を剥ぎ、血と泥を見せている。勝利と呼ばれてしまった傷を、ルーカスは歌っていた。
“鋼鉄の棺桶から 眺める死の世界
必要なものから 目を背けたまま
俺はただ 次のロードに指をかける
名もなき祖先の城から 枯れ果てた世界の果てまで“
同じ意味を持つはずの一節が、彼の口を通るたびに違う影を帯びた。城、血、渚、行軍。どれも、この世界の誰にも由来を説明できない言葉だった。
ルーカスの声が低くなる。最後に、彼は聞き慣れた言葉ではない一節を吐き捨てた。
“Keep pushing on.”
進め。押せ。止まるな。振り返るな。
自分自身へ向けた、呪いにも似た命令。
ルーカスの声が途切れ、曲はすべてを置き去りにする最終フェーズへと突入した。
ルーパーの重低音が足元でトドメを刺すように唸る中、彼の指先が指板の最奥、ハイフレットへと一気に跳ね上がった。
──閉ざされた天の首筋に、容赦なく刃を突き立てるような高音が鳴り響く。
それはもう、音楽ではなかった。ピッキングのたびに金属の火花が散るようなハーモニクスが炸裂し、重力に逆らう曳光弾のように、ただ高く、鋭く、上空へとしがみつくように音程が跳ね上がり続ける。
限界まで引き絞られた弦の悲鳴が、空間をズタズタに切り裂きながら、聴く者の臓腑を狂わせる絶叫となって響き渡った。どこまで登っても終わりがない、終わらせないという、狂った犬の執念そのものの響き。
そして──、
鼓膜が飽和するほどの高音の頂点で、ルーカスは足元のスイッチを容赦なく踏み抜いた。
ブツン、と。
世界が、唐突に死んだ。
弦の余韻すら残さない、冷酷なまでのミュート。
誰も拍手しなかった。できる空気ではなかった。
最初に動いたのは、アンジェリカだった。彼女はゆっくりとルーカスへ近づく。
「……ルーカス」
「演奏は終わりだ。満足したなら、作業に戻れ」
「うん」
アンジェリカは頷き、いつものように笑おうとして、少しだけ失敗した。
「でも、あれは……楽しいだけの音じゃなかったのね」
ルーカスの手が止まる。
「今さらか」
「うん。今さら。でも、聞けてよかったわ」
「……」
「だって、ルーカスがどこか遠くにいるみたいで、少し嫌だったもの」
場が静まり返る。ルーカスはほんの一瞬だけ表情を失い、すぐにいつもの冷たい顔へ戻った。
「私はここにいる」
「ええ。だから、よかった」
アンジェリカは小さく笑った。
「今は、ここにいるって分かったわ」
ルーカスは息を吐き出した。
「……ハートフィリア嬢」
「なあに?」
「次に搬入中の現場を演奏会場に変えたら、責任者権限を剥奪する」
「えっ、それは困るわ」
「困れ」
その声に、先ほどの歌の冷たさはなかった。
エドワードは閉じられていくケースを見つめた。あの男の論理の奥にあるものを、自分はほんの少し見たのだ。
ダモンは無言だった。あの音の底にある泥の臭いが気に食わないのに、否定できなかった。
ヒルダは、何かを受け取ってしまった使用人たちの沈黙を見つめ、静かに片手を上げた。合図とともに、人々は持ち場へ戻っていく。
リナは、胸元を握った。歌詞の意味は分からない。ただ、その声が「助けて」とも「許して」とも言っていないことだけは分かった。
リリーは、自分の喉に手を当てた。あんな声を出せば壊れると思った。けれど、壊れないために閉じ込めた声も、いつか腐るのだと知った。
メイは、無意識に拍を数えていた。怖いのに、数えられる。数えられるものは、覚えられる。
ルーナは泣いた。だが、息は止めなかった。
ココは、クインの尻尾が揺れているのを見て、少しだけ足先を動かした。
「……歌って、綺麗じゃなくてもいいんですか」
「綺麗にするのは工程の一つだ。目的ではない」
「吐けないものは、腐る」
「そうよ。まずは出さなきゃ、何も歌にならないもの!」
ルーカスは、何事もなかったかのように言った。
「積み込め」
その一言で、世界は再び動き出した。
だが、誰もが知っていた。さきほどまでと、同じ世界ではないことを。
・・・・・
・・・
あの日、ヴァイスは、作戦会議室の隅で、誰よりも軽い顔をして立っていた。
鋼鉄の魔獣。空を裂く鉄の鳥。人の形をした、どうしようもなく人ではないもの。 それらを見せられた時、部隊長たちの顔から血の気が引いていくのが分かった。ダリルは冗談を忘れ、エリスは口元を押さえ、ガレスは石のように黙り込んだ。
自分は、笑っていたのだと思う。
いや、笑っていたことにしていた。
「俺のライフルが嫉妬しそうだ」などと、いつもの調子で軽口を叩いた。 そういう顔をするのが、自分の役目だったからだ。 混乱の中に針を一本落とす。恐怖に名前をつける。冗談という薄い布を被せて、全員の呼吸を一拍だけ戻す。 それが、自分にできる仕事だった。
あの時は、まだ楽しかった。
国盗り。 大陸統一。 爵位。 新しい軍。 未知の敵。
退屈な商家の次男坊が、死ぬまで触れられないはずだった言葉が、作戦盤の上で当たり前のように並んでいた。 ルーカス様は、それを夢物語として語らなかった。 工程として語った。 材料と人員と時間と戦果を並べるように、世界の形を変える話をしていた。
だから、胸が躍った。
この人について行けば、世界は退屈しない。 この人のそばなら、自分はただの余り物の次男坊ではなく、何かを撃ち抜くための弾丸になれる。 そう思った。
……思っていた。
ヴァイスは、誰にも気づかれないほど小さく息を吐いた。
今なら、少しだけ違う音に聞こえる。
あの時の閣下の声にあったのは、野心だけではなかった。 覇王の宣言でも、英雄の夢でもない。 もっと性質の悪いものだ。
焦燥。
十年ある、と閣下は言った。 だが、あの人の声は「十年しかない」と言っていた。
だから、爵位も軍も道路も港も、戦争も、国盗りさえも、あの人の中ではすべて同じ棚に置かれていた。 必要なもの。 間に合わせるもの。 遅れれば死ぬもの。
その視座の高さが、怖い。
いや、高いだけならまだいい。 天才の見る景色という言葉で片づけられる。 だが、違う。
閣下は上から世界を見ているだけではない。下からも見ている。 泥の中から、汚水の中から、兵站の底から、飢えた子供の腹の中から、世界を見ている。
高位貴族の嫡子のくせに。 侯爵家の坊ちゃんのくせに。 その目は、下で死ぬ者の順番を知っている。
あの人は、血筋を軽んじるのではない。血筋では病を止められないことを、知っている。 騎士道を嫌っているのではない。 騎士道では汚水を濾過できないことを、知っている。 英雄を否定しているのではない。 英雄一人に縋った部隊が、どれほど簡単に壊れるかを、知っている。
知っている。
そのことが、ひどく気味が悪かった。
ヴァイスは、自分の指先を見下ろした。 かつて初めて銃を握った時の、あの乾いた高揚を思い出す。 トレンス領の訓練場。ドラムの音。怒号。泥。笑い声。最初の命令。
自分は、新しいものが好きだった。 楽しいことが好きだった。 退屈な世界に穴が開く瞬間が好きだった。 だから海兵隊に入った。
忠義だの大義だのを、最初から立派に持っていたわけではない。 ただ、面白そうだった。 ルーカス・フォン・トレンスという少年の周囲だけ、世界の音が違って聞こえた。
それで十分だった。
だが、今は知っている。
あの音は、祝祭の太鼓ではない。 行軍の音だ。 しかも、帰る場所へ向かう行軍ではない。 帰れなくなった者が、止まることを禁じるために鳴らす音だ。
名前を捨てる場所。 鉄の匂いの男。 泥水を身内と呼ぶ声。 どこにも帰れない犬。
あの歌を聞いた後では、もう笑えない。
閣下は、貴族の仮面を被っているのか。 それとも、軍人の仮面を被っているのか。 あるいは、どちらも違うのか。
自分はヴェクター・ウィルソンという仮面を被っている。 商人の息子。 軽薄な道化。 令嬢たちの間を泳ぐ、どうしようもない色男。 その下にヴァイス・アーヴィングがいる。 狙撃手がいる。 シャドウ・ランスがいる。 閣下の影として泥に塗れることを選んだ、退屈を嫌った馬鹿がいる。
少なくとも、自分は仮面を被っている自覚がある。
では、閣下は?
あの冷徹な合理性は、仮面なのか。 それとも素顔なのか。 あの粗野な罵倒は、仮面なのか。 あの清潔への執着は、病か、政策か。 あの「生存戦略」は、公務か、祈りか、逃走か。
分からない。
分かったと思った瞬間、その下から別の戦場が出てくる。 下水の下に、兵站がある。 兵站の下に、飢えがある。 飢えの下に、死がある。 死の下に、たぶん、まだ何かが埋まっている。
ヴァイスは、口元だけで笑った。
「……とんでもない大将を引いたものだ」
軽口の形をしていたが、声は少しも軽くなかった。
それでも。 いや、だからこそ。
ついて行くのだろう。
見切れないから。 怖いから。 あの人が見ているものを、自分の目でも一度見てみたいから。
「……やっと一枚、カードを見せてくれましたか、閣下。けれど手札じゃない。山札の底だ。しかも、まだ何枚沈んでいるか分からない」
そして、もしあの人が本当に、帰れない場所へ向かって歩き続けているのなら。
せめて、その背中が完全に見えなくなる前に、横で一発くらいは合図を送ってやる。
ヴァイスは、いつもの笑みを顔に貼り直した。
次に扉が開いた時、そこに立っているのは、シャドウ・ランスの狙撃手ではない。 王都の商人の次男坊、ヴェクター・ウィルソンだ。
軽薄で、よく喋り、どこにでも入り込み、誰にも本気で脅威だと思われない男。
その仮面を被ることに、もう少しだけ痛みが増えた。 だが、任務に支障はない。
痛みも、恐怖も、好奇心も、忠誠も。 全部、弾倉に詰めておけばいい。
いずれ閣下が「撃て」と言う時のために。
それは忠誠と呼ぶには暗く、崇拝と呼ぶにはあまりに実務的な、共犯者の誓いだった。
「……さて。モタモタしてると、また怒られちまうな」
顔を上げた時、そこにはいつもの軽薄なヴェクターがいた。
ただし、その軽さはもう、以前の遊びではなかった。
「さぁ、野郎共! ぐずぐずするな! 閣下のスケジュールに『感傷』なんて無駄な項目は載っちゃいないぞ!」
彼は誰よりも早く、最も重い箱を抱え上げた。
胸の奥で、ルーカスが刻んだあの不規則で絶望的なビートが、いまだに、不気味なほど正確に鳴り続けていた。